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苦手な方はご注意ください。

紗愛と京のはなし

しあわせを待つ君へ

作者: 江藤樹里


 夜明け前、ほんのりと明るくなり始めた外を少し走ることから僕の一日は始まる。


 女手ひとつで僕を育ててくれた母が起きないように細心の注意を払いながら家を出て、軽く散歩をしながら浜辺まで向かう。空は珍しく晴れて、微かに星がきらめく様子を見ることができた。その下、僕は砂を蹴ってジョギングを始める。砂浜は足を取られて走りづらくて、良い体力作りになる。といっても、配達はバイクだから実際に走ることはあまりないのだけれど。


 波が寄せては返す規則的な音と、自分のザクザクと砂をかく足音、その律動に合わせた呼吸音。おじいちゃんおばあちゃんが多いこの村で、まだ誰も起きて来ない時間帯に走っていると、景色も音も自分だけのものに思えた。


 そうしているうちに水平線から太陽が顔を覗かせる。その時だけは足を止めて、日の出を眺めた。水面がキラキラと光って、その光が一筋投げかけられる。その瞬間が、僕はとても好きだ。


 少し進めば、倉林さんのお孫さんが岩場から日の出を眺めているところに出くわす。僕はいつもそこで少し速度を落として、彼女がいることを確認する。少し切り立った崖の上にある家にひとりで住む彼女は、少し歩いた先にあるそこで、色素の薄い長い髪を風に遊ばせながらいつも日の出を眺めていた。


 小さい村だから人の話はすぐに耳に入る。まして、人の噂くらいしか娯楽がないような小さな村では、他所(よそ)から来た人は恰好の的だ。僕はこの村出身だからそういうところは慣れてしまって日常茶飯事だけど、他所から来た人にとっては息が詰まるものだろうと思う。


 彼女も最初は好奇の目に晒されたけど、あれから二年経った今はもう周囲も表立って視線は向けなかった。けど、昔馴染みというにはまだまだだし、二年前に世間を騒がせた事件で彼女はこの村で更なる有名人になってしまった。既に沢山の目に晒され尽くしてしまったとも言えるかもしれない。それでも今も局に訪れては窓口の関さんを捕まえて、彼女について話すおじいちゃんおばあちゃんは沢山いる。


 彼女はまだ高校生だけど、通学はしない。どうやら通信制の学校らしい。親は都会にいるようだが、距離や時間の関係か会いに来る様子はない。祖母を頼ってこの村に来たようだけど、住人と顔を合わせることが少ない。変化があまりない村の住人には話題性がありすぎる少女だった。


 案の定、彼女が引っ越してきて早々に倉林のおばあちゃんは局で寄合を開くおじいちゃんおばあちゃんに捕まって質問攻めにあっていた。どうして引っ越してきたのか、高校生だというのに通学していないのは何故なのか。倉林のおばあちゃんは、住人のそんな不躾(ぶしつけ)な質問にも笑って答えてくれたことがある。


 ――あの子にはここでのんびりして欲しいと思ってるの。


 笑ってそれだけ答えた倉林のおばあちゃんに、なにか事情があるのだろうと誰もが改めて察した。


 でも村のおじいちゃんおばあちゃんは、彼女が高校通学に便利だから祖母を頼って来たわけでもないし、通うわけでもないし、なにしにこの村に来たんだろうねと不思議がっている。今時は通信制の高校生も珍しくないし、通わなくて良いからこそ好きな場所にいることもできると僕は思う。でもそれが村のおじいちゃんおばあちゃんには分からないのだそうだ。


 けど、その倉林のおばあちゃんは彼女が引っ越して数か月後に急逝してしまった。


 僕も子どもの頃は可愛がってもらっていたし、住人たちは村ぐるみで付き合いがある。誰もが参加した通夜と葬儀中、親族席でずっとうつむいて肩を震わせていた彼女のことを僕は今でも覚えている。見たことのない制服を着て、駆け付けた母親の隣で嗚咽(おえつ)を我慢しながら泣いている彼女を。


 彼女はあの家に留まった。おばあちゃんとの思い出が残るあの家から出たがらなかった。それから少しずつ、生活のために住人との関わりも増えていった。


 彼女は一年ほど前から専門学校の資料を請求することが多くなって、自然と僕が配達に倉林家を訪れることも増えた。夏の終わり、最後の台風が近づいて横殴りのひどい雨の中を頑張って配達した日、たまたま玄関先にいた彼女はそこで郵便を受け取った。撥水加工のジャンパーを着ていてもずぶ濡れの僕に彼女は驚いて、風邪をひかないでくださいねなんて声をかけてくれた。急ぎの配達がないなら温かいお茶でもどうですか、と更に気遣ってくれさえした。その一年前にあった事件で僕は彼女に先入観を持っていたけれど、気遣ってくれる彼女は普通の女子高生にしか見えなくて、夏の終わりとはいえ体が冷えていた僕は玄関先で少し暖まらせてもらった。話してみれば彼女は穏やかで、そしてどこか人の考えていることを察しやすい子だった。


 彼女はその時に受け取った資料を見て、将来について考えているのだと話してくれた。


 ――郵便屋さんはどうして郵便屋さんになったんですか?


 彼女にそう聞かれて僕は思わず頬を人差し指でポリポリと掻いた。面接の時も、今の局に赴任した時の挨拶でも笑われた理由を女子高生に話すのは少し緊張した。


「メールやショートメッセージですぐやり取りできる現代で、時間をかけて相手のことを考えて書いた誰かの想いがこもった手紙を届けるのは僕の夢なんです」


 また笑われるかも、と頬が熱くなったけど、彼女は笑わなかった。いや、正確には笑ったけれど、とても優しい笑顔を見せてくれた。


 ――毎日その夢を叶えてるなんて、素敵ですね。


 その陽だまりのような笑顔に、厚い雲の切れ間から覗いた青空にハッとしたような感覚に、僕の中で過去に笑われたことは吹っ飛んでしまった気がした。


 そう言ってくれるあなたの方が何倍も素敵です、と言いたかったけど変な目で見られても困る。僕はただお礼を言うことしかできなかった。


 それがきっかけで、彼女と話をするようになった。けれど郵便物がなければ僕が訪れることもないし顔を合わさない日も多い。局では一番若い二十四の僕が配達を任されていて、小さな村でも配達は毎日ある。業務は配達以外にも沢山あって、それらに追われてしまうこともある。けれど局長も先輩方もみんな優しくて作業を分担してくれるから、離職率が高い職業だけど僕もなんとかやれている。


 今日も浜辺から彼女の姿を確認したところで僕はジョギングのペースを戻した。彼女の表情までは見えないから向こうも僕の表情は分からないだろうけど、いつまでも佇んでいたらストーカーだと思われてしまうかもしれない。今日もいる、と確認している僕は広義だとストーカーになるのかもしれないけど、危害を加えるつもりはまるでない。


 崖の下にある大きな岩まで走ると、僕はくるりと方向転換して今来たばかりの道を戻る。振り向きはしない。彼女は多分、ずっと日の出を見ている。浜辺にランナーがいるなんて、もしかしたら気づいていないかもしれない。


 雨の日は走れないから雨が降っても彼女が日の出を眺めているのかは分からない。でもなんだか、彼女はどんな天気でも毎日あの場所で日の出を眺めているような気がした。




「郵便屋さん、こんにちは」


 彼女はよく手紙を出す。小さなこの村ではポストに投函するよりも郵便局に持ちこんだ方が早い。海辺の小さな村の住人はおじいちゃんおばあちゃんばかりだから、局に来る人たちは誰かと話す場所を求めてやって来ることがほとんどだけど、彼女は純粋に手紙を出しに来る。


 配達へ向かうためにヘルメットをしてバイクに(またが)った僕に、彼女は声をかけた。噂話に耳を傾けていると、彼女にも顔馴染が増えたようだ。とはいえ二年前のあの事件が衝撃的すぎたせいか、誰もが彼女にはなんとなく距離を保ってしまっている。それに高校に通学していない彼女は、年齢が近い住人も周りにはあまりいないだろう。そもそも村には中学校までしかないから、村の子どもは電車かバスを乗り継いで隣の少し大きな街まで高校に行く必要があるのだけど。一応まだ僕はアラサーではないから、少し親しみやすいんじゃないかと勝手に思う。


「こんにちは。そうか、今日はお手紙を出す日なんですね」


 彼女は毎週のように手紙を書いて出す。いつも僕が配達に出ている時だし、そうでなくても受付窓口にいるわけではないから彼女が手紙を出す相手のことは知らない。遠方の友達が沢山いるのかもしれないし、懸賞に送っている可能性だってある。


「はい。えっと、その……」


 言い淀む彼女が気にしていることに思い至って、僕は申し訳ない気持ちになった。


「すみません。今日は倉林さん宛のお手紙はないんですよ」


 僕がそう言うと彼女の方こそ申し訳なさそうに顔を伏せて慌てた口調でごめんなさい、と早口で言った。


「お仕事の邪魔しちゃいました。配達、気を付けてくださいね」


 彼女に見送られて僕はバイクを発進させた。背中に視線を感じた気がしたけど、運転中で振り返るわけにはいかなかった。


 彼女は在宅していれば郵便をポストの前で受け取る。家の前にバイクが停まった音を聞きつけて出て来る彼女の顔は、いつも期待と不安に満ちていて、僅かな焦燥感も見て取れてしまう。


 きっと返事を待っているのだろう。


 そう想像するのは難しくなかった。彼女が毎週のように出す手紙の量に対して僕が届ける手紙の量は少ない。企業からのダイレクトメールでも家から飛び出して来る彼女は、がっかりしたように目を伏せる。送られた手紙を届けることしかできない僕は毎回たまらなく申し訳なさを覚える。誰だか知らないけど、彼女がこんなに待っているのだから早く返事を寄越せば良いのに、と内心でひとりごちるのだ。


 彼女は目を伏せるだけで顔には出さないようにしているのかもしれない。けれど目に浮かぶ消沈の色は如実に彼女の想いを語っているような気がして、僕はいつも胸が苦しくなる。


 ――郵便屋さんは、幸せを運んでるのと同じですね。


 いつだったか、彼女がそう言ってくれたことがあった。彼女の望む手紙を持って行けない僕に、彼女は優しく笑ってそう言うのだ。


「僕が運ぶのは郵便物です。中には良い便りも、知らなければ良かったと思う便りもあるんだと思います。

 ……以前、息子さんからの便りを待っていたおばあちゃんに念願の手紙を届けられたことがありました。けれど、おばあちゃんは泣き崩れてしまった。おじいちゃんは怒り出してしまった。知りたくない内容だったんでしょう。待ち望んでいた手紙は、不幸の手紙になってしまったことがありました」


 それでも、僕の仕事だから、手紙を届けることが夢だったから僕は配達を続ける。


 それでも、時々は思うのだ。あの手紙が届かなければいつまでも待ち続けていられただろうにと。


 ――それでも、私が欲しいお手紙を持って来てくれるのは郵便屋さんだけです。欲しいお手紙が届けば、私は嬉しいです。


 彼女は穏やかに言った。その優しい眼差しは僕ではなく、返事を待つ人に向けられているような気がした。


 それでも、僕は祈らずにいられない。優しい彼女がどうか、幸せになりますように。


 彼女の表情を思い出して心の中で祈りながら、僕はバイクを走らせた。




 最近彼女は少し離れたところに建つレストランでアルバイトを始めたそうだ。局に来るおじいちゃんおばあちゃんが話していた。


 寂れた海辺の村だけど、近くの海水浴場には毎年結構な人数が訪れる。彼女はその海水浴客をターゲットにしているレストランで働き始めたようだ。まだ六月で海水浴には早いけど、繁忙期に雇われても大変だろうから少しずつ慣らしていくつもりなのかもしれない。


 アルバイトを始めても彼女が手紙を出す頻度は変わらなかった。毎週のように、封筒を抱きしめるように持って局へやって来る。


 その日はたまたま、配達が終わって戻って来た僕と彼女が鉢合わせた。これまですれ違うことはあっても見事に内勤の時には会わなかったのに。アルバイトを始めて時間が変わったのかもしれない。


 そしてその日はたまたま、窓口業務担当の関さんがお休みの日だった。人当たりが良くて、寄合を開くおじいちゃんおばあちゃんとのやり取りも上手で、この道ウン十年の大ベテランの先輩だ。四角いフレームの眼鏡を鼻の上にのせてにこにこ笑っている関さんは、今日は有給申請をしている。遠方でひとり暮らしをしている娘のめぐみさんが、お婿さん候補を連れて来るらしい。前日から奥さんのみどりさんとそわそわしているんだと苦笑しながら話していた。


 だから今日は残る三人で窓口業務を手が空いた人が交代で担当することになっていた。じめじめしている外よりも涼しいからといつもやって来るおじいちゃんおばあちゃんも、関さんがいないからか、それとも三人で回さないとならないバタバタさを見て察してくれたのか、局内には留まらずに顔を覗かせたと思ったら二言三言なにやら言い残して去っていく。おかげで仕事はだいぶ進んだ。お茶でも淹れて休憩しようと立ち上がった僕は、たまたま局に訪れた彼女を担当することになった。


「こんにちは、郵便屋さん」


 彼女は窓口に近づく僕に笑う。こんにちは、と返して僕は彼女が大切そうに持つ封筒に目を留めた。


「お手紙ですね」


 確認すれば彼女はこくりと頷いた。受け取った封筒はシンプルながら女の子が好きそうなタッチで四つ葉のクローバーが描かれたものだ。多分おそろいの柄の便箋が中に入っているのだろう。


 僕は郵便番号、住所、宛名を確認して重さを量る。電子測量計が出した数字を見て切手代金を伝えれば、彼女は鞄から財布を取り出して小銭を集め始めた。


 僕の心臓はばくばくと鳴っていた。予想していたとはいえ現実にそうだと突きつけられるとドキッとした。


「丁度お預かりします」


 トレーに置かれた小銭を数えて僕は会計を済ませる。発行されたレシートを彼女に手渡した時、彼女はふわりと笑った。


「ありがとうございます」


 他のお店で買い物をしても彼女はそう言う人なのだろう。自然で慣れているように見えた。財布を鞄にしまった彼女に、ありがとうございました、と見計らって決まり文句を口にした僕に彼女はまたふわりと笑う。


「お願いします」


 手紙を託されて僕は思わず、はいと返していた。彼女は嬉しそうに笑うと自動ドアを通って出て行く。その背を見送ってから、僕は封筒を配達区域外の箱に仕分けする。彼女の几帳面な文字がはっきりと宛名を教えてくれていた。


 お客さんが他にも来ないか確認した後、僕は給湯室へ向かう。冷蔵庫を開けて漂う冷気を浴びながら、僕は先ほど見た宛名が頭の中をぐるぐると回るのをなんとかしようと目を閉じた。


 あれは、恐らく二年前に起きた事件の関係者だ。秋分を過ぎた頃にこの辺鄙(へんぴ)な村で起きた重大な事件。その渦中に巻き込まれた彼女。警察が来て大騒ぎになった。僕も配達中に()かれた。


 ――少年を見ませんでしたか。中学生の男の子なんですけどね。


 冬橋(ふゆはし)(きょう)様、と書かれた宛名は、報道こそされなかったもののあの日警察が見つけて連れて行った少年の名前ではないのか。


 小学生男児を手にかけた凶悪少年犯罪の、加害者ではないのか。


 二年前、他市で刺殺された小学生男児が見つかった事件は世間を騒がせ、ニュースはこぞって続報を求めた。事件に関わっていると目されたのは少年で、その少年は何故か遠く離れたこの村で見つかった。そしてこの村で少年に関わったのは、彼女だった。誰も知らないところで死のうと思った、と少年は警察に話したとニュースでアナウンサーが喋っていた。


 未成年でしかも中学生が犯人だった事件は注目を集めるものでしかなく、この村にも一時期マスコミがやって来た。


 嫌な事件で村の名前が知られてしまった、と住人は言った。けれど彼女が少年を匿おうとしたわけでもなければ、むしろ被疑者死亡になるところを未然に防いでもいたわけで、彼女を責める理由もない。僕ら住人は、うるさいマスコミに早く出て行って欲しくて村ぐるみでだんまりを決め込んだ。


 そのおかげもあったのか、マスコミは芸能人の不倫といった新たな話題に食いついて徐々に減った。あんなに世間を騒がせた事件も、いつしかニュースどころか新聞やゴシップ誌の話題にものぼらなくなっていった。


 ただ、世間は忘れても村の中では忘れられるはずがない。彼女も悪い意味で有名になってしまったが、二年も経てば彼女の人柄を知って少しずつ交流をする住人も出て来る。でも全部を彼女に確認するような不躾な住人はいないらしく、事件のことについては噂話の域を出なかった。


 知り合いでもなんでもなかった二人が偶然出会い、彼女が少年に脅されて隠れられる場所を探そうとしていた。僕は局に集まるおじいちゃんおばあちゃんのそういった噂話を小耳に挟んだ。起こったことは事実なんだろう、と僕は思っている。


 脅されたかどうかは判断しようもない。でも偶然出会って顔見知りになったことは恐らく本当で、彼女はその少年に手紙を送り続けている。


 あんなに可愛らしい封筒で送るのだから、恨みつらみの文言ではないだろう。少年の両親宛でもないから、傷ついたことへの補償を求めるものでもないだろう。その住所は施設ではなく個人宅のようだったが、身内でもない彼女が少年に手紙を送ることができるものだろうか。そこまで考えて、はたと閃く。少年宛ての手紙を、家族へ送っているのかもしれない。それを面会した家族が少年に伝えている可能性もある。


 彼女から少年に贈る言葉は、どんなものだろう。


 冷蔵庫がピーピー鳴っていることに気付いて我に返った僕は、慌てて扉を閉めた。どれくらいピーピー鳴らしていたか分からないけど、よく気の付く斉藤さんが様子を見に来ないということはまだそんなに時間は経っていないのかもしれない。


 僕は冷蔵庫をもう一度開けて、自分の名前が書かれたペットボトルのお茶を取り出した。


 湯呑にそのお茶をこぽこぽと注ぎながら、きっと、と思考を無理矢理まとめた。


 彼女なら、あの陽だまりみたいな優しい言葉を贈っているのだろう。渡っていないのだから返事など来ないと理解しているのに内心では返事を待っている、そんな気がした。




 早朝に、ザクザクと砂を掻き分けて走る僕の足音が空へ吸い込まれていく。波が寄せては返す規則的な音を聞きながら、僕は今日も途中で日の出を拝み、そして彼女の姿を確かめる。彼女は今日も、崖の上で日の出を眺める――いつもと違ったのは、彼女が顔を両手で覆ったことだった。


 泣いているんじゃないか、と咄嗟(とっさ)に思った僕の心臓は大きくドクンとひとつ脈打った。気づけば足は、いつものルートを外れて倉林家へと向かっていた。


 けど、倉林家へ辿り着くことはなかった。彼女が泣いていたとしても、ただの郵便配達員が駆けつけるようなことではない。それにくしゃみをしただけだったらどうする。たまたまその瞬間を見ただけで泣いていると誤解して駆けつける男は、気持ち悪くないか。


 それに、たまたまジョギング中に見かけて泣いているような気がしたから、なんて事実だとしてもそんな理由を携えてやって来られては、一人暮らしの女子高生にとって恐ろしい事態ではないか。


 そう思えば足は止まった。早とちりして彼女を怖がらせたくはない。どこかで出会った時にでも元気がなさそうな様子なら訊いてみれば良い。


 自分に言い聞かせて僕は元のルートに戻った。いつも方向転換する大きな岩のところまで行った時、ちらりと崖の上を見たけど彼女はもうそこにはいなかった。


 帰宅後にシャワーを浴びても頭は彼女が泣いていなかったかを気にしていた。そのまま出勤した僕は、いつも一番に出勤する関さんに声をかけられてハッとした。


「今日はぼんやりしているようだね。なにか心配事でもあるのかな」


 ゆったりとした調子で穏やかな声に尋ねられ、僕はなんでもないですと言い損ねた。


「話せることなら話してみると、少し気が楽になったりするよ」


 そう言って関さんは毎日そうしているように僕の隣である自分の席によいしょと声を出して座る。違う話題を出してものってくれるだろうし、このまま話さずに他の二人が出勤するのを待っても許されるだろう。話すかどうかは本当に任されたと思って、でもだからこそ、話さないといけないような気がした。


「その、ちょっと気にかけている人がいるんですけど」


 僕は関さんから視線を逸らして自分のデスクマットに挟んである村の地図を見つめて話し出した。辺鄙な村に来たい人もいないのか出した希望があっさり通って赴任した僕に、関さんが役場でコピーしてもらってくれた地図だ。


 ――いくらこの村出身でも、配達に行くなら効率の良い道順を考える必要があるよ。


 その言葉に従って僕は何度も試行錯誤した。実際に配達用バイクで走ってみてかかる時間を計算したり、途中で村のおじいちゃんおばあちゃんに声をかけられる時間を考慮して調整したり、この地図には何度もお世話になった。


「その人と交流ある人が、その、ちょっと悪い人の可能性があって、それでつらい思いをしてるんじゃないかとか」


 言っていて恥ずかしさを覚えつつあったけど、関さんは湯呑でお茶を飲んでいてあまり気にしている様子はない。聞いているかも少し心配になる。


「本当に優しくて良い子なので、傷ついてほしくないと思っていて……」


 最後は声が消えるような小ささになった。ストーカーにならないように気を付けるんだよ、と関さんに言われたらどうしようと思った。


 ちら、と横目で関さんを窺うと、関さんはまだお茶を飲んでいた。ゆっくりと湯呑を茶卓に戻して、関さんはふうと一息つく。


「坂口君は、その人のことが大切なんだね」


「はい」


「はは、即答だ」


 関さんは笑うと眼鏡ケースから眼鏡拭きを取り出して、外した眼鏡のレンズを磨き始めた。眼鏡に落とす視線は、いつものようにとても穏やかだ。


「その大切な人に悪い虫がつくんじゃないか、と心配なわけだ」


 別に恋人じゃありません、と急いで付け加えた僕の言葉は関さんの笑い声に呑まれてしまった。


「なにも恋人とは言っていないさ。自分の兄弟、親戚に対する気持ちでも同じだ。わたしも娘が連れて来る男がどんな人なのか、とても気になったからね」


 関さんはめぐみさんを思い出したのか、優しい眼差しで笑った。めぐみさんが連れて来たお婿さん候補とはどうだったのだろうと思うけど、関さんの様子からひどい人ではないのだろうと思った。


「この村は小さい代わりに住人同士の距離が近い。この村出身だと気付かないかもしれないがね、家族に接するような近さだ。わたしも君のことは親戚の子のように見守っていた。その空気の中で育った君もきっと、同じ目をしていると思う」


 大切な家族なら不幸になってほしいと思わないだろう、と続ける関さんの言葉は、僕にとって目からうろこだった。


「村の者ならどんな人物なのかある程度は知っているから判断できる。でも村の外にいる相手だと、自分は知らないから判断ができない。君はそれで心配なのだろう?」


 そうか、と自分の中ですとんと落ちるのが分かった。これは嫉妬だ。ただ、どの文脈で使う嫉妬かまでは分からない。そして関さんも、そこまでは教えてくれないだろう。


「はい。関さん、ありがとうございます」


 関さんに体ごと向けて頭を下げる僕に、関さんが穏やかに笑う声が降った。丁度そこへ残る二人が出勤のために職員用の扉を開けた音が響いた。僕はデスクに向かって今日の仕事の段取りを考え始める。


 配達前、届けるルート順に郵便物を並べ替える作業中に、ふと僕の手が止まった。彼女充ての手紙がある。簡素な白い封筒だ。


 少し震えるような文字で、倉林紗愛(さえ)様、と宛名が書かれている。封筒の裏を見れば、彼女が先日送ったのと同じ住所からだ。


 遂に来たのだ、と思うと鼓動が速くなった。少年からの返事ではないだろう。出て来るにはまだ早すぎる。親からの返事か、親が少年の代筆で手紙をしたためたのか。


 いずれにせよ、彼女の求めていたひとつの答えがこの封筒の中にあるのだろう。そう思うと何故か僕が緊張した。必ずこの想いが込められた手紙は届けなければ。強い使命感が僕の中で燃え上がった。


 配達する順に郵便物を整理し終えた僕は、郵便物が入った箱を持って外へ向かった。歩きながら彼女の姿を思い出す。配達バイクの音がしたら一目散に玄関先へ現れて顔を覗かせる彼女。僕が持って来る郵便を期待と不安と僅かな焦燥感を浮かべて今か今かと待っている彼女。


 彼女がずっと求めていた手紙は、いつか言ってくれた“幸せを運ぶこと”になるだろうか。彼女が欲しいと思った手紙を届ける僕は、幸せを運ぶ郵便屋さんになれているだろうか。


 僕はヘルメットをかぶってバイクに跨った。


 届けに行こう。しあわせを待つ君へ。



                   終



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