妻の特権1
ペン先をインク壺に浸そうとしたら、アネモネちゃんがそっと葉っぱを振った。
「ん?」
さかさかと私の手を止めたアネモネちゃんは、くるっと向きを変えて反対側をさかさか葉っぱで指し示す。そこにはマグカップが置かれていた。触ると、ハーブティーがもう冷めてしまっている。
ちょっと集中しすぎていたようだ。
ペンを置くと、握りっぱなしだった右手がちょっと固まっている気がした。
記録したデータをまとめるのは、こまめにやるとラクなんだろうけど、データが溜まってこないと見えてこない視点やアイデアがあってなかなか難しい。アズマオオリュウの記録は大体屋外で野宿か温泉で野宿な状態ですることになるので、余計にまとめるのが遅れがちだ。
記録データや走り書きメモと睨めっこしつつ文章をまとめていたら、いつのまにか時間が経っていたらしい。
夕食後に作業を始めたのでもうすでに外は真っ暗だけど、フィカルが止めに来ていないあたりまだ夜中というほどではないらしい。窓の鎧戸の隙間からフガフガと生温い空気を送り込んでくるアルももう寝たようで、部屋の中はとても静かだった。
ふと顔を上げたところで、私はとても貴重なものを発見する。
フィカルがめちゃくちゃくつろいでる!!
魔王を倒した勇者、最も強い冒険者、近衛騎士の誘いを断ったある意味勇者、剣の達人、色々呼び名はあるけれど、つまるところ私の夫、フィカルである。
竜にも勝てるほどの腕前なだけあって、フィカルは普段、あまり隙がない。ぼーっとしていても背筋は伸びているし、いつでもパッと戦う姿勢を取れる。背後から辻斬りが襲ってきたとしても真剣白刃取りなんて余裕、というかしれっと避けて反撃とかできちゃうタイプの人だ。寝ていても私がじっと見ているだけでぱちっと目を開けたりするので、多分マンガみたいに気配とか感じられる系の達人なのである。
トルテアにやってきた頃は特に、フィカルが寝ているところはもちろん、イスの背もたれを使っているところも見たことがなかった。というか食事や作業のときでなければあまり座らなかったし、剣もいつも持ち歩いていたし、人との距離も開けたがるしでほぼほぼ野生動物的な雰囲気だった。
たぶん、フィカルの生い立ちからして、油断できない環境で暮らしていて身に付いたものだったのだろう。いつでも野宿の暮らしに戻れるような、誰が敵に回っても動揺しないような、そんな身構えがあったような気がする。
それがどうでしょう。
今のフィカルは窓の下に造り付けられた座面の広いベンチで、クッションを枕にして寝転んでいるではないか。体幹しっかりな背中は座面に預けられ、片足は膝を立てて、もう片足はズレて床についている。だるだるな雰囲気で本を持ち上げ、ゆっくりなスピードでページをめくっているではないか。
うーん、最高ですなあ。スマホがあったら絶対記録するのになあ。
フィカルは私の視線を気にせず読書している。それをいいことに私は隙だらけな夫をしばらくじーっと眺め、そしてアネモネちゃんにそっとサムズアップした。
いつもしっかりしてる人がリラックスしてる姿、いいよね。
ていうかフィカルがだらっとしてる姿、最高だよね。
アネモネちゃんは私の親指をさわさわしてからよっこらせと花瓶をよじ登り、水に根っこを浸して大人しくなった。私は素早くペンを片付けて、音をあまり立てないように椅子を引いて、向かいに置いてあったブランケットを手にフィカルへと近付く。
あー、夫がこんな無防備な格好でいたら、風邪をひいてしまうかもしれないなー。
そんなことになったら大変だなー。
こんなかわいい夫にブランケットをかけるのは妻の特権、いや責務だなー。
たぶんニヤニヤしてたと思う私をフィカルは特に不審がる様子もなく、本から視線を移して静かにこっちを見ただけだった。ブランケットを広げると、おとなしく足を揃える。背の高いフィカルがしっかり寝転がれる広めサイズなのは、フィカル本人が設計したからである。
この窓の下のスペース、本当に便利だ。窓から鼻を突っ込んでくるスーやアルを撫でるのにも使えるし、昼間のんびりするのにも使えるし、フィカルがお気に入りにしているのも頷ける。
「よいしょ」
ばふっと持ち上げてフィカルにブランケットをかけ、私はすかさず自らの体もその下に滑り込ませた。
ふふ、夫を気遣う妻のフリをしてさりげなく懐に潜入する作戦は大成功である。
フィカルが一旦本を置き、私を自分の上に乗せるようにして落ちない窓際に移動させたので、別にさりげなさはなかったかもしれないけれども。
いい感じにフィカルの腕枕をゲットしたぞ。しかもフィカルは再び読書に集中し始めた。これはとても珍しい。くっつきに行ってかまってもらうのも嬉しいけど、気にせず自分のことをするフィカルを眺めるのもめちゃくちゃレアな感じで大好きなのである。
フィカルはあったかくて、石鹸のいい匂いがする。私はモゾモゾ動いてフィカルにくっつくよういい感じにフィットする位置を探し、フィカルの腕の先を見上げた。
「フィカル、何読んでるの?」
フィカルがちょっと顔を上げて、私を見る。私もフィカルをじっと見ると、フィカルは何も言わずに頭をクッションに戻した。それから、低くて心地良い声が静かに響く。
「この過程において最も重要なのは、基礎部に確実に魔術固定をすることである。上に建築するものがなんであれ、それは重要視されるべきではあるが、特に温水を扱う場合……」
リラックスしているフィカルが出す声はとてもいけない。こっちにもリラックスが移ってしまう。フィカルが何も言わなくても私がしてほしいと思ったことをしてくれて最高。
私は目を瞑ってフィカルの体温を感じ、声を聞いた。あっという間に眠ってしまったのは当然のことなのだった。




