仏さま
高速道路の高架部の路線沿いに腰かけた青年と少年は、となり合って口笛を吹いた。
地方の高速道は、時間帯によって交通量もまばらで、静止したように時間をとめることもあるし、アクセル音がひっきりなしにきこえてくることもある。足元には、その先端をとがらせる樹木がひしめきあっていて、暗い底は見えない。くれなずむ夕日は、向こう側に見える山の稜線を怪しく光らせ、街の通りを抜ける人々の影を浮き彫りにした。怪しく揺れる木々に囲まれた建設現場では、土埃にまみれた人々がせっせと体を動かしている。線路脇に止められた自転車に怒鳴りつける杖をついた老人、談笑に明け暮れる教室の学生。ここからはこの街が一望できる。次第に暗く成りゆく街並みを、俺はここから何度も眺めた。なんとなく神様になったこころもちだった。
「ねえ、ぜんぜんならないよ。」
俺の右隣りにちょこんと座っているそいつは、ふーっとかすれた音をさせながら口をとがらせている。あどけなさで占めた横顔は、まるで生きているようにみずみずしい。なめらかなスキンは幼き証明。こいつが死んだのは3日前。大きな爆音と共に空気が震える感覚がして、うしろを振り向くとそこには横転した車が、アクション映画並みに破壊されていた。見るからに単独事故だった。丁寧に引かれたブレーキ痕と、激突したバンパー。血だまりのようなものと、黒ずんだ油がアスファルトを染め上げて、「こりゃだめだろうな」と思った矢先、気づくと隣にこいつが座っていた。
「あれ?お父さんは?」
ふっくらした頬と、愛されたふくよかな体つき。笑ったときに食い込むえくぼは、ブルドックのようで僕はその少年をブルと呼ぶことにした。
「違うんだ、こう口をすぼめんじゃなくて、舌を突き出すように」
「ははは。変な顔~」
「うっぅう~、ほらお前がからかうから吹けなくなったじゃんか。」
「うっぅう~。」
そうやって僕の口を真似たブルは、真っ青なシャツで鼻を拭いながら、笑っていた。
すっかり自分が死んでいることなど忘れたように、無邪気さを漂わせている。ときおり見えるさみし気な表情さえ杞憂に思えてしまえるほど。
父親の喪失が、こいつにある種の心理的不安を与えていることは確かなのだが、俺がいるからなんとなく大丈夫な気がした。
ほんのりと鼻をついたあたたかな匂いは、僕が住んでいた家を思い出させた。
俺はちょうどひと月前、ここから飛び降りた。
乗り捨てた白い軽自動車。どうせなら高いところからと、柵網を握って上の方まで乗り越えた。下を向くと厳かな闇がひろがっていて、確実に死ねるのか不安になったが、前方に広がる海の雄大さに圧倒されて、気がつくと体がふわりと落ちていた。走馬燈はなかったが、落ちるときの下腹部がぞわぞわしたのと、地面に激突したときの衝撃はなかなかのものだった。まあそのあとはこのとおり、ちょこんと腰かけて夕日を眺めていた。
「ねえ、僕たちどうなるのかな。」
「わかんねえよ。そのうち仏さまが迎えにきてくれんじゃねえの?」
「仏さまっていい人?」
「そりゃいい人だろ。うちの母ちゃんが言ってたぞ。死んだあとは、仏さまのところでお世話になるんだから、いまのうちに徳を積んでおきなさいって。」
「徳って何?」
「うーん。いい行いってことだろ。例えばな、ごみひろいとか、人助けとかだ。」
「なら僕は大丈夫だよ!ゴミ拾いにも参加したし、みかちゃんに鉛筆をかしてあげた。」
「ほーう。それなら仏さまんところいっても大事にしてもらえるだろうよ。」
「お兄ちゃんは?いいことした。」
「俺か?俺は…そうだな。だめだろうな…。」
俺は何もしてこなかった。
ただ部屋を煌々と照らすディスプレイと、握ったコントローラーを離さず、世界から隔離されていることに安寧を感じていた。父親のいない母とふたり暮らしの郊外アパートで、隣接した道路から聞こえてくるクラクション、上か下かの隣人の怒号と窓から見える薄汚い公園。川辺を流れる虹色の生活排水はすっかり美しい。生態系を破壊してしまうほどに。
そういうネガティブ感情をいっぱいに受けて育ってきた俺の卑屈な感情は、母親からの愛情さえもうっとうしくさせていた。
「じゃあ、いってくるわね。」
あの日の朝だって、パートに出かける母の小さな背を眺めて、見送りの言葉をかけるかかけないかもはっきりせず、用意されたワンプレートランチのトーストをかじりながら、ブラウン管越しの、世界情勢を見守っていた。
朝食を終えると食器もそのままに、部屋にこもって向こうの世界に安寧を見出すのだ。
すっかり僕はもうだめになってしまっていた。人間としても、息子としても。
母の訃報が告げられても、それが現実に起こった出来事とは思えず僕は、いつものように部屋にこもっていた。画面の向こうの敵を、銃で撃ち殺す。
母の死因は自殺だった。職場のトイレで首をくくったらしい。まったく、息子を遺して逝ってしまうなんて、なんて無責任な親なんだ。不随意の涙が流れた。
部屋のドアを乱暴に叩きつける音と、くぐもった甲高い声。そっと開いた扉の向こうで姉が怒りに顔をこわばらせていた。
「あんた、お母さん死んだのよ。なにやってんのよこんなときにまで!頭おかしいんじゃないの?」
3歳年上の姉は、俺を卑下するような眼差しを向けていた。その奥に除いたあの薄暗い靄がまるで魔法のように俺を死へと吸い寄せたのだ。喪の匂いを身体に纏わせた姉の、その埋め合わせのような涙だけが俺にとって死んでもなお続く後悔となった。
俺は逃げるように家を飛び出した。世界も、自分も、何もかも嫌になった。そして気が付くとここにいた。
ぴーっという甲高い音が耳に届いて、俺はたちまち現実に引き戻された。そもそも死後の世界を現実というのかどうかもあやしいものだが。
「兄ちゃん!吹けた!吹けたよ!」
うれしそうに肩を浮かして、何度も音を鳴らす。この空気を突き抜けたその音は、遠く向こうの雑踏まで届いているのだろう。ただなんとなくそんな気がした
「お、ブルのくせにやるじゃん。」
そう言葉をかけてやろうとしたが、隣にいるはずのそいつは姿を消していた。現れたあの日と同じように忽然と。だが、ほんのやんわりとした光の粒子がそこにとどまっていたから、なんとなく俺はあいつが無事仏さまの元に辿り着いたんだろうと思って、横になって空を仰ぎ見た。
空はすっかり真っ暗で、いくつかの星がその心細い輝きで揺れていた。月の輪郭がぼうっと広がって、放たれた光が神秘的に路面を濡らしていた。獣の遠吠えが夜のとばりに波打って、犯行声明のように放たれた。なんとなく、今なら死んでもいい気がしてたまらなくなった。
もし生きていればの話だけど。
青年の死んでもなお美しきを見るその炯眼は、損なわれることなくはめ込まれていた。