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進取果敢

 日誌を職員室の担任に届け、防具と竹刀を背負って武道場、通称『西陵館』に向かう。


「なんで素直に武道館って名前にしないのか……」


 そのせいで少し迷ったさちを連れて玄関を開けると、聞き慣れた音が響いてきた。


 竹刀同士の剣戟、打ち込みの乾いた音、踏み込みの重い音、鬨の声のような気合──いつも通りの音なのにどこか新鮮で、まるで別物のようにも感じる。アキは口元が緩むのを隠せなかった。欲しかったものが間違いなくここにあると確信した。


「うえ……臭いきついね……」

「そう?」


 どうやら道場自体は二階にあるらしく、アキは鼻をつまむさちに先んじて階段を昇る。誰もいない短い板張りの廊下の奥、閉じられた両開きの扉のその先がそうらしい。


 手をかけ、開ける。

 そこは──さながら戦場だった。


『──イァァァァァァァァッ!』

『シャァァァァァッ!』

『ローテーション遅ぇぞ! 関東予選まで時間ねぇんだからテキパキやれ! 気合い入れろ!』


 見るよりも先に圧倒される気迫。音というより音圧。肌を突き刺す緊張感。

 他を寄せつけないほど張り詰めた空気が、敷居の先に広がっていた。


「す……ご……」


 まともに剣道の稽古すら見たことがないさちは無論(おのの)いていた。想像以上だった。強豪校の稽古の雰囲気はどんなものなのかと半ば興味本位で見に行こうとした数十分前の自分を悔いた。


 そしてそれは、アキも同様だった。

 人数も、気迫も、動きも、何もかもが自分の学んできた、目にしてきた剣道とは違う。まるで皆真剣を手にしているかのような緊迫。一挙手一投足の先、動く身体の隅々にまで満ちるエネルギーにあてられて眩暈(めまい)がする。


 これが、強豪校の稽古。これが、高校剣道。

 でも──


「おいそこの一年、何の用だ!」


 ついさっきまで怒号を飛ばしていた道着姿の男が、二人に気がついて近寄ってきた。手には太鼓の(ばち)を持っていて、防具は着けていない。号令係のようだ。


 ずんずんと稽古の音の中でも分かる大きな足音で二人の前に来た男は、一六五センチのアキが見上げるほどの巨躯だった。いかにも不機嫌そうな顔で見下ろしてくる。


「防具を……持ってんな。経験者か」

「あ、はい、一応──」

「遅ぇ」

「はい?」


 男はずいっとアキの顔を()めつけた。


「来るのが遅ぇ。二つの意味でだ。ひとつは今日の稽古が始まってからもう一時間も経ってること。もうひとつはお前が今日初めて見る新顔だってこと」

「えっと、どういう……」

「他の一年は受かったその日から出稽古に来てる。ウチの剣道部に入りたいのはそういう連中ばかりだってことだ。分かるか?」

「げ、そんなヤバい人たち──」


 ぎろり、と睨まれたさちの肩が跳ねた。


「……本当ならお前みたいなやる気のない惚けた奴は門前払いしたいところだが、今は監督の意向でそういうわけにもいかねぇんだ。入部希望ならそこで着替えてすぐ参加しろ。一分だ」


 そう言って男が指差したのは、短い廊下の隅にある備品置き場のような小さなスペースだった。


「ちょっ……こっちは女の子ですよ! せめて部室でとか、そういう配慮を──」

「遅れてきたお前らに選ぶ権利があると思うか?」


 ついさっきの眼光なんて可愛いものに思えるくらい凄まれ、さちは思わず後退(あとじさ)った。


「すいません、一分は無理です。三分ください」


 割って入ったのはアキだった。


「……お前、今の俺の話聞いてなかったのか? 一分だ。無理なら帰れ」

「無理です。でも帰らないです」

「は?」

「一分じゃ礼も黙想もできません」


 至極当然のことを言っただけ、という様子のアキに、男は不機嫌顔のまま押し黙った。

 数秒そうして、小さく嘆息した後、


「……チッ。遅れたら問答無用で叩き出してやるからな」


 そう言い残し、踵を返して太鼓の方へと戻っていった。


「ア、アキちゃん……!」


 わなわなと声を震わせたさちがアキの手を握った。プレッシャーと緊張から解放された安堵、それととんでもないところに来てしまったという後悔が涙目を浮かべた瞳の奥から伝わってくる。

 アキはその手を握り返して小さく笑った。


「大丈夫、ちょっと行ってくるね」


 ◇


 長い髪を後ろで束ね、道着と袴に着替え、着座(ちゃくざ)して(たれ)と胴を身につける。右手前に小手を揃えてその上に面を置き、竹刀を左に。姿勢を正して三〇秒弱の黙想の後、神前(しんぜん)と、まだ見ぬ監督(せんせい)、これから剣を交える部員たちの順に礼をする。それから手拭いを頭に巻き、面を着けて小手を嵌め、竹刀を取って道場の入口を潜る。ここまでできっかり三分。

 男はその様子を見てまた小さく舌打ちした。


「おい、新入りだ。奇数だったろ。混ぜてやれ」


 指示に全員が返事をして、反時計回りにローテーションする。回ってきた一人が会釈をしてきたので、アキも軽く準備運動をしながら会釈を返した。


「よぉし次、鍔迫(つばぜ)りからの引き面! 打つだけじゃないぞ、崩しも意識して一本取りにいけよ!」


 再び返事をした後、相手が鍔迫りの間合いにするため近づいてきた。


「……せっかく休めると思ったのによ」


 ぼそっと呟いたのは男の声だった。垂ネームを見る限り『片品(かたしな)』というらしい。息が上がり、面金(めんがね)の向こうから熱気を漂わせている。


東雲(しののめ)だよな、読み方。同級生として呪うぜ」


 そう言って鍔を合わせる。その瞬間──ドン、という強い衝撃。


「──メェェェェェェンッ!」


 気づいた時には遠く離れた場所で残心を取る片品がいた。そしてそんな片品の姿を見て初めて、自分が弾き飛ばされ転んでいることを知った。


 一瞬だった。


 鍔迫り合いからの引き面は打突の予備動作を相手の体勢の崩しにも使うことが多い。例えば相手の体を押し込み、押し返されたその反動を利用して打ち込めば、強い打突を繰り出すことができる。押し返したことで守りに隙が生まれるため、相手の面も狙いやすくなり、有効打突にもなりやすい。


 しかし、これはそれ以前の問題だ。

 男女の差というだけでは説明のつかない単純な身体的力量の差。当たり負けして転ばされたのだ。押し返すどころか、片品はただ体勢を崩されたアキに向かって引き面を放っただけ。傍から見ればアキが為す術なく押し切られて一本を献上したように映る。


「おいおい、頼むからあれくらいで転ぶなよ」


 手を差し伸べた片品が面の奥で笑っている。何を考えているかは分からないが、良い理由の笑みではないことは分かる。


 ふと、その姿がついさっき教室前で見た残像に重なった。


 同じ手を差し伸べるのでも、色々な人がいるのだなあとアキは思った。あの人の行動からはただただ純粋な優しい心根を感じた。この男のように行動の裏に他意を感じさせない、慈しみ深いまっすぐな目だった。


 周りの部員たちも聞こえるか聞こえないかの小さな声で笑っている。紛れもなくアキに対する嘲笑だった。本気で剣道という競技に打ち込んでいる自分たちの汗が染み込んだこの道場に、後からひょっこりと現れただけでも舐められたようなものなのに、蓋を開けてみればただの鍔迫りで尻餅をつくようなレベルだったのだ。選手としてのレイヤーの違いに、怒りよりも嘲りの方が強く湧いていた。


 しかしアキには、その何もかもが気にならなかった。蔑視の集中砲火などどうでもいいくらい、気を取られてしまうことが他にあった。

 片品の手を借りて立ち上がり、竹刀を握り直す。


「……分かりました。もう転びません」


 小さく呟いたその声に、片品はほんの少し目を丸くした。

〇西陵館

なんか作者の高校の武道館がこんな感じの名前だったのでつけたのである。


〇稽古に入る前の流れ

多くの場合、防具をつけて稽古に入る前はアキが行っている通りのイメージで礼を行う。

稽古終わりも同じような流れで礼をするが、先生の話が長いと基本足が痺れるので、隠れて組み替えたりする。


〇引き技

通常、構えた状態で相手に飛び込み技を放つのに対して、鍔迫り合い等の状態から後ろに下がりながら放つ技を引き技という。

いかに相手の隙を生むか、隙を逃さず捉えるかという点において、一般的に引き技の方が難しいとされる。

ちなみに一本を取るのが難しい打突は『小手→面→胴→突き』である。(作者談)

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