妻の特権3
フィカルが見せてくれた本は、タイトルが『心地良い生活と清潔のための住居用浴場』というそのままのものだった。
金銀の箔押しがしてあって装丁が豪華なのは、お風呂を家に造る人にお金持ちが多いからかもしれない。
「この本、いつ買ったの?」
「少し前にロランツに頼んだ」
そういえば少し前に、ロランツさんに手紙を書いていたときにフィカルが「これも同封してほしい」と二つ折りにした便箋を渡してきたことがあった。ネイガル邸には大きな書物庫があっていろんな分野にツテがあるので、お風呂の本を買うことができたようだ。
本を開いてみると、専門書と格闘することが増えてきた私でもウッとなるような字の細かさだった。昨夜、この朗読を聞いてすぐに寝落ちしてしまったのは、フィカルの声がよいお声だっただけじゃなかったらしい。
しばらくめくってみると図解なども載っていたけれど、細かい数字やら計算式やらが出てきて私はそっと本を閉じた。
「なんか……すごく難しそうだね」
「難しくはないが、魔術がいる」
「あ、そうだよね、うちの温水もなんか魔術使ってるもんね」
この世界では家を建てるときに、家の基礎部分に魔術陣を描いていることが多い。魔術の内容は家を虫や災害から守るようにという弱いおまじない的なものや老朽化を遅らせるものが一般的だけど、断熱効果を高めたりお湯の温度を調節しやすくするようなものもある。貴族のお屋敷には、室内で剣を抜きにくくさせるものや、魔術師が魔術を使えないようにするものもあるそうだ。
うちは貴族みたいなお屋敷ではないけど、家の魔術を安定させるのにちょうどいい魔石をたまたま持っていたのでちょっと豪華な仕様になっている。普通にシャワーの温水を使おうと思ったらまず薪でお湯を沸かしてそのお湯と水を混ぜて使うことになるけれど、うちはシャワーは薪を燃やさずに使える。詳しくは知らないけれど、暖炉やコンロの熱を溜めておいてシャワーの水をいい感じの温度に変える魔術を使っているらしい。薪でお湯を沸かしてからのお風呂はめちゃくちゃめんどくさいので、それだけでも大助かりだ。
「魔石使ってまた温度調整できるようにするのかな? でもこの位置だと家からちょっと離れてるよね。水を引いたり排水の工事もしなくちゃいけないし、結構大変なんじゃない?」
気軽に湯船に浸かれる生活はできるならしたいけど、この世界でやろうと思うとすごく大変な気がする。水を汲むのも疲れるし、お手入れにも手間がかかるだろう。
今の生活でもギルドに行けば大きいお風呂があるので、お手入れの苦労を考えると無理して作らなくてもいい気がする。フィカルは頑張りすぎなところがあるし、建てるのとかお手入れとかが負担になっても困るし。
私がやんわり言うと、フィカルがしばらくカップを見つめてから言った。
「浴槽に入るとスミレが喜ぶ」
呟くような言葉が私の心にストレートに刺さったのは言うまでもない。
私の旦那様、私が喜ぶことに対しては時々びっくりするくらい労力を惜しまないときある。
私がお風呂好きだと知っているから、フィカルは家でもゆっくりお風呂に浸かれるようにしようと頑張ってくれているようだ。
「そ、そっかー」
私はにやけてしまうのを一生懸命我慢しつつ、アルの鼻筋を撫でた。ぐるぐる喉を鳴らしている大きな音も、私の精神を落ち着かせるにはちょっと足りない。
「うん、お風呂、うちにもあったらやっぱり嬉しいよね。ほら、冬はやっぱりしっかりあったまりたいし、フィカルが狩りで疲れたときとかにもいいだろうし」
フィカルが私のためにやってくれた、となると途端に弱くなってしまう自覚はある。
でも何年経っても嬉しいのは嬉しいのである。ちょっと照れくさいけど嬉しい。お泊まりノロケ会で毎回のろけてしまうほどには嬉しい。
あんまり他人に関心がないフィカルの、私にだけ見せてくれる優しさ。そんなフィカルの気遣い、誰が無碍にできようか。
こうなったら、私が毎日水汲みや掃除をすることになってもお風呂建設は避けられない。さいわいギルドのお風呂掃除を何度もやってるので、この世界式の大きな浴槽のお手入れだって要領はわかってるし。
「よし! フィカル、お風呂作ろう! 私も手伝うよ!」
「条件がある」
「えっ?」
私が覚悟を決めると、フィカルが静かに遮った。
条件ってなんだろう。水とか魔術の関係で週一しか入れないとか? もしくは、構造上の問題で狭い浴槽になってしまうとかだろうか。他人を家に招きたくないフィカルだから、お風呂のことは他言しないでほしいというお願いな可能性もある。
「条件ってどんなの?」
「入るときは一緒に入ってほしい」
「……一緒に? お風呂に?」
私が尋ねると、フィカルはこくりと頷いた。
「他の人間はいないから、一緒に入っても問題ない」
キッパリ言い切ったフィカルに、私は思い出した。
確かに今までに何度か、一緒にお風呂に入るのを断る口実として「みんないるから」とか「外でそういうのは恥ずかしい」とか言ったような気がする。
もしかしてフィカル、私がお風呂好きだって理由の他に、私と一緒にお風呂に入りたいがためにお風呂建造をしようとしているのでは。
フィカルの目はじっと私を見つめている。
紺色の目はまっすぐだった。
「………………入ろう!」
恥ずかしいけど、いざ入るとなったらめちゃくちゃ照れると思うけど。
フィカルが私を喜ばせようとしてくれるのと同じように、私だってフィカルの願いは叶えてあげたい気持ちはあるのである。
こうまでしてフィカルが叶えたいなら、妻として拒否するわけにはいかない。
私の決断に、フィカルは目を細めてこくりと頷いたのだった。




