5. 結局…
洗面台の鏡の向かい、元の位置にほぼずれなく戻っていた。
私はそこらか数歩下がり、便器のフタの上に腰をかけ、両手でへその上下を抑えてうずくまった。とにかく体が痛かった。こんなこと何度もできない。どうしよう。
この時の私の絶望感を理解して頂くため、少し説明を追加させて欲しい。
先に“かわいい街”、と書いたが、それは関東圏に住む私の感覚での“かわいい”であって、関東圏以外の方にとっては別に普通の街かもしれない。関東は、日本橋から見て南は逗子の辺りまで約50km、東は千葉市辺りまで約20km、西は八王子辺りまで約40km、北は前橋まで約100km、このくらの範囲まで、だらだらだらだらとひたすら住宅街の続く一つの街である。……ええと、いろいろと異論はありそうなのであらかじめ謝っておきます。なんだかごめんなさい。
さて、これが私にとっての“普通の街”なので、例えばドイツに行くと、フランクフルトのような大都会であってさえ、ちょっと高い教会の塔の上に立つと街のはてが見えることに驚いてしまう。ドイツでは、ベルリンでもブランシュバイクでも、高い塔がら見える範囲に街のはてがあり、そこから先はずっと森が続いている。ヒジョーにかわいい。
先ほど私が上空からみた異世界の街もそのような感じであった。ただし街が何故か城壁で囲われているところがドイツの街との違いである。
異世界の街の規模は、見た感じ、さっくり直径3kmといった所である。身近な所では、おおよそ秩父市中心街と同程度だ。竜の背の高さは30m程度であったので、スケール感としては秩父の街中で、秩父公園橋が生きて暴れていると思って頂ければちょうどよい。
この説明に「わかるかいっ」と突っ込まれた方は「あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない」をレンタル等で観て頂きたい。作品中、主人公達が住んでいる街が秩父市、主人公達が何度も渡るあのきれいな橋が秩父公園橋である。
異世界の街で一人の人間を探す大変さがおよそ判って頂けるだろうか。
どうしよう、どうすればあの街で堀くんを見つけられるのか……。
何も思いつかなかったが、おなかの痛みが引いてきたので、とりあえずもう一度飛んでみた。
なんとなく飛ぶ位置の調整の仕方が判ってきたので、街周辺部の三階建ての建物の屋根辺りを狙って飛んだ。
屋根は木製の板でできており、ちょっと上から落ちたが若干のクッション性があり、足にそれほど痛みは来なかった。それよりもおなかが痛い。
遠くでは、まだ竜が暴れていた。ただ、若干勢いは衰えたかな。
屋根の上から下を覗くと…結構人がいた。人々はところどころで集団を作り、何かを話し込んでいるようであった。
並んだ建物は、だいたいどれも三階建てであったため、屋根伝いに移動することは容易だった。……タイトスカートでさえ無ければ。
脱いじゃおうか?どうせ知っている人は誰もいないし……しかし、異世界とはいえ、パンストで街中をウロウロしていたら変態である。……しかし、ことは人ひとりの命に係わるのだ。カッコなど気にしている場合では……。
少し躊躇したが、結局スカートを元世界の洗面台の横に置いてくることにした。
先ほどの屋根からは少し離れた屋根に降り立ち、屋根伝いに街を移動しながら堀くんの姿を探した。しかしながら、それっぽい姿は見つけられなかった。
結局、人探しの賢い方法など思いつかず、街のあちらこちらに飛び、ひたすら探しまくった。広場では屋根の上からでは人の姿がよく確認できなかったので下に降りて人の間を駆け抜けた。
人々の服装は中世風でそもそも私達とは全然違ったので、スカートがあろうが無かろうが結局あまり関係無さそうであった。小さい子は私を指指し、「Cool lady!」と言っていたので、それほど変には思われていないようであった……と、信じたい。
堀くんはどこかの建物に入ってしまったのだろうか。だとしたらこの探し方では絶対にみつからない。ふと思いつき、屋根の上でスマホを取り出してみた。残念ながら……というか、やはり圏外であった。
何度かめに元の世界に戻った時、お手洗いのドアが激しく叩かれていた。
「お客さん、大丈夫ですか? お客さん!」
おそらくさっきのマスターの声だ。その横で、聞き覚えのある女性の声が……。
「杏奈ちゃん! 杏奈ちゃん!」
楓ちゃんであった。
時計を見ると、店に入ってから1時間が過ぎていた。明らかに時間切れであった。
私はスカートを履きながら、2人への言い訳を考えようとした。しかし……結局私は堀くんを異世界へ置き去りにしてしまった。なんで見つけられないんだろう、なんであの時手を放しちゃったんだろう……その思いばかりが頭をめぐり、言い訳など何も思いつかなかった。後悔で涙が出てきた。
とにかく、お店に一つしかないお手洗いを1時間も独占してしまったのだ。素直に謝ろう。そう思いながら、お手洗いのドアを開けた。
ドアを開けると最悪なことに、二人だけではなく、さっき楓ちゃんと一緒にお茶をしていた女子3人も心配そうな顔で立っていた。
「お手洗いで長居してしまい、すみませんでした」
……と、言いたかった。しかし、人というのは一度泣き始めると後から後から悲しみが湧き出してきてしまうものである。ドアを開けた時私に言えたのは、こんな言葉だった。
「ふえっ、お、お、おえっ、す、すいっ」
店のマスターや学科のみんなにしてみれば、心配してお手洗いのドアを叩いたところ、突然ドアが開き、そこに何故か焼け焦げて汗だくで髪を振り乱し、しかも何だか泣くじゃくりながら訳の分からない言葉を吐く女の子が立っていたのだから、もうびっくりするしか無かったろう。なんだかみんな優しかった。
空いた席に案内され、暖かい紅茶を淹れてもらった。カバンもコートも誰かが持ってきてくれた。
「大丈夫?」
「よく解らないけど今日はもう帰りな」
「一人で帰れる?」
「家まで送ろうか?」
もう、迷子の幼子である。
私は机にうつ伏せになって泣きながら、
「すみません」
「大丈夫です」
を、ひたすら繰り返すしか無かった。
結局、なきはらしたひどい顔を誰かの化粧道具でそこそこ見られる程度に直してもらい、店の出口まで女子4人に見送ってもらった。
ここまで心配をかけて、まったく理由を説明しない訳にもいかない。とはいえ、本当のことを言っても信じてもらえる筈もない。私は楓ちゃんの袖を引いて3人から少し離れてもらい、小さな声でこう言った。
「大好きな男の子を振っちゃった。振ってから大好きだったって気が付いたの」
……今思えばこのセリフ、説明にもなんにもなっていないな。
「ふうん。ありがとう、話してくれて。とにかく今日はもうゆっくり休みな」
それでも楓ちゃんは私の穴だらけの嘘を信じることにしてくれたようだった。優しく私の頭をなでながら。
私が身長150cmのチビなのに対し、楓ちゃんは165cmと背が高いことともあって、同い年の筈なのにまるで姉と妹であった。