1.落下星
1.落下星
「空は青い」と誰かが言った。俺はどうにも、この言葉が気に食わない。
「青」ではなく「水色」だとか、そんな細やかなつぶつぶっとした雲のような違いに、思わず首を傾げたり、
あの青は海の青なのだから、青いのは空ではない。と、揶揄したいわけでもない。
俺が知っている青はもっと暗い。別の色で表現すると藍色。芯のある、仄かに世界の暗さを含んだ、
そんな色をしている。もっとも、自分が空を見るときは、そもそも明るくないのだが。
俺が好きなのは「夜空」だ。一糸纏わぬ黒を土台に、深い青が重ねられ、その中にポツ、ポツと点描のように光る白。
すべてが共存しているからこそ美しい。相対的な存在、それがこれを美しいと思わせている。
夜空には、あげればキリがない美しさがある。
それを見ている自分でさえ、するっ、と美しさに飲み込まれていくような、錯覚さえ覚えるほどに。
言葉にすると安っぽく、自分の思考が夜の空に到底追いついていないことが虚しい。
俺はいつもの場所に向かった。
都会の喧騒は、夜の空を穢してしまう。
ただ汚れを持った都会の存在が、より一層、夜空の美しさを際立たせていた。
所謂「相対的な存在」だ。
これから星を見に行く。
昔からの習慣なのだ。
何か悩んでいることがある、とか、考え事をしたいとか。そういった類ではない。
ヒトが呼吸をするように、魚が泳ぐように。
夏は暑いし、冬は寒い。それと同じで、
「決まっている」ことの一つとなんら変わらない。自分の中では、そういうことになっている。
向かう場所は小学校の裏山だ。昔からこの場所が好きだった。
都会のように店やビルが立ち並ぶ、そこから少し離れた、電灯などは古ぼけた、
よく戦争を題材にした昭和の漫画で見るような町並みがあった。
大きな通りを抜けて、小学校の方へ繋がる舗装されていない樹木に囲まれた路地を歩く。
夜空ほどではないがここも好きだ。深みがあれば、青だって緑だってさほど自分の中では変わらない。
緑は近く、青は遠いイメージがある。
触れられるか、触れられないか。
この二つが俺の中で、夜空とこの路地の決定的な差を生んでいた。
手に入らないものは美しい。
「片思いしているときが一番楽しい」
なんてクラスの女子も言っていた。
夜空の星には触れられない。電飾と違って作れないし、人の手では追いつけない。
学校に着いて、裏山に登った。小さい山だが、当時は世界がそこだけのような気がしていた。
その外界には何もないのだと思っていた。
もっとも高校生にもなってここに来ている俺にとっては、今でも世界はここだけのままなのだが。
頂上付近には木などがほとんどない、ひらけた丘のようなところが広がっている。
俺は大体いつもここに寝転がって、夜空の星を仰いでいる。
理由なんてない。息をするのと同じだ。
いつものように目を閉じて、いつものように星を見た。いつになく綺麗に、光が広がっているように感じた。
それは気のせいではなかった。
明らかに一つ、一筋の光がここに向かってきている。どうりで綺麗に見えるわけだ。
気のせいなのか現実なのか当時の俺には曖昧だった。曖昧すぎて、今この状況が夢か現かわからない。
星が、落ちてきている。
強い光が一瞬視界を覆った。
走馬灯は見えなかった。
「いてて...」
死んではいない。死んではいないのだが、死ぬよりもっと非現実的なことが起きていた。
俺はさっきまで夜空を仰いでいたのだ、字のごとく仰向けで。息を吸うように、息を吐くように。
胸の中には、少しの痛みと、俺が半生感じたことのない柔らかさと温もりがあった。
綺麗な女の子が俺の胸の上に倒れている。
それを見るために少し頭を動かしたからか、彼女は目を覚ました。
ごめんなさい、と小さな声で、顔をリンゴのように赤らませ、起き上がる。
2、3歩後ろに下がって、こちらをじっと見ていた。俺もじっと見てしまった。
歳は同じくらいだろうか。
手入れの行き届いた黒、そこから毛先に向かって藍色のグラデーションがかかった髪。
前髪には星の形をした髪留め、すうっと通った鼻筋に、二重瞼のすぐ下から、
こちらを覗いて、瞬きをするせいで見え隠れする瑠璃色の瞳が目にとまる。
「...夜空みたいだ」
思わず声に出てしまい、ハっとする。自分の中で最上級の褒め言葉ともいえる単語が出てしまう。
「私が?ですか?」
どうやら聞かれてしまっていたようだ。
「君以外に誰がここにいるんだ」
なるべく気楽に、少し微笑んで返すと、彼女はどことなく嬉しそうにしている。
彼女にとって、夜空は褒め言葉なのだろう。
「私、夜空じゃなくて、星です。夜空にいました。でも落ちてきちゃったんです。
ここって、地球、ですよね。私ずっと見てました。地球を。
...だから、地球だ、っていうことだけはわかります」
「なんで落ちてきたかは、よくわからないんですけどね」
なんとなく納得してしまった。だって、この子は見た目こそ人間だが、
長い間夜空を見てきた俺にはそう感じられなかった。
現実味のない、手の届かないところにある、そんな美しさを放っていた。
手の届かないところにある美しさが今、手の届く距離にある矛盾。
その矛盾を足蹴にして、彼女の美しさはそこに立っている。
「そんなに、じろじろ見つめられると、恥ずかしいの、ですけど」
「あ、ご、ごめん」
見とれてしまっていた。少しどもった返事をして、彼女は口を開いた。
「私、もともと居たところに帰りたいのですが、あいにく方法がわかりません。
もしよかったら、帰る手段を見つけるのに、手伝ってもらえないでしょうか?」
「うん。いいよ、これも何かの縁だと思うから。」
美しい口が紡いだ美しい言葉遣いは、迷う暇さえ与えなかった。
「あと、私、さっき星とは言いましたが、名前があるわけではありません。
よろしかったら、何かいい名前を、つけてくれませんか」
「うーん」
いろいろ案が浮かんだ。だが、俺はさっき彼女をある言葉で表現した。それを思い出すと、
「夜空、にしよう。俺の見ていた夜空そのものだ。これ以外考えられないな。
きみはさっき、夜空じゃなくて星といったから、気に入らないかもしれないけど」
「いえ全然、素敵ですよ。さっきは少し戸惑っただけです。」
「向こうの星たちのほうが綺麗ですから、私にはちょっともったいないんですけどね」
星のような謙遜の仕方だった。少しクスっとして、
「俺は、星見。星見、空。よろしく。」
「私は、夜空といいます。よろしくお願いします。」
知ってるよ、と胸の奥で呟いた。