12章 嘆(なげ)く少女-1
【アイシス視点】
「はぁ…はぁ…」
満身創痍な先生が、どうにかリビングの椅子に腰掛ける。
風の吹く道を歩いてきたのに、額には汗が浮かんでいた。
歩くだけで、こんな状態なんて…。
痛くなる胸を、押さえつける。
罪悪感なんてものが自分にあるなんて、最近まで知らなかった。
「大丈夫?」
「ああ…すまない。ユイのおかげで、助かった」
来てもらって本当に良かった。
途中で先生が動けなったときにも、ユイさんの治癒の魔法のおかげで、どうにかなった。
私一人だったら、座り込んだ先生を前に戸惑うだけで、何もできなかったと思う。
「ユイも休んでくれ。俺以上に、ユイのほうが辛いだろう?」
「…そんなこと」
「甘い会話はそのくらいにして、少し寝なさいな。
お互いを気遣えるほどの余裕もないでしょう?」
「…はい」
「素直でよろしいわね。ベッドまで頑張れるかしら?
それとも、連れて行ってほしい?」
「いえ、大丈夫です。今日は、ありがとうございました」
痛みをこらえて立ち上がった先生が、深々と一礼する。
そのまま、足を引きずって階段を上がっていった。
「ったく、上出来だな」
「まったく意地っ張りなんだから」
階段の下から見守っていた二人が、楽しそうに笑いあう。
ここまで来る時も、この人たちはそうだった。
手を貸そうか? と言ったのは、ライズ&セットを出るときの一度だけ。
後は、先生が座り込んでも、同じ笑顔でずっと見ているだけ。
助けるのではなく、見守る。
それは、とても難しいことに見えた。
「ユイ、あなたも寝なさい」
「あたしは…」
「ティストちゃんも言ってたでしょう?
あれだけ治癒の魔法を使って、疲れないわけないわ」
「でも…」
「花嫁修業は、起きてからでも出来るでしょ? さっさとティストちゃんの毛布にもぐりこんできなさい」
「そ、そんなことしないよっ!!」
真っ赤になって抵抗するユイさんの背中を押して、階段を登っていく。
ああなったら、絶対に逆らえないのは、私でも分かる。
「アイシス、お前も寝とけ。
晩飯は用意しといてやるから、後で食べろ。
作り終わったら、俺たちは帰るからな」
「はい。ありがとうございました」
先生の分まで…そう思って、精一杯頭を下げた。
目を閉じて、浅い眠りを繰り返す。
どれだけ頑張っても、身体が熟睡してくれない。
あの二人みたいに疲れていない私が同じように眠るのは、何か間違ってる気がする。
暖炉に火を入れておくことくらいなら、私にだって、できる。
そう思って、毛布を持ったままベッドから降りた。
暖炉に火を灯す。
もう、ラインさんもシアさんも帰った後…か。
台所のほうから、食欲をそそるいい匂いがした。
「………」
見たら食べたくなる。
だから、暖炉前の椅子に腰を下ろして、毛布に包まった。
焚き木の燃える音が、心地いい。
じんわりと背中に広がる熱を感じて、目を閉じる。
うたたねでもしないと、空腹が誤魔化せそうにない。
食事が楽しみなんて、いつからだろう?
前は、絶対にそんなことなかった。
だって、クリアデルにいたときは、本当に酷かったから。
目を閉じると、勝手にその時のことを想いだしてしまう。
机とは呼べない粗末な台。
長机なんて高価な物を用意できるはずがないから、継ぎ接ぎだらけで、所々で高さが違う。
食べこぼしの跡、食器でつけられた傷、いびつなへこみと剣傷で、どこもボロボロになっていた。
小汚いトレーに載せられた、一人分の餌。
それが、隣と肩が触れあうぐらいの間隔で、敷き詰められている。
家畜と変わらない。
雑然とした部屋の中は、いつだって音が途切れない。
得意気な自慢話、気だるげな愚痴、怒声に混じって食器の割れる音とそのたびに上がる歓声。
そして、餌を咀嚼する汚らしい音。
入り口から一番遠い部屋の隅。
そのテーブルの一番端が、ここで最下層の私の定位置。
ただ、黙って目の前の物体を口に運ぶ。
味覚と嗅覚なんて、ないほうが幸せかもしれない。
イヤな臭みのある食べ物を、いつものように呼吸を止めて、なんとか口にする。
口の中で広がる、醜悪な味。
食欲なんてかけらもないけど、少しでも口に入れないと身体がすぐに衰弱する。
あの頃は、食事をすることが苦痛だった。
一人で、無言で食べられるときは、まだ良い方だ。
周りの喧嘩に巻き込まれたり、酔っぱらいに延々と文句を言われたり。
そんなことをしているうちに、疎外されることがささやかな幸せと思い込んでいた。
その価値観も、この家に来て、全て壊れてしまった。
いつからだろう?
食事の時間が待ち遠しく感じるようになったのは。
食事の時間に話をするのを、悪くないと思うようになったのは。
全ては、ここに来てからだ。
先生に会ってから…。
私は…。
「アイシス」
そう、この声。この声が、私を…。
「アイシス、寝てるのか?」
「?」
考え事を止めて、目を開ける。
向かいの椅子には、先生が座っていた。
「え? せ、先生!?」
突然のことに、声がうまく出ない。
ドアを開けたのにも、足音にも、まるで気づかなかった。
「起きたんですか?」
「喉が渇いて…さ」
「すぐに水を持ってきますね」
「コーヒーも頼めるか? 水だけじゃ身体が冷えるし、何より味気ない」
「はい」
「ありがとう」
向かいに座る先生は、美味しそうに私の淹れたコーヒーを飲んでいる。
どうして平気で飲めるんだろう?
ミルクを入れても、こんなに苦いのに。
「大丈夫ですか? 先生は、暖炉に近いほうが…」
「そこまで病人扱いしないでくれ。
それに、アイシスの指定席を取るつもりはない」
指定席…そういえば、いつの間にか、ここに座るのが当たり前になっていた。
先生と座るときは、いつも暖炉のほうを…あったかい方を私にくれる。
「ユイは?」
「眠ってると思います」
「そうか」
浮かない顔で、ため息をつく。
自分が原因で、誰かが傷ついた時のその気持ちが、今なら少しだけ分かる。
「話があるんだが、いいか?」
「…なんですか?」
どうしたんだろう? こんなに改まって。
「ライナスと師匠たちにお願いして、アイシスに魔法を教える許可をもらってきた。
だから、アイシスが望むなら、今後の訓練に魔法も加えるが…どうする?」
さらりと告げられた言葉を理解できなくて、自分の中で繰り返す。
私に、魔法を…そのために、王子様たちにお願いをしてきた?
あまりにとんでもない話で、実感が沸かない。
病み上がりでも、報告をしなきゃいけないから、城に行ったと思ってた。
なのに、そんなときまで私のことを気にかけてくれて…。
「いいんですか? 私なんかが魔法を教わって」
「そのために許可をもらったんだ。気にすることはない」
「ありがとう…ございます」
いつも、同じ言葉ばっかりだ。
先生は、色々なことをしてくれるのに、私が返す言葉は一つだけ。
本当は、もっと喜べばいいんだろうけど…。
どうすれば、私が喜んでいると分かってもらえるのかも、よく分からない。
それに、考えて口にすれば、どんな言葉でも安っぽくなってしまう気がする。
「よろしくお願いします」
結局、行き着くのは無難な言葉。
言葉の少なさが、自分でも嫌になる。
それでも、先生は笑顔を返してくれた。
「なら、ユイが起きてくるまで、少し話そうか。
魔法を教わるものは、最初に警告を受けることになってるんだ」
「警告…ですか?」
「ダガーを振り回すだけでも疲れるのに、魔法なんて力を使うことが身体にいいはずがない」
相応の負荷があるのは、ユイを見ても分かるだろう?」
先生の深刻な声に、胸の奥を押されたような気分になる。
魔法を使うときの危険性なんて、ほとんど考えていなかった。
「それって、魔法を使うとひどく疲れるとか、そういうことですか?」
「そうだな。それもあるが…。体力を奪われるだけで済む保証はない」
「え?」
その言葉が不安を誘う。
みんな、そんなに危険なものを使っていたの?
「アイシスは知らないみたいだが、魔法による反動は、いくつも例があるんだ。
だが、実際に魔法が原因と断言できないものも多くて…な」
困った顔で先生がカップを口元へ運ぶ。
つられるように、私も自分のコーヒーに口をつけた。
さっきよりも、味が苦い気がする。
「たとえば、魔法のせいで五感が鈍ったと言ってる人がいるんだが…。
感覚なんてものは、本人にしか分からないから確かめようがない。
それに、酷使したり年を取れば、その部分が急激に衰えることもあるだろう?」
「魔法の悪影響と決め付けられない…ってことですか?」
「そういうことだな」
私の反応が良かったのか、先生が嬉しそうに笑う。
なんだか、照れくさい。
「でも、魔法にそんな深刻な影響があるなんて…なんだか信じられません。
クリアデルでも魔法を使う人はいましたけど、そんなことを気にしてるようには見えませんでした」
「使わないと上達は望めないが、訓練だけでも身体には負荷が掛かる。
まあ、そんなことをいえば、肉体の鍛錬だって似たようなものだ。
足を酷使して歩けなくなったり、訓練の最中に致命傷を負うことだってあるだろう?」
言われて見れば、戦闘訓練である以上、危険なんて尽きない。
先生のことを信じすぎて、最近は、そんな当たり前のことを忘れていた。
「他には、運が悪くなるなんていう、突拍子もない話もあったな」
「運が悪く? どういう意味ですか?」
「熱心に魔法を研究していた貴族が失脚して、そういう噂が流れた。
魔力の源泉となったのは運で、それが尽き果てたために身を滅ぼした…とな。
そのおかげで、一時期は魔法を覚えようとする貴族が激減したそうだ」
暖かかった身体が、休息に冷えていく。
それが本当なら、私には無理だ。
絶対に。
「どうした?」
「運が魔法の原動力なら、私に魔法は使えません。
だって、私は…」
自分で言うのも情けなくなるくらい、幸運からは見放されている。
もし使えたとしても、威力が高まるはずがない。
私にはないものを使うなら、当然だ。
「決め付けるよりも前に、試してみればいい。
俺よりも、よっぽど大きな幸運の持ち主かもしれないだろう?」
先生の穏やかな声が、ゆっくりと私の背中を後押しする。
いつもそうだ。
この優しい声に、私はいつも助けられる。
「先生は、なんともないんですか?」
私の知る限りでも、戦闘のときに何度も魔法を使っている。
武器では出来ないことを、先生の魔法は可能にしていた。
癒しの魔法を受けているにしても、身体にとてつもない負荷が掛かっているはずだ。
「たしかに、俺も幸運は足りてない気がするな」
自虐的に口元だけで笑う。
私の勘違いかもしれないけど…そのときの先生は、驚くほどに悲しい目をしていた。
「それ以外だと、俺の場合は…」
言葉を区切って、先生が周りを見回す。
それからテーブルに身を乗り出して、私にしか聞こえないように声を潜めた。
「年に一度くらい、高熱を出して倒れる。
二、三日の間は、満足に動くこともできなくなってるな。
他の人には言わないでくれ。ユイにもな」
心配させたくないから、という続きが聞こえてきそうで、素直にうなずく。
きっと、ユイさんは話してほしいだろうけど、黙っていたい先生の気持ちも分かる気がする。
「でも、魔法が悪影響だけってこともない。
ちょっと話は変わるが、魔精石なんかは、持っているだけでも便利だしな」
「ませいせき?」
「そうか。アイシスには、秘密にしたままだったな。
ダガーと鞘に、それぞれ細工が施してあるだろう?」
テーブルの上に、自分のダガーを置いてみる。
たしかに、柄や鞘に装飾として、いくつも宝石がはめ込まれていた。
「この宝石のことですか?」
「ああ、赤、青、緑、黄の四色は、炎、水、風、土の魔法を収束させて作ったものだ。
それを肌身離さず持ち歩くことから、魔法の訓練が始まるんだが…。
持っているだけで魔法への耐性もつくから、勝手につけさせてもらった。
まあ、本来の用途は、その属性の魔法の威力を高めるためなんだけどな」
先生は、引き出しの奥にしまっていた、使い道のない宝石みたいなことを言ってたのに…。
そんなに大事なものだったなんて…。
「じゃあ、この透明な宝石もそうなんですか?」
周りのものよりも一回り大きな、透明な石。
色があるものは属性を意味しているのは分かったけど、無色はそれに当てはまらない。
「ん…ああ。そっちは、全部の属性に対応してるんだ。
普通の魔精石よりはレアだから、無くさないように気をつけてくれ」
「これが…」
さらりと告げられた事実に、うまく驚くことすらできない。
このダガーを通じて、私は、ずっと先生に護ってもらっていたんだ。
私なんかを、そんなにまで気遣ってくれているなんて、知らなかった。
「…ありがとうございます」
「俺が勝手にやったんだから、気にしなくていい」
照れ隠しなのか、先生がぐいっとコーヒーを飲み干す。
カップをテーブルに静かに置くと、私の目をまっすぐに覗き込んできた。
「俺の説明はこんなところだが、どうする?」
「? 何が…ですか?」
「生きるために必要だった俺とは違う。
魔法のせいでアイシスにどんなことが起きても、俺はたぶん何もしてやれない。
だから、アイシスが魔法を覚えるかどうかは、自分で決めてくれ」
ここまで準備をしてくれたのに、私に意志を聞いてくれる。
私の返事ひとつで、先生のしてくれたことは全部無駄になるかもしれないのに…。
それなのに、先生はあくまでも私に決めさせてくれる。
「アイシスの気が向いたときに始めるでも、俺はかまわない。
別に急ぐ理由もないからな」
考え込んでいる私に、優しい言葉が降り注ぐ。
違う。
魔法を覚えたほうがいい理由なんて、いくらでもある。
戦いに有利だし、戦闘の幅も広がる。
こんな私でも、少しくらい役に立てるかもしれない。
それに、先生が私なんかのために、わざわざ頭を下げて頼んでくれたんだから。
「あの…」
ただ、その言葉に責任を持つ勇気がないから。
その言葉を口に出すのが恥ずかしいから。
「私は、人よりも覚えるのが遅いから…だから、明日からお願いします」
私の返事は、これでいい。
後は、少しでも早く、魔法を使えるようになるだけ。
強くなりたい理由は、前よりも分からなくなった。
だけど、強くなりたいという気持ちは、前よりもずっと大きくなってる。




