01-02 地下室
それからどれだけの時間がたったか。
父さんと母さん、それにお姉ちゃんは逃げられただろうか。
地下室でひとりきりだ。馬賊たちの顔が想い浮かび、不安で胸が苦しくなる。
敵はたくさんいたけれど、母さんの銃の腕前ならきっと誰も近づけなかったはずだ。父さんだって馬の名手だ。気絶したお姉ちゃんを抱えたままでも、あんな盗賊たちにつかまったりしない。たぶん山のほうに避難したんだ。隠れる場所はいくらもあるし、道を知らない盗賊たちには追いかけられっこない。まだ戻ってこないのは、遠くに逃げたせいだ。きっと明日あたりには帰ってくる。
そうだ、そうに決まっている。父さんだって五日間は待てといったじゃないか。そうなったらみんなで、どんなに恐かったかを白状しあって笑うんだ。
非常食は小さな袋に分けて密封された焼米だ。米を籾のまま炒り、碾いて籾殻を除いた保存食である。ふつうは湯をかけて食べるが、粉のままでも香ばしくてうまい。浄水器の水は排泄された水分を浄化したもので、初めて飲む時は決心がいった。
不規則に眠ったり起きたりしているうちに何日たったか分からなくなってしまった。そろそろ外に出ても安全かと考えていた頃だ。激しい雨が降りだした。
出るのは雨のやむまで待つことにしたが、壁の亀裂は見た目より大きいらしく、床に雨水が溜りはじめた。布団が濡れてしまう。棚から荷物をおろして布団を上げようともがいているうちに棚ごと倒れ、頭を打ってしまったのだ。
いつのまにか雨水は脇から耳の線にまで溜まっている。このまま降りつづけば、すぐに口や鼻のところまできてしまう。
どうせなら俯せに倒れていれば、背中で棚を持ち上げられたのに。祐介は考え、すぐに胸の中で首をふった。いや、それでは今頃とっくに顔は水の中だ。
ついに水は頬をひたし、鼻に達した。懸命に身をよじるが、棚と床の間に肋がつかえて上体がぬけない。肋などいっそ折れてしまえ、ともがいても、まるで枠にはめこまれたように動かない。
水を吸い込み、鼻の奥に痛みがはしる。必死で顎を突きあげ、かろうじて鼻と口を水の上に出した。口をすぼめて懸命にわずかな空気を吸う。一回、そしてもう一回。
「死んでたまるか死んでたまるか」
心の中で呪文のように唱え、恐慌をきたす崖っぷちでかろうじて踏みとどまる。
水が喉に入った。そして顔が水の下に隠れた。死ぬのかぼくは、こんなところで、父さんや母さんも知らないうちに。祐介は頭の中で絶叫した。いやだいやだ、死にたくないよ! お姉ちゃんたすけて。
棚がかすかに動いた。
あとは夢中だった。
どうやって棚の下からぬけだしたのか自分でも覚えがない。増えた水の浮力で木の棚がわずかに軽くなったのだと思い当たったのは、かなりたってからだ。
立ち上がろうと左手を床についたとたん激痛が脳天まではしり、息がとまった。骨にひびが入ったのかもしれない。
右手で揚板をあげようとしたが、上になにか載っているらしく、動かない。腰をかがめて背をあてた。階段の踏板に足を踏ん張り、繰り返し両肩で押し上げる。踏板が割れたらどうしようと、ちらりと頭の隅にうかんだが、それを気にかける余裕はない。
上で何か崩れるような音がした。わずかにあいた隙間から砂がこぼれ落ちる。勢いをえてさらに力をこめる。
と、いきなり板が開いて、光と一緒に泥や炭化した木片がどっと降りかかった。数日ぶりに地上にでた祐介の顔を冷たい雨が濡らした。
祐介は眼の前の光景に茫然とした。
我が家が――母家も納屋も廏舎も――なくなっている。ただ黒い焼跡が雨に打たれているだけだ。
眼をあげて、見慣れたはずの村をさがした。
栗の樹の下に加地さんの家がない。大きな黒いしみが見えるだけだ。安井さんの家があったところにも黒い小山しか残っていない。辻村さんの家はあるが、辻村さんが独りで積み上げた自慢の煙突がない。それに屋根も半分なくなっている。
だいたい村の人はどこにいるんだ。馬や牛はどうした。よく吠える安奈の犬はなぜ黙っている。
すべてが死に絶えた静寂の中、雨音だけが地から湧きあがってくる。
これがぼくの家、村なのか。
雨でも押さえられぬ異臭が祐介を我に返した。あらがいようのない力に引きずられるように、祐介の足はかつて居間があったあたりに向かった。
瓦礫の間を拾うように足を運び、崩れた暖炉の横に近づいたとたん、祐介は息をのんで立ちすくんだ。
凍りついたように動かぬ肩の上に、冷たい雨が静かに降りそそぐ。
やがて眼を上げ、のろのろとあたりを見まわした。夢じゃない。これは現実なんだ。祐介は両親との暮しが永遠に戻ってこないのを胸に鏨で彫りこまれるようにはっきりと悟った。
地下室で雨をしのぎながら、乾いた布と服をさがし、濡れた体を拭いて着替えた。左腕が熱を持っているが、痛みはさして気にならない。それよりも父さんと母さんをこのままにはしておけない。
雨はまだ降っている。祐介は壁にかかっている合羽を羽織って外に出た。ひとりでは庭まで運べないので、この場に塚をつくることにした。暖炉の石だけでは足りず、泥の中から壁のかけらや屋根を葺いた石を拾い、雨で洗いながら遺体のまわりに積み上げる。
ずいぶんと時間がかかったが、やっと遺体を囲むことができた。いつしか雨は小降りになっている。
土を運ぼうと納屋の焼跡で農具をさがしたが、役に立ちそうな道具はひとつも残っていない。小さな板にのせても両脇から流れ落ちてしまう。仕方なく合羽を脱いで砂利と泥を包み、焼跡に運んだ。どのみち雨はあがるところだ。
十歳の子供が片手で運べる量だ。何度運んでも、なかなか遺体を覆うには足りない。だが単調な作業の繰り返しは、一種の祈りにも似た効果があった。そして往復のたびに変わり果てた遺体を目にするうち、深く静かな諦めが徐々に祐介の胸を満たしていった。
小さな塚が二つ、できあがった。
葉月の遺体は、すくなくとも家の周囲、近所には見つからなかった。
きっとお姉ちゃんは生きている。そうだ、あいつらにひどい目にあわされても、生きていてくれさえすればいい。必ずぼくがさがしだし、救いだしてみせる。そしてまた一緒に暮らすんだ。ふたりで力を合わせれば、なんとかなる。家を建てなおし、また田を耕し、そして……。
祐介は三角巾に左腕を吊し、残りの食料と着替えの服、懐中電灯を防水布に包んだ。右手と歯だけを使い、時間はかかったが、なんとか縛ることができた。台所の跡でみつけた暗視鏡は火がかかっていて、のぞいても視界はまっ暗で、使いものにならない。
雨があがった。
祐介は包みを手に地上に出た。
はるかな頂を雲に隠した山々にかこまれ、岩間村はその荒涼とした姿を薄日にさらしている。
祐介は長い間、両親の墓に頭をさげ、そして歩きだした。一度も出たことのない外の世界に向かって。