02-02 〈大変動〉
祐介は通された部屋を見まわした。すでにベールヘーナがハンメルダール侯爵の息女であると聞かされてはいるが、古びた絨氈や年代物の家具からはそうした華やかさはうかがえない。壁の書棚いっぱいにならんでいる蔵書は、素人目にも〈大変動〉以前の貴重な古書とわかる。背表紙をざっとながめたが、知っている題名は一冊もない。
かすかな衣擦れに振り返ると、部屋着に着替えたベールヘーナ姫が入ってきた。祐介は丁寧にたすけてもらった礼をいった。
ベールヘーナは窓際の椅子をすすめて、
「本が好きなのですか」
「よく読みます。もちろんこうした紙の本ではなくて結晶本ですが」
結晶本は子供の手のひらほどの薄い硝子板で、小さな辞書くらいは記録できる。読むには読書器が必要だが、安価で手軽なので、庶民にとって本といえばもっぱらこれだ。紙の本は今も印刷されているが、装丁にも贅を尽くし、庶民にはとても手が出ない。読むよりはむしろ書棚を飾るためのものだ。
「そこの古書は先祖が〈旧世界〉から持ってきたものです。もう百八十年になるわ」
祐介は黙ってうなずいた。家系を重んじる領主や貴族はたいてい〈旧世界〉人の子孫を称している。しかし〈旧世界〉から移住するのにわざわざ重くてかさばる紙の本を運んだりするだろうか。無理に由緒をつけるより、むしろ開拓者として成功してからこれだけの蔵書を収集したことの方が自慢になるのに。
その昔、月の裏側に巨大な小惑星が衝突した。長軸の長さが月の直径の四分の一近くもあり、あと少し大きければ月は完全に砕けていただろう。おかげで満月の端が永遠に欠けてしまったのが肉眼でもはっきりと見える。ごっそりと抉り取られた月の裏側と小惑星のかけらは宇宙にはじきとばされたが、その一部は地球の引力に引き寄せられ、隕石となって地球を爆撃した。
陸地を襲った巨大隕石は一瞬で都市や森を蒸発させ、舞い上げた土砂で河川や田畑を埋め、一帯を沙漠に変えた。さらに激突の衝撃で生じた亀裂は地殻の底まで達し、大地は傷口からマグマを噴出させて激しく震えた。天山山脈もこの時にできたのだ。
海に落下した巨大隕石はさらに大きな被害をもたらした。高さ数十メートルにも達する大津波が発生し、人口の密集している沿岸部はもとより、平野部の都市と工業地帯を広範囲にわたって潰滅させた。世界を動かす頭脳と心臓のほとんどが消失したのだ。これがいわゆる〈大変動〉である。
しかし本当の災害は、むしろこの後にやってきた。
衝突のエネルギーによって一瞬にして蒸発した膨大な量の海水に加え、成層圏にまで達した大量の火山灰は分厚い雲となって空をおおい、太陽の光をさえぎった。伝説では夜が半年もつづいたという。
このため気温が下がり、水蒸気は豪雨となって地表を叩き、泥流となって、内陸部に生き残った人々の家や農地を容赦なく流し去った。
水蒸気が減って雲が薄れても、太陽を隠した火山灰の傘はまだ消えない。気温はさらに下がりつづけ、降りやまぬ雨はついに雪に変わり、地表を白くおおった。〈塵の冬〉の始まりだ。
ようやく太陽の光が地上に届くようになったときには、しかしすでに陸と海の多くは雪と氷におおわれ、太陽熱は地表を暖めることもなくむなしく反射した。
〈塵の冬〉はおよそ三十年つづいた。雪と氷に閉ざされた世界で人々がわずかに生存を許された場所、それは皮肉にも〈大変動〉で生まれた大地の火傷――火山の周辺だった。地熱と温泉を利用して広大な温室がつくられ、生き残った動植物の生命をかろうじてつなぐ雪原の緑地となった。現在の天山連邦も山脈の北麓に建設された温室群を母体として発展したのだ。
ようやく寒気がゆるむと、穴ぐらから這い出してきた人々は後退する雪原を追って土地を耕し、大事に守り育ててきた家畜を増やし、ふたたび地表を取り戻していった。
ただ、無限の電力に支えられた文明は復活しなかった。原子力発電所はすべて廃棄されるか停止しており、火力発電は化石燃料の枯渇で先細りの状態だ。あとは水力、風力、地熱、太陽光などの発電に頼るしかなく、世界のほとんどの地域で工業は町工場以上の規模には成長できなくなった。
〈塵の冬〉のあいだ世界を支えたのは〈旧世界〉、すなわち〈大変動〉の混乱を乗り切ることのできた少数の先進国だった。〈冬〉が終わった後も〈旧世界〉諸国はビスビュー家のような各地の開拓国家に投資して再建をたすけつつ、それぞれの経済圏におさめていった。物流が盛んになって共通の経済圏が広がれば、互いの紛争も避けられるはずだ。
天山南麓の再開発を支援したのは北欧の〈旧世界〉だった。そのため数世代を経た今でも、貴族階級には北欧系の特徴が濃く残っている。ビスビュー家のように家柄を誇る貴族にとって、先祖が〈旧世界〉人というのはこの上ない箔づけになるのだ。
祐介が書棚に視線をひきつけられているのを見て、ベールヘーナがたずねた。
「あなたはどんな本が好きなのかしら。物語? それとも詩集とか」
「いろんな技術書です。あとは商品の説明書かな」
「――それって、面白いの?」
「物語ほどじゃありません」祐介はほほえんだ。「ただ、仕事の役には立ちますよ」
ベールヘーナはあきらめたように首をふり、話をかえた。
「なぜ追われていたのですか」
「売られそうになったからです」
「まさか」ベールヘーナは思わず叫び、あわてて指先を口にあてた。「天山回廊に奴隷制度なんてありません。人身売買は重罪ですよ」
「ということは、裏では売買されているわけでしょう。あ、もちろんおれは奴隷じゃありません」
祐介はホンという交易商の隊商の一員で、おもに天山南回廊を往復している。ビスビューを訪れたのもこれが三度目だ。
天山回廊とは、天山山脈の麓をめぐる交易路をいう。五、六千メートル級の高峰が壁のように東西に連なるこの山脈は、南側は草原地帯、北側は森林地帯と、気候までちがう。
越えるには峰々の間を縫って道ともいえぬ道をたどるしかないが、ヤモリのように絶壁にへばりついて渡らなければならぬ難所も多く、馬や騾馬ではまず越えられない。浮揚筏にしても、こんな高峰を越えるだけの燃料を積んだら貨物が載せられない。
そのため両山麓の間は直線距離でわずか四、五十キロほどしかないのに、物資を輸送するためにはわざわざ東西いずれかの山麓をまわらなくてはならない。天山回廊は東西だけでなく、南北交通の大動脈でもあるのだ。この大動脈の周囲に天山連邦、あるいはハンメルダール侯国のような大小の国家が複雑な縞模様をつくりあげている。
「ホン社長は、商人としてはなかなかやり手なんです」
本来なら、とうに回廊西端の大都市西宮か東端のゼウンガールに本店を構えていてもいいはずだ。それがいまだに一年の大半を隊商とともに旅の空で暮しているのは、生来の博打好きのせいだ。
「ふだんはがまんしているけど、酒が入るとつい手が出てしまい、そのたびに猛烈に後悔して心を洗い直すという繰り返しなんです」
「賭事が弱いのですか」
祐介はうなずいた。「でも社長にいわせると、それも商売のためなんだそうです。人の好運と不運は釣り合っている。だから博打で負けた分、本業の商売がうまくいくというわけです」
「変わった考えですね」
「でも社長に関していえば真実ですよ。商売で儲けた分を博打ですっているわけですから」祐介は肋に響かぬようそっと笑った。
隊商を率いてハンメルダール侯国に入ったホンは、昨夜ビスビューの宿で、昔の顔なじみの商人ハザードに再会した。懐かしさに酒を酌みかわすうち、気づいた時には荷はすべてハザードに巻き上げられていた。
一夜明けてさすがに血の気をうしなったホンに、ハザードは、祐介を譲るなら荷の半分を返そうと申しでた。
「譲るなんて、まるで人を品物扱いではないですか」
「雇用契約書を担保に金を借りている人は、契約書が他の業者の手にわたると自分もついていかなくちゃならないんです」
「それを人身売買というのではなくて」
「さあ。でもそれで誰かが罪になったという話はききません。だいいちおれには借金がないので、雇用契約書には雇用条件の確認の意味しかありません」
「では譲られることもないはずですね」
「ええ。しかし社長にとっては荷の半分がかかっていますからね。なりふりかまわずってやつです」祐介は他人事のようにいった。
「不当な移籍ならば、交易従業者組合か、わが国の商務監察局に申し出ればよいのに」
「その前に、社長かハザードにつかまってしまいます」
祐介は移籍を知って宿から逃げ出した。慌ててホンと部下が追う。人垣にぶつかり、あやうく追いつかれそうになったとき、たまたま騎兵の護衛つきの高級乗用筏が来るのを見て、とっさにその前にとびだし、狙いどおり城内に運びこまれたというわけだ。
「受身には自信があったんですが、思ったより筏が固くて」
ベールヘーナは眼を丸くした。きつい声で、
「なんて危ない真似をするのです。打ちどころが悪ければ肋にひびだけではすまなかったのですよ。それに、わたくしたちがあなたを乗せるとはかぎらないではないですか」
「おっしゃる通りです」祐介は顔を赤らめた。「もし考える時間があったら、絶対にやらなかったと思います」
「あきれた」言いながらもベールヘーナの頬に笑みがうかんだ。「でも、なぜハザードから逃げるのですか。彼はあなたのことを高く買っているのでしょう」
「べつにおれの能力を買っているわけじゃないです」祐介は吐き捨てるようにいった。
「それでは何を」
「それは――いいたくありません」
はっきりした返事に公女は一瞬表情を固くした。が、すぐに何もなかったように、
「あなたをかくまうのはかまいませんが、ここを出ればすぐに捕まってしまうのではなくて」
「だいじょうぶです。社長は明朝出発する予定だし、ハザードだっていつまでもここに滞在しているわけにはいきませんから」
「でもホンは、荷をハザードにとられてしまったのでしょう。出発できるのですか」
「注文済みの品もあるから、すっからかんになったわけじゃないです。売掛金も残ってるし、社長のことだから、また振り出しからやり直しますよ」
「あまりホンのことを恨んではいないようですね」
「悪い人じゃないんですよ――賭事さえしなければ」
祐介は笑いかけて顔をしかめた。肋に響いたのだ。
夕方おそくストレイが公女の邸を訪れ、少年の身元についてわかったことを報告した。
「なかなか面白い坊主です」
ホンの隊商に入ったのは二年ほど前だという。野盗に襲われた開拓団のただ一人の生き残りと称しているが、開拓団の名前や襲われた場所など、詳しい身の上は語ろうとしない。
「顔つきと名前、それに〈回廊語〉が達者なところからすると天山連邦の出身でしょう。それがなぜ南回廊の隊商に入ったのかはわかりませんが、他の言葉もいくつか話せるし、あの齢で動力筏の操舵助手までまかされていたそうです。移籍に関する事情も坊主のいうとおりでした。ホンという商人、どうやら賭金以上の損をしたようですな」
「でもあの子の話では、ハザードは彼の能力には関心がないということですが」
「それなのですが……」
急にストレイの歯切れが悪くなった。
「なんですか。はっきりいいなさい。わたくしは驚きません」
「アキツは今どこにいますか」
「召使たちと夕食をとった後、召使部屋で眠っているそうです」
「それはまた、神経が太いのか、鈍いのか」ストレイは感心してみせて、「実はハザードという男、稚児趣味があるというもっぱらの噂です」
「ちご……? あっ」
ベールヘーナの顔が真っ赤に染まった。
ストレイはとぼけて、「たしかにアキツは美少年といえぬこともありませんな。姫さまはどうお思いですか」
「知りません!」
「わたしにはそういった趣味はありませんが、ことによるとあの手の子が、その道の連中の好みなのかもしれませんな」
「ストレイ、わたくしをからかっていますね」
警護隊長は笑って、「あわてて逃げだしたところをみると、あの坊主にはまったくその気はないようです。となると別の意味で心配です。今夜はとりあえず警備本部に泊めましょう」
「そうですね」公女はうなずき、「でも、どうやら真面目な子のようですね」
「おっしゃる通りですが、とっさに身を捨てて危機から逃れるなど、そこらの虚勢を張っている悪ガキどもにはできません。見かけよりしたたかな坊主ですよ、あいつは」