昨日の記憶――日が沈んでから
で、そこからが大変だったんだよね。
家に帰ってからがさ。
――その男の名前は、
……なんてったっけ?
まぁ、どーでもいいわ。
なんか、とくに好みの顔でもなかったしな。
2度と会わないだろうし。
行こうにも、あんな入り組んだ路地ばっかりの街、迷子にならずに目的地につけるとは思えない。
どんな経緯だったか――なぜか、ぼんやりしていてよく覚えていない――、薄暗い喫茶店のような場所でお茶を飲んで、それから最寄の駅まで送ってもらった……らしい。
よく覚えていない。
……覚えていないなんて、かなり奇妙な状態なのに、気にならない。
もっと重要なことが、目の前にある。
「どっれにしよーおーかなぁー」
花壇の中に敷き詰められた白い玉砂利のなかから、手ごろな大きさのものを選ぶ。
でかすぎるのはやばい。
あたしがやりたいのは、破壊活動じゃなくて示威活動……もとい、か弱い乙女の救助信号。
たのむぜ、姉ちゃん。
弧を描いた石が、二階の暗い窓にあたる。
あたった、はず。
あたしの耳にはその音が聞こえなかったが。
この程度の距離を外すはずもない。
……反応なし、か。
現在、午前1時。
明日(いや、もう今日か)は月曜日。
この時間なら就寝しているはず……母ちゃんの目を盗んで夜遊びとかしてなければ。
「……もすこしでかいのにしてみっか」
ふたたび玉砂利をかき回す。
道を歩いてる人がウチの庭を覗きこんだら、即座に不審者発見、通報必至だ。
母ちゃんが丹精込めて世話しているイングリッシュガーデンを荒らしてしまった。すまん。
……ところで、どこら辺が英国風なんだろう。
庭の端っこに松とかあるし。
第二投。
――がしゃん。
まて、がしゃんてなんだ。
一瞬、当初の目的を忘れて、逃げの姿勢をとってしまった。
ガキのピンポンダッシュか。
暗かった窓に明かりがついた。
石を当てた月世の部屋だ。幸い、両親の部屋は暗いまま。
窓が開いて、月世が顔をだした。
不安そうな顔で下の道を覗き込んでいる。
その視線が動いて……あたしと目が合った。
でかした、月世。
さすがあたしの姉ちゃん。
が、月世はなにを思ったのか、あたしから視線をはずし、さっきより真剣な目で道路を検分しだした。
いきなりどうしたんだ、この女。
「月世。どうしたの?」
靴と靴下をディパックにしまい、肩にかけなおす。
「雪ちゃん、ねぇ、変なひと見なかった?」
「変なひと?」
夜中だし、隠密作戦実行中だし……ということで、月世もあたしも小声で話している。
「さっき、なんか窓にあたったの」
「あーそれは、」
雨どい強度確認。げしげし。蹴っても問題なし。
作戦実行ッ。……って程のことでもない。
庭から雨どいと屋根伝いに二階にあがる。余裕余裕。
「あたし。ごめん。……よかった、窓ガラス割れてなかった」
「ぎえッ、ユキちゃん、なんでここにいんのッ」
耳元でいきなり叫ぶ月世。
あたしはとっさに耳を押さえた。
窓のサッシに片足かけた状態だったから、両手を耳にあててしまった場合……後ろにぐらりと上体が傾いだ。
「げ。」
「ゆ、ゆ、ゆ、雪ちゃんッ」
あわてた月世が無理やり部屋の中に引きずり込んでくれなければ、女子中学生
・理由なき自殺事件になっているとこだった。
お互い三十秒ほどだまって、荒い息を整えたのち。
「じゃ」
「じゃ、じゃねーだろ、雪ちゃんッ」
とびきりの笑顔ととびきりサワヤカな角度(?)で右手をあげて去ろうとしたのに、月世に襟首をつかまれてしまった。
「ちょ、伸びる!服が伸びるッ。まだ1回しか着てないヤツなのに」
「そんなことどうでもいい。
あんたどうしちゃったの?おかしいよ、今日の雪名」
「……そっすか?」
「その返答がすでにおかしいだろ」
はぁぁーと深くため息をつく月世。
なにその、わざとらしいの。
言外に罪悪感を煽ろうとする仕草。
が。
直接話法以外にわざわざ反応して差し上げるほど義理堅くはない。
そう、あたしはあえて空気を読まない女。
「……明日」
と、気弱そうな笑いのあたし。
「え?」
きょとんとした顔をした月世。
「明日、全部説明するから。
今日はもうおそいし……自分の部屋、いっていいかな?」
お望みの、“いつもの雪名”っぽくいってやる。
単純で脊椎反射多めの月世をだまくらかすなど、このあたしには造作のないこと。
「あ、うん。わかった」
――よし、おちたな。
釈然としてない月世の表情になど、まったく気づかないふりをして、部屋をでる。
「ふ、ちょろいもんよ」
片方だけ口角を上げる悪人笑いなどしつつ、自分の部屋に向かう。
暗い廊下。
明かりのスイッチは近くにあったけど、たかだか10歩ないような距離でつけることもないかと、そのまま歩く。
と。
「あ、あの?」
なんかいた。
あたしの部屋の前。ドアのまん前に。
暗い中でうずくまるその姿は。
「お、お母様……なんでそんなとこいんの?」
そのわけのわからないシチュエーションに内心かなり怯えながら、話しかける。
「……あ、雪名ちゃん」
ぼんやりした目であたしをみる。
どうやら今までうとうとしていたらしい。
「ど、どうも」
「……雪名ちゃん」
「うん?」
「ゆ、雪名ちゃんが不良になっちゃうなんてッ」
「ふ、不良?いまどき不良?
――じゃなくて、ちょっと帰る時間遅くなっただけで、不良とかいわれても」
「それだけじゃないわ!」
本気で泣き始めている。
夜中で寝起きなのに、なんでこんなに元気なんだ、この女。
「……何?」
おとなしく聞くことにした。
逆らったら、めんどくさいことになりそうな予感がする。
「せっかく1週間煮込んで完成したデミグラスソースを使って1日がかりでシチューつくったのに、だれも食べてくれないんだもの。
パパも月世ちゃんもお夕飯いらないって……パパなんてお夕飯いらないって電話してきたの、9時だったのよ、9時。
信じられないッ」
信じられないのは息継ぎ一切なしで言い切ったあなただよ、ママン。
「ご、ごめん、連絡なしで家族の拘束――じゃなくて憩いの時間に参加できなくて。
1週間と1日煮込んだデミなんとかシチューは明日の朝ちゃんと食べるから」
「……1週間煮込んで完成したデミグラスソースを使って作った1日煮込んだシチューよ」
「……」
心底どうでもいい訂正事項に無言で深く頷いて、母ちゃんをどけて、自分の部屋にはいる。
ディパックを床にほおり出し、そのままベットに倒れこんだ。
……疲れた。
夜中にこっそり帰って来ることは、ほとんど問題にされてなかったな。
(主に問題となったのは、デミなんとかシチューを食べなかったことだし。)
――こんなことなら、もっとガンガン遊んでればよかったのに。
なんだっていままでのあたしは、門限7時を厳守していたのか。
わからない。なんでだろう。
それより、なんだってあたしは、あの女……小暮なんかについていったのか。
あの、ナゾの哀れみの視線でヒトを見る女。
ヤツに金借りたワケでもないのに、なんであんな目でみられなければならないのか。
眠くなってきた。
……廊下の明かりを消したままで、ハハが扉前待機してたのはなぜなのか。
(演出?演出なのか、母ちゃん)
だとしたら、あたしはあの女を甘く見ていたということになる。
1週間と1日かけて料理するなんて、主婦は暇なのか。
それをいったらあたしは抹殺されるだろうか。
眠たすぎて、思考がとりとめなくなってきた。半分夢の中だ。
もう今日はこれで終わり。
すべては明日。
考えることもデミなんとかも、明日のあたしに任せよう。
そうきめると、あたしは意識を手放す。
本格的な心地よい眠りに入るとき、“あの男”がいった言葉を思い出したけど……それもすぐ眠りの波にのまれていった。
――それが、昨日の記憶――