昨日の記憶――日が沈むまで
――その男の名前は、 。
……。
…………。
「おはよ、ユキちゃん」
教室に入ってくるなり、小暮京子が私の座っている席に走りよって来た。
小暮さんはキレイな子だ。
手足も体もほっそりしていて、余計なモノがまったくついてないかんじ。
生徒に不評の長すぎるスカート丈や重たい色のブレザーも、彼女が着るとお嬢様っぽくて、すごく可愛い。
「昨日ごめんね。
大丈夫だった?」
まるで、たいしたことない事みたいに言うから、
私の声も平坦なものになる。
「うん。大丈夫。
平気」
ほんとにどうでもいいことみたいに。
私がどうなろうと、どうでもよかったってこと。
でも、彼女の目は笑ってなかった。
こんな顔もするんんだ、優等生。
そう。小暮さんは優等生。
口に出していったら、笑っちゃうようなコトバなのに、彼女にはよく似合っていた。
頭が良くて礼儀正しい。
明るくて優しくて、ハキハキしてるし。
一応、お嬢様学校といわれている(笑われている?)この学校でも珍しい存在。
「ほんと?心配してたの」
彼女が小首をかしげて――私の目を覗き込みながらいう。
「そんなこと、いいのに……」
気弱そうに首をふる私。
心配?私を?
それとも、私が昨夜見たことを誰かに言うんじゃないかって……心配してるのはそのこと?
「そっか。だったらいいの」
一瞬。
彼女が勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
笑い、というには酷く歪んだ口元。
小暮さんはわかっているのだ。
昨日のことを私が誰かに言ったところで……誰も信じたりしないってこと。
美しく、何でもできる彼女と、なんのとりえもなく地味な私。
誰も信じない。
それどころか、私が小暮さんに嫉妬でもして、悪質な嘘をついていると思われるだけだろう。
私だって、この目で見て、聞いていなければ、きっと信じられない。
『ふざけんなよ、あの金がなかったらどうなるか分かってんのかよ!』
知らない男達。
私たちと年は変わりそうにないけれど……かかわったことのない、乱暴な言葉。
あの時は気づけなかったけれど……同じ、中学生?
制服が見る影もなく着崩されていたけど……同じブレザーでも、色や雰囲気は違っていた。
木暮さんと二人、初めていった街で、彼らに肩を掴まれた。
何の抵抗もできないまま裏道に引きずりこまれ、5、6人に囲まれてしまうと――私はほとんどパニック状態になってしまった。
ちゃんと目は開いているはずなのに、耳は聞こえているはずなのに。
わからない。
なにを、いっているの?
酷い言葉を金切り声でさけんでいるのは……小暮さん?まさか。
男達が口々に怒鳴りちらしている。
『はやく金を』
『通帳どこにやったんだよ』
『おまえがあいつにやらせてることくらいわかって』
『この女突き出すしか』
『馬鹿、金なしで許してもらえるわけ』
どん、と背中をおされた。
我にかえって、ふりむくと、目が合った。
表情のなにもない、
(……ほんとうに、ガラス玉みたいな目)
こんな時なのに、私はひどく感心してしまって。
そう、驚きやショックというよりも、それは感心した、というほうがふさわしかった。
本当にあるんだ。
“ガラス玉みたいな目”、なんて。
――それからは無我夢中で逃げた。
私は木暮さんの目をぼんやり見ていてしまってたはずだけれど、――いつの間にか走っていた。
逃げなければと思って逃げたのか。
男たちが恐ろしくて、反射的に体がうごいたのか。
知らない街だったけれど、本能的に大きな通り、人のいる場所を目指して。
心臓が痛むくらい走ったころ、心のどこか冷静な部分が、いった。
(――あ、違う。
違うよ。
私、あんまり驚いたから走ったんだ)
逃げようと思ったからでも、反射的にでもない。
“おとり”にされたことに驚いて、逃げたんだ。
変なの。
ガラス玉みたいな目には感心したのに、おとりにされたことはショックだなんて。
小暮さんが、私を突き飛ばして……さすがに男達が驚いたその隙に、私をおいて逃げたのだ。
なんでだろう。
だんだん、足が遅くなった。
それは、疲れのせいだけじゃなくて。
パニック状態だった頭が、少し冷静になって……どんどん、胸の痛みが大きくなった。
さっきまで、ただの事実だったものが、ひどい悲劇に思えてくる。
頭で理解していたデータが、やっと胸の感情のある部分まで降りてきたようだった。
小暮さんが、私をおとりにして、……私をおいて逃げたのだと、ひどい痛みとともに心が理解した。
――理解してしまったら、走れなくなって。
のろのろと動いていた足も止まって、――座り込んで。
背後に近づいてくる足音を聞いていた。
足音は一人のもので、急ぐ様子もなくゆっくり近づいてくる。
――あの人たちじゃ、ないの?
ようやく、その可能性に気づいて、のろのろと振り返る。
黒い革靴の足元が見えた。
ゆっくり視線をあげると、
(そう。あの人
――あの男の人の名前は、 )
……あれ、なんていったかな。
……。
…………。
そうだ、それから、家に帰ったんだっけ。