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4. どうしよう

 私達の周囲では、人々が逃げまどっていた。幼い子を抱いて走っていた男性が、私達に何かを叫んだ。急いで彼の言葉を脳内再生してみる…… “Don't give up! Run away!” あれ?英語?どう見ても日本人、いや少なくとも東洋人なのに。


「なんだよ、これ!」


 堀くんが叫んだ。当初の予定とはセリフがちょっと違ってしまった。


「逃げるぞ、橘。カバン貸せ」


 私はタイトスカートにヒール高めのパンプス、書類のどっさり入ったカバンといういで立ちである。せめてカバンは持ってやるから走れ、ということなのだろうが、堀くんだってスーツにローファー、それに自分自身の重そうなカバンを持っている。二人ともおよそ走るのに不適格なカッコであった。


「ちょっと待って」


 カバン貸せ、と差し出した彼の右手に私は自分の右手を重ね、彼の手を固く握りしめた。


「……ええと、なんだっけ、帰りの呪文」


 そう。竜が出てきた辺りで既に説明不要だとは思うが、どうやら私達は異世界転移に成功してしまったらしい。思い出してみると、オカルト研究会でみんなで呪文を唱えた時、何か急に恥ずかしくなり、私は詠唱を途中で止めてしまっていた。もしもあのとき……いや、今は帰りの呪文だ。


 あっさり前言を撤回するが、一度聴いたら正確に復唱できるのは、興味を持って聞いた言葉だけだ。移転に失敗した後、話の流れの中でさらっと


「ちなみに帰りの呪文は…なんだけどね」


なんて言われた言葉までは覚えていない。


「たしか…じゃなかったか?」


 堀くんが思い出した。


「えらい!堀くん!」


 私は嬉しくて、つい拍手してしまった。


「そうだ…だよ」


 ……なんとなく察した人も居るかもしれないが、私は元の街角、大学から駅へ向かう人通りの少ない路地の傍に一人で立っていた。バカか私は。何で手を離した?


 下腹部が痛かった。帰りの呪文を口にした時、へその下あたりの内臓が強烈によじられたようだった。


 私は急いで最初の呪文をもう一度唱えた。呪文を唱えると再び、先ほど感じた胃の下辺りの内臓が一気に捩じられる感覚が生じた。


 正直、かなり痛い。


 そこで今回は、少し痛みが少なくなるよう、腹筋に力を入れて捻じれを抑えてみた。


 突然、足元の地面が消え、私は落ち始めた。


 下を見下ろすと、遥か下方、おそらく1000~2000mほど下にかわいい小さな街が見えた。街は城壁で囲まれ、その外側は遥かに森が広がっていた。おそらく、さっき転移した街であった。その証拠に、街の中心付近では、竜が火を噴いていた。ただ、上から見ると火災が生じているのは街の中心部だけで、周辺部までは破壊されていないことも判った。


 なぜこんな上空に居るのか…体の捻じれを抑えたことで、転移の際の座標が違ってしまったと考えるのが妥当であろう。


 このまま落下し続ければ、地面に叩きつけられ、確実に死亡する。死なない為には元の世界に一度戻るしかない。しかし、この落下速度を維持したまま元の世界に帰れば、なんでもない街中のアスファルトに叩きつけられ、それはそれでひどいことになる可能性も考えられた。


 どのみち、帰りの呪文を唱える以外、私には打つ手がなかった。帰りの呪文を唱えると、前回戻った時と同じ、下腹部の強烈な痛みが再現した。


 落下速度は維持されなかった。私はさっきと同じように元の街角に茫然とつっ立っていた。ただし、先ほどとは一点異なる箇所があった。目撃者がいたのだ。


 たまたま通行していた初老の男性が、不思議そうにこちらを見ていた。多少は距離があるし、街灯も途切れた場所ではあるので、何とか見間違えだと思ってほしい……。私は、申し訳ないと思いつつ、男性を睨みつけた。「何、いやらしい目で見てんのよ」という表情を作って。ここで笑顔など見せようものなら、最悪の事態を招きかねない。


 男性はさっと私から目をそらし、素知らぬ顔で通り過ぎていった。何も無い空間に突然私が現れる瞬間を明確に目撃したか、ぼんやりと視界の片隅に見たのかは知らないが、とりあえず関わり合いにはならないでおこうと判断してくれたようだった。


 これ以上この場所から飛ぶのはまずかった。誰にも見られない場所が必要であった。学校に戻れば、誰も居ない教室の一つや二つあるかもしれない。しかし学校からはずいぶん歩いてきてしまっていた。駅まで歩き、隣接するデパートのトイレを借りるか?しかし駅までも少々距離がある。すぐに飛ばないと堀くんが移動してしまう恐れがあった。


 目の前には食べ物屋が何件か並んでいた。私は、後先も考えずにその中の一件に飛び込んだ。


「いらっしゃいませ」


 出迎えてくれたのは、若いマスターであった。落ち着いた感じの素敵な喫茶店であった。


「何名様ですか」


 そう聞くマスターに、小さな声で


「ごめんなさい、お手洗いお借りできますか」


 と言うと、


「そちらの突き当り右奥です」


 事務的な感じで案内してくれた。客でもないのに……いや、あとで堀くんとお茶しよう。少々コーヒーの値段が上がってしまったが仕方がない。元々どこかへ立ち寄る予定であったし。


 お手洗いへ向かって客席の間を通り抜ける途中、声をかけられた。


「杏奈ちゃん!」


 楓ちゃんであった。同じ席には昼間説明会で見かけた同じ学科の女子3名が座っていた。


「杏奈ちゃんも居たんだ。ね、合流しない? 今ね、自己紹介し合ってたんだよ」


 みんな優しそうな、すぐにでも友達になれそうな女の子達であった。急用が無ければ、私もそのお茶会に参加したかった。説明会の後、何カッコつけてさっさと席を立っちゃったんだろ……私、今日は一体何回後悔するんだろ。とにもかくにも、堀くんを連れ戻さねば。


「ありがとう。あとで絶対合流するね」


 そう言い残し、私はお手洗いに向かった。広くて掃除の行き届いた、清潔なお手洗いであった。


 お手洗いのカギを閉めた私は、洗面台の横にかばんとスプリングコート、ジャケットを置き、シャツの袖をめくると改めて呪文を唱えた。今度は体がよじれる痛みをがまんし、極力最初に二人で飛んだ場所に近い場所に飛ぶようにした。


 唐突に、ものすごい高熱が私を覆った。このまま死ぬかも、と思った瞬間、元のお手洗いに戻っていた。服や髪がこげ、変なにおいがした。


 今、明らかに異世界へ飛び、瞬時に戻ってきた。戻る際は呪文を唱えなかった。


 おそらく唱えていたら、その間に体に熱が伝わり焼け死んでいたであろう。死ぬかも、と思った瞬間、とっさにあの下腹部のよじれを自分で再現していた。


 もしかしたら、呪文が転移の本質ではなく、あの体をよじられる感覚こそが転移の本質なのではないか。


 ふと洗面台の鏡を見ると、疲れ切った老婆のような自分が映っていた。まだ疲れるには早すぎる。なにやってんの、私。私は両手で両ほほを叩き、自分に気合を入れた。


 向こうへ飛ぶ時と、こちらへ戻る時とでは、体がよじれる位置、方向が異なる。私は鏡に映る自分の姿を見ながら、呪文を唱えずに、行きに発生する体のよじれをちょっとだけ加減して再現してみた。痛みで意識が飛びそうであった。


 再び体が落下を始めた。足の下100mぐらいのところで、全高30mぐらいの竜が火を噴いていた。周りの建物から判断するに、今、炎が噴きつけられている辺りがちょうど最初に移転した場所だった。つまり、さっきは正にあの竜の吐く火炎の中に転移したのだ。よく生きてたな、と改めて怖くなった。


 ざっと見渡した所、元の場所周辺に堀くんの姿は見えなかった。また、特に遺体が転がっている様子も無かった。とりあえず逃げることには成功したらしい。


 良かった。


 ここまで確認したところで、帰還の体のよじれを再現した。

〇〇〇 埼玉マメ知識、その2 〇〇〇


 さいたま市中心部に見沼区という地域がありますが、昔、あのあたりには本当に見沼という大きな沼がありました。氷川神社、中山神社(旧、中氷川神社)、氷川女体神社の氷川3社はこの沼のほとりの神社でした。

 江戸時代に入ってから見沼は水が抜かれ水田地帯となっていったのですが、沼地形は残っていたことから終戦直後、この地域をダムを作って水没させ都民の水がめにしようというトンデモ計画が東京都によって立案されたことがありました。もちろん強力な反対運動によりこの計画は中止になりましたが、都庁にいる人々の埼玉県民を見る目っていったい…。

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