スミレの隠しごと そのに1
むすっとしている。
フィカルの口が、への字になっている。
「ほら、竜騎士の人たち準備してるよ。早く行かないと」
見慣れぬ竜がくるくる回っている空を指しても、フィカルはむすっとして私を見たまま動かなかった。
むすっとしたフィカルが、すっと私の方へ両手を出す。
「いや、私は行かないから」
持ち上げようとしたその手を避けると、フィカルはますますむすっとした。
「説明したでしょ? 研究結果まとめたいからお留守番するって」
「向こうで書けばいい」
「この紙束持って、わざわざ荒野で書けというのですかフィカルさん」
開いたままの玄関のドアから見えるテーブルに、色んな資料が重なっている。こちらの紙は日本のものよりも厚めなので、ちょっとした束でも重みを感じる。あれこれ参照しながら書くなら大きなテーブルが欠かせないのだ。そして当然ながら手書きの貴重なものなので、地面に置くなんてもってのほかである。
今日から、フィカルはタラチネの竜騎士団とともに野営訓練を行う。
星7つ以上の高レベル冒険者に課されているもので、第一種危険魔獣に分類されている魔獣の討伐に75日以上参加しなかった場合、能力低下を防ぐため訓練に参加しなくてはならないのだ。これは冒険者の能力に合わせて適切な仕事を行わせるためでもあり、この訓練についてこれなければランクが落ちることもある、らしい。
いくら室内作業が続いても体がなまることはない羨ましい体質のフィカルとしては、面倒極まりない訓練のようだ。しかしこのトルテアを含む平和な東南地方では第一種に分類されるほど危険な魔獣に遭遇することはないので、ちょっと旅行しない期間が続けば決まりだからとすぐにギルドから訓練の案内が届いてしまうのだった。
トルテアから危険な魔獣がいる地域まではそこそこ遠い。なので遠出する予定があると75日をちょっとオーバーしても見逃してもらえたりするけれど、残念ながら収穫期である最近はトルテア周辺でのんびり仕事をすることが多かった。
多分だけれど、フィカルが勇者だということもあって、特に能力低下には目を光らせているのだと思う。中央ギルドの人たちとかが。
「たった2日か3日のことだし、わざわざ遠くまで行って討伐するよりすぐ終わるんだからちゃちゃっと終わらせちゃえばいいと思うよ」
「スミレを連れていく」
「いや話聞いてた? 今度の会報に載せてもらうための資料がこんなにあるんだよ。まだ半分も書けてないんだよ!」
トルテアから王都までは郵便も時間が掛かるので、早めに仕上げないといけないのである。スーに飛んでもらって自力配達したとしても王都までは1週間ほどかかるのだ。
2、3日あればかなり作業が捗る。フィカルはスーと空へ訓練に、私は家で締め切りに、ヒマなアルは一人庭でどんぶらこ、とそういう流れが一番効率的だ。
といっても、フィカルは私のことがすごく好きなので、あと私を一人にするのが心配すぎて離れるのを嫌がっている。いつもの光景である。
「アバレオオウシは先週狩ったからしばらく出ないだろうし、心配することないよ。買い物くらいは行くけどそれでもトルテアの街すらでないし、というか大体家で大人しくしてるつもりだし、アルもいるし」
したたたと主張する音が聞こえてきたので「アネモネちゃんもいるし」と付け足した。
「……」
「ほら、ゆっくりしてるとその分帰る時間が遅くなるから。戻ってきたらフィカルの食べたいもの作ってあげるから頑張って。揚げ物でもいいよ」
まだむすっとしているフィカルに、荷物を手渡す。ちゃんとフィカルが好きなカチグルミを煎ったものも入れておいた。
ふうと溜息を吐いてから渋々それを受け取ったフィカルが、緩慢な動作でスーの背に乗る。鞍を付けられてじっと伏せていたスーが嬉しそうに喉を鳴らして起き上がった。その隣で意味もなく伏せていたアルを、邪魔にならないよう私の横に呼び寄せる。
「怪我しないように気を付けてね! いってらっしゃーい!!」
「ピギャーッ!!」
見送る私たちの声にスーは吠えて返事をし、フィカルは片手を上げた。空に鮮やかな紅色の竜は、見る見るうちに遠くなった。
「ピギョーギャオーッ!!」
寂しそうに吠えるアルと、小さくなっていく姿を見上げる。
それが見えなくなった瞬間、私は走って家の中に戻った。
小さくなっている暖炉の火に薪を放り込み、大鍋に水を入れる。べべという魔草の根を刻み鍋に入れて蓋をしてから火にかけ、煮立つまでに家中の窓を開け、大急ぎで掃除を済ませる。雑巾を洗って手を洗い、ついでにアネモネちゃんの花瓶の水も取り替えて、二階に花瓶を置きに行くついでに窓を閉めて着替えも済ませた。アネモネちゃんは外へお出かけに行ってしまったので、一階の窓だけは開けておく。
大鍋を火傷しないよう気を付けながら火から下ろし、厳重に布で巻いて、さらにロープで巻いたあと、リュックを背負い鍋を抱えて私は玄関の扉を開ける。
「アル!」
「ピギャッ!」
フガフガと私の姿を追って窓に頭を突っ込んだり二階に鼻を寄せていたアルが嬉しそうに寄ってくる。心得たように身を低くするアルのその背中に大鍋を取り付けた。
それから森の方へ向かって大きく息を吸う。
「子ーヤーギーちゃーん!!」
「ピーギャーギューゥッ!」
爽やかな風が吹き抜ける。
しばらくするとカランカランと鈴の音が聞こえてきた。もっさり葉を繁らせた木の枝から、ぼっと音を立てつつ子ヤギちゃんが飛び出してくる。白い翼をはためかせて私の前に降り立った。
「ベェー!」
「子ヤギちゃん、久しぶり」
森でフリーダムに生きている子ヤギちゃんは、それでも呼ぶと必ず飛んできてくれる。私に撫でられ、アルと鼻タッチをした子ヤギちゃんは、そのまま大きな鼻筋に乗ってアルの頭の上でドヤ顔をした。
これで準備完了である。
「よし、行こう!!」




