Part 2-2
A-27 Portsmouth ,UK Mar. 26th 2014
2014年3月26日 イギリス ポーツマス Aー27バイパス
会社の工場で麗香はウィリアムにライフルのストックのバットプレートとチークピース、それにスコープの位置を調整してもらうと、そのままの格好でいいからと、彼に車で連れ出された。車は昨日乗ったボルボでなく深い緑色のレンジローバーという四輪駆動車だった。
「軍の射撃場まで一時間ある。道すがら、教えることがまだある」
彼はバイパスの速い流れに上手く車をのせながらそう麗香に切り出した。
「はい、お願いします」
「弓を使った競技でもそうだったろうが、安全に一番気を使え。まず、銃を手にしたら、ボルトやスライドを引きチェンバーに装填されてないか確かめろ。工場で渡したときは装填されてないとわかっていたが、これからは自分の銃からも自分を守れ。そうする事で不用意に他人も傷つけずにすむ。それから撃つ時とトレーニングや調整時以外ではトリガーに指を乗せるな。いいな」
それは直感的にも正しいと麗香は思った。
「わかりました。守ります」
「それじゃあ、ライフル射撃の基礎だ。お前がライフルを撃ったとする。その場合、風や気温、気圧が影響しないとしてバレットはどこまで飛ぶと思う?」
問われ彼女はまず、距離的な事がわからないとウィリアムに工場内で言ったはずだと思った。それなら聞かれてるのは距離じゃない。
「弾丸は重力に引かれいずれ地面に落ちます」
「銃の場合それで正しい。それじゃあ、お前が矢を射る場合、何を基準に矢を放つ?」
何を基準に? いろいろあるけれど、と麗香は考え、一番大切な事は的を見る事だと思った。
「目標を見定める事です」
「そうだろう。それは銃器も変わらない。ではバレットの飛翔ラインと視線との大きな違いは?」
視線は真っ直ぐだと彼女は思った。だが弾丸はどうだろうか? 彼には重力に引かれいずれ地面落ちると言ったが、真っ直ぐに落ちていくのかしら? いいえ、矢だって遠的の60メートルの距離で落ちる時、緩やかに曲線を描きながら落ちてゆく。なら弾丸も曲線を描きながら落ちるはずだわ。
「視線は真っ直ぐですけど、弾丸は緩やかに曲線を描きながら落ちていきます」
言って直ぐに麗香は彼が言わんとしてる事に気がついた。狙いの視線にどうやって弾丸の曲線を合わせるか──交叉させるかを教えようとしてるのだわ。直後、車が遅い前走車を避けて追い越しレーンに入ったので彼は話しを中断し、代わりに麗香が続けた。
「スコープと弾丸のコースとの関係ですね。弾丸の曲線にどうやってスコープで狙う直線を交叉させるか」
車が再び走行車線に戻ると彼が答えた。
「そうだ。弾丸はマズルを出た瞬間から緩やかに落ち始め──通常のライフル・アモニッシュは音速を下回るころから急激に沈降する。ものを狙うということは、その急激に乱れる曲線のフラットに近い部分を利用して一点を推理し狙う事に他ならない。つまりバレットの落差のある曲線にスコープから見る直線を標的と重ね見る事だ。レイ、お前はレティクルの中央に必ずバレットが到達すると思うか?」
問われ麗香はそんな事はないと思った。バレルに加わる僅かな力やトリガーの引き具合でも着弾点は変わってゆくと彼に教わった。なら、まだ知らない何かで容易に着弾点は乱れるだろう。だが調整された銃ならばクロスラインの中央近辺に弾丸は集まるのではないだろうか。
「きちんと調整してやれば集めることは可能だと思います」
「ああ、お前の言うとおりだ。性能の悪いライフルでもそれなりにまとまったグルーピングを残せる。弾道の落差は純粋な科学だ。アモニッシュのバレット重量、オージャイブ(/Ogive:累積度数曲線)デザイン、パウダー──燃焼薬の事だよ。バレルの長さ、バレルに刻んであるライフリングのツイスト率に銃口初速、それにレンジ(:射撃距離)──それらのデーターを取っていけば、ビギナー(:初心者)でも一覧から落ちる割合をほぼ正確に予測できる。決まったライフルに決まったアモニッシュは同じ落下率を持つ。まあ、コンディション(:状況)の複雑に絡み合った様々な要因から落差を予測するのも難しさはあるがな」
そんなに多くの事柄が関係しているのだと麗香は困惑した。もっと簡単なのだと勝手に思いこんでいた。そうして昨日撃ったラプアの一発はたまたま運が良かったのだと思った。
「その一つひとつを短期間に覚えろというんですか? 私を買い被られては困ります」
「いや、君は優秀だと思う。一つを教えればより多くの事を理解してるじゃないか。さて、続きだ。スコープの視線を弾道に合わせるというのは、一度山形にリフトアップしてダウンしてゆく弾道にスコープの光軸を合わせなければ、そのスコープを利用して敵にバレットを送り込めない。端的に言うと調整されたスコープでの射撃の場合、横から見た時にボアラインとスコープのラインは二度交差する。それはバレットがスコープの直線的な光軸の延長線に対し、一度上に飛び越し頂点を過ぎてやがて落下し始めるからだ。二度交差するのが理解できたか?」
わかりやすいと麗香は感じた。この人は取っつきにくい反面、人が何に躓くかを良く理解してるから教えるのが上手いのではないだろうかとも思った。図を描かずに言葉だけで伝えるのは難しい。ましてや私は銃の事など殆どと言っていいくらい知らないのだから。
「よくわかります。ウィリアム、あなたはスコープの調整手順の話をされているんですよね」
「そうだ。君にWーA(:海外での成績評価でとても優秀なAAを意味します)をあげよう。スコープをライフルに取り付けたり何かの衝撃を受けたり、バレルや機構部を分解交換した場合、この調整された状態を設定しなければならない。話を戻すが、スコープの光軸と弾道を合わせる作業をゼロイング──またはゼロインともいう。このゼロインの意味するのは何だ、レイ?」
彼女はいきなりハードルを上げられた様な気がした。彼は理解度を確かめている。ならそのゼロインの意味するもっともなもの──視線の延長線と弾道が交叉する点──狙い通りの着弾する点だわ!
「スコープで着弾予測した点に命中する事です」
「命中点の事をPOI──ポイント・オブ・インパクトというんだよ。よし、それじゃあ、もう少しその事を話す。ゼロインは敵に対する外因の影響下にない無修正の照準を意味する。ライフルやアモニッシュの固有の純粋な癖にスコープの光軸──レティクルのセンターを合わせるんだ。要は基準だ。基準がなければ様々な外因による影響下で自在に修正を与え狙い通りに着弾させる事が出来ない。だからゼロインは狙撃の基礎の一つだ。お前に与えたAXー50は出荷前の調整が済んでいる。つまり工場でスコープを載せた状態で25ヤードの距離に対しゼロインが済んでる。この25ヤード(:約22.8m)というのは工場の敷地の都合から最低限度のゼロインを行った距離だ。そこでまたお前に尋ねる。今の状態でお前に渡したライフルがマイル(:約1.6㎞)のレンジに対する狙撃に適しているか?」
ゼロインが済んでいるのなら、そのままクロスラインの中心に弾丸を送り込めるのだから、その25ヤードに対して1マイル先の標的に修正してゆけば良いのではと麗香は一瞬考えた。だが何かがそうでないと告げていた。25ヤードと1マイルを比べてみた。その差に弾道の落ちてゆくカーブを重ねてみる。ゼロインの場所から遥か先にその交叉する点を先送りすればいい。工場でウィリアムからスコープの説明を受け縦軸と横軸に対する調整摘みの存在を教えられた。縦軸──エレベーションダイヤルを回せば──調整という言葉の意味を考え彼女は困惑した。そんなに回してゆけるものなのだろうかしら? 物事には何でも調整出来る範囲がある。確か、使うことになったライフルのスコープ──シュミット・ベンダーのものはダイヤルを回せる最低単位が1クリックで1/4モア。上下に合わせて66モアまで調整できるのだと彼が教えてくれていた。なら中立から一方向への修正となり半分の33モアしか調整出来ない。
「ウィリアム、先に質問をいいですか?」
「許可する。何を聞きたい?」
「私が使うライフルのゼロインに使われた弾丸は1マイルでどれくらい落ちるんですか?」
「おおよそ1023インチだ」
えぇ? 1023インチ? 殆ど26メートルじゃない。彼女はそんなにも落ちるのかと驚いた。調整しようとしたら単純に55.5モアになる。1モア調整するのにエレベーションダイヤルを4クリック──222クリックも回す事になる。ダイヤルをそんなに回せないしどのみち調整範囲の33モアを22.5モアもオーバーしていると彼女は思った。
「無理です。そんなにエレベーションダイヤルを回せません。だって222クリックですよ。22.5モアもオーバーしてます。もっと長い距離でゼロインしないと。たぶんゼロインを1000ヤード以上でやればギリギリで──30モアぐらいに」
「197? 合ってるが──お前、暗算したのか? いつもそんなに速いのか? 30秒も考えてなかったじゃないか」
「私、五歳の時から暗算をさせられてたんです。十桁までのランダムな数字の加減乗除はすぐにできます」
ウィリアムは僅かに唸ると説明してくれた。
「まあ、いい。25ヤードにゼロインした距離の分、見かけ上落ちるのは910インチほどになるが──」
「それでも16.37モア超過してます」
あまりにも早く彼女が答えたのでウィリアムは横を振り向いて彼女を見つめてボヤいた。
「呆れた──お前、スペックの高いPC(:日本でいうパソコンです)みたいな奴だな」
彼はそう言うと空かさず麗香は返した。
「ほめ言葉ですか? ありがとう、ご・ざ・い・ま・す」
ウィリアムは何か言いかけ口を開いたまま眉根を寄せて視線をハンドルの先に戻した。
「ゼロインの距離を伸ばせばそれだけ見かけ上落差が少なくなる。スコープが下を向くからだ。だが長距離の狙撃では色々と問題が出てくる。まず、お前が言った様に調整範囲をはみ出してしまう。仮にギリギリで調整範囲だとしても見えている敵がFOVの際に近づくにつれ歪む。これは光学的な限界からだ。それではレティクル越しに見えている敵の像が正しいのか不確かになりレンジングが正確に出来ない。そこでスコープのアングル──スコープを支えているレールだが、これをゼロイン前に最初から前下がりのアングル付きにしてしまうのが、通常の手段だ。理屈はわかるな?」
「ええ、エレベーションダイヤルの調整前からスコープをお辞儀させるんですね。弾丸の落ちる先を見越して」
「お辞儀──まあ、そうだ。だがそれにも問題がある。一度下げるセッティングをすると、今度は短い距離に現れた敵を狙撃出来なくなる。スコープが下を向いているからだ」
「わかります。上の調整範囲33モアの限界に標的がきてしまうからですね。でもその傾斜の付いたアングルを外せば大丈夫じゃないんですか?」
「困った事にスコープのアングルを外すと何が必要になる?」
「ゼロイングです。弾道上にクロスラインの中心を持ってくる必要があるからです」
「そうだ。それはな、上下の調整だけでなく左右の調整も含まれる。せっかくアングルを換えてもレティクルに対してどこに着弾するかわからなければ、狙撃に使えはしないだろ」
「不便ですね。まるで新しいおろしたての弓で遠的するみたい」
麗香がボソリと言うとウィリアムが相づちをうった。
「そうなのか──まあ、アーチェリーの事は俺にはわからんが、チャンプだったというお前が言うのならそうなのだろう。アングルの件には抜け道がある。お前が使うライフルのスコープマウント一体型のアングルは、うちの社が採用した新しい部類のものだ。ドイツ──エラタック社の可変マウントだ。固定ボルトを緩めれば、横にあるダイアルでゼロから70MOAまで10単位でスコープに傾斜を付けられる。工作精度が非常に高いのでアングルを可変させてもゼロインにかなりの再現性がある」
熱を帯びた説明をされ、彼女はどのような条件にも対応しなければならない状況に自分は立たない事がわかっているので理屈は理解していたがあまり興味が湧かなかった。軍隊に入り狙撃兵として危険に晒されるなんてとんでもないと思った。ウィリアムのレクチャーも一時的なものであり、約束の三週間が過ぎれば、聞かせて欲しい様々な事を知り、ライフルにも触れなくなるだろう。でも今は彼の機嫌を損ねるのはマズかった。きちんと話に耳を傾け理解している素振りを続けなければならないと気持ちを引き締めた。
「工具が必要なんですか?」
「ああ、トルクス・レンチが必要だ。先端がイスラエルの国旗のマークの様な、三角を向き違いに重ね合わせた様な特殊なスクリュウだ」
「私、ライフルを貸してもらえるんでしょうけど、弾も工具も買うつもりはないですから」
彼女がキッパリ言うと彼が小さく笑った。
「その心配はいらないさ。給料以外にすべて会社の経費で落とせるからな。さて、弾道の縦の大まかな説明はしたが、今度は横の説明だ」
「ウィンテージ・ダイヤルですか?」
「レイ、お前は物覚えが良いんだな。一度話した言葉をしっかりと憶えている。弾道落差が科学だと言ったが、横は技術──職人技の話だ。レイ、撃ったお前から見て3時方向から風が吹いていたとする、文字通り右横からだ。着弾点はどこにずれると思う?」
彼は言いながら右手をハンドルから放し、フロントウィンドウに向かって手のひらを揺すりながら真っ直ぐ突き出した。
彼女は真横からなら逆側に真横に流れると思った。実際に矢も強い風には逆側に流される。
「反対の9時の方ですか? でも違うんですね。上か下にも変化するんですね」
「自分から言っておいて否定するか。卑怯なやり口だな。だが私は嫌いではないぞ。正解は10時から11時の間だ」
そう言われて麗香は困惑した。反対側の──という事で10時も理解できるが、11時となるとかなり上なのだ。上がる力はどこから生まれたのだと不思議な気がした。
「どうしてリフトアップするんですか?」
「それはな──バレットの回転が関係してる。バレットの安定した軌道を生み出すためにバレルで回転をつけるんだが、その回転が──バレットを後ろから見るとしよう。バレットは音速以上の速さで撃ち出されるのでその短時間にバレルに刻まれたライフリングから速い回転運動を与えられる。そうすると真横から吹く風がバレットの上下に分かれるのだが、上の面と下の面で風の速度が変わる。上は風に向かい、下は風から逃げる。その差が圧力を生むんだ。これがロングレンジになると大きな差となってPOIを意図しない場所に流す。ドリフト状態になるんだ。そこでまたお前に問う。同じアモニッシュが9時からの風を受ける。その場合、POIはどこにずれる?」
「簡単です。弾丸の回転が風に対して逆に作用するので3時よりも下がり4時から5時になります」
「お前を抱きしめたくなるぞ。正解だ。よく理解してる」
「そんな事をしたら殴ります。ウィリアム、あなたは職人技とおっしゃいましたよ。なら、その意図しない現象を掌握する術があるんですね」
彼女の冗談にウィリアムは一瞬眼を游がせ苦笑いすると彼女の質問に答えた。
「あるにはあるが、それは落差の様に単純な計算で導くという類のものじゃない。数多く撃ち、その状況をドープ・ブックに記録しておいて過去の状況から予測するしかない。風の息吹は気まぐれで読みにくい」
『風の息吹』? この人が意外な言い回しをすると麗香は驚きながらさらに別な言葉が気になった。『ドープ・ブック』知らない言葉だ。ブックは本やノート──記録を意味するんだろうと予測できた。綴りは何だろう? Doop? それじゃあデゥープになる。彼はハッキリと『ドープ』と言った。Doup? ドーピングのドープ? どんな綴りだったかと記憶をかき回しながら彼に尋ねるのが早いと割り切った。
「ウィリアム、“ドープ”って何ですか? 綴りや意味を知りません」
「ああ、Dope──幾つか意味があるが、“秘密の”という意味だ。秘密のノート。スラング的に取ると“愚か者の”なんて意味もあるが、あながち間違ってはいない。要は過去の射撃データーを記録したものだ。スナイパー・チャートともいう」
言いながら彼はハンドルを切り道を外れ大きなドラッグストアとレストランが並んだ駐車場へレンジローバーを入れた。
「レイ、軍の施設に行く前に、腹ごしらえをしよう。それとお前のその立派な黒髪をまとめる──なんて言うのか知らんが、髪をまとめるクリップを買いなさい。できるだけアップにしておかないと、軍の施設では君は目立ち過ぎる」
言われ麗香は、クリップでも間違ってないのにと思った。アップにしろというのなら、結わえる時間も場所もないだろうから、背中下まであるストレートの髪をまとめなければならず、とりあえずはドラッグストアにあればコームを二つばかり買うことにした。そうして麗香はレストランのボックス席で手早く髪型を変え、彼と二人で食事をした。車の中であれだけ熱弁をふるっていたウィリアムが食事の最中は一言も銃の事を話さず、それが何とはなしに麗香は不安に感じた。彼の意識が何に逸れていたのか、半時間と経たずに彼女は知ることになった。
食事の後の行程で彼は銃弾が縦横に逸れる幾つかの話をした。風だけでなく気圧や湿度の変化で眼に見えて銃弾の飛ぶ飛距離が変わり、銃弾の回転力が生み出すスピン・ドリフト。地球の自転力が関係し作用するコリオリ・エフェクトに銃弾が流される。コリオリ・エフェクトに彼女は興味を抱いた。地面に立っていても感じる事のない地球の回転が小さな弾丸に作用すると知り心ならず驚いた。彼の話しだと大砲の弾は──シェルというらしいが──大人の男でも一人で抱えられない重さのある砲弾が数十マイルの長距離を飛ぶ間にかなりそのコリオリの力を受けるらしい。
でもウィリアムが銃だけでなく、どうして大砲の事を知っているのか彼女は疑問に感じた。
半時間も車を走らせているとイギリス軍の訓練所に車が近づいたのが麗香にもわかった。道の際に並ぶ建物の駐車スペースにどう見ても軍の車輌だと思われる暗い濃緑色のジープの様な車や、荷台が幌で覆われたトラックが時折眼についた。
「このエリアはATCパーブライト──イギリス陸軍訓練センターだ」
彼がそう言いながら車を止めた場所には右側に横長の一階建ての三角屋根をした建物がありフェンスの途切れてる正面右に面したその建物の狭い面に受付の窓があった。その横にドアがあり開いて兵士が出て来るのを麗香は見ていたが、フェンスの先に開けた木々もない土だけがむき出しになった荒れ地の様な場所のずっと先がまできっとフェンスが広がっているのだろうと想像した。彼がセンターといいながら中に建物一つない、なんて広い場所なんだろうと麗香は興味をかき立てられた。
検問所の建て屋から二人のベレーを被り迷彩服を着た兵士が車に寄って来て、麗香は敷地内の奥の方で集団でランニングする兵士達を眼にしながら、彼が窓を下ろし近づいて来た検問所の兵士が声を掛けた内容を聞いていて驚いて横を振り向いた。
「お久しぶりです! ビグロー少尉殿。原隊に復帰されたのですか?」
振り向いた麗香の先でウィリアムが指を軽く伸ばした右手をこめかみから下ろし答礼を返した直後だった。
#2031 Boing 777-300ER West-Liner LAX Los Angeles CA., U.S. AM 10:03 Aug. 13th 2015
2015年8月13日 午前10:03 合衆国 カリフォルニア州 ロサンゼルス ロサンゼルス国際空港 ウエスト航空 ボーイング777ー300ER 2031便
フィンガー・タイプのエプロンから、トーバー・トラクターにプッシュバックされエンジンを起動したウエスト航空2031便の操縦室に突如二度の轟音が響き渡り操縦室のドアがノブの周囲からジュラルミンやアルミの破片を撒き散らした。
直後開かれ扉の際から黒いウインドブレーカーを着た褐色の肌をした男が片手に大きなスーツケースを下げ、もう片方の右手には小型のサブマシンガンを構え乱入して来るなり同時に振り向いたCAP(:機長)のロバート・サンドバーグとFO(:副機長)のダグ・クローリーは冷静な顔でその男を見つめた。
「副機長、操縦室から出ろ!!」
有無を言わせないその命令にロバートとダグは顔を見合わせると頷いた機長に即座に副機長はシートベルトを外し右の席から腰を上げた。トーイング・トラクターに牽かれる間、操縦桿を握る必要もない彼はその男に言い放った。
「飛んでもいない旅客機をハイジャックするか」
男はサンドバーグ機長を一瞥すると命じた。
「許可するまで無線機に触るな。即座に撃ち殺す。それからここで俺のする事を邪魔するな。その時も有無を言わさず撃ち殺す。お前に命じるのはこの機を滑走路の端へ移動させ、いつでも離陸できる態勢を維持する事だ。場合によっては何時間もその状況で待機する事になる」
ロバートはこのハイジャッカーが必要と感じたら躊躇なく自分を殺すだろうと判断した。万が一の事を考え操縦者を確保するためにFOを操縦室から出したのだろう。
「まだエンジンを起動して調整が済んでない。手を掛けないとエンジンがストールする。そしたらエアーコンディショナーも止まり室温が急上昇する。この気温だ。君も一時間と保たないぞ」
機長に警告され男はスーツケースを床に下ろしサブマシンガンのスリングを首に掛けながら命じた。
「許可する。おかしな事をするなよ」
ロバートはすぐにコンソールの2基のターボファンに関係ないスイッチ類を忙しそうに操作し始めながら、ATCトランスポンダーのコード設定ダイヤルを7700に合わせるとしばらくコンソールの操作しながら男の様子を横目で探った。
男は大きなスーツケースを床に平置きにすると、ロックを外し蓋を開いた。そうしてスーツケースから新たな銃を取り出した。ロバートはそのライフル──そう呼べればだが──を眼にして驚いた。幾つかのライフルを撃った事のある彼だったが、男が取り出したものが俄かにライフルとは信じられなかった。どんな弾を撃ち出すのか太いバレルの先には拳三つほどの大きなマズルブレーキが付いており、何よりも眼を疑ったのはスコープがライフルの上でなく斜め上に載っており、その脇──バレル中間部上から後方に向け前に伸びるバレルより太いもう一つのバレルが載っている事だった。その後方へ伸びたバレルの先には、マズルブレーキと同じほどの大きさをした円錐形の部品が付属していた。
その異形のライフルを副機長席の背もたれに立て掛けると男はスーツケースから別なものを取りだした。それは一眼レフカメラに使う大型の三脚だった。男はその脚を手早く引き伸ばし機長席と副機長席の背もたれの間のやや後ろに据付け、そのカメラを取り付ける部分にコの字型のブラケットをねじ付けた。ブラケットの内側にはラバーが貼ってあり機長は容易に何に使うか想像できた。そうして男は三脚の後ろに折り畳みの小さなパイプ椅子を設置しそこに座りこんだ。
次に男は異様な形の二段式バレルのライフルを三脚のブラケットにはめる様に載せると、ロバートが見たこともない様な大きな銃弾をスーツケースから一発取り出した。その銃弾はあまりにも大きかった。きっと308ウインチェスターの倍以上はあるとロバートは思った。弾頭の幅が彼の人差し指の先から中ほどまでもあり、銃弾の全長がA4サイズのファイルの横幅ほどもあった。いったいその口径は幾つなのだと彼は顔を強ばらせ横目でハイジャッカーを見つめ続けた。男はライフルの左にあるボルトレバーを操作し、下側のバレルのチェンバーを開くとバレル最後部のそこへ銃弾を差し込みボルトを閉鎖し肩に担ぐようにライフルを構えた。
その様を見てロバートはいったい何を狙うのだと鳥肌だったその時、開いた出入り口から機内放送が聞こえてきた。
乗客達は異常な事態に気がついていた。同じ様な格好をした数人の男らが機首の方へ行きしばらくするとサブマシンガンを手にして戻って来た。乗客達はざわめく事すら控え凝視して、武器を手にそれぞれが離れた通路に立つ男らを見つめた。そうしてしばらくするといきなり放送が始まった。
『乗客の皆さん。あなた達は我々の人質となってもらう。全員が目の前の席の背もたれに両手を載せ、無許可で話したり、席を離れた者は理由の如何に関わらず即座に射殺する──それと同乗している連邦航空保安局のマーシャル(:保安官)。君の所持する銃のスライド先を摘まみグリップを天井に向け両手を掲げ、席を立ちたまえ。無視する様なら──今日は8月の13日なのでAの13番に座る一般市民を30秒後に射殺する。それでも武装を放棄し名乗り出なければ、15秒事にA13の後ろの席へと順番に処刑人が行くことになる』
囁く事も忘れ一斉に座席の背もたれに手のひらを載せ始めた乗客達がサブマシンガンを手にしたハイジャッカーが足早に後部席の方へ歩いて行くのを不安げに眼で追った。その先に後部席の一つから腰を上げ両手を掲げるスーツ姿の男の姿があり、彼の右手には逆さまに握られたシグ・ザァウアーP229があった。
ロサンゼルス国際空港のグラウンド(:地上管制官)のキャスリン・E・リングはコンソールのモニターに映し出される空港マップに表示された青色の航空機の航空会社省略文字2文字と便番号を同時に殆ど意識において見つめ次々に航空機を捌いていた。
ロサンゼルス国際空港は一日の離着陸機が千八百以上もある世界第6位のマンモス空港。管制官は十以上の作業別区分に分かれており、大きく分け空中にある航空機を管理する業務と地上の航空機を捌く業務に分かれている。
キャスリン・E・リングは地上にある航空機の流れとトーイング・トラクターの整理を行う業務を担当するGND──第2グラウンドコントロールだった。到着機にはスポットまでの誘導路の指示、出発機には1から8とBの九つあるターミナルの葡萄の房になる粒のように左右に並ぶスポットから後退するプッシュバックの指示や、滑走路に移り離陸をしようとする機に管制タワーへの連絡指示、ハンガー(Hanger:航空機整備格納庫)へ移動させる機へも彼女が捌かなければならず、ともすれば早口の英語で次々に指示をだす。
そうして彼女は2番スピーカーから流れてくるCLR(:管制承認伝達席)から受け渡される着陸間近の航空機の会社名と便名を同時に耳に入れ、別のモニターで識別し着陸後、滑走路周辺の数ある誘導路でバックの出来ない航空機がヘッドオン(:1本の誘導路で2機の航空機が対向する事)しない様に最大限の神経を使っていた。
キャスリンはミリ波レーダーが機影まで正確に捉えたモニターに表示される航空機の識別表示が1機だけ違う赤色になっている事に気がつき眼を疑った。その機は9番目に25R滑走路から離陸するために平行して走るB誘導路に9Cからタキシングするナンバー8ーTT(:トーイング・トラクター)から切り離したばかりの航空機で、誘導路に映る機体のICAOコード(:3桁の会社名表示)がEMGになっている。それは緊急を意味していた。そうして便名が7700になっている。めったに見ないコード──彼女が航空管制官になって初めて実際に眼にするそのコード7700は、ハイジャックなどの抜き差しならない事態を意味しており、もし事実なら規定から空港の離着陸を全面閉鎖する必要があった。空中にある数百の航空機を燃料切れになる前に手近な空港へ振り分けなくてはならず管制はパニックになる。彼女は即座にトラックボールを操りその機にカーソルを合わせ、会社名と便名へ切り替え確認すると意識に刷り込み通信モードに切り替え画面を見つめつつヘッドセットのブームマイクに意識を集中した。
「AWA2031、こちらグラウンド。7700のコードに間違いはないか?」
問い合わせに返事はなく、即座に彼女は管制規約に従い機転を利かせた。
「AWA2031、応答できなければマイクを指でノックして。ハイジャックなら二回」
ヘッドフォンにはっきりと二度叩く音が聞こえキャスリンは決意した。咄嗟に彼女はブームマイクを手で被いモニターを見つめたまま声を張りあげた。
「主任! 来て下さい!」
☆付録解説☆
☆1【クリック】(/Click)──ライフルに使われる多くのスコープでは照準するためのレティクル(:十字線)を上下左右に調整しなければなりません。この調整するターレット──ノブ(:つまみ)の事ですが、フリーに動くと、狙った調整位置より行き過ぎたり戻ったりして微妙な調整がし辛くなります。そこでノブを僅かに回すと『カチリ』と小さく定位置に固定されます。これが音を語原としたクリックです。スコープは安いもので20$(:ドルです)ぐらいから数千$もの高級品まで様々ですが、このクリックは工作精度の違いがハッキリとして実感できます。高級なスコープは何回連続して回してもすべてのクリックが音も指の感触も同一ですが、安いスコープはそれが一定せずばらばらで、最悪クリックで固定されず次のクリックにずれ込んだりします。粗悪品になると途中でクリック自体が機能しなくなる事もあります。
☆2【ドープ・ブック】(/Dope Book)。適訳では『秘密の本』、スラング的には『愚か者の本』という意味があります。このDopeという単語は英英辞書にも記載される銃関連の一般的になっている単語ですが、元はData On Previous Engagementといい、弾道に関する記録の事です。スナイパーと呼ばれる技能職の人達や、スポーツ・シューティングでライフル射撃をする人達は、射撃データーを忠実に記録し後の射撃やライフル・メンテナンスに活用します。これをドープ・ブックやスナイパー・チャート、(スナイピング)ログ・ブックと呼んでいます。
☆3【フィンガー・タイプ/エプロン/トーバー・トラクター】空港設備の専門用語をまとめて説明いたします。航空機へ乗客や運航関係者の乗り降りする大きな建物をApron(/エプロン)といいます。その建物には旅客機は翼が邪魔をし直接横付けできません。そこで旅客機を横付けするために手のひらの様に指を伸ばした構造物で駐機する航空機と接続する方式をFinger-Type(/フィンガー・タイプ)といいます。この手のひらにあたる大きな建物を一般にはタワー(/Tower)といい、そこから航空機に繋がる部分をBoarding Bridge(/ボーデイング・ブリッジ:搭乗橋)といいます。Boarding Bridge周辺の航空機が入り込むエリアをApron(/エプロン)といい、その駐機する一つひとつの場所をSpot(/スポット)といいます。Spotから航空機が離れる場合、バックしなければなりません。ですが旅客機の後退は危険を伴うため多くの空港ではジェットエンジンの逆噴射やプロペラのピッチ・リバースでの後退を禁じています。そこでこの後退を助け航空機が自力自走できる場所まで移動させる支援車輌をTowbar-Tractor(/トーバー・トラクター)といいます。Tractorには航空機のNose-gear(:前脚)に接続する方式に2種類ありTowbar(/トーバー:長いロッドです)を通じてNose-gearに接続する車輌をTowbar-Tractor、Towbarを介さず直接前脚に接続する車輌をTowbarres-Tractor(/トーバーレス・トラクター)といいます。ですがPush-Back(/プッシュバック:航空機を押して後退させる事です)にはTowbarresはあまり使用しません。理由はNose-gearを抱き込む様に接続するTowbarresでは接続・切り離しに時間が掛かり、大量の航空機を捌かなければならない大きな空港では迅速にSpotから誘導路へ移動させられないからです。
☆次話へのプロローグ☆
ウィリアムが兵士だった事を知った麗香は英国軍新兵訓練センターでどんな経験をするのか? 人質となったウエスト航空2031便の乗客達の運命と関係者の対応は? 気になる次話をご期待くださいませ。




