表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/35

Part 1-4

Accuracy International Ltd. Portsmouth ,UK Mar.26h 2014


2014年3月26日 イギリス ポーツマス アキュラシー・インターナショナル株式会社




「ウィル、そうまくし立てるな」


 社長のトム・アーウィンに言われ彼は黙るような男ではなかった。


「いいや、許可をくれないなら、俺はあの娘を連れて渡米し合衆国の銃器メーカーへ転職するぞ」


 ウィリアムにそこまで言われ、社長も折れるしかなかったがまだそれを切り出すつもりもなかった。


「だが──もしも──お前の見込み違いだったら? たった一弾撃たせただけだろ」


「そんな事があるもんか。千ヤードだぞ、素人がスコープで捉える事すら厳しいんだ。それを風を読み切れずに真横に20インチ(:約51㎝)逸らしたんだ。エレベーション(:銃器の照準)はまったくズレてなかったんだ」


「ウィル、お前、何をそんなに熱くなってる。もっとクールにいこうじゃないか」


「あァ? 分かりきった事だ。うちの顧客らに本物のスナイパーが何かを教えるんだよ。レイの偉業を前にして軍や警察のマークスマンらの尻に火を点けてやるんだ」


「おいっ! ウィリアム!」


「トム、あんたが了承しないなら、俺はレイを連れてマクミランかバレットに本気で鞍替えするぞ!」


 ウィリアムの恐嚇きょうかくに社長は眉根を寄せ彼をにらむとわずかに間をおいて返答した。


「よかろう──ただし、条件を出そう。三カ月、その期間で彼女がモノにならないのなら、事務職に戻す。その時、人事に口を差し挟むな。いいな、ウィル」


 社長の条件を耳にして、ウィリアムは片側の口角を持ち上げてみせるととんでもない事を言い切った。


「そんなに必要はないさ。レイなら三週で一マイル(:約1.6㎞)先のターゲットへ一弾倉撃ち込める様になる。その場にトム──あんたは立ち合うんだ」








「ねぇ、レイ。昨日、ウィリアムにどこに連れて行かれたの?」


 事務所で仕事の内容を教えようと用意していたスーザンが手を動かしながら、興味津々といった表情を隠さずにそう尋ねると、仕事の準備に取り掛かっていたジェニファーまで手を止め横へ振り向いた。麗香はどうして工場から彼に連れ出された事を二人が知っているのか驚いたが、当たり障りのない事を応えれば面倒な事にはならないだろうと思った。


「郊外の農地です。足下に小麦の実が落ちてましたから多分、麦畑ですね」


 麗香がそう答えるとスーザンは眉をしかめた。


「はぁ? 畑? 今の時期に? あんた達、何を収穫しに?」


「なにも生えてませんよ。一面、土ばっかり」


 彼女は少し上目遣いになり思い出すように答えると同僚になったばかりの女性がたたみ掛ける様に言い切った。


「ウィル、やっぱり変人よね」


 スーザンはジェニファーの方へ向きそう言うと二人は肩をすくめ、直ぐに彼女はまた麗香の方へ振り向いた。


「レイ、気をつけなさいよ。変人には」


 麗香が肩をすくめると、いきなり事務所の扉が開かれ三人は驚いた様に振り向いた。出入り口に立っているウィリアムが一度外に顔を向けくしゃみをした後、麗香に告げた。


「よし、レイ──社長の許可はとった。今から三週間、みっちりしごくから来い」


 呆けた様に見つめていた三人の女性の中で問い返したのは麗香ではなく眼を丸くしたスーザンだった。


「許可? しごく?」


 麗香は、外に戻ったウィリアムを追いかけ事務所を出たが、どんどん歩いていく彼に追いつくのに軽く駆けなければならなかった。


「待ってください。ウィル! 許可って!? 何の承諾を社長から?」


「面倒な奴だ──昨日言っただろう──お前に教え込むことが山ほどあると」


 歩きながら顔を向けずに彼はそう言ったきり工場の出入り口へ向けて建物の角を曲がった。その後ろに振った片腕を麗香はつかみ彼へ問いつめた。


「まさか──私に銃の使い方を!?」


 事務所から連れ出され工場へ連れてこられた麗香は玄関口でウィリアムに詰め寄った。


「まって! 聞いてください! ウィリアム、私、銃の撃ち方を憶えたいなんて一言も言わなかったです!」


「誰が、お前にそんな事を尋ねた? お前がうちの会社に来たのは宿命だ。お前は黙って俺が教えることをすべて理解すればいいんだ」


 そう言って彼が麗香の右腕をつかみインターフォンを鳴らし、ドアの開錠を頼んだ。ドアを開いた工場の一人が、ウィリアムが麗香の手を引いているのを眼にしてニヤつくと彼は憮然ぶぜんとなり中へ入り、皆の視線を無視して工作機械の間をすり抜け奥の方へ麗香を連れ込んだ。


「レイ、お前専用の──」


 言いかけた彼の手を振り払い、麗香は怒鳴りかかった。


「ちょっと! 少しは私の話しも聞いてください! 私は狙撃手の話を聞きたいだけで、本当に銃の撃ち方なんて憶えたくはないんです」


「三週間やってみろ。それでもお前が興味がないと判断するなら、事務員に戻してやる。どちらにしても三週間堪えたら、お前の知りたいことすべてに答えてやる」


 言い切る彼の熱意に押し切られたというのが麗香の本音だった。それに老齢に見える彼が悪い人に思えないというのも、彼女の心が傾きかかった理由だった。


「わかりました。三週間だけですよ」


 麗香が返事をするなりウィリアムが声も掛けずに歩き始めたので彼女も仕方なく後をついて行った。


 工場の奥まで行くにしたがい様々な工程を経てライフルが形を成していた。それらを眼にしながら、麗香はどれが軍用で、どれが民間の──猟などに使われるのかすら判別が出来なかった。ただ、あるのは金属の筒が伸びた大きな銃ばかりだった。


 ウィリアムが壁際のラックの前で立ち止まり、棚からから一挺のライフルを引き抜いた。その朽葉くちば色の銃は昨日に彼が撃たせたものに比べ一回りは大きく、床に一端をつければあごまでありそうだと思い、その造作にすら麗香ははっきりと凶暴な印象を受けた。昨日、彼に撃たされたL115ボルトアクションライフルの流れるようなデザインに比べ、曲線の皆無かいむな機能一点張りの“機械”だと彼女は感じた。


 それにはすでにスコープが付いており、その光学機器すら昨日(のぞ)いていたものよりも大きな印象を受け麗香は初めて眼にするその火器に圧倒されてしまった。彼は銃に付けられたカードフォルダーを見て顔を横へ振り向けると近くの職工に声を掛けた。


「アレン、販促用に俺が一挺持ち出したと記録しておいてくれ。生産管理カードは棚に下げておくから」


 ウィリアムが近くのデスクで工具を片手にライフルをのぞき込んでいた職工にそう告げると、作業中だったその男が片手を上げて分かったと返事をした。そうしてウィリアムは麗香へ振り向きライフルを差し出した。


「受け取れ。これはお前が三週間“仕える”ショルダー・アーム──特注仕様のAX50だ。いいか、どこにもぶつけるな。生まれたての卵のように大切にしろ」


 『仕える?』、使うのではないのかと思いながら、彼女はそのライフルを両手で受け取りずっしりした重みから胸に抱きしめると、彼は棚沿いの通路をまた歩き始めたのでそれに付き従った。ウィリアムは直ぐに別な棚の前で立ち止まると、整然と細かく仕切られた間の二カ所から大小の黒い樹脂製のケースを取り出した。その一つのラベルの片側に銃弾が印刷されているのを彼女は眼にとめ、中に弾が入っているのだと気がついた。なら、もう一つも箱の大きさこそ違えども、同じ様な弾が入ったパッケージだとじっと見つめていると、彼は近場の天板の長い作業台へ歩きその二つの弾の箱を置き、丸椅子を二つ他の机から用意した。


「レイ、座れ」


 そう言いながら彼が右手の椅子に腰を下ろしたので、麗香は左手の椅子に腰掛け、ほっとしながら、銃を天板の上に置こうとして彼から怒られた。


「誰が、下ろせと言った? 許可するまで抱いていろ」


 そう言い彼は用意した二つの樹脂製パッケージの一つの蓋を開いた。中から姿を現したのは二十個の銃弾だった。その一つをウィリアムは引き抜き、机の上に尖った先を上にして立てた。鈍い金色の光沢のあるそれは昨日眼にしたものと似ていると彼女は感じた。その出された弾が遠的競技用の『矢』の短い羽根と同じ様な長さだと思い麗香は4インチよりやや短いと判断した。開き置かれたパッケージの蓋の赤いラベルに338 Lapua Magnumと白字で印刷されている──彼女は発音がラプア・マグナムで良いのだろうかと思った。


 そうして次に彼が大きなパッケージを開いた。彼女はケースが大きい分、ラプア・マグナムが沢山入っているのかと予想した。だが意に反してのぞいた弾の大きさに彼女は眼を丸くした。中間部が自分の親指よりも幅が広いと思った。なによりもその一発の長さだった。どうみても5インチ半はある。なら14センチ近くもあるのだと驚いた。パッケージが大きいのに十発しか入っていない。こんな大きな弾を撃つ銃なんて想像できないと思い、麗香はドキリとした。自分の身長なみに大きな銃を今、抱きしめているではないかと思い浮かんだ考えを否定した。


 ウィリアムはその大きな弾を一つケースから引き抜き先のラプアの横に立てた。彼女は先がいぶし銀のそれの大きさに女性用のデオドラントの細身のスプレー缶と変わらないと驚きのまなこのまま見つめて、その後ろにある大きな方のパッケージの蓋のラベルに視線が行った。


 デスクトップに置かれた蓋には濃いブルーで縁取りされた赤黒い文字で大きく50と印刷されており、その下にBMGとあった。ラプアの338とBMGの50とはどんな関係なのだろうか──数字の大きさがサイズを表すのだろうか? と考えているとウィリアムが彼女に説明を始めた。


「俺は同じ説明をくどくどする気はない。その代わり最大限に分かりやすく教える。二つのアムニッションを見てどう思った?」


「親子──ピストルとキャノン(:大砲)の弾です」


 麗香が明瞭に答えると彼が鼻を鳴らした。


「違う。ピストル──ハンドガンのは殆どが大人の人差し指の第二関節から指先までより短い。それにキャノン──砲弾を意味するシェルというのはお前が今、眼にしてる大きい方のアムニッションよりも最小でも数倍大きい。お前が眼にするのは二つともライフル・ショットだ」


 ショットとい単語に“一撃”の他に“弾薬”という意味合いがあるのを麗香は思い出した。


「ウィリアム、小さい方が昨日撃ったものですか?」


「そうだ。ブラックヒルズのキャル・338ラプア・マグ──250グレイン。この弾薬は多くのメーカーから多少の規格違いのものが出ている」


 250グレイン──約16.2グラムほどかしらと彼女は即算した。


「キャル? 知らない単語です」


 即座に麗香が尋ねると彼が簡素に説明した。


「キャルとはキャリバー──銃の口径の単語“Caliber”の略だ。338──1000分の338インチだ」


「えぇ? 変です。なら大きい方のBMGがどうして50なんですか? 1000分の50ならラプアよりもはるかに小さいです」


「そうだ。だがその考えは間違っている。BMGの方は100分の50インチ。ライフル・ショットの場合、口径をいう場合だが、三桁なら1000分のインチ。二桁なら100分のインチで考えたらいい。この他にヨーロッパの銃器では主にミリで口径をいう。50BMGの場合は12.7ミリ。他にミリタリー・ボウル(:軍用弾)だとSTANAG(/スタンナグ)4383──これはNATO加盟軍の正規の呼び方だが50BMGでも通じる。お前が今、眼にしてるのはホーナディ750グレイン・AーMax。量産品なのに機械だよりでない人の手の掛かった市販の中では優秀なアムニッションだ」


 こんなものが一般に売られているのかと麗香は驚きその数字が気になった。750グレイン──目の前のラプアの三倍だから48.6グラム。だが麗香は四桁の数字の方が何なのだろうかと思い即座に尋ねた。


「4383──10000分の?」


「違う。そのナンバーはただの規格番号だ。数字以上の意味はない。レイ、どうしてこんなにサイズ違いのものを作る意味があると思う?」


 言いながら彼は並べた二つの銃弾を指差した。それを眼にしながら問われ麗香一瞬目まぐるしく思考した。


 重さの利点。それはひとえに破壊力なだろうと予測できた。だが他にも何かあるのかしら? 重い矢の方が風の影響を受けにくい。なら金属の銃弾でも同じ事がいえるだろう。他には何があるのかしら? 1000ヤード(:約914m)も簡単に飛んでしまう弾丸。それでも無限に飛ぶわけではない。空気を切り裂き、力を徐々にがれながら重力に引き寄せられ落下し続ける。同じ水という中にいながら細菌はその抵抗にあまり抗えないけど、マグロは物凄い速さで泳ぐという。それは筋力の差だけではない。水の分子が細菌にとっては大きな障壁となるのだ。そうだわ。破壊力と同じ意味合いで、重量があるほど蓄えているエネルギーは大きい。それなら空気の壁をより多くスライスできるのは、重い弾丸という事になると彼女は気がついた。


まとの破壊力と空気抵抗に打ち勝つ力かしら」


 ウィリアムが微かに含み笑いを漏らしたのを麗香は聞き逃さなかった。正解なのだ。直後、彼は席を立つと弾薬を取り出した棚に戻り、幾つかの何かを手にすると麗香の横に引き返してきて腰掛けた。そうして50BMGの横にさらに一発同じ幅と長さをした銃弾を立てた。それを眼にして麗香はわずかに眉根を寄せた。


 サイズはホーナディのものと同じなのに中間の挿し込まれた部分から先への形状が別物だった。


「これはM2ミリタリー・ボウル。米軍が使う軽装甲物に対する狙撃に使われる」


 ミリタリー・ボウル──二度耳にした言葉だった。軍用の球体? 違う意味があるのだろう。ボウルという単語の他の意味は何だったかしらと散漫的に考えながら思い当たらなかった。でも話の流れから確実に軍用弾なのだと麗香は考えながら、新しく出された弾を見比べた。違いは明らかだった。光沢の違いからかホーナディのものは先端に掛け鋭い形をしている様に見えるのに、彼が後から持ってきたM2はわずかに緩やかなカーブを描いているし、明らかに先端の処理も大ざっぱだった。それに仕上げがまるで違う。ホーナディのものは芸術品の様に磨き上げた光沢があるのに、彼が後から持ってきたM2はいかにも量産された部品の様に安っぽい鈍い仕上がりをしていた。まるで高校生の時に見た古い新幹線の『こだま』と、新型の『のぞみ』の様だとも麗香は思った。


「使用目的の違う別仕様の二つを眼にして、はっきりと違いを感じた筈だ。この差が意味するのは?」


 明らかだった。ホーナディのものはM2よりも空気を切り裂く力に長けていると彼女は感じた。空気を切り裂く矢はそれだけまとに的中しやすく、やじり(矢尻。矢の先端部分)や矢羽に問題のあるものはまといっしやすいと思って口にした。


「飛距離と命中率でしょう。空気抵抗に打ち勝つ形の差なんでしょう」


 彼が一度(うなづ)き説明を続けた。


「そうだ。オージャイブ(/Ogive:累積度数曲線)という曲線デザインの違いだ。M2は装甲物を撃ち抜く都合上エネルギーの保持量で想定された有効射程が1マイルほどだ。だがホーナディの場合、相手はソフト・ターゲットだ。より飛距離を経てなお破壊力を保持している。1.5マイル以上(:約2.4㎞)の狙撃にも使われる。だが、さらに──」


 ウィリアムが前置きするように言葉を区切りホーナディの横にさらに新しい弾を立てた。その形と仕上げに麗香はまるでM2からホーナディ、新しく並べられたものらが進化してるように感じた。彼がさらに出してきたのは光沢こそホーナディのものと似ていたが、先端の処理が刺さりそうなぐらい研ぎ澄まされていた。


「ウィリアム、まさかこれって──2マイル先のまとを──」




「そうだ。1万フィート先の人を殺すために作られたXM1022。極限の対人狙撃用ミリタリー・ボウルだ」




 麗香は対人狙撃という意味に鳥肌立ち、想像もできない様な遠くからいきなり狙われ殺される人の死がどんなものなのだろうかと考えた。待ち構える死に心の用意すら許さない絶対的な生殺与奪。


「銃弾4つですらこの様に様々なら、撃つ方のライフルも様々だ。さて、レイ、お前のライフルのフォアエンド下にあるバイポッドを立ててデスクに載せろ」


 麗香にはフォアエンドが何かも分からなかったが、立てろと言われたバイポッドが折り曲げられ前を向いている二脚なのだと容易に想像できた。用心しながらスプリングの力に抗い片側ずつ下ろすと、一点を越えた時点で逆にバネに引っ張られ、がくりと脚が下に突き出した。そうしてデスクトップに下ろした銃がことの外、重かったのだと彼女は気がつきしびれた両腕がだるく感じながら、軍人は戦場でこんなに重いものを持ち運べるのだと驚きながら、唐突にその時になってある事に思い当たった。




 この重さは人の命を奪う重さなのだと。












LAX Los Angeles CA., U.S. AM 08:58 Aug. 13th 2015


2015年8月13日 午前8:58 合衆国 カリフォルニア州 ロサンゼルス ロサンゼルス国際空港




 ミーティングぎりぎりのショーアップ(:搭乗員達の出社時間)に合わせたジェシカ・デスプラが事務所へ持ち込んだ大きな荷物に好奇の眼と質問が飛び交ったのは、キャビンブリーフィングの始まる直前だった。


「ジェシー、あなた何なのその大きなスーツケース? それにゴルフバックまで」


 同僚のフライトクルーに尋ねられジェシカは苦笑いを浮かべ通勤時に考えていた返事を即答した。まごついたら怪しまれると彼女は感じ早口で説明した。


「ニューヨークでゴルフに誘われてて、ケースは向こうで沢山買い物してこようと思って」


「ジェシー、ベリースペースにしなさいよ。キャビンに持ち込むと邪魔よ」


 チーフパーサーにそう言われジェシカは一瞬瞳をおよがせそうになり心臓が高鳴った。娘を人質にとっている男の指示では、二つの荷物──大型のスーツケースとゴルフバックはキャビンに運び込む事になっていた。それが出来ない事など論外なのだ。


「大丈夫よ。邪魔にならないようにするから」


 言い切った彼女に、チーフパーサーはまだ何か言いたげだったが、定時となりサービスや緊急時の手順確認、旅客に対する細かな打ち合わせのキャビン・ブリーフィングが開始された。


 その間も彼女は上の空だった。要点こそ聞き漏らしはしなかったが、自分が持ち込む二つの荷物をクロエを人質にしたあの男はどうやって指示が守られた事を知るのだろうか? もしかしたらあの男は一人で犯罪を犯そうとしているのではなく、機内に乗り込む誰かが共犯なのではないのだろうかと彼女は思った。


 キャビン・ブリーフィングが終わり、引き続いてデスパッチ・ブリーフィングを終えたパイロット達の加わるブリーフィングが始まり、機長から機体の運航に関わるフライト時間や気象情報、保安管理に関する説明などが簡素なされ全員が搭乗する機体に足を運んだのは出発一時間前だった。


 パイロットらが出発に備えたエクステリア・インスペクション(:外部点検)や運航データの打ち込み、確認を行う傍ら、フライト・アテンダント達は各人のチーフパーサーから渡されていたアロケーション・チャートに従ったキャビン・デューティー班とギャレー・デューティー班それぞれの点検項目に従った非常装備などの備品のチェック、機内食、ラバトリーや枕カバーまで含め搭載品の確認を手早く行いその間ジェシーは慌ただしさから、気も半ばに娘の事を意識していた。


 そうして乗務員すべての準備が調うと最後のブリーフィングが行われ、機長のよろしくお願いしますという挨拶を区切りにパイロットらは操縦室のドアを閉じロックし、フライト・アテンダントらは乗客を迎え入れ始めた。


 その乗客の中に娘を人質にした犯罪者の仲間が四人もいる事などジェシカ・デスプラは知るよしもなかった。




 事態が急変するまでにわずか三十分を残し、第3バース(:後記のスポットの一グループ)の第1スポットに駐機するボーイング777ー300ERへボーディング・ブリッジ(:搭乗橋)を乗客らが移動し始めた。













☆付録解説☆


☆1【アモニッション】(/Ammunition:武器の発射体=弾薬の事です。略してAmmo(/アンモ)ともいいます。


☆2【ベリースペース】(/Belly-space)。直訳ですと“腹部”を意味します。航空関係者用語では旅客機(Cargo-freighter(:貨物輸送専用機)でない)の貨物搭載エリアをいいます。現行の大型旅客機の殆どは、客室(/Main-deck)下のLower-deck(:抱えるように下にあるのでBelly(:腹部)の単語を用います)にある区画をいいますが、中には特殊な機体でコンビ型(/Combination Type)といい客室を前後の隔壁で仕切り貨物室としたものもあり、同種は日本に乗り入れているものではKLMやAARのBoeing747-400MのMain-deck貨物区画も一部航空関係者の間では便宜上ベリースペースと表現されています。


☆3【デスパッチ・ブリーフィング】(/DIispatch Burifing)。経済的で安全な飛行を計画するディスパッチャーが作製した航空情報のやり取りです。


☆4【エクステリア・インスペクション】(/Exterior Inspection)。パイロットによる出発前の機体外部点検です。通常、機長が行いノーズギア(:前脚)から始め各部を目視確認してゆきます。その間に副パイロットは運航データなどの打ち込みや、各種書類の確認を行うのが各航空会社で一般的です。



☆次話へのプロローグ☆

 ウィリアムの詰め込みがエスカレートしてゆく中に麗香はある疑念を感じ始めます。またジェシーの搭乗する旅客機に災厄が火蓋を切る次話をご期待くださいませ。







評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ