第1話 逃走
痛みがまどろむ意識の髪の毛を掴んで引きずり出し、蹴飛ばした。
「...痛ぇ」
全身から伝わる痛みが、俺を完全に現実の世界へ繫ぎ止める。
骨身に染みる打撲の痛みが、ミシミシと音をあげて蝕んだ。
当然だ。
俺は投石機で狙われた司令と一緒に砦の壁の崩壊に巻き込まれて落ちた。
大小様々な石が崩れ、一気に下まで落ちた俺の体にその石が降り注いだ。
無傷で済むわけがない。
しかし、重症というには程遠かった。
どうやら俺は頑丈に出来てるらしい。
大きく息を吸って、むせる。
ゆっくり身体を起こして、瓦礫の中から首を出して辺りを見渡す。
石床を彩る血が鉄錆の匂いを撒き散らし。
斬られて腹から飛び出た臓腑が、排泄物と腐臭の混じった悪臭を生み出して、風がここまで運ぶ。
何処かで肉が焼ける匂いがするなと見れば、折り重なった遺体が木材と一緒に燃え盛る炎で焼かれていた。
そこかしこで放置されている遺体を見れば、どうやら俺を奴隷としてこき使ってた側は負けたらしい。
ふいに気配を感じて首を引っ込めると、すぐ側で兵が二人...装備を剥いだ遺体を引きずって歩き炎の中へと放り込んだ。
遺体はぱちぱちと音をたてて燃え上がった。
肉の中で血が熱せられ、蒸発し...弾け飛ぶ。
ぱちぱちと、芳しい肉の焼ける匂いが枯れ木を思わせる煙の匂いと共に当たりに散らばっている。
凄惨なまでの、現実。
...まだ夢を見てるんじゃないか?
俺は確か、借金を返し終えて...ボロアパートで寝てた筈なんだ。
気が狂ってるのか。
でも
確かな記憶としてここにある。
クルガンと過ごした十年が、俺としての記憶がある。
うだつの上がらない、流されるように生きて、俺じゃない借金を返して終わった、俺の人生の記憶。
小学からいじめられっ子で、見兼ねた親の勧めの柔道を高校までやって...大学では勧誘を断りきれなくなって入った日本拳法の部活に入った。
大会でもそこそこの成績を残して、部活の先生に説得というか脅される形で自衛隊の陸自に任期制で入った。
任期終了の際陸自と、これまた先生のツテで、大きな土木会社に入れたのは幸いだった。
そこからも必死で働いて、勉強した。
比較的ホワイトで、人間関係も上司もいい人ばっかで、給料も良かった。
先生にはほんと感謝している。
どっちも俺だ。
そして、気づく。
俺は、俺の人生に関わってきた人の名前を思い出すことが出来なくなっていた。
親、友人、先生、上司、部下、逃げた男...。
ありとあらゆる顔が思い出せず、そして名前すらもぽっかりと抜け落ちていた。
そして、自分の顔と、名前すらも。
今此処にある名前は、爺ちゃんに付けて貰ったタリオンという名前だけ。
...そうか、俺は死んだのか。
死んだから今世があるのか。
この剣と魔法の世界に。
大きなため息が漏れた。
ふと、自分が握っているものに気づく。
...とても大きな弓。
爺ちゃんが、俺のために知り合いに頼んで、作って貰った合成弓。
「爺ちゃん......」
俺は人知れず、気づかれないよう、静かに息を殺して、泣いた。
この世界での肉親とは呼べず、でも、たった一人の親を想い、嘆き、泣いた。
しばらくして。
地面に転がる汚物と遺体は粗方片付いたようで、酷い匂いはしなくなった。
既に日は落ち、何処かで歓声と笑い声が聞こえる。
篝火の側で歩哨に立つ兵にも酒と僅かながらの食料が行き届き、任務に支障を及ぼさぬ程度に談笑していた。
ライトの人工的な光と違う、篝火の原始的な火の光が辺りを照らし、逆に影はより一層深くなる。
俺は瓦礫から抜け出していた。
遺体置き場のすぐそこに乱雑にまとめられていた装備から、矢のたっぷり詰まった矢筒を貰う。
短剣に山刀代わりの分厚く短い幅広い剣...所謂ブロードソード、装備を吊るすベルトに外套代わりのマントと鞄といったものを手早く頂戴する。
金や保存食も欲しかったが、そういった類は一切無かった。
今頃彼らの懐と胃袋の中だろう。
兵の視線を潜り抜けるように身を屈めて闇から闇へと移り、速やかに駆け抜けた。
逃げよう。
俺は、この戦場で人を殺した。
戦奴隷で、戦場で生き残る為に殺すのは仕方ない。
従わなきゃ味方というか、飼い主に殺される。
だが、例え奴隷の首輪の強制力があったとしても。
殺される側の人とその人の家族や友人に、『こういう事情だから...ごめんなさい』で、謝って済むような問題じゃあない。
じゃあ許しを請い、罪を清算する為に自首するか?というと、それも違う。
この戦争がいかな理由でどんな国でどんな者で対立しているのか分からない。
戦で勝った側が、『じゃあ今から君らを解放するよ』って、都合のいい話になるとはとてもじゃないが思えない。
悪くて斬首、良くてまた別の戦場で戦奴隷になるだけだ。
...奴隷の首輪は未だに俺の首にかかったまま。
だが、聞いた話によると戦奴隷の首輪はあくまで主人の命令を聞き、戦場から逃げ出さぬようにする強制力があるのみ。
だが、主人が死ぬ可能性があるのが戦場だ。
その場合、新たな主人と隷属魔法の使い手によって制約が更新されるまで、戦奴隷の首輪は意味をなさなくなる。
そこに賭ける。
砦の崩れた壁からそっと抜け出し、瞳を凝らす。
物陰から物陰へ。
人工物の影から自然物の影へ。
喧騒から遠のく程に足幅は大きく。
呼吸は深く。
腕は早く。
俺は人知れず砦から抜け出た。
暗闇を照らす月と星の光からも逃れるよう。
誰一人居ない夜の平野をたった一人で駆け抜けた。
100pv到達ありがとナス!(´ω`)v