02-05 闇討ち
初夏も近いというのに、朝から春の初めにもどったように冷えこんだ一日だった。
「ちょっと顔をかせ」
食堂で夕食をとり、宿舎に戻る途中、祐介は数人の人影に声をかけられた。あたりはすでに暗くなって、紫色の空に天山の稜線が黒くそびえている。
ついに来たか。祐介は緊張した。相手は四人。いずれも眼だけを残して顔を頭布でおおっている。体育館の一件以来、フェルデとその取巻きたちはことさらに祐介を無視しているが、今度はフェルデ一派に対抗している連中が祐介をつけ狙いだしたのだ。
どのみちベールヘーナにも打ち明けたとおり、近いうちに園丁を辞めて城を出るつもりだった。本採用になって〝見習〟がとれたばかりだが、自分の道はここにはない。しかし今はまずい。フェルデにいびられ、その反対派を恐れて逃げだすみたいではないか。
もう少し時期を待とう。しばらく頭を低くしていれば風は吹きすぎる。ベールヘーナとの別れを先にのばしたい気持もあった。とにかく距離をおいて隙をつくらぬよう注意はしていた。
だがどうやら甘かったらしい。まさか連中がこれほど執拗だとは思わなかった。
「なんだ、このチビ、ふるえて声もでないのか」
「這いつくばっておれたちの靴をなめれば許してやるぞ」
黙っている祐介を少年たちは口々に嘲った。いずれも聞き覚えのある声だ。祐介も中背をいくらかこえるが、彼らはずっと大きい。貴族の平均身長は平民より約十センチも高いのだ。
祐介は明るい宿舎の入口をみた。こんな連中の相手になることはない。
「宿舎に逃げてもむだだ。たすけてくれるやつなどいないぞ」一人が見すかしたようにいった。
駆けだそうとした祐介の足はとまった。残念ながらその通りだ。もしこれが、たとえば馬丁たちの殴りこみなら園丁仲間が加勢してくれるだろうが、貴族の子弟が相手では誰も部屋から出てこないだろう。
「それとも仲間の見ている前でぶざまに引きずりだされたいか」
祐介は宿舎に戻るのをあきらめた。
「どこへ行くつもりですか」
「おとなしくついてくればわかる」
四人に囲まれるようにして祐介が連れてこられたのは馬場の一角だった。日没後は人影がなく、宿舎や管理棟からも離れていて、多少の声をあげても誰にも聞こえない。
逃げるのは簡単だが、こいつらのことだ、きっと図に乗って宿舎の中までも追いかけてくるだろう。仕方ない、ここは体育館の時のようにそれらしく五、六発も殴られてやるか。古参の隊商夫の塩味のきいた鉄拳ならともかく、お坊っちゃんの蝿のとまりそうな突きや蹴りなど、相手の呼吸を外し、腕と脚で急所を守れば、痣ぐらいですむ。
むろん反撃はできない。貴族の公子が身寄りのない平民の子を殺したところでせいぜいが謹慎処分くらいですむが、おれが彼らに怪我をさせたら場合によっては死刑だ。こいつらもそれを知っているのだ。
「交易屋の色子風情がベールヘーナさまに色目をつかいおって。身のほどをわきまえるよう体に教えてやる」
頭分の少年が凄んで、ちらと仲間をうかがう。皆がわっと囃す。少年は得意そうにうなずいた。
やや前かがみの受身の構えをとっていた祐介は、背筋をすっと伸ばした。少年たちに狂気の匂いを感じたのだ。
体育館の時は少なくともフェルデ自身は冷静で、手下たちを完全に掌握していた。だがこの四人は互いを恃んでいる。指導者のいない小さな群集といっていい。しかも人目のない馬場は一種の密室だ。こんな状況でなまじ無抵抗だったり中途半端な抵抗をすれば、かえってこいつらの嗜虐心をかき立て、暴走させてしまう。やるしかない。
祐介は自然体でさりげなく間合をはかりながら〈回廊語〉で頭分の少年に声をかけた。
「アールドベンさま、焼きもちですか。みっともないですね。でもベールヘーナさまの眼中には、あなたたちなどありませんよ」
アールドベンと呼ばれた少年は、びっくりして仲間と眼を見交わした。庭掃き風情がなぜこんな流暢な〈回廊語〉を話せるのだ。しかもおれたちの正体にも気づいている。
だがアールドベンの脳裡には、まだ頭を抱えて体育館の床にぼろ雑巾のようにうずくまっていた園丁見習の姿がある。彼は仲間の尻を叩くように叫んだ。
「こっちは四人だ。片づけろ」
ひとりが進みでて、威嚇するように大きく右の拳をふりあげた。祐介は両手をさげたままだ。
アールドベンの眼に憫笑の色がうかんだ。骨がありそうにみえても、しょせんは庭掃きだ。見ろ、観念して抵抗する根性もない。
少年は練習用の砂袋でも殴るように拳をふりおろした。瞬間、祐介が狼の牙を?(む)いた。相手の拳を左手で受け流すと同時に半歩踏みこみ、顔面に右の裏拳を叩きこむ。たまらず膝から折れ崩れる相手をアールドベンめがけて突き飛ばす。
「このチビ!」
横の少年が叫んで放った回し蹴りを体を沈めてかわし、無防備に伸びきった軸足の膝を足刀で踏み折った。
ふりむくと、アールドベンは抱きとめた仲間をやっと横に払いのけたところだ。祐介は追いこむように間合をつめ、腰の入っていないアールドベンの拳を払い上げ、がら空きになった脇の下に、腰と肩のひねりをきかせた肘を叩きこんだ。ここは筋肉で守られていない急所の一つだ。
闘いが終わるまで一分とかからなかった。地面には右肋骨を折られたアールドベンと鼻骨を砕かれた少年がうずくまり、一人は妙な方向に曲がった膝をおさえてうめいている。
「その人の膝、早く医者に診せないと、まるまる再生しなきゃならなくなりますよ」
祐介は、茫然と立ちつくす残った一人に言い捨てて立ち去った。
宮廷警察の小会議室に集まったのは判事、宮廷警察官、書記、それに皮手錠をかけられた祐介と両脇の看守の六人だけだった。
まず書記が罪状を読み上げた。祐介が品行方正な貴族の少年たちを待伏せし、大怪我を負わせたのだという。一人が四人を襲ったという不自然さには、誰も疑問を持たなかったらしい。
「それに間違いないか」判事が訊いた。
「間違いありません」警察官がこたえた。
誰も祐介にはきいてくれなかった。もっとも口を粘着布でふさがれていたのでは返事のしようもないが。
「判決を申し渡す。被告を鞭打ち二十回と懲戒免職に処する」
判事は無表情に祐介を見てつづけた。
「明らかにされた証拠により、本来ならば被告に鞭打ち百回と無期限の強制労働を宣告するところである。しかしアールドベン財務卿より、被告の年齢ゆえの未熟さを考慮すべきだとの意見があり、特別な減刑が認められた。ちなみに鞭打ち百回による死亡率は三割以上である。おまえは非常に幸運だった。アールドベン卿に感謝しなくてはならん」
幸運だとも思えなかったし、感謝する気にもならなかったが、幸いそれを言葉にすることはできなかった。
「刑の執行は、この判決が法務局により認定されしだい速やかにとり行なわれる。それまで被告は禁錮される。以上で閉廷する」
こうして裁判は――これが裁判といえるなら――二十分たらずで終わった。祐介は十八日間いた独房にまた戻された。
あの夜、宿舎で宮廷警察官に逮捕された時、祐介は朝になったら辞めるつもりで私物をまとめているところだった。夜逃げしなかったのは、まさか貴族の公子が自分たちの恥を宣伝するような真似はしまいと考えたからだ。おかげで独房の中でおのれの甘さをたっぷりと思い知らされ、〝誇り高い貴族〟という幻想が最後のかけらまで砕け散った。
いきなり扉が開いて看守たちが入ってきた。いつの間にか夏の陽が傾いている。
「脱いでこれを着ろ」
看守はいって、貫頭衣をよこした。
「便所に行っておけよ」別の看守がいった。
競技場の一隅にはすでに柱が立てられていた。観覧席には今日の作業を終えた連中がかなり集まってきている。
祐介は皮手錠をかけられた両腕を看守にとられ、野次馬の環視の中を歩かされた。柱の前まで来ると、看守に両手を持ち上げられ、柱の鉤に手錠をひっかけられた。吊し上げられたまま顔を横に向けると、特等席に陣取っているアールドベンと眼が合った。闇討ちの仲間もいる。アールドベンは口の端をゆがめ、横の少女にこれみよがしに話しかけた。
祐介はふたりの公女の姿がないことにほっとした。フェルデ一派もいないようだ。アールドベンたちよりは恥を知っているらしい。
看守が罪状を読み上げ、祐介の服を脱がした。両肩の紐を解けばするりと落ちるという仕組だ。下には何も着ていない。アールドベンが祐介を指さして、隣の女の子に笑いかけた。少女は両手で口を押さえ、眼を丸くしている。祐介は天をにらみ、歯をくいしばって涙をこらえた。
「始め」
太くて重そうな鞭を手にした看守が進みでた。
「ひとーつ」
背中の鳴る鈍い音が見物人たちの耳を打った。
祐介は衝撃に一瞬痙攣した。肺の空気が一気に吐き出され、息がとまる。だが恐れていたほど痛くはない。これなら耐えられる。
「ふたーつ」
二発目はまさに激痛そのものだった。身体が痛みをおぼえてしまったのだ。呼吸ができない。
苦痛をじっくりと染みこませるかのように、間をおいて重い鞭が襲う。もうアールドベンや裸を気にする余裕などない。一発ごとに頭の中が爆発する。
もはや笑う者もささやく者もいない。観覧席は重苦しい沈黙につつまれた。鈍い鞭の音と数を告げる看守の声だけが競技場に響く。
「踏ん張れ。引きずっていかれたいのか」
耳許で怒鳴る声に、柱に抱きついた。いつの間にか手錠がはずされている。頭から毛布をかぶせられ、体を隠された。
「よし、行くぞ」
両脇をかかえられて果てしなく歩かされ、ようやく馬車の荷台に乗せられた。揺られながら顔が涙と涎で汚れているのに気づいた。途中で鞭の数もかぞえられなくなった。きっと悲鳴もあげたのだろう。
祐介は毛布の中ですすり泣いた。
次回から第三章に入ります。
次回から第三章に入ります。