モルペウスの欺瞞
翌朝、やはりというか何というか、案の定雨がしたたる中目を覚ました。鷺沼さんの言う例の日は、今日で間違いなさそうだ。
何かが近づいている感覚が、心の奥底でかすかにしていたことは見て見ぬ振りはできないレベルに達していた。
昨日、色々起きすぎて神経が麻痺していた俺だったが、冷静に考えるとどうもとんでもない状況に置かれていることは、ワトソンくんより頭が回らなくても容易く分かるレベルに簡単である。
それからもう一つ。驚いたことに、今日は夢らしきものはこれっぽっちも見なかった。
こうやって冷静を装っているのも、ただの空元気なのだと思うと、今日のことも不安になるというものだ。
まあ、落ち着けば問題はないさ。そう言い聞かせて惰眠を終了し、目をこすりながらハムエッグをかき込むと、突撃兵がゲリラ戦を仕掛けるごとく飛び出した。
それから数十分後。クラスに入ると、そこには確かに藤崎の姿があった。ちょっとした安堵を抱えた俺だった。
もう一つ、気づきたくないことに気づいてしまった。どうやら、北川がマスクこそしているが自身に鞭を打って学校へとやってきたらしい。
インテルこそ入っていないものの、俺の頭は北川が来たことによって、守る対象が増えたことをスーパーコンピュータのごとく割り出した。鷺沼さん曰く、「俺の友達」が撥ねられたらしい。それでも一緒に帰れば問題ないか。そんな考えが俺の中にあったが、この考えは後、外堀を埋められた大阪城のようにあっという間に崩れるのだった。
「錦田」
誰かが俺を呼んでいる。俺の眠りを邪魔しようとはな。我が眠れる獅子の力を…
「ッ!?!?」何者かに腕をつねられた。よもやこんな早くおでましとはな。藤崎と北川は死なせん。
明らかに寝ぼけていた。目の前には、鬼教師で名を轟かせている英語の原が仁王立ちしていた。牛若丸の凄さを実感すると共に、考えていることが寝言にならなかったことにホッとすると、原が再び俺の名を呼んだ。
「ここの問3を答えろ。終わったから寝てたんだろ?」
流石生徒の精神を攻撃するプロである。言っていることがいちいち痛いとこをついてくる。
俺が慌てていると、隣の三島さんが、耳打ちで教えてくれた。流石は学級委員。このクラスの生徒のほぼ全員が、彼女に信頼を置いているだけのことはある。
原は不満そうに「もう寝るなよ」などと言うと教卓前に戻っていった。
何かがおかしい。そんな違和感が予兆めいたものなどなしでいきなり降りかかってきた。それは数秒後明らかになることになる。
いるはずの人物がそこにいない。だがさっきまでは確実にこのクラスという集合を構成する1つの要素だった。
北川の姿がそこになかった。北川の所持品と思わしきものも席から消えており、トイレではなさそうだ。やはりこういうときは三島さんに聞くのが利口な手段だろう。
俺は原が黒板を書いている隙を狙い、三島さんに訊くことに成功した。
「え?北川くん?それならさっき早退したけど」
早退。ってことは北川は一人で帰ってんのか。鷺沼さんは俺と一緒に帰ってるとき。と言ってたけど、俺が一緒に帰ってるときに起きたのか。この予知夢を聞いた俺がついていったときに起きたのか。これが後者だったら、北川は事故に遭う可能性は十分にある。とりあえずこの教室から抜け出して、北川を追わないと。
理由ならなんでも良い。とにかく急げ。そう、俺の直感は告げていた。
そして、あろう事かトイレという大して時間の稼げない理由を告げ、気づいたときには校門から飛び出していた。
三島さんの口調によれば、本当についさっき早退した雰囲気だったし、走れば追いつけるはずだ。確か北川は徒歩通学。一度しか行ったことはないが、こんな状況だ。悩んでいる暇はない。
やはり北川は、普段の2/3位のペースで道を歩いていた。少しの安堵からため息を漏らした俺だったが、すぐに北川の元に駆け寄ると、周囲を見回した。とりあえずは大丈夫そうだ。
「は?錦田なんでお前がここに」ガラガラ声の北川がエイリアンでも見つけたかのようにそう言った。
流石に本当のことを言うわけにはいかず、俺は半ば強引に北川についていった。
北川は来なくて良い。早く戻れ。などと終始まっとうなことを言っていたが、遂には観念したか、なにもいわなくなった。
結局家に着くまで特に何も起きず、俺はトイレ以外に理由はなかったものかとものの数十分前の自分を呪っていた。
俺が戻ってきたときには、とっくに昼休みも折りかえしに差し掛かっていた。
「なあ錦田。お前。何してたんだ?」藤崎が聞いてきた。まあ当然だろう。
というわけで用意していた嘘をペラペラと並べることにした。
「実はだな。俺は昼休みに抜け出してファミレスに行ってたんだ。」
「はあ?なんで昼休みになってから行かなかった?」
痛いとこをついてくる。
「いやぁ。俺が行ったのは近くの安いファミレスじゃなくて、少々歩いたところにある高級ファミレスなんでね。」咄嗟にしてはそこそこの言い訳な気がする。
藤崎は怪訝な顔をしていたが、とうとう何も聞かなくなった。これじゃあ俺が変な人みたいじゃないか。いや……実際そうか。
おまけに原から放課後の呼び出しを喰らった俺は、今日だけで失ったものを指を折りながら数えていた。
放課後の呼び出しを当然のようにばっくれた俺は、藤崎に声を掛けた。
「あれ?お前呼び出しは?」
「あぁ、昼休みに行ったんでそこで終わった」
藤崎は、特に不審に思っている様子もなく、俺は安堵した。全く、あっちこっち相手にしているせいで、第一次大戦のドイツが東西から攻められてどんな状態になったかよく分かるぜ。そろそろ俺の精神もヴェルサイユ条約を結んで、休ませていただきたい。ただし賠償金はなしでな。
学校から最寄りの駅まで俺はSPのごとく藤崎に張りつき、とうとう何も起こらなかった。と、なるとここからが心配要素である。俺はここから横浜方面の電車に乗るわけだが、藤崎は反対の大船方面の電車に乗車する。こいつの家に遊びに行く。という手もあるが、こいつの妹は風邪をひいているらしいから通る可能性は低い。流石に理由なしでついていくのははばかられるか。
悩んだ末、こいつには家からの最寄りまで親に車で迎えに来て貰うよう催促した。
「何言ってんだお前。今日のお前やっぱおかしいぜ。」
「頼む。これだけは聞いてくれ。じゃなきゃ俺がお前の家まで着いていくぞ。」
「気持ち悪ぃな。一体何だってんだ。説明がないと俺はやらないぞ」
藤崎は相当イヤな顔をしていた。というわけで、結局説明するわけになった。
「まあ、説明しても信じないかもしれないが……実はだな、俺はここ最近予知夢を見るんだ。そこでお前が交通事故に遭う夢を見た。これでいいか?」多少正確には違ったりする部分があるが、説明には問題ないだろう。
藤崎は胡散臭そうに見ていたが、将棋棋士のような顔をすると、何かを理解したように「わかった。親には体調が悪いことにしといてやる」と言った。
何を理解したのかは謎だが、この際それは問題ではない。いやぁ藤崎。お前は今、アインシュタインの頭脳やシャーロック・ホームズの洞察力も上だぜ。流石我が友人。
翌日、ニュースにて茅ヶ崎駅の北口ロータリー付近で暴走車がガードレールに突っ込んだという意のものが流れた。幸いにも被害者はいなかったようだ。
偶然にも、藤崎の最寄りは茅ヶ崎だったわけだが、これは本当に偶然なのだろうか。