弱肉強食
『蹲踞。──納め、刀』
「よし、十分間休憩だ!」
男の合図で数十人もの部員が整列し、着座と面取りの号令で休憩に入る。
まだ春も盛りだというのに、道場には熱気が充満していた。最も下手で一息ついたアキはその空気にどこか懐かしさを感じながら、鼻先を擽る汗もろとも手拭いで顔を拭いた。
背後から心配そうな顔のさちが、そろりと囁いた。
「アキちゃん、大丈夫だった……?」
「うん、大丈夫だよ。何が?」
「何がって、なんかすごいアウェーだったよね……? 怪我とか気持ちとか……」
一週間しか経験がないさちでさえ分かる。面の向こうで部員たちがどういう顔をしているか。縮こまってアキに話しかけたのも、通り過ぎる部員たちが一様に敵意を持って一瞥してくるからだ。防具を身につけていない分アキよりも奥深くまで視線が突き刺さっている気がする。
「全然大丈夫だよ」
だがそんな心配も杞憂にしてしまうくらい、アキは上気した顔で健気に微笑むのだった。
本当かよ……とそろそろ胃が痛くなってきたその時、二人の前に男が一人立ち塞がった。
中肉中背の、好青年という言葉がよく当てはまりそうな爽やかな男。しかし道着の袖から覗く前腕は童顔に似合わず隆々としていて、積み重ねてきたものを感じさせる。
「お疲れ様、東雲さん。いい筋してるね。あと二、三ヶ月もすれば稽古にはついていけるようになるんじゃないかな」
アキは一瞬ぽかんとして、男の垂ネームを見てようやくはっとした。
「片品さん。いえいえ、私なんかまだまだで……」
「呼び捨てでいいよ。同級生だし」
片品は苦笑いを返すアキの前に安座して、徐ろに握手を求めてきた。
「僕の方こそ、さっきは乱暴にしてごめんね。怪我してない?」
颯爽と笑みを浮かべる片品の手を、アキも笑顔で握り返した。
「ありがとうございます。でも全然大丈夫です。初めてだからちょっと油断しちゃって……あんな体当たりくらいじゃなんともありません」
片品の眉尻がぴくりと跳ねた。
「そ、そっか。確かにあの後一度も転ばなかったもんね。でも気をつけた方がいいよ、高校の試合じゃもっと強く当たってくる奴も──」
「大丈夫です。何があろうと、もう二度と押されて転んだりはしませんから」
今度は二回眉が跳ねた。握る手の力も少し強くなった気がする。
笑顔のまま固まった片品はしばらく沈黙した後、握っていた手をぱっと解いた。
「心強いね。まあ、無理せず着実にやっていこう。何か困ったことや気になることがあったらいつでも言ってよ」
「じゃあ、ひとついいですか?」
立ち去ろうとした片品が立ち止まった。
「なんだい?」
「皆さんの剣道はどうしてそんなに汚いんですか?」
「……は?」
「あ、アキちゃん……!?」
綺麗な二重だった片品の双眸がすっと細くなった。片品だけではない、周りにいた他の部員たちも軒並み、アキの発した抜き身の言葉に眉を顰めた。
「最初に受けた片品さんの引き面……あれ、凄く軽かったです。転んだことに気を取られて、面を打たれたことに気がつかないくらいに。他の皆さんも同様でした」
「……な、何を言ってるんだ東雲さん? いや、確かに派手に崩してしまったのは悪かったけど」
「あれはただの体当たりでしたよ、崩しじゃありません」
アキは当然のことを当然であると言うように、あっけらかんと答えた。
「予備動作ですらない。あれは体勢を崩すだけが目的の、私が当たり負けするくらいのただの体当たりです。体勢を崩すことだけに意識が向きすぎてその後の引き面が手打ちになってしまった。打突が軽かったのはそのせいです。強い打突までできて初めて『崩し』になると思うんですけど」
「アキちゃん、何言って……」
「力任せな崩しに軽い打突、ふらふらと落ち着かない剣先に滅茶苦茶な体捌き。とても一本にはなりそうもないなと思うんですけど、試合ではどうしてるんですか? あ、でもスピードはあったからそれはそれで──」
あまりにも、アキの表情と声音が偉そうに世の理を説いているようで──
誰かが口を開くよりも先に、片品の足がアキの面を蹴り飛ばしていた。
「……下手に出て聞いてれば偉そうに。大した実力もないクセにどの口が言ってんの?」
『片品、ちょっとやりすぎ……』
「うるさいな。お前らだってあんなこと言われて黙ってられないだろ」
流石に防具を蹴飛ばすのは礼に反すると思って止めた同級生らしき女子生徒たちも、片品の一瞥で押し黙ってしまった。
片品はアキの前にしゃがみ、転がる面を見送る顔に向かって吐き捨てる。
「知らないみたいだから教えてやる。汚かろうがなんだろうが、試合じゃ当てて審判が旗を挙げれば勝ちなんだよ。剣道部じゃそれが全てなんだ。死に物狂いで実力を磨いて、試合に出て結果を残す。ここにいる奴らは全員、そういう競争の中で鎬を削ってるんだよ」
「……」
「僕の剣道が邪剣だと言いたいんだろ。でもここは本気の奴らが集まる場所だ。お前の綺麗事なんて誰も興味ない。実力が全て、結果が全てだ。正剣か邪剣かなんてどうでもいい。勝った方が認められる。剣道ってのはそういうスポーツだろ」
「……そっか。先生の言う通りなんだ」
アキは酷く冷えきった、鋭利な視線で片品を睥睨した。それからゆっくりと立ち上がり、蹴飛ばされた面を拾う。
「──剣心一致」
面布団の埃をはたきながら呟いた。
「私の先生の座右の銘です。心正しからざれば剣また正しからず、剣を学ばんと欲する者はまず心より学べ、というのが本義ですが……先生の考え方はそれに加えて『表裏一体』。正しい心が正しい剣へと導き、また正しい剣に正しい心は宿る。故に、どちらかだけを鍛えるのではいけない。剣も心も正しく鍛えて人間としての成長を目指す。それが剣士の本懐であると」
「ふーん、で? また説教を始める気?」
片品はけたけたと嘲り笑う。
「……正しさは強さ。どれだけ稽古を積んでも、心を正しく鍛えなければ剣は上達はしないし、自身の成長もない。逆もまた然り。老いぼれ剣士の戯言だと思ってましたが……どうやら正しかったようです」
語気に怒りが滲む。アキ自身初めての感覚だった。
先生の剣以外見たことがない。だからこの道場に入った時の緊迫も、気迫も、腹の底に響くくらいの凄みに圧倒されたのは確かだった。それでも先に頭を埋め尽くすのは、自分が剣道だと思っていたものとは違う光景。初めて目の前にする、認めたくない現実。
この場所に勝手に淡い期待を抱いていたのは自分だ。それでも頭に、体に染みついた教えは、愚直にその道を示し続け、外れることを許さない。
「あなたのそれは剣道じゃない。私はあなたを剣士として認めない」
「いいよ認めなくて。僕は剣道部員だから」
片品はより一層目を細くしてアキを睨めつけた。
「正しい自分の方が強い、そう言いたいんだよな。だったら試してあげようか? お前の綺麗事と僕の剣道、どっちが上か」
自信と余裕に満ちた笑みを、アキもまた睨めつける。
交錯する視線──その間をふと、大きな影が遮った。
「そこまでだ。いい加減にしろ」
二人の間を割ったのは号令係の男だった。
「……嫌だなあ榎戸コーチ。注意するべきなのはそっちでしょ」
「お前はいちいち突っかかるんじゃねぇ」
コーチ、という響きにアキは体を強ばらせた。あの欠礼も甚だしかった男が、まさかコーチ……つまり先生だったとは。
「東雲、入って早々揉め事とはいい度胸してるな? 二度とここの敷居を跨がせないこともできるんだぞ」
「……すみません」
存外素直に肩を落としたアキを見て、榎戸は大きく嘆息した。
「ったく、貴重な休憩時間を……。とにかくこの件は監督に報告する。片品、お前はその足癖直せ」
「え、ちょっ、それは──」
「文句があるなら監督に言え」
先程までの威勢のよさとは一転して、片品は顔面を青白く染めて慌てふためいた。見るに堪えない動揺っぷりに周囲もざわつき始める。
その頭に、耳。
耳?
「監督に言ったら公式戦出られなくなっちゃうよー」
「えっ」
「──筑紫! お前またふざけやがって……!」
怒る榎戸に戸惑う片品。その二人を見てさらに戸惑う一同。
耳を作っていた手を引っ込めて片品の背後から姿を見せたのは、見覚えのある華奢な姿。
『キャー! 筑紫センパーイ!』
途端、道場が女子部員たちの黄色い声で溢れかえった。
「あ……」
「やあ、さっきぶりだね。主将の筑紫真綾だよ。東雲さん、でいいのかな?」
驚いて止まっていたアキが正気に戻って激しく頷くと、道着姿の筑紫は小さく笑って、
「遅くなってごめんなさいコーチ。生徒会の仕事が長引いちゃって……。代わりといってはなんですが、私から妙案があるんですけど」
言葉とは裏腹に悪びれる様子もなく飄々とする筑紫に、榎戸は青筋を浮かべて、また大きく息を吐いた。
「……何だ」
「二人に試合で白黒つけてもらえば?」
「いや、それ自分がさっき言った……」
「あらそう? 健全でいいじゃん」
片品の肩をぽんぽんと叩き、筑紫は呆然としたままのアキにウインクを送った。また黄色い声が耳を劈く。
「東雲さんはどう? せっかくだから手合わせしていきなよ。片品は強いよー、ね?」
「は、はあ……」
そうして、あれよあれよという間に、残りの休憩時間を使った練習試合が行われることになった。
〇安座
あぐらのこと。
安座と号令がかかると皆一様に心中で「よかったー」と叫ぶ。
〇剣心一致
作者が通っていた道場のスローガン。
意味は作中記載の通りで、剣を鍛えるならまず心を鍛えるべし、ということ。
「そんなこと当たり前じゃん」という意見も大いにあるが、勝ち負けがその意義のほとんどを占める今の部活動でこれを第一義に遂行するのはなかなか難しい。
ちなみに作者の先生は勝ち負けよりも「正しく剣道を学び、正しい心を手に入れること」を標榜していたため、勝てる剣道を教えてもらうことはなかった。