交差するシンプレックス
〔手紙①〕
貝原涼子様
桜の蕾が膨らむ季節になりましたね。
先日は焼き菓子の詰め合わせをありがとうございました。宅配便を受け取る時に名前を見て驚きました。中に入っていたお手紙を読んでようやく、本当に涼子さんからなのだという実感が湧いたくらいです。
焼き菓子の一つ一つの可愛らしいこと! 近くのデパートでは見たことがない洗練されたパッケージは見ているだけでも華々しい気持ちになりました。晶が勝手に包み紙を空けて口に入れてしまった時には大人げなく怒鳴り散らしたくらいです。涼子さんから頂いたものは、私が一番に口に入れるべきだと思っていたものですから。
晶は大喜びでした。いつも何かと競うような早さで平らげてしまう晶が、一口ずつ噛み締めている様子は、我が子ながら微笑ましかったです。
ご存知のように、私は五年前に会社勤めを辞め、パートとして働く日々に戻り、生活に余裕がなくなりました。あちこちの店に出向いてお菓子を売る仕事です。給料が安いのに加え、休みが不定期です。子供にかけてやるお金もなければ時間もありません。シングルマザーなりにも、なけなしのお金や時間を苦心して、手作りの蒸しパンやゼリーを作る日もあるのですが、頂いたドライフルーツいっぱいのフィナンシェを口に含んだ晶は、今までにないくらいの笑顔を見せてくれました。本当にありがとうございました。
子供が笑顔を見せてくれると、本当にほっとします。母親としての自分を許されているような気がするからでしょうか。旦那さんの存在を今も心に深く受け止めていらっしゃる涼子さんなら、お子さんがいらっしゃらなくとも同じような気持ちをわかって頂けると思います。
相手の笑顔を見たければ、まず自分から。子育ての専門家やアドバイザーの方がよく口にする言葉です。けれど、それができる母親は、どのくらいいるのでしょうか。
子供ができて思うのは、笑顔は時間と金銭と心の余裕がなければ生まれないということ。働いて、家事をして、その上で子供のしつけもしなければならない母親には最も得難いものだという現実を知りました。
お菓子の話に戻しますね。頂いた次の日も晶は焼き菓子をねだり、「昨日あんなにぱくぱく食べていたのにお腹を壊した様子もないから」と頂いた焼き菓子を全部あげてしまおうかという衝動に駆られましたが、「二人で半分ずつね」と晶にはっきりと言うと、笑顔はたちまち消えて、不貞腐れ始めました。もちろん、「半分こ」しなければならないのはしつけのためです。あくまでも晶と自分は対等なのだと思わせようというのは、子供を育てるにあたって定めたルールでした。
今でこそ、自分の思い通りにならなくても、顔でいじけるだけの晶ですが、ちょっと前までは保育園に行きたくないと玄関で座り込んだり、目当ての物を買って貰えないとスーパーの中でじだんだを踏んで大声で泣いたりして大変でした。自分の思う通りにならないと気が済まないのは父親譲りの気性なのでしょうか。それでも、産んだ子供である以上、母親の私が育てなければなりません。子育てとは金銭面の援助をするだけではないと思っています。
大層な人生を送ってきたわけでもない私にしては生意気ではないか。
人間は誰しも完璧ではありません。私だって、法に触れるようなことをした経験はありませんが、決して立派な人間ではありません。人を不快にさせたり、何かをごまかしたり、そんなことはよくあります。そんな人間でも、子供をまっとうな人間に育てるためには、叱らなくてはならないのです。
長々と涼子さんに関係の無い話をすいません。お菓子のお礼状にしては長過ぎると怪訝に思っているかもしれないですね。
私が伝えたかったのは、お菓子のお礼、そして一年前の謝罪です。
充分なお手伝い、つまり、あなた家の片づけをやり遂げず、挨拶もなくあなたの家を飛び出してしまったことをずっと後悔しています。
最愛の旦那さんを交通事故で亡くされた五年前から、ごみに占拠されていたあの家は、今はどうなっているのでしょうか。
片付けを器用に手伝えていたとは思えませんし、涼子さんの心に寄り添えていたとも思えません。しかし、お手伝いをさせて頂いた中学時代の同級生のなかで、一番長くあの家に通っていたのは私です。
手紙の始めに書くべき挨拶を、最後に述べるご無礼をお許し下さい。涼子さんは今、お元気ですか。
西野優紀
* *
貝原涼子さんにお送りした手紙と、私達の関係について話しますね。
その前に、これって涼子さんから頂いたお菓子とかって持ってきたほうが良かったですか? そういうのも何かの証拠になるものなんですかね。
……ああ、大丈夫なんですか。確かに、そんなのなんの証拠にもならないし、考えてみれば全部食べてしまったからもう何も残っていないんでした。すみません。前はうまくお話できなかったので、今日は早く終わるように話す練習してきたのに。
いえ、別に用事があるっていうわけじゃないんです。雨の日は額が痛むから、早めに帰りたいというだけなので。ここ、薄く青くなっているでしょう。中学の時に怪我をした痕がいまも痛むんです。
涼子さんと再会したのは一年と少し前です。中学で出会って三年間同じクラスでした。明るくて綺麗な彼女の周りにはいつもたくさんの人が集まっていましたし、成績優秀者だったこともあって、二年の時には生徒会長にもなった人です。
母校の生徒会長は半ば暗黙の了解でずっと男子だったんですけれど、そんな伝統は、私達の代でお払い箱になったのを覚えています。
当時、女子の候補は彼女だけであとは全員男子という選挙で選ばれ、喜ぶよりも先に選挙活動を手伝った一人一人にお礼を言い始めた時には、同い年の人間だとは思えませんでした。
「優紀ちゃんは選挙用のプラカードに、私の名前を丁寧にレタリングしてくれてありがとう」
クラスでも目立たなかった私は、そう言われて舞い上がってしまったっけ。……ああ、私はプラカード作りを頼まれていたんです。説明不足ですいません。
お礼が上から目線のように聞こえたか? そんなふうには思いませんでした。当時の私は誰かに感謝された記憶があまりなくて、口先だけのお礼さえも言われたことがなかったから、涼子さんの言葉を言葉通りに受け取りました。今でも胸の内に仕舞い込んでいる言葉の一つです。
「綺麗に」ではなく「丁寧に」と言われたのも嬉しかった。
彼女は自分の率直な気持ちを言ってくれただけでしょう。しかし、「綺麗にレタリングしてくれて」と言われていたら、きっと私は、「もし綺麗にできていなかったら、涼子さんは褒めてくれなかったのではないか」と落ち込んでいたかもしれません。すいません。卑屈な性格なんです。何かが上手くいっても、上手くいかなかった仮定を同時に考えてしまうのが癖になっているんですね。
プラカード作りを頼んだのは涼子さんか? いいえ、プラカードはもちろん涼子さんが使うものですが、私に頼んだのは担任教師です。
大人になってからも、家事と仕事を両立させて旦那さんを支えていた涼子さんです。彼女は自分に関わる物事を全て一人で何とかしたいと考える人でした。他人を信用していないというわけではないです。どれだけ自分が忙しくても、自分の仕事を人に押し付けるのは嫌だったんじゃないでしょうか。
中学校の選挙と言っても、準備は色々とあったみたいでした。スピーチを考えたり、ポスターを描いたり、そうそう、公約を作るのも大変そうでした。だから、担任教師もそんな彼女を心配して、雑事は適当なクラスメートに割り振っていたみたいです。私もまた、そのなかの一人に過ぎませんでした。きっと、暇そうに見えたんでしょう。でも、毎日学校に二時間ずつ居残りながら、期日には間に合わせられたし、涼子さんにも喜んでもらったし、結果的には良かったんじゃないかって思います。
ええ、作業は全部一人で。
酷いと思いますか? 虐められていたからだとか、想像されましたか? ご想像を裏切ってしまって申し訳ないけれど、学校で虐められたことは一度もありません。
失礼ですけど、模造紙とか画用紙にグループワークで意見をまとめた、みたいな経験はありますか。あんなの、結局作業をしているのは一人か二人で、後の何人かはぼうっとしているか、賑やかしのお喋りをしているだけですよ。用紙の大きさは限られているし、何人もが同時に作業なんかできないんですから。それはプラカードも同じで、一人で集中して作業したほうがいいんです。
寂しい気持ちにならなかったか? なりませんね。
まあ、学校が閉まるぎりぎりまで作業をしていたので、帰り道の暗さは怖いと言えば怖かったかもしれません。なら、家で作業すればいいんじゃないかと思っているかもしれませんが、自分の身長と定規一本分くらいしか変わらない大きさのプラカードを持ち帰るのは大変ですし、社宅のアパートにそんなものを置くスペースはありません。あと、兄の前ではそういう華々しいものを見せてはいけないとも思っていました。
私の兄は、当時ずっと家にいたんです。私が中学二年生の時に、兄は高校二年生でしたが、高校に入学して何日かしてから兄の「学校に行きたくない病」が始まりました。
不登校ではありません。不登校とは言っちゃいけなかったんです。「お兄ちゃんはいつか絶対に学校に行けるようになるんだから、普通の不登校の子とは違うのよ。今はただ、風邪を引いているのと同じなの」と母が言っていたから。母もまだ若かったし、兄に気を遣っているというよりは、認めたくないという心持ちだったのでしょう。
兄については、皆さんご存知でしょうが、一応私の記憶をお話させて頂きます。「逆境から立ち上がった会計士」と呼ばれていた西野正幸について。高卒認定から国家試験まで独学でこなした結果、会計士になり、メディアにも取り上げられるようになった経緯は、あちこちで兄が話していた通りです。
ディレクターの友人が担当していた番組、法律やお金の問題をお遊び程度にわかりやすく教えるようなバラエティ番組とでも言っておきましょうか。今はもうない番組です。そこの会計士枠のコメンテイターの代役として時々呼ばれるようになって、兄は世間に知られるようになりました。その前からも仕事はぼちぼち来ていたみたいでしたが、この仕事のおかげで都心のタワー・マンションに住めるくらいに稼げるようになって……。テレビの威力ってすごいですね。
私がどう思ったか? そうですね、歯に衣着せぬ目立った物言いや、まあまあ顔が綺麗なところがウケたんだろうなぁってくらいです。
テレビでは不登校の理由を、「アイデンティティが崩壊した」とか「自分の生活に耐えられなかった」とか大袈裟に言っていましたが、自分より成績の低い人間と同じ学校に通うのが嫌だっただけですよ。高校受験に失敗して、公立の進学校に入学できなくなって、併願していた私立に入学するしかなくなったっていうお決まりのパターンです。
都会と違って、田舎の私立は偏差値も高くないですし、兄も特進コースに入れるほどではなかったみたいで、劣等感に苛まれていたんじゃないでしょうか。逃げられるだけマシだと思いますけど。
テレビ活動や本業だけではなく、不登校の子供達を励ますボランティアにも関わっていたみたいでしたが、誇らしくはありませんでした。家にいた時には食べた皿も下げないでゲームばかりしていて、母が泣いて懇願するまで高卒認定を取ろうともしなかった兄に、一体何ができるんだろうとは思いましたけどね。M社の週刊誌で叩かれ始めたのをきっかけに化けの皮が剥がれて炎上騒動になった時も、散々迷惑をかけられました。
週刊誌に取り上げられて腹が立ったか? 立ちませんね。暴露話は全て事実だったので、怒る理由がありません。母は結構ショックだったみたいだけど、嘘は必ずばれるようになっているんでしょう。
話を戻しますと、私が中学生の頃の兄は、ただでさえ狭い部屋の空気を重苦しくしていました。少しでも早く兄が立ち直れるように、母が「お兄ちゃんの前では学校の話をしてはいけない」、「学校を連想させるものを見せてはいけない」というルールを作っていたので、プラカードは家に持ち帰れなかったんです。
兄を恨んでいるのか? それは、簡単には言えません。家族にあたりはずれがあるのは仕方ないし、あれこれ考えるだけ無駄な気がして。
私の教科書やら弁当箱やらを、埃っぽい押し入れのなかで管理しなければならなかったり、兄のせいで回りに根掘り葉掘り聞かれたり、そういうのって日常でしたし。
でも、ついでに私まで心配されてしまったのか、担任教師が何度も家庭訪問をしに来たのだけは恨んでいます。人と話すのは苦手だし、母子家庭を支えている母に時間を取ってもらうのも悪い気がしていたから。
当時の私はそれなりに苦労してプラカードを作りました。作りながら考えていたのは、「これだけ頑張ったのに、綺麗にできなかったらどうしよう」、「あんたにやらせなきゃ良かったと言われたら嫌だな」という担任教師や涼子さんの反応です。
ですから、「綺麗だ」という結果よりも「時間をかけて作業した」という過程を、涼子さんが褒めてくれたという、普通の人から見たらどうでもいいことに感激しました。
運動も勉強もできて、美人で明るくて、もちろん努力もしてたでしょうけれど、生きているだけで望む結果がついてくるような人なのに、結果だけでなく過程もきちんと評価してくれるのか、と驚いたんです。言うのもおこがましいですが、私のなかの涼子さんへの評価がひときわ上がった瞬間とも言えました。これからも幸せであって欲しいし、こういう人はきっと順風満帆な人生を送るだろうと疑いませんでした。
だからこそ、旦那さんが交通事故で亡くならなければ。今の私にはどうにもできない運命ですが、悔やまずにはいられないんです。
* *
〔手紙②〕
西野優紀様
お手紙をわざわざありがとう。ちょうど桜の見頃なんでしょうけれど、もう何年も見ていないような気がします。
贈り物を受け取ってくれて、こちらこそお礼を言いたいです。去年、あんなに一生懸命働いてくれていたのに、何もお返しできていなくてごめんなさい。ずっと気にしていました。
送り返されたらどうしようって思ってしまったくらい。私はどうも、人の心の機微に疎いみたいだから。お子さんが喜んでくれたのなら、とにかく良かったです。
お子さんは男の子? 女の子? どっちでしょう。うちは子供が出来なかったって話していたから、話題に出せなかったのかしら? もっと早くに教えてくれれば良かったのに。教えてもらったところで、私があなたにできることはないのだと思うけれど。
今はのんびりしています。片付けは一進一退、在宅で簡単な仕事をして空いた時間はとにかく眠るの。お勤めしていた頃には考えられない暮らしをしています。
思い返すと、出版社に勤めていた頃は昼夜逆転どころか、忙しい一日がいつまでも続いているような日々を送っていました。私がいたのは週刊誌の編集部で、毎日が目の回るような忙しさだったから
そんな生活のなかで、隆二に出会いました。彼は印刷会社に勤めていて、出会いのきっかけは小さな記事の取材だったんだけれど、結局その企画はお蔵入りしてしまって……生きている頃のあの人ったら、何かって言うとあの時のことを繰り返し話していました。
「たった一ページでも、『うちの会社じゃ一緒に仕事もできないくらいデカい出版社に取り上げられるー』って社員一同で楽しみにしてたのに……うちみたいな小さい会社なんてまぁ、おたくじゃそういう扱いを受けるのが当たり前なんだよな」って。男らしいようでいて、意外と根に持つタイプなのよね。
でもね、根に持つタイプは反対に情の深いタイプでもあるって、私は思っていました。いつだったか、いつも通りあの日の話をして「でも、お前のところの週刊誌は見るとなんか買っちまうんだよな……部屋に何冊か置いてあるよ」って聞いた時はとっても嬉しかった。
出会いには少しケチがついていたかもしれないけれど、それから仲良くなっていったの。ずっと二人だけで暮らしてきたものだから、お子さんを持つ母の気持ちはわからないけれど、自分の何かを犠牲にしてでも家族を大切にする気持ちはわかっているつもりです。
結婚前の彼は「安らげる家庭を作りたい」とよく言っていました。そのために、私は仕事を犠牲にしました。ずっと入りたかった出版社を、結婚して半年で辞めたの。
今の時代に珍しいと何度言われたかわからない。同僚だけではなくて、友人にも、両親にも言われたわ。批判もされた。いくら夫が望んでいたとしても、協力してもらえば仕事を続けられるだろうって。
ちなみに、安らげる家庭って優紀ちゃんはどんなものだと思いますか?
当時の私はよくわかっていませんでした。それまで考える機会がなかったから。それは多分、お前がずっと恵まれた環境にいたからだな。って隆二にも何回か言われたっけ。
隆二の家は共働きで、二人とも常に疲れていたせいか、両親の仲が悪くて、機嫌が悪いと自分が攻撃されるものだから、ゆっくりできた時間がなかったとこぼしていました。
私はというと、父は会社員で母は専業主婦の一人っ子。家に帰ればいつも手作りのお菓子が置いてあったりして……母に料理を教えてもらうのも楽しみだった。父とは休みの日に遊園地に連れて行ってもらったり、大型連休にはキャンプに連れて行ってもらったり。叱られることはあっても、叩かれたことはないし、夫婦喧嘩は記憶にありません。
だから、隆二の言う「安らげる家庭」っていうのは努力する目標なんてものじゃないじゃない。って思っていました。普通に二人で暮らしていれば安らげるでしょー って。
それでも、隆二の話を聞いて、私は仕事よりも家庭を優先すべきだなぁって思ったのは本心です。安らげる家庭を知らない隆二に教えてあげたいっていう驕った優しさを抱えていたのかもしれません。
今は家をあんなふうにしてしまった私ですが、隆二がいた頃は良い奥さんになろうと頑張っていたのです。ゆっくりできる家庭に必要なのは、家事をきちんとこなして、疲れた夫を癒す環境だと思っていたから。
例えば、フランス料理が夕飯に出たら嬉しいかもしれないと思って、前の日から準備して夕飯に備えたり、買い物でちょっと足をのばして隆二の好きなお酒を買って帰ったり、お風呂の入浴剤も色々試したり、一生懸命あれこれと考えていたのです。
夜遅くに隆二が後輩を連れて帰った時も、何か出せるようなものあるかしらって焦りながらも、頭をフル回転させて料理を作りました。手作りじゃないと、隆二が拗ねるの。「折角お前を自慢したかったのに」って。よく駄々をこねるのは子供みたいね。
隆二に必要とされるのは嬉しかったし、出版業界の前線に残るというのも大変だったと思っています。フレックスタイムが使えたとしても仕事の量が減るわけじゃないし、給料が良いといっても使う時間がないんですもの。
だから、在宅でできる翻訳の仕事を回してくれるようになったのはとてもありがたかった。もともと英語が好きだったし、ひと夏カナダに留学したこともありました。隆二は「辞めるんだったら、全部辞めればいいのに」って言ってくれていたけれど、今までの自分を捨てきれないところはあったのかもしれません。
子供ができたら在宅の仕事も辞めるつもりだったけれどそうはならなかったし、隆二はこの世からいなくなってしまったから。完全に仕事を辞めてしまわなくて良かったのだと思います。おかげで今、何とか暮らせているのだから。
正直、子供は欲しかった。でも、自分の面倒を見るのに精一杯で、彼がいなくなってから家の一つも管理できなくなった私には、できなくて良かったのかもしれない。
さて、そろそろ、本題に入りますね。お手紙では、優紀ちゃんが「突然いなくなった」みたいな書き方をしていたので驚きました。家を片付けるという話は、元々、中学の皆が来たい日に来るっていう気楽な集まりだった筈です。
もっと言えば、ずっと残ってくれていたのは優紀ちゃんだけでした。確かに、あなたはあの日掃除の途中でいなくなってしまいましたが、何か急な用事ができたんだろうなって考えていました。あなたが考えているよりも、私はずっと適当な人間です。あんまり気にしないし、そのせいで痛い目に遭ったことも多いのだけれど。
ただ、いまだに彼の部屋には入れません。あの人を思い出すと、たまらなくなってしまう感情はいつになったら整理できるのか。私にもわからないのです。
それでは、またお手紙をお待ちしています。
貝原涼子
〔手紙③〕
貝原涼子様
半袖がちょうどいい季節になりました。
まずは、謝罪からしなくてはなりませんね。返信が今日まで遅れてしまい本当にすいません。
時間に余裕がなかったというのもありました。しかし、涼子さんの言葉を受け取って自分の気持ちを投げ返すという作業自体が酷く難しかったのです。
子供の頃は、あなたの言葉をまっすぐに受け取れたというのに。私は疑うことばかりを覚えてしまったのでしょうか。だとしたら、年はとりたくないものです。
さて、前回の手紙で私は「涼子さんは、お元気ですか」と書きましたが、後で大きな間違いに気づきました。確かに、旦那さんを亡くされたショックから全く物を片付けられなくなった涼子さんですが、ご自身の体調は変わらず、いつも身綺麗にされていた記憶を思い出したからです。
テレビでよく見るごみ屋敷の人は、いかにもやつれていて、ぼさぼさの髪はかまわないままで、汚い服を着ているのに、涼子さんは違いました。
三十半ばに差し掛かっていても肌にはりがあって、きちんと栄養が行き届いていそうな髪は仄かに良い花の香りがしました。在宅で仕事をしているというのに、あの家に足を踏み入れる度に毎回異なるアクセサリーをつけていましたね。ある時はネックレス、ある時はブレスレット。最後に会った時はスミレをモチーフにしたアメジストのイヤリングをつけていて、「隆二と付き合うようになってからは、ピアスの穴塞いじゃったんだ。あんまり好きじゃないみたいだから」と言っていました。
ただ、その姿を見て安心したかどうかは微妙です。
お城のような一軒家は、なかだけでなく外の庭までポリ袋の山に浸食されていましたが、当の本人だけが美しく在り続ける姿を異様に感じたからです。
もし、一番に着いたのが私ではなく、涼子さんが「貝原」と書かれた表札の家から出てこなければ、あの美しい人を涼子さんとは思わなかったくらい。
けれど、涼子さんは遠くから一目で、私を「私」だと認識して下さいましたね。
「あら、西野さん。わざわざ来て頂いてありがとうね。まぁ、上がってちょうだい」
今思えば、中学を出てからの私達に関わりとも言える関わりはなく、涼子さんが私を「私」とすぐに認識されたのを不思議に思っていました。自分では地味だと思っていたのに、クラスでは浮いてる存在だったのかも。と気持ちが暗くなり、挨拶もそこそこに、「ご近所の方からクレーム来ないんですか」と聞いてしまったのを今でも申し訳なく思っています。
涼子さんがご近所の方と揉めているだなんて想像もしていません。しかし、いくら旦那さんを亡くされたと言っても、事情をご近所の方がご存知であっても、当の本人が健康そのものという風体で家だけが汚れているという現状には、流石に一言くらい文句を言われても仕方が無い様子だと感じました。
中学でも特別親しかったわけでもなく、およそ二十年ぶりに会った知り合いにしては言葉が過ぎるというものでしょうか。あるいは、お二人の暮らしぶりを直接知らなかった野次馬としてはぴったりの言葉だったのでしょうか。
涼子さんは口元に笑みを浮かべて言いましたね。「家を虐待しているみたい、って思ったでしょ」って。
掃除の手伝いに友達が来てくれるって話したら、一応皆さん納得してくれたから。その後に続けられた言葉は何かを取り繕うようで、身だしなみには気を付けているけれど、今の涼子さんは憔悴しているのではないかと思いました。涼子さんがおっしゃる「安らげる家庭」とは、家と自由に使える時間があれば成立するものではなく、あくまでも旦那さんと共に安らかに過ごせる日々を指すものなのでしょう。
それにしても、「安らげる家庭」とは何か。
考えるのも、実現するのも難しい問いだと思います。
少なくとも私の実家は安らげるものではありませんでした。兄が不登校だった時は言うまでもありませんが、兄が自立してすぐ、今度は母が病気になりました。高校を卒業してからずっとスーパーで働いていた私が伝手を辿り、小さな印刷会社でお世話になってちょうど三年目のことです。その頃は兄も忙しかったため、私が世話をしなければなくなったのです。涼子さんのように、自分の意志で仕事を辞めました。辞めたのは、何もそればかりが理由ではありませんが。
当時は私も調子を崩して病院に通う日々でした。でも、自身の体調不良で仕事を辞めるよりも、母の病気を口実にしてしまうほうが何かと都合が良かったんです。実を言うと母は病院に任せきりでした。
私の入院が決まった時には「あんたは本当に間が悪い」と怒られたっけ。病気ではありませんので、ご心配なさらず。その時私は、晶を妊娠していたのです。晶が生まれたのと入れ替わるように母が亡くなったもので、病院には良い思い出がありません。
話を戻します。涼子さんはとても良い家庭で過ごされたのですね。安らげる家庭そのものじゃありませんか。両親共に健在で仲も良く、家に帰るということに少しの抵抗も感じられた経験がないでしょう。そんな涼子さんが、仕事を辞めてまで旦那さんに尽くそうと努力していた話を聞くと、私まで微笑ましくなってしまいます。もし、私が旦那さんであれば、素直にあなたの愛情を受け取り、幸せな気持ちに浸っていただろうと思います。
そういえば、私があなたの家に伺うようになった経緯について、ご存知でしょうか。
旦那さんの訃報は、交通事故ということもあり、涼子さんだけではなく親族の方の気持ちも考慮して内々で済まされた葬式の甲斐もなく、涼子さんの同級生の間に広まりました。言いにくいことですが、その後の涼子さんの暮らしぶりも。
中学時代の同級生にまで話が伝わっていたのは、涼子さんの人徳がかえって災いしたのかもしれませんね。成人してすぐに都内に引っ越し、ご両親もお亡くなりになっていた涼子さんの話が地元を賑わせるだなんて、やはり田舎は話題に乏しいのかしら。突然の悲しいお知らせに驚きながらも、私は田舎の閉鎖的で粘着質な情報ネットワークに戸惑いました。
兄が学校に行かなくなった時を思い出します。三日としないうちに、兄が家から出て来ないという事実は暴かれ、不登校だという噂が立っていました。例えば、こんな風に。
「あそこは受験に失敗したでしょう。私立なんて行きたくないのよ。うちの近くにある私立なんてねぇ」
「名前を書けば受かるってうちの子は言ってたけど、本当かしら」
「どうせ不登校になるのなら、まだ公立だったら授業料も安かったのにねぇ」
「何言ってんの、公立だったらそもそも不登校になってないわよ」
あれから二十年経っているのに、流された噂は忘れないものです。
当時、地元に住んでいた兄があそこの住人からとやかく言われるのは当たり前だけれど、もはやご両親も本人も住んでいない土地で涼子さんの家庭の話が出るのはおかしいですね。昔と違ってSNS等のツールで簡単に繋がれてしまう今のほうが、田舎の人達の「都会に行ってしまった者を逃すまい」とする姿勢は強固に、より執拗になるのかもしれません。
しかし、驚きはそれだけで終わりませんでした。事故から五年と少しが経ったあたりから、中学時代のメンバーで「涼子さんを励ます会」をしようという連絡網が回り、その会は様々な事情を鑑みて「家の遺品整理を手伝おう」という趣旨に変わったのですから。
最終的に私も参加しましたが、会の形が変わるきっかけを与えたのは、中学当時に運動部の部長だった子達やクラスで中心的な役割を果たしていた子達だったのではないかなと推測しています。寧ろ、私はこの催しが涼子さんを励ます会だったことを後から知りました。そんな会だったらきっと、出ていなかっただろうなとも思います。他人が他人を励ませるわけがないって心のどこかで考えていたのかもしれません。でも、整理の手伝いくらいなら、私にもできるかもしれない。そんな自信があったんです。
片付け一日目は涼子さんもお疲れだったと思います。あの人達ときたら、矢継ぎ早に今の状況を質問したり、旦那さんの親族について聞いてみたり。
元々、本当に励ましたいと思っている人間は当の本人の自宅に押し掛けないだろうとは考えていたのですが、手よりも口ばかりを動かし、片付けるどころか次々とお茶のお代わりを要求する彼らは、実に欲求に忠実だなぁと。皆さんのインタビューに答えるのに忙しい涼子さんに代わって、お茶を淹れたり、食器を洗ったりしながら、まぶしいようなうるさいような気持ちで聞いていました。
あの家は外から見ればごみ屋敷でしたが、なかの使うスペースだけはきちんと整えられており、台所もその一つでしたね。シンクは水垢がないくらいぴかぴかしていて、使う分の食器には埃も溜まっていませんでした。
「主に汚いのは、隆二が使っていたところね。隆二の部屋とか、あと物置とか。私の寝室とかキッチン、トイレやお風呂ももちろんそれなりに綺麗よ」
洗い物ばっかりさせてしまって申し訳ないわ。後はもう私がやっておくから、何なら、隆二の部屋でも見ていくかしら。皮肉というより、ジョークとしてかけられた言葉に私はひやりとしました。気が付くと、皆さんは行動を始めていて、物見遊山に来られた方々はお茶をごちそうになって満足したままお宅から出て行き、少しでも良心のある方々は一部屋ずつ何人かで手分けをして掃除を始めていたのです。他の皆さんがいないキッチンにて一人で後始末をしている私に声をかけて下さったのを覚えていらっしゃるでしょうか。
「こんな家になってしまったけど、また来てちょうだいね。もっとまともな頃に来られたら良かったけど、まともな頃だったら西野さんは来てくれてないだろうし。ああ、昔は優紀ちゃんって呼んでいたっけ」
「はい。でも、私、また来てもいいんでしょうか」
「どうして。今日は来てくれたのに」
「元々、場違いじゃないですか。中学の時、そんなに親しくなかったですよね。なのに、今日も申し訳なかったです。どうして来たのって言われると答えに困りますけど」
整理の手伝いくらいなら、私にもできるかもしれない。細々とした雑事くらいなら。理由らしい理由は挙げられますが、その奥底にある原動力のようなものを聞かれると、私は困ってしまうのです。
「いいのよ。中学の頃の付き合いがいくら良くても、この年になってまで強固に続くような縁ってないじゃない。知りたがりでも、不幸探しでも、励ますためでも。皆何かしらのとっかかりがあってここに来てくれたのよね。優紀ちゃんもそうでしょ」
「ええ、それは、そうですね」
「隆二が亡くなって、世の中何が起こるかわからないなぁ。とか、人の気持ちって思いもよらない方向にいくものだなぁ。とか考えてて。どうなってもいいように、何でもできるようにしておきたくて、人の縁は取り持っておくようにって思うのよ」
それから、一緒に食器棚のお皿やお椀を片付けていきました。使っていないものって普段は洗う気がしないのよね。優紀ちゃん、もしよければ何個か持っていってくれないかしら。という提案はお断りしました。縁の薄い陶器やチューリップグラスなどは見栄えがしてとても素敵でしたが、家には幼い晶がいて、壊れやすいものは日常使いにできなかったからです。
「考えてみれば、もうこんなに大きい食器棚はいらないのよ。二人の時も大きいなぁって思ってたけど、ようやく処分できるわね」
手伝ってくれてありがとう。と涼子さんは言いました。何か返せたらいいのに。優紀ちゃんの役に立つものはこの家にはないかもね。と続けられましたが、私はぺこぺこするばかりでした。他のメンバーは一日目にして、小さな雑貨や洋服等をたんまりと持ち帰ってしまい、私だけが何も貰っていなかったのを気にされていたのかもしれません。
「こんなに大きな家を一人で汚しきれるんだぁって、ちょっと感心しちゃった。汚すのは簡単なのに片付けるのは大変よね。元々、隆二はあんまり片付けるの好きじゃなくて、隆二のスペースってかなり汚れてたの。でも、勝手に部屋に入れないし、掃除も自分でするって言うから。いなくなった後に入ってみたら、もうすごく汚れていてね」
たくさんの食器を洗って整理していくと、食器棚は空になりました。涼子さんの手際の良い動きを横から見ていると、充分に一人で生きていける女性にしか見えず、それでも、旦那さんを亡くされたショックから家がこんなに荒れてしまうのは尋常ならざることだと再認識しました。
旦那さんの私物を見るにつけて気分が落ち込むようになり、色々と面倒になって、使わない部屋にごみを投げ入れるようになってしまい、それでも入りきらないものは外に投げちゃったのよ。と語る涼子さんは、最後に「思い出の掃き溜めみたい」と言いましたね。
「良くも悪くも、思い出には勝てませんね。私もつくづくそう思います」
身支度を整えながら、自分が返した言葉をもちろん覚えています。あれから短いようで長い月日が経ち、あの頃の話もまた思い出に風化しつつあります。
涼子さんは今、何をお考えになっていますか。家や健康よりも、私が心配しているのは、あなたの心持ちそのものです。穏やかにお暮しでしょうか、それともそうではないのでしょうか。後者だとしたら、その原因は全て私にあるのだと思います。
西野優紀
* *
お宅に伺うようになった経緯は二枚目に書いた通りです。
本当に集まった全員が涼子さんを心配していなかったのか、ですか。どうでしょうね。心配していない筈はないでしょう。あんなにきちんとした人が街一番のごみ屋敷の住人になってしまったのだから。でも、涼子さんへの心配と私利私欲を天秤にかけて、躊躇いなく前者を選べる人はいませんでした。私の卑屈な妄想ではありません。たんまりと雑貨だの洋服だのをせしめた皆さんの多くが、次の約束の日にはあの家を訪れませんでした。回を重ねるごとに、一人、また一人とメンバーは減っていきました。人数が減って、寧ろ作業が捗るようになったのは笑い話です。
結局、私が涼子さんを手伝う理由は何だったのか。何をお話しても信じてもらえないかもしれませんが、あえて言うなら、涼子さんと彼女を取り巻く環境を見てみたかったから。と言っておきます。内々で済ませた結婚式に、私が呼ばれるわけもなく、中学以降の涼子さんの話はいつも又聞きだったものですから。
名門私立高校に通うために都内で寮生活を始めた涼子さんと違い、私は地元の公立高校に通っていました。兄よりもランクが一つ下の高校です。部活動もせず、勉強ばかりしていたので、兄が目指していた高校に願書を送れる筈でしたが、兄がああなってしまったからか、母から許してもらえませんでした。「絶対に合格できる学校に行きなさい」と怒鳴られたわけではありません。寧ろ、頼み込むように頭を下げられました。断れる筈もありません。今思えば、母は私があの高校に落ちたとしても、受かったとしても。どちらにせよ兄を傷つける結果になるのを恐れていたんだと思います。
家の経済状況も苦しく、高校卒業後はすぐに働きに出てしまったもので、ゆっくりできるようになったら、いつか涼子さんの未来を見てみたいと心の片隅で考えていたのかもしれません。
三年間ずっと同じクラスだったからといって、親しくもない人間について、そんなに想えるものなのか? 親しくないと言っても、挨拶くらいはしていましたよ。後、テストの答え合わせをしたり、ちょっと立ち話をしたり、そのくらいの交流はありました。
その程度の関わりで、そこまで一人の女性に執心するのはおかしい? 気持ちが悪いですか?
嫌な言い方をしますね。親しくはありませんが、涼子さんは私の憧れだったのです。それは、「涼子さんみたいになりたい」という憧れではありません。どちらかと言えば、アイドルを応援するような気持ちと同じでした。
ファンはアイドルに憧れるけれど、アイドルになりたいとは思わないでしょう。アイドルになるにはそれ相応の才能と努力が必要ですし、ファンはアイドルを決して羨んだりはしません。
「ああなりたい」とは思わずに、言葉にもならない希望を乗せて、自分では行けない場所に容易く向かっていける存在、涼子さんは私にとってのアイドルだったと言っておくのが一番適切な表現だと思います。
中学生当時、勉強からフェードアウトしてメイクやファッションにのめり込む子供がいますが、校則破りと引き換えに煌びやかな格好で校門をくぐる彼女達よりも、何もしていない涼子さんのほうが美しいと思っていましたし、試験が終わった時にはいつも、涼子さんの机の周りには皆が集まって答え合わせをしているのも見ていて羨ましかった。特に、高校受験が差し迫る時期には、素行の悪いような子達もそこに集まって、とても微笑ましかったのを覚えています。
かと言って、そういう環境に応じられる生真面目さがたたって彼女が追い詰められたのかと聞かれれば、それは違います。彼女にはいつだって、心に余裕がありました。少なくとも、私の目が届く範囲の彼女は。ですけど。
私とは大違い。
例えば、そうですね。中学生時代の私は「海外で通訳をしたい」とよく夢見ていました。今思えば、現実逃避です。当時の私はとにかく地元にいるのが嫌で、これから先も一生ここにいなければならないのかと考えると吐き気がしました。中学生なんて、目先のことしか見えません。学校で虐めめられて、誰にも相談せずに死を選ぶ子供達が後を絶たないように、今の経験が自分の全てだと追い詰められてしまうのです。
私もまた、これから一生、兄が背負う筈だった母親の期待を全て自分が背負わなければならないのを重荷に感じていました。
家から出られたのは、兄が一人で生活できるようになって、家族が落ち着いていた三年間。
スーパーで安っぽいエプロンを着ながら働いて窮屈な家に帰っていた日々に比べれば、きっちりとスーツを着てデスクワークをこなした後、自分しかいないアパートに帰る日々は充実していました。
生まれて初めて、男の人とお付き合いをさせて頂いたのもこの頃です。職場で出会った彼との出会いは涼子さんの出会い話ほど劇的なものではありません。業務を教えて頂いていくなかで、自然と仲が深まり、打ち合わせだの親睦会だのと様々な口実をつけて何度もごちそうしてもらったり、仕事帰りにホテルに行ったり、ありふれた職場恋愛を楽しんでいました。
今はもう手放した日々は懐かしいですね。もう一度あの頃に戻りたいとは思いませんが。
その彼は今どこに? 驚いた。話しておいて何ですが、涼子さんとの思い出だけではなくて、そういう話も聞くんですね。
彼とは、私が会社を辞めた後から疎遠になり、今は携帯の連絡先すら削除しました。自分自身の体調も優れなかった時期の話です。お察しの通り、良い別れ方をしていません。
別れた理由? 彼の世話をする余裕がなくなってきたから。そう、別れを告げたのは私のほうでした。
それにしても、子供じゃないんだから、世話という言い方はないんじゃないのか?
それは刑事さんの意見ですか?
男と女はあくまでも対等だなんて言葉を、信じられる世の中になってきたのは素敵なことですね。子供と彼が同じ立場ならどれだけ楽だったことでしょう。子供なら世話に加えて教育できるだけマシだと考えています。ただ一方的な奉仕は愛がなければ続きませんし、男女の間でそれが続けば壊れるのは必然でしょう。
共働きなのに、家事をするのは全部私。朝起きて、彼の分のお弁当を作らなければならないから、私が遅刻ギリギリに出社して、帰宅途中でスーパーに寄って、料理を作って、彼が食べている間に彼の分の洗濯物を綺麗にして。
愛があるうちは盲目的にこなしてきた作業も、慣れてきたら、それら全てを当たり前に受け取る彼が憎々しくて仕方がなくなりました。私のアパートが職場から近く、彼は自宅に帰らず私のアパートにばかり帰ってきたので、それが毎日。
家族から解放されてやっと自由になったのに、今でも奪われ続けている私ってなんなんだろうって思っちゃったんですよね。
奪うという表現は大仰なので勘違いされるといけないかな。彼は決して暴力を振るう人ではありません。でも、とにかく、自分では何もやらないんです。何もやらないのに、文句ばっかりは上等で、「今日の飯は味が薄いから食べたくない」と言いながら疲れて帰ってきた私が懸命に作った料理を食べて、「明日までにクリーニングに出して来い」「風呂が汚れている。こんな風呂には入れない」と朝から晩まで小間使いをさせて、お礼の一つも言えないような人なのです。
引きこもっていた頃の兄を思い出しました。学校に通ってもいないのに、いつまでも過去の栄光にしがみついて、隠した筈の問題集を押入れから引っ張り出しては「こんなに簡単な問題をやってんの? お前の受験は楽勝だな」と笑ったり、「勉強が少しできても女はすぐ仕事を辞めて家庭に入るから意味がない」と嘲ったり。付き合いを始めた頃はわからなかったけれど、彼と兄はそっくりだった。何にもできない癖に注文ばっかり、やってもらえるのが当たり前だと思っている。まだ付き合っているうちにこうなんだから、彼は結婚したら、餌もやらなくなるタイプなのは明らかでした。
彼との縁を切るには、会社を辞めるのはちょうど良かったんです。最後に話したのも電話越しで、「私との関係を職場にばらされたくなかったら、もう来ないで」って言いました。効果はてきめん――彼には奥さんがいたからです。
さて、話が逸れてすいません。私の英語の成績は良いほうでしたが、それも筆記だけの話でした。オーラルコミュニケーション、ペアワークともなると、何を話したらいいのかわからなくなり、隣の席の活発な男の子に「適当にやったふりをしていよう」と提案されれば断り切れず、かといってその提案を煩わしいようにも思わない子供だったのです。
その点、涼子さんはいつも、クラスで一番頭が良いような男の子とお手本のようなペアワークをこなし、流暢な英語を披露していました。涼子さんのほうがよっぽど通訳に向いていると感じていましたが、私は本気で通訳になりたいわけではなかったんでしょうね。嫉妬めいた感情も、もっと頑張ろうと奮起する勇気も持ちませんでした。
ただ遠くへ行きたい。と思っていただけです。海外で通訳をするのが夢ではなく、海外で通訳をするという名目で、全てのしがらみから逃げたいというのが本当の夢だったのかもしれません。
そして、あの閉鎖的な田舎町で、涼子さんだけが遠くに行ける存在だと思っていました。事実、高校卒業後に涼子さんは東京に行き、本を読まない人でも知っているような出版社に就職されました。
女が仕事に生きてどうするんだか、って古い言葉を使う人もいたけれど、私は彼女を通して、遠くに行く人を見てみたかった。
でもね、涼子さんも遠くには行けなかった。仕事を辞めて、隆二さんと一緒になり、彼女の可能性は大きく閉ざされました。
彼女が仕事を辞めたのは合意の上だったのではないか?
二人は愛し合っていたのではないか?
私にはわかりません。もはやあの家に、隆二さんの痕跡はなかったから。愛というあやふやなものはこじつけて見れば、家のそこらじゅうに溢れて見えるのかもしれませんね。例えば、部屋のあちこちに飾ってある結婚式の写真、食器棚の二人分より明らかに多い食器達、液晶テレビの前には大きな革のソファーなんかは、はたから見れば二人の暮らしの証拠に見えるんでしょうから。
ただ、あの家には「二人のもの」はあっても、「隆二さんのもの」はありませんでした。
隆二さんの部屋はあちこち汚れていて、ごみもたくさんあったという話じゃないのか?
確かに、その話は正しいです。隆二さんの部屋は汚れていましたし、夥しい数のごみや日用品が連なっていました。「主に汚いのは、隆二が使っていたところね」という言葉の通り。
でも、同時に彼女は言っていた筈です。色々と面倒になって使わない部屋にごみを投げ入れるようになったって。
始めのうち、私は隆二さんのスペースに入りませんでした。旦那さんのスペースに第三者が入るのには抵抗があったからです。しかし、片付けのメンバーが日に日に減っていく現状のなかで、私だけが入らないというわけにはいかなくなり、仕方なく足を踏み入れると、その部屋は明らかに、隆二さんの物が少な過ぎたんです。あったのは、涼子さんが投げ入れたごみばかりで。
書斎も兼ねていると聞いていましたが、ビジネス本や学術書の類はなく、小さな本棚に雑誌とコミックが数冊だけ。しかも、本の全てが隆二さんの勤め先が発行するものでも、涼子さんの出版社のものでもありませんでした。涼子さんとの思い出の雑誌を飾っているだなんてとんでもない。洋服ダンスにかかっている服も五着あるかないかという具合で、背広の肩の部分には埃が溜まり、クリーニング屋から戻したばかりのビニールがかかっているものがほとんどでした。本当にここで暮らしていたのかどうか、疑わしくなるような部屋でした。
隆二さんのごみはもう誰かが捨ててしまったのではないか、隆二さんの物は全て誰かに持っていかれてしまったのではないか?
いいえ、それは辻褄が合いません。
片付け初日からずっと家に入り浸っている私が、隆二さんの部屋から出て行くごみに気付かないわけもなく、ましてや、物を持ち出そうとすれば必ず誰かが必ず気付く筈です。特に、私は誰かが家の物を勝手に持ち出さないように最大限の注意をしていました。物の移動に気付かない筈がないからです。
涼子さんが私達のいない間に片付けてしまったという仮説も間違いです。初日に隆二さんの部屋に入った人達から聞いた話ですが、「涼子さんは本当に、ドアを開いてごみだけを投げ入れていたんだろう」というくらい、あの部屋には誰かがなかに入った形跡がなかったみたいですから。
ここに生まれたのは、「愛し合っていたゆえに、夫が亡くなってからは一度も部屋にも入れなくなったのね」という類の美談ではありません。「あの部屋は隆二さんが亡くなったから誰も足を踏み入れなくなったのではなく、彼はその前からあまり家に帰っていなかったのではないか」という疑いでした。
それは、もし、隆二さんが交通事故で亡くなっていなくて、いいえ、交通事故の犯人が判明していなくて、証拠が不十分だったとしたら、あらぬ憶測を招くのに十分な事実でした。幸運だったのは、彼の事故の原因と犯人が明白だということです。
事故当日、仕事が終わり、一本の電話がかかってきた隆二さんの姿を同僚の方が見ていました。
余程急ぎの用件だったのか、普段は人を待たせても平気な顔をしている隆二さんが焦った表情でタイムカードを切っていたそうです。そうして、道の途中で軽自動車に轢かれた。信号が青であり、大通りでの出来事だったので数々の目撃証言が得られています。加えて、ドライバーは酒を飲んでいたようで、疑いようもない現場だったそうですね。犯人が酔っていなければ信号を見間違うミスもなく、隆二さんが急いでいなければ避けられたという不幸な事故として処理されました。
そうでなければ、家に寄り付きもしない隆二さんと、それをひた隠しにしていた涼子さんという事実から、どんな噂が流れていたことでしょうか。
今思えば、皆があの家に訪れなくなったのは、全員が物目当てで、目ぼしい物を手に入れたからもう用はないというわけではなかったのかもしれません。
あの涼子さんが家を汚して平気な顔をするようになり、旦那さんの思い出話をとめどなく続けているにもかかわらず、生前の彼が家に寄り付かなくなってしまったという事実をひた隠しにしている。そんな恐ろしさに勝てなかった人も多かったのではないでしょうか。
一人、また一人と訪れる人は減り、最後に残ったのは私だけ。それにはこういう経緯がありました。
また、リビングに隆二さんの骨壺が置いてあるのを気味悪がっている人もいました。管理するお金がないわけでもないし、隆二さんの親族からは散々頼まれたらしいのに、涼子さんは頑なに遺骨をあるべき場所に返さず、家に置き続けていたものですから。
西野さんも来ないほうがいいよ。この家、怖い。涼子さんもどこかおかしくなっているのかもしれない。誰かしらが家を去る時、毎回そう言われました。
それでも私は、あの家に通い続けました。
* *
〔手紙④〕
西野優紀様
しばらくぶりですね。返事が遅くなってしまったのは、家の片付けに熱中していたせいです。でも、片付ければ片付けるほど部屋が汚れていくような気がするのはどうしてなんでしょうね。
もう、返事は来ないんじゃないかなんて思わせていたらごめんなさい。晶ちゃんは元気ですか?
できれば、次の手紙にでも晶ちゃんの写真を同封して下さい。あなたとあなたの好きな人との間にできたお子さんの顔を見てみたいのです。
優紀ちゃんと手紙のやり取りをしていると、身辺を片付ける気が起きるのは条件反射みたいなものなのかしら。あなたは自分に何の取り柄もないってよく言っていたけれど、使わなくなった家財道具を処分するためにあちこちの業者さんに連絡を取ってくれたり、掃除道具を近所のスーパーで買ってきてくれたり、細々とした作業を進んで引き受けてくれましたね。
取り柄がないだなんて、言わないで欲しいです。
あなたにそう言われると惨めになるから。
よほど自分に自信がないのかしら。けれど、自信が有り余っている人間よりも、自信なさげで思慮深い人間のほうが、やっぱり何もかも良かったのかもしれないわね。
そういう性格だからということもあるのでしょうか。
優紀ちゃんは私を随分気にしています。ちょっと、神経質なくらい。でも、そんなにおどおどしていたら、私の本当の気持ちはわからないままなんじゃないかしら。
私がどんなに自分は元気だと文字に書いても、それを示す証拠はないし、あなたが私を可哀想な人間だと思っている以上、私の真意はあなたに届かないのだと思います。事実がどうであれ、自分の認識を変えるのは難しいでしょう。私がどんなに身綺麗にしていても、例え、隆二を忘れて別の人と再婚したとしても、きっと一生、私は可哀想なままなんだわ。
こんなことばかり書いてしまってごめんなさい。今日はちょっと気持ちが不安定みたい。
それを口実に、今日は少し、あなたの心に立ち入ることを書きます。
あなたはずっと、私を心配していたようだけれど、心配していたのは、寧ろ私のほうです。
額に浮かんでいる大きな青あざ。
中二の時よりも随分と薄くなったけれど、今もまだあなたの顔に残っている痕跡の話です。
優紀ちゃんがお兄さんにつけられたものですよね。ある日、額に大きなガーゼをあてて登校したあなたを、クラスの子がふざけて取ってしまったことを覚えていますか? 私はよく覚えています。
日に焼けていない優紀ちゃんの真っ白な額には、誰かに殴られた痕がありました。ガーゼを取ったのは普段からあまり素行が良いとは言えないような子でしたが、それを見た途端に驚き、しばらく口が聞けなくなってしまっていましたね。
忘れられる筈もありません。私が初めて見た暴行の痕でした。その日から腕や太もも、背中にまで引掻かれたような傷や青あざが絶えなかったあなたを、どうして忘れられるでしょう。
子供の頃と違い、同じ場所で着替える機会もなかったので、他の傷に関してはわかりませんが、少なくとも額の痕は今も消えていません。それほど深い傷を、あなたはまだ子供のうちに与えられて、平然とした顔で教室にいました。心配であるのと同じくらいに恐ろしかった。だからこそ、再会した日、誰もあなたと昔話をしなかったのだと思っています。
どうして、あなたがお兄さんから暴力を振るわれているとわかったのか。
当時、近所では有名な話でした。あなたが住んでいたアパートの住人は皆、お兄さんが暴れていたり、お母さんが止めに入ったりする音を聞いていたそうです。
担任の先生が熱心にあなたと面談していたのを覚えています。あなたが事実を訴えられないから、何度も先生があなたのアパートに足を運んでいたのも。
活動も空しく、お母さんの手によって被害が揉み消されてしまった後には、先生ももうどうしようもなくて、あなたに細々とした雑用を言いつけて、できるだけ家に帰る時間を遅らせるという苦肉の策を取り始めました。
一度、あなたのお母さんと先生の個人面談の内容を聞いてしまいました。だから、他の皆よりも私の記憶は濃いのかもしれません。もちろん、わざと聞いたわけではありません。
当時、生徒会の会長に立候補していた私は、選挙に使うたすきに自分の名前を入れるため、太いマッキーペンを取りに自分の教室に戻ろうとしていました。選挙の準備は大抵空き教室を借りていたので、備品を戻りに行くのはよくあります。だから、教室の扉が閉め切っている時点で「あれ、おかしいな」と思っていると、なかから誰かが怒っている声が聞こえて自然と体が小刻みに震えていました。
「うちの正が妹に暴力を振るうわけがないじゃないですかっ!」
ああ、優紀ちゃんのお母さんだ。何となく、扉のガラス張りの部分を見るのもダメな気がして視線を外の窓際に逸らせると、そこには一つの椅子が用意されていて、優紀ちゃんが座っていました。
「そんなことをしていたら私も止めていますし、大方、ご近所の噂話か何かをあてにしているんでしょう! そりゃあ、うちの正は学校に通えていません。でも、妹に暴力なんか振るいません。正は今精神が不安定なだけです!」
扉のなかから聞こえる叫び声に夢中で、気づくのに遅れてしまったのか、あなたから気配を感じなかったのか。今となってはよくわかりません。ただ、その時、優紀ちゃんは今まで、気配を殺して生きてきたのかもしれないと思っていました。
「優紀ちゃんは、志望校どこにするの?」
教室のなかをできるだけ意識しないように、私はあなたにそう聞きました。当時の私は負けん気が強い子供だったので、優紀ちゃんのお母さんに怯んでいると思われたくなかったのかもしれません。
A高と言ったあなたに、私は驚きました。予想よりも、いえ、優紀ちゃんの学力レベルからすると、どう考えても偏差値の低い高校の名前だったからです。
私が驚いた表情をしたからか、何でもないようにあなたは言いました。
「高校なんて、どこでもいいから。どうせ、高校を出たら働くしかないんだし。公立で絶対に受かるところならどこでもいいんだ」
勉強だって、別に何か目標があってやってるものでもないし。勉強していると、他のこと何にも考えなくて済むからやっているってだけ。
大きな ガーゼが貼ってある顔を俯かせず、あなたはそう言いました。言外に、あなたと私は違うと言われているような気がして、私のほうが僅かに俯きました。
「こんなの全然大丈夫なんだよ。お兄ちゃんは殴ったり蹴ったりするけど、その後はこっちをちらちら見てるもん。気にしてるんだよ。気にされないより、気にされてるほうが、愛情があるなぁって思わない? お母さんもね、正はいつか絶対に普通の子に戻れるからって。暴力だって、大したことないでしょうって。家族なんだから、耐えるのは当たり前なんだって。一緒に頑張れば、きっとお兄ちゃんも元に戻ってくれるって」
いつか、全部元に戻るから大丈夫だとあなたは言いました。しかし、今にして考えると、それは真実だったのでしょうか。
あなたのお母さんは、暴力を暴力と認めない悪い人です。子供に注意もできず、かと言って守れもしない弱い人です。そんな人の、酷く疲れて支離滅裂になっている叫びを聞くと、私は、全てはもうどうにもならないのではないかと思っていました。
遠くに行きたい、と最後に呟いた優紀ちゃんはもう、普通の女の子には戻れないのだろうという予感が胸に過って、泣きそうになるのを必死で抑えていた気持ちを覚えています。
遠くに行きたい。それじゃあ、私が連れて行ってあげる。本当は、そう答えていれば、何かが違っていたのかもしれない。
青臭い正義感から当時はそう思いました。でも今は、当時のように純粋にあなたを想えない。
あなたを庇ってあげられなかった。助けてあげられなかった。だから結果として私がこうなってしまったのだと、あなたよりも自分のために心底そう思っています。
あなたは私に助けて欲しかったわけじゃなかったかもしれないのに。
例えば、選挙の準備中、プラカードを作ってくれた時も、手伝おうかという子達は何人かいたけれど、あなたは誰にも頼まなかった。家があんなだし、できるだけ早くに帰りたくないから一人でやりたがっているんじゃないか。始めはそう思っていましたが、それは多分、違いますよね。
あなたは、誰かに干渉されるのが嫌だったんでしょう。それが例え手助けでも、誰かに関わられるのは死んでもごめんだと考えていたのではないですか?
既にご存知かとは思いますが、ずっと私があなたに言えなかったことをお話します。
六年前、まだあなたが会社で働いている時に、あなたのお兄さんの暴露話を自分の部署に売り込んだのは私です。今更だけど、あなたに連絡もしないで勝手なことをしてごめんなさい。
どうしてそんなことを? 理由を聞かれてしまうと困りますが、順を追ってお話したいと思います。
仕事休みのある日、テレビをつけたら見知った名前がバラエティ番組を賑わせていました。西野正幸――あなたのお兄さんです。優紀ちゃんに似た面差しと聞き覚えのある名前が目を滑っていき、ご丁寧にもテレビのなかの彼は自分の経歴を自慢げに語ってくれたので、テレビに映るその人が、優紀ちゃんのお兄さんだと確信しました。
最初のうちは、良かったなぁと安心して見ていました。テレビに出ているというのは驚きでしたが、会計士だと言うし、固そうな仕事ですから家族に迷惑をかけることもなさそうです。やっと、あの家庭は持ち直したのだと。そう思いました。
「今日は西野さんのご実家に伺ってまーす」
「昔は狭いアパートに住んでいたんですが、近頃僕が新しいマンションを見つけたので、母はそこに住んでるんです。だから、厳密に言えば実家じゃなくてすいませんね」
「いいえー、西野さん今日は妹さんもいらっしゃっているみたいで、楽しみだなー。お綺麗な妹さんなんでしょうね」
「いやぁ、テレビに出るのは恥ずかしいみたいで、今日はモザイクかけてもらっています。顔についてはご想像にお任せしますよ。内気なところが取り柄と言えば取り柄でしょうかね」
綺麗なマンションのなかで、薄く化粧をしたお母さんが見えました。そこに、奥のほうでお茶を入れていた女性がやって来ます。彼女の顔にはモザイクがかかっており、この人があれから何年も会っていない優紀ちゃんだと思うと、手に汗が滲みました。
薄くモザイクがかったあなたの顔からは、細やかな表情もあの日の痣も見えませんでした。
私から見れば不自然なほどの和やかさで語られるお兄さんの思い出話は滑稽とも言えましたが、もはや彼女の体にお兄さんの痕跡もなく、家族の間であの日々が思い出話になっているというのであれば、自然な流れなのだろう。そう考えていました。
でも、レポーターの方が、妹さんとの思い出話と聞いたことで、あなた達家族の歪みを改めて知りました。
「妹が中二の時だったかな、僕が家でふざけてたらね。いや、学校には通っていなかったんですが、呑気者だったからですかね、休み中もよく妹を笑わせたモンですよ。そんでね、いつもみたいに家でふざけてたら、思いっきり頭をぶつけてしまいそうになったんです。そうしたら、咄嗟にこいつが庇って、箪笥に思いっきり額を打っちゃったってわけ」
お兄さんの話を受けて、「私って、どじなんです」とあなたはテレビのなかで笑っていました。
「こいつは俺が大好きだから、頼んでもないのに庇ってこんなことになってしまって……。女の子の顔に痣をつけた罪は重いから、もし、こいつの結婚相手が見つからなかったら、母のマンションと同じように俺が見つけてきて紹介してあげたいと思っています」と軽口を叩きながらも、面倒見の良いお兄さんと美しい兄妹愛が語られて番組は終わりました。
息が止まる感覚ってわかりますか? テスト用紙が回収されている時、自分の解答に決定的な間違いを見つけたのに、もうどうにもならないような気持ちです。
強烈な吐き気がして、座り込みました。
誰もあの日々を覚えていないのでしょうか? 優紀ちゃんが受けた暴力を皆でそっくり隠しているの? お兄さんが元に戻ったら、されたことは全部忘れられるべきなの? 優紀ちゃんの顔の痕を話題にしないようにする配慮はいくらでもできる筈なのに、わざわざ嘘で塗り固めて自分の功績にしてしまうお兄さんの醜さと、それに付き合わされているあなたが心配で、もしかしたら、落ち着いているように見えてこのお兄さんはまだあなたに暴力を振るっているのではないかという考えも浮かんできました。そのくらい、あの映像は衝撃的だったのです。
次の日私は、上司に西野正幸の話をしました。今話題のコメンテーターであり、足を引っ張りたい人間はいくらでもいます。予定していた記事を押しのけてでも紙面に載せようという返事をすぐに貰いました。
言うまでもなく取材も順調でした。田舎のネットワークというものは恐ろしく、地元ではあなたのお兄さんの嘘の話題で持ち切りでしたし、昔の話と言えども叩けば埃は出るものです。家族に振るっていた暴力はすぐに明るみに出ました。
結果的に各紙が総叩きにしたゴシップになりましたが、私の勤めていたM社が情報の起点だったのは言うまでもありません。内部に私という情報提供者がいたからです。
あなた達の元にはマスコミが殺到し、お兄さんは各メディアにおける批判や世間の誹謗中傷のせいで精神に異常をきたして、今は精神病院にいると聞いています。
ほどなくして、元々体調を崩されていたこともあり、お母さんは亡くなりましたね。取り繕っていたものが全て曝け出された心労もたたったのだと思います。そして、あなたは、会社を辞めなければならなくなりました。
私はあなたに感謝されたいわけではありませんし、感謝されるのはお門違いだと考えています。あなたの家族をぐちゃぐちゃに引き裂いたきっかけを作ったのはまぎれもなく私なのだから。
ただ、私はずっと前から聞いてみたいことがありました。
あなたが、あの日から家に来なくなった理由、そもそも、あなたが私に会いに来た本当の理由はなんですか?
あなたは私を恨んでいますか? そうだとしたら、一体どこから? お兄さんのことをリークしたのが私だとわかった時から? それとも中学の頃からですか? そうでしょう。ずっと、私を嫌っていたんじゃないんですか。ずっと恨んでいたんでしょう。だからあんなことができたんでしょう。
遠くに行きたい。それじゃあ、私が連れて行ってあげる。本当は、そう答えていれば、何かが違っていたんですか?
そんなこと言えるわけないじゃない。言う必要もない。
だって、私とあなたはただのクラスメート、それ以上でもそれ以下でもなかったんだから。私はまだ子供であんな田舎町で這い上がることでさえ精一杯だったのに、あなたから過剰な期待を背負わされる理由なんてどこにもないじゃない。(ここから一枚半に渡って益体も無い落書き――横たわっている二つの人影、よくわからない建物のようなものなど――がいくつも描かれている)
取り乱してしまってすいません。この頃は手紙を書くか寝るかしかしていなくて、きっと薬の量が足りないのか、もしくは多過ぎるのね。
あなたを思い出すと、家を整理したくなってゴミを次々と捨てて、そうしていると、私は私を捨てたくなるんです。隆二の遺骨と一緒に。こんな人間、ゴミと同じだから。
最近はそんなことばかりを考えています。だから、あなたの言葉であなたの気持ちを教えて下さい。そうしてくれなかったら私、もうどうしたらいいか――
* *
これが、涼子さんからもらった最後の手紙です。お亡くなりになる直前に送られた手紙と言い換えることもできますが。
いまだに信じられません。文通をしていた相手が、その途中で首を吊って死んでしまっただなんて。確かに、少し様子のおかしい手紙ではありましたが、涼子さんがそんな……という気持ちもありました。手紙が届いた段階で会いに行かなかったことは今でも後悔しています。
私が報せを聞いたのは、涼子さんへの返事を書き終えた時でした。首を吊っていた彼女を見つけたのは、旦那さんのご両親だったそうですね。
ええ、私が通っている時にも、月に数回はいらっしゃっていました。涼子さんとの仲はあまり良くなかったらしいけれど、息子さんの遺骨を取り戻したかったんだと思います。
私がここに参考人として初めて呼ばれたのは、二週間前くらいでしたっけ。生前一番仲良くしていたから、なんて理由で呼ばれたのは面映ゆくもありましたが、罪悪感もありました。
刑事さんはおわかりになりますよね。涼子さんはずっと、私に恨まれていると思っていたみたいなのに、「一番仲良くしていた」だなんて、おこがましいにもほどがあるって。
はい、手紙に書かれていた兄の話は全部真実です。
額の痣は兄に殴られた傷痕です。今もずきずきと痛むから、外はまだ雨が降っているんでしょう。本来は、傷はもう痛まない筈だと医者には言われたけれど、確かに痛みは残っているんです。
トラウマ? 嫌ですね、その言葉。いつまでも過去に縛り付けられているみたいじゃないですか。
でもやっぱり、そうなのかもしれません。私の家族に関わる話を気軽に口に出すのは、体のほうが拒むんです。週刊誌の記者に「話すまでは帰らない」って言われたり、今のように参考人として意見を聞かれたり、必要に迫られた状況でなければとても口から言葉が出ないんです。だから、涼子さんと二人きりの時、気持ちを詳しく話すのは難しかったんです。
わかって頂けるでしょうか。私は誰も恨んでいません。ろくでもない兄と母から解放してくれた涼子さんを恨むわけがありません。むしろ、感謝でいっぱいです。涼子さんが私なんかのためにそんなことをしてくれていただなんて。私が嬉しくて仕方がないのは、家族がちっとも大切じゃないからか、家族よりも涼子さんのほうが大切だからか……いまいち自分ではよくわかりませんが。
私とは反対に、彼女は罪悪感からずっと苦しんでいたんでしょう。
精神を病んでしまった人は、ほんの一瞬、思考に空白ができただけで自殺してしまうという話を聞いたことがあります。
病院送りになってしまった兄もそのショックで力尽きてしまった母も、間が悪いったらないんです。もし、芸能スキャンダル程度で兄がおかしくならなければ、涼子さんもこれほど罪の意識に苛まれずに済んだのかもしれない。母も、兄が一時の成功を手放しただけで気力を落とさなくてもよかったのに。そして私も、もし、返事をすぐに投函できていたのなら、私が彼女を恨んでいないと知れる機会があったのなら――どれか一つでも違っていれば、彼女は悩まなくて済んだのかもしれないのに。
はい。手紙はこれで、全部です。ああ、彼女に送ろうと思っていた最後の返事も持ってきていますが、これも提出しなければならないのでしょうか。
必要ありませんか。安心しました。本当は、今までの手紙を涼子さん以外の方に読まれるのも嫌で嫌で仕方がなかったんです。恥ずかしいし、涼子さんと私の秘密を明らかにする権利はどこにもないでしょう。事件の処理が終わったら、他の手紙も持ち帰らせて下さい。
それにしても、手紙のやり取りで本心は図れないものです。最後の一通が届くまで、涼子さんがずっと私の家族を心配していたという事実すら知らなかったんですから。私の返事が届いていれば、彼女も自殺を考え直したかもしれないと思うと、とても悔しい気持ちになります。
私があの家を飛び出した理由について。もう、話してしまってもいいですか?
この話をしようって思うと、いつも頭が割れるように痛むものだから、最後まで話せないかもしれないけれど。刑事さんも気になっているだろうし、私ももう、本当に話したい相手には話せないので。
涼子さんも考えていたように、身辺が忙しくなったとか、子供のためだとかそんなのは全部、嘘だったんです。
涼子さんの自殺を助けたとか、促したとかそういう、話ではないんですよ。
つっ……。頭が痛くなってきた。ええ、大丈夫。私ももう無事に帰れるっていうのに、物好きですね。でも、これを話さないと全ては終わらないんです。
頭を殴られたのは一回なのに、いまだに、はぁ、ずきずき痛むのってどうしてなんでしょうね。いや、触らないで、下さい。今までも一人で我慢できたんだから、大丈夫です。慣れているから。
そう、あの日もあの家に一人だったっけ。あの日ってどの日? もちろん、私が涼子さんから何も言わず去って行ったあの日のことですよ。
涼子さんはちょうどビニール袋が足りないからって、買い物に出たばっかりだった。今日はリビングを完全に綺麗にしてしまおうと、バケツと布巾を持って大きな窓を全て拭いてしまう予定でした。リビングに入ったら、いつも置いてある隆二さんの骨壺が目に入って。
痛い。血が全部逆流していくみたい。でも、大丈夫。とにかく、私の話を聞いて。そう、骨壺をいつも見てしまうの。あんな、食卓の近くに置いてあると、誰だって見るでしょう。それとも見ていたのは私だけなのかしら。
とにかく、それが開いていたのよ。蓋が取れていたの。今となっては、涼子さんがわざと開けておいたのかもしれない。私がいつまでたっても臆病だから、痺れを切らしたのかもしれない。ごめんなさい、涼子さん。私どうして、生きている間に話してあげられなかったんだろう。
あのね、あんなものが開いているのって、気味が悪いから、早く閉めないとって思って。なかを見ると、骨が入ってて。涼子さんも早くこんなものご両親に返してしまえばいいのにって、いらいらしてて。
そう、その日も雨が降っていたから特別頭が痛かったの。
蓋を持ったら、閉めずに叩き割ってしまいたいくらい、情緒も不安定になって。
それで、気付くのが遅れてしまった。骨壺のなかにはね、白くてぱりぱりした骨がたくさん入っていると思ったのに、もちろんそういうものも入っていたけれど、見えなかったの。一番上にはくしゃくしゃになった紙が入っていたから。
何だろうこれって取り出しました。取り出して、すごく後悔した。
涼子さんは何もかも知った上で、私を家に招いたんだってわかったから。
ああ、そう、それを見た瞬間に、頭が膨れ上がるみたいに痛くなって。どうして死んだのは私じゃなかったんだろうって。いつの間にかその紙をポケットに入れて、すぐに蓋を閉めてしまったのよ。
刑事さん、骨壺のなかには、私と隆二さんがホテルに入っていく写真がねじ込まれていました。たまらない気持ちになって、私はあの家を出て行きました。
* *
〔届かなかった手紙、あるいはこれからも届くことのない手紙〕
貝原涼子様
暑さ寒さも彼岸までと申しますが、このところめっきり涼しくなって参りました。なんて、紋切り型の時候の挨拶をあなたはお笑いになるのでしょうね。
正直、涼子さんに返事を書くかどうか、とても迷いました。今までずっとお話していなかったことを文字にするのは勇気がいるものであり、これまでの互いをごまかし続けた上辺だけの会話をなくしてしまうのが惜しいような気がしたからです。
でも、私の原動力の全てが兄によってもたらされたものだと勘違いされたままでは困りますし、私があなたに対して復讐心を抱いていると思われているのは悲しいので、ようやく筆を執るに至りました。
どこからお話すれば良いのでしょう。骨壺のなかにあったあの写真はきっと、興信所か何かに依頼して撮影されたものだと思うので、大方の話についてあなたはご存知でしょうから迷いますが。
やっぱり、あなたの旦那さんに初めてお会いした日から全てをお話しします。
涼子さんが働いていた会社の五分の一のスペースしかなくて、業績は常に火の車のような印刷会社であなたの旦那さんに会った日は運命を感じました。
兄の伝手で紹介してもらった会社なんか、きっとろくでもないものに決まっているけれど、いつまでも立ち仕事を続けるのも厳しいと考えて仕方なく働くことになった職場です。そんな場所に、まさかあの涼子さんの旦那さんが働いているだなんて! 生まれて初めて兄に感謝したい気持ちになりました。
内々で済ませた筈の涼子さんの結婚写真はいつの間にか友人内へと出回り、私も目にしたことがあるので、すぐに旦那さんと「彼」の一致に気付き、その日からはずっと、仕事を覚えつつも彼を見つめる日々でした。
誤解のないように言っておきますが、その時はただ純粋に涼子さんの話を聞きたかったのです。世間話をする程度の仲にでもなれば、私は奥さんの同級生ですって言い出せると思っていました。
ところで、涼子さんは彼の会社での評判をご存知でしたか?
あなたと彼が出会った頃、総務部から営業部への異動を経験した彼は中々職場に馴染めませんでした。それも、職場の雰囲気が悪いという理由ではなく、彼自身の仕事ぶりの問題です。
派遣社員の私が言うのもおこがましいかもしれませんが、仕事ができないわけではありません。彼は、とにかく謝れない人でした。営業には、例え自分のミスでなくても、取引先に会社全体の代表として謝らなければならない時があります。そこで形だけでも謝っておけばいいのに、自分のミスじゃないと言い張ったり、あからさまに表情に出したりするので、他の社員がカバーに入るのに苦労していたのを覚えています。
会社の顔でもある営業として、人に謝れないというのは致命的な欠点でしたが、勤続年数もそれなりであり、元々ジョブローテーションが盛んでない会社であるにもかかわらず、入社後から配属されていた人事部から営業部に異動させられたのを随分と根に持っているようで、態度は最後まで直りませんでした。その癖、女子社員にお茶汲みやコピーを頼んできつく催促したり、自分のミスも他人に押し付ける態度から、あまり周りには好かれていなかったようです。
「奥さん、うちの元お得意さんでしょ。しかも、知ってる? あそこ大きい取引先でこっちも気を遣ってたのに、担当があの人になってさー」
「そうそう、それで向こうのほうの担当が奥さんだった時は良かったんだけど、奥さんが会社辞めて別の人になってから、あの人がいつもみたいにミスして、謝んなくて、向こうが怒っちゃって、ついに取引できなくなっちゃったのよ」
「ほんと悲惨。人が足りなくて辞めさせられないのはわかるけどさー。どの面下げてここにいるんだーって感じ。奥さんもよくわかんない人よね。あの人が営業で仕事してて、それをきっかけに付き合うようになったんでしょ」
「仕事できる女はさ、何にもできない男のほうがかわいいもんなんじゃない?」
給湯室に行けば、誰かしらがこんな話をしていたほどです。狭い職場だから、共通の敵を作るのが娯楽になっていたのかもしれません。ここで私は、自分の目に届かないような話をたくさん聞きました。お二人のお城のような家の頭金はほとんど全て涼子さんの稼ぎで賄われているということ、付き合っている時はよく涼子さんの話をしていた彼が、結婚してからは少しもしなくなってしまったということ。頭金の話はどうでもいいけれど、涼子さんの話を聞けないというのはがっかりしてしまいました。
どうしたら、教えてもらえるんだろう。彼と挨拶を交わして、業務を教えてもらう日々が続きます。当時の彼は営業でありながら外回りの仕事を任されなくなってきたようで、自分よりも後進の社員を教育するような立場に収まっていました。勤続年数から考えると、窓際には置いておけないし、かといって、外回りをさせるのも怖いという上の意向だったようです。
そのうち、彼に呑みに誘われるようになりました。メンバーは、若手社員と派遣社員が中心で、彼だけがお山の大将というような形だったけれど、おごってもらえるのはありがたかったのです。
そこで、お酒をついだり、料理を取り分けたり、酔っ払ってしまった人達にお水をついで回ったり、そういうところが気に入られたのかしら。今日は二人で呑みに行こうと誘われました。「君は気が利く女の子だから、一緒に喋っていると楽しい」と言ってくれたのは嬉しかった。
彼、隆二さんは不思議な人でした。普段の態度は悪いけれど、時折人を褒めるタイミングが絶妙とでも言っておきましょうか。それとも、普段の態度が悪いから、良いことをした時が印象深くなってしまうのでしょうか。「本当は良い人なのよ」「悪い人じゃないんだけど」という言葉がぴったりな人でした。私しかあなたをわかってあげられない、と女性に思わせてしまう力があるのかもしれません。
二人で食事をしていると、隆二さんはいつも同じ話をしていました。周囲の人間は自分を全くわかってくれていない。俺が素直に謝れないのは、幼い頃からの両親の教育のせいだ。何か失敗すると怒鳴り散らして糾弾してくるものだから、言い訳をする癖がついてしまった。仕事だって、前はうまくいっていたのに、営業に来てからは役立たず扱いされる。そこまで話してしまうと、決まってこうまとめるのです。
「君くらい、俺をわかってくれる人はいないよ」
褒められるのがむずがゆくて、「奥さんだって、わかってくれるでしょう」と言いながらお酒を注ぐと、「今日は飲み過ぎたな」と話をうやむやにされてしまうのが常で、私は物足りない気持ちになっていました。彼の愚痴よりも、涼子さんが今どんな暮らしをしているか聞きたいのに。もちろんそういう気持ちもありましたが、少しずつ、「悪い人じゃないのかもしれない」という、庇護欲や母性にも似た気持ちが湧いてくるのも感じていました。
馬鹿みたいですよね。産んでもない男にそんな幻想を抱くのは。そして、そういう女の勘違いだとか「あの人も、悪い人じゃないのよ」なんて言葉を食べながら、むくむくと、子供を卒業できない男は育ってしまうのです。
何度目の食事だったでしょうか。私が入社してから二年は経っていたくらいの出来事です。その日は私も彼も酷く酔っていて、帰り道を千鳥足で歩いていました。歩いているうちに、いつしか周りはホテル街になっていましたが、特に危機感はなかったように思います。寧ろ、そうなってもいいかな。とわくわくしている自分もいました。涼子さんの好きな人ならいいかな、なんて。最低ですよね。
不意に、彼が私の左耳を触りました。
「ピアスの穴ないんだ。今時珍しいね」
今までずっと、開けた経験もないんです。そういう余裕なくて。と頬を赤らめながら発した言葉を、果たして彼は聞いていたかどうか。いくら耳といっても、体を触られたという事実が何だか恥ずかしくて、酔いもあったのか下腹部を引き絞られるような切なさもあって、私は俯きました。そうか、という彼の呟きを深く考えるまでもなく、腰を抱かれ、近くにあったホテルに入っていくのに戸惑いはありませんでした。
「最初から、こういう女と一緒になれば良かったんだ」
その後のことは、書く気もありません。ただ、全てが終わった後に彼は言ったのです。
「うちの涼子とお前は、全然タイプが違うんだよな」
泣きそうになりました。涼子という名前を彼の口から初めて聞いた時に、ここにいるのは普通の男女ではないという事実に気付かされてしまったからです。
彼には奥さんがいて、その奥さんは自分の同級生の涼子さん。あんな人に敵うわけがない。そう思うよりも先に、私があんなに美しい人を悲しませる行為をしてしまったという背徳感に耐えられず、何も答えられませんでした。涼子さんの今を知りたかっただけなのに、涼子さんが愛している相手とこんな関係になってしまうだなんてと後悔しました。
でも、本当に取り返しがつかないのは、そんなことではなかったんです。
「まぁ、本当に賢いのは涼子みたいなのじゃなくて、お前みたいなのだよ」
あの男はそう吐き捨てると、煙草を吸い始めました。煙が立ち昇っていく様をぼんやりと見つめながら、私は自分の心臓が早鐘のように鳴り出すのを感じました。
涼子さん、貝原隆二という男はあなたを少しも愛していなかった。それをあなたは、ご存知だったのでしょうか。
「涼子はバカ女だよ。良い大学を出て、デカい会社に就職して、家庭に入ったってのに俺よりも稼いで良い気になってやがる。家に帰れば、やれ、フランス料理を作ってみただの、買い物の帰りにあなたの好きなお酒見つけただの、毎日掃除をすると家が気持ち良いだの。バカみてぇに報告してくるから、近頃は家に帰る気もなくなった。私は家事と仕事も両立できてるのよ。あなたはどうなの? って顔して待ってる涼子がどれだけストレスになるか、お前もわかるだろ? あいつのせいで、会社じゃ笑い者だ。奥さんが仕事を辞めるんだったら、旦那が辞めりゃあ良かったのに。奥さんの建てた豪邸に安月給持って帰ってるってよ」
いつになく饒舌な男の姿を見ていると、どこか兄を思い出しました。自分だけで腐っていればいいのに、家族という言葉を盾にして害虫のように私達を貪ったあいつです。
この男は少しもあなたに相応しくないと思いました。
結局のところ、奥さんよりも数段劣る企業で働いているのが恥ずかしくて仕方が無いのです。涼子さんが自分よりも下の存在でない事実が恨めしいのです。だって、私と涼子さんを比べて、私のほうがいいだなんて言うのはおかしいじゃありませんか。あんなに綺麗で明るくて、家事と仕事、あなたのために努力している涼子さんにそんなことを言うのはおかしいじゃありませんか。
私の最終学歴は高卒です。いつまでたっても学校に通う兆しが見えない兄のせいで、高校卒業後にはすぐに働きに出なければ家庭を支えていけなかったからです。ピアスを開けていないのは、自分を謙虚な女に見せたいからではなく、ファッションという上澄み文化に傾倒できるほど余裕がなかったからです。自分に自信が持てないのは、誰かの尻拭いばかりを押し付けられて、一度も自分の人生を生きた心地がしなかったからです。
「大体、俺は家なんか欲しくなかったんだ。あんな馬鹿みたいにデカい家、子供ができたら、家で仕事をする時にあなたがうるさいかもしれないから部屋数は必要よね――俺が一度だって家に仕事を持ち込んだことがないのを知ってて、わざと言いやがる。要領がいいだけの女さ。女の役割を果たさないで仕事ばっかりに精を出している小賢しい女だよ。だから、お前のほうがずっと良い。ずっと好きだよ」
彼に褒められれば褒められるだけ、憧れの涼子さんが貶されれば貶されるだけ、自分が惨めになりました。要領の悪さは俺がいないと何もできない女性を思わせたのでしょう。上手くない化粧は控えめな女性を思わせたのでしょう。涼子さんに比べて、私がどれだけかわいかったことか。笑いがこみ上げました。涼子さんがどれだけ料理の研究をしても、美味しいお酒を手土産にしても、掃除に勤しんでも、自分より出来のいい女なんてお呼びではないのです。
こんな男が涼子さんに相応しい筈がない。美しい道筋を辿っていても、過程で一粒のごみが混ざっただけで、あんなに光り輝いていた人生も、出来損ないの汚泥に成り下がってしまう。
可哀想な涼子さん。あなたは私と同じようになってはいけない。つまらない男なんかに自由を握られて、尊厳を奪われていい筈がない。あの男が涼子さんを罵倒している姿は、私を殴って楽しんでいた兄に重なりました。どうして、どうして、こんなことに。あの涼子さんと薄汚い私がどうして、同じ扱いを受けるのだろうか。耐えられない。あなたと私が同じだなんて、あなたはもっと遠くに行ける人の筈でしょう。
黙ったままの私を、疲れて眠ってしまったと勘違いしたのか、煙草を吸い終わると、あの男もすぐに眠ってしまいました。ホテルに入るまでの後ろめたいようなそれでいて浮き上がるような焦燥感はどこへ行ってしまったのでしょうか。足を滑らせるとほつれた糸が目立つシーツや、ちかちかと点滅している安っぽいランプばかりが気に障り、同時に強く安堵しました。こんなところに連れて来られたのがあなたでなくて本当に良かった。
それから、二人の関係は私が退社するまで続きました。元より、あの男はあなたを憎んでいる節さえあったけれど、本気であなたを手放す勇気は持ち合わせていません。彼に絶望しながらも、他愛の無い恋人ごっこを続けたのは、全ての証拠を押さえてあなたに差し出すつもりでいたからです。
私はあなたに糾弾される覚悟がありました。その頃はまだ、あなたが興信所に頼んで私達の関係を調べているとは知らなかったので、今思えばお節介をしてしまいましたね。
彼と最後に話したのは電話でした。別れたくないけれど、君にはお母さんの看病もあるんだし、俺の予定に合わせるのも大変だろ、と心にも思っていない言い訳ばかりをつらつらと並べて体よく別れようとしている魂胆は丸見えでした。私もまた、近いうちに涼子さんと連絡を取り、あなたの夫の本性と今までの付き合いの証拠を全て差し出して、別れを促そうと思っていたので、あっさりと別れられる都合の良い女を演じてみたものです。
しかし、今後もう一度関係を迫られたら面倒だという気持ちもあり、私は一つの保険を掛けました。
「私のお腹には、あなたの赤ちゃんがいるの」
関係を職場にばらされたくなかったら、もう会いに来ないで。電話を切る前に、二度と私に会いたくなくなるような一言を放ったのです。
まさか、あの電話を最後に死んでしまうだなんて。彼が倒れていた横断歩道は、私のアパートの目と鼻の先でした。
電話を受けて、彼は何を考えたのでしょう。涼子には黙っていてくれと口止めをしに来たのか、私のお腹のなかにいる――涼子さんとの間にできなかった自分の子供を見に来たのか。今となってはそれもわかりません。知ろうとする気もなければ、彼が死んだのは私のせいだと思う気持ちもないのです。
ただ、これで涼子さんも自由になるんだという爽快感だけが胸にありました。涼子さんはこれから幸せになって、きっと順風満帆な人生を送るだろうと疑いませんでした。
なのに、あなたはあの男を手放せなかった。
彼の浮気を知ってもなお、その理由が知りたいと思ったんですよね。興信所は証拠を集められるけれど、関係性の過程だとか、付き合った理由まではわかりません。あなたが本当に知りたかったのは、あの男の気持ちだというところまで、私の考えは及びませんでした。
涼子さんがあの家から出られなくなってしまったのは想定外でした。私は、人間として大切な何かが抜けているんでしょう。家に帰りもしないで浮気をしているあの男を、それでもあなたが愛していたなんて考えられなかった。今だって、体の関係を持って、子供まで作ったあの男より、学生時代から挨拶と上辺の会話くらいしかしてこなかったあなたの方が大切なんですから。頭がおかしいとしか言いようがないのかもしれません。
でも、今になってあなたがあの男に向けた気持ちが少しはわかるような気がします。愛している人には何もかもを捧げたいし、反対に、愛でも憎悪でも与えてくれるものは全部欲しい。
骨壺を覗いた日に私が逃げ出したのはあなたが恐ろしかったからじゃなくて、あなたがあの男を強く憎んでいる証拠が出てきてそれが妬ましくてたまらなかったから。
正直、あなたから贈られた焼き菓子に何も入っていなかったのはがっかりしました。てっきり、薬か何かが盛られているものだとばかり思っていたのに。
結局、あなたは私に何もくれなかった。夫との不貞行為について問い詰めても、私自身を恨みはしない。むしろ恨んでいたのは夫のほう。そして、もちろん、私の行動は全てあなたのためにはならない。私に対しての復讐として、これほど効果的なものもないんでしょう。
だから、あの男が交通事故で死んだりしなければ。今の私にはどうすることもできないことですが、悔やまずにはいられないんです。
最後に、手紙にはもう一枚小さな封筒を同封しておきました。娘の晶の写真です。見ればわかるでしょう。あなたの旦那さんによく似た女の子。私とあの男の間に子供ができていたのは事実です。
あなたにあんな男の子供ができなくて良かった。
これで全てをお話ししました。もう、お会いすることもないでしょう。あの男との関係をいつまでも許せないようなら、どうぞ訴えて下さい。お金の用意はあまりないけれど、償う覚悟はずっと前からできています。
私の望みはただ一つ。あなたには、あんな家から出て行って、もっと高いところに飛んでいって欲しい。今思っているのはただ、それだけです。どうぞ、お体に気を付けて――