表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
DAGGER 戦場の最前点  作者: BLACKGAMER
DAGGER -戦場の最前点-
38/129

11章 抗(あらが)う少女-5

【ティスト視点】


「ユイ? いるか?」

ユイの部屋をノックしても、返事はない。

調理場にもいなかったし、ここのはずなんだが…。

「ユイ、入るぞ?」

五秒だけ返事を待って、ドアノブをまわした。



ベッドの上では、普段着のままのユイが寝息を立てていた。

疲れてそのまま倒れこんだのが、目に浮かぶ。

「…!」

テーブルの上には、裁縫道具が広げられたままになっている。

その隣に、ボロボロになったはずの俺の上着が、丁寧に畳まれていた。

あれだけ汚れて、焦げて、どうしようもなかったのに…繕ってくれたのか。

ゆっくりと、確かめるように上着へ袖を通す。

いつもどおりの着心地だ。

少し肌蹴ていた毛布を、音を立てないようにかけなおす。

「ん…ぅ…」

暖かさが心地いいのか、気持ちよさそうな寝顔。

熟睡してるな。

起きるまでは、のんびり待つか。

「ありがとうな、ユイ」

起きたらまた伝える礼を言って、手近な椅子に腰掛けた。



「!?」

背中に不思議な感触がしたときには、身体が傾いている。

まずい、このままだとベッドに…。

「くっ…」

なんとか、シーツの上に手をついて、自分の身体を止める。

目と鼻の先にあるユイの唇から漏れた吐息が、頬をくすぐる。

「ん…」

揺れたのが気になるのか、ユイが寝返りを打つ。

それにあわせて、ゆっくりベッドから手を離して起き上がった。

呼吸を止めて音を消し、ユイの反応を確認する。

大丈夫だ、起きてない。

ため息をついて振り返ると、当然ながら悪戯な笑みがそこにいた。

「シアさん? 何するんですか!?」

しぃっと、口元に指を立てて、シアさんがにっこり微笑む。

まったく悪びれていない笑顔だ。

「で、何がしたかったんですか?」

「だって、ティストちゃんたら、ずっと何もしないのよ。

 見てるこっちは、つまらないじゃない?」

「ずっと…って、いつから見てたんですか?」

「ティストちゃんが部屋に入るところから」

一部始終、ずっと見られてたのか。

まったく、この人は…。

「で、ティストちゃんは寝ているユイの隣で、何してたのかしら?」

「起きるのを待ってるだけです。城へ一緒に行ってもらおうと思って」

「残念だけど、当分起きないんじゃないかしら?

 ティストちゃんが目を覚ますまでやめないって、昨日は一睡もしてないはずだし」

明け方に目を覚ましたときに目の前にあった、ユイの顔が思い浮かぶ。

目の端に涙を溜めて、本当に嬉しそうに笑ってくれた。

疲れなんて欠片も見せないで、俺のことを心配してくれた。

本当に、どんなに感謝しても足りないくらいだ。

「今回のことは、すみませんでした」

「謝る必要はないでしょう?」

「いえ、シアさんにも面倒をかけましたから。

 すみません。それと、ありがとうございました」

俺の身を案じて駆けつけてくれたというのは、本当に嬉しいし、ありがたいことだ。

だから、きちんと面と向かって、礼は言っておきたい。

「素直なティストちゃんには、ご褒美をあげなくちゃね」

シアさんの手のひらが俺の肩に触れ、まぶしいほど強烈な輝きを放つ。

「いいんですか? シアさんの治癒の魔法は…」

「そう。私の治癒の魔法は、ラインのためにあるわ。

 ユイがティストちゃんのためにしか使わないように…ね。

 だから、命の危険がない限り、私はライン以外に治癒の魔法を使うことは、ほとんどない」

ゆっくりと言葉を途切れさせ、肩口から二の腕に向けて手のひらが滑る。

傷の酷かったところに、的確に魔法が染み込んでいく。

「だからって、私の息子に一番近い男の子を傷だらけにしておけないでしょう?」

癒しの魔法とともに、シアさんの優しさが流れ込んでくる。

ユイと似ていて、でも、少し違う魔法の流れが、心地よい。

「もう大丈夫です。シアさん、城まで付き合ってもらえませんか?

 ユイが起きるまでに、帰ってきたいんです」

そして、帰ってきたら、ユイのためにワインを注ごう。

それぐらいしか、俺にできる御礼が思いつかない。

「あら、そんなこと言われたら、断れないわね。

 しかし、ユイも可哀想にね。

 せっかく、ティストちゃんからデートのお誘いなのに…ねえ?」

シアさんが寝ているユイの前髪をくすぐる。

それでも、ユイは静かな寝息を立てていた。



今ばかりは、王城の廊下が長さを恨めしく思うな。

シアさんの後ろを、覚束ない足取りでついていく。

歩くたびに塞いでもらった傷口が服と擦れて、うずいている。

「大丈夫?」

「はい」

「無理しちゃって」

やせ我慢なのは確かだが、痛いと言ったところでどうなるものでもない。

ユイも疲れ果てるまで治癒の魔法をかけてくれたんだから、これ以上の贅沢なんて、言えるわけない。

「え?」

不意に、背中に小さな衝撃が走る。

それで、自分の背後に気配があることに気づいた。

「まったく、そんな容態で出歩くなど、何を考えているのです?」

振り返れば、笑顔と呆れが混じったような顔のクレア師匠が立っていた。

その後ろには、レジ師匠、そしてファーナとライナスまでいる。

ライナスがいてくれたのは、むしろ都合がいいな。

「とにかく、私の部屋へ」

優しく背中を押されて、師匠たちの部屋へと向かった。



「そうですか。ガイ・ブラスタが、ついに動きましたか」

「しかし、ラステナを滅ぼす…とはのう」

俺の説明を聞き終えた師匠たちは深くため息をつき、黙り込んでしまう。

事態の深刻さを、改めて認識させられるな。

戦争なんてものは、戦っている国だけの問題に止まらない。

様々な利害から、多くの国が巻き込まれるし、首を突っ込む。

それは、前大戦のときに、嫌というほど見てきた話だ。

「いかが致しますか? ライナス様」

硬質な声音で、ファーナが問いかける。

それに答える前に、ライナスは小さく息を吐き、呼吸を整えた。

厄介ごとを前にしたときの仕草は、昔と変わっていない。

「ラステナに事の次第を告げれば、何かしらの要請されるのは明らかだ.

 我が忠臣たちに話せば、支援と放置で対立するだろう。

 この情報、内にも外にも広めるわけにはいかないね」

「では、ライナス様はここにいらっしゃらなかったとお考えください」

 今回の話は、私の独断で、根も葉もない噂として聞き流しました。よろしいですか?」

独断の部分を強調して、ファーナがライナスに確認を取る。

全ての責任を引き受けるつもりか。

「すまないね」

「いえ、これが私の役目ですから」

見ている者が安心できるような穏やかな笑みで、ファーナが答える。

たまに見せる優しい笑顔の中でも、ライナスに向けられるものは別格に見えた。

「では、こちらとしては何もしないと?」

「ええ。あくまで対外的には、ですが」

クレア師匠の返答に、すぐに表情を引き締め直す。

そこにいるのは、いつもの冷徹に物事を見通す軍師だった。

「ガイ・ブラスタの言を疑うことも、視野にいれなければなりません。

 ロアイスを攻める気はないと油断させておいて…ということも、十分に考えられます。

 もし、ラステナなどの他国へ支援に回れば、必然的にロアイスは手薄になるのですから」

「そのような小細工を弄する奴ではないがな」

「ガイ・ブラスタの人格が仰るとおりだとしても、他国が同時に動かない保証もありません。

 共謀や便乗も考えられますし、ここは、警戒すべきかと」

そこまでの思慮をもって、周囲を見渡せる…か。

口に出さないだけで、浅慮な俺には想像もできないような深い思考が、あの中に詰まっているのだろう。

「申し訳ないけど、この件に関してはファーナに一任させてもらう。

 協力が必要なら、何でも言ってくれ」

「ありがとうございます」

ライナスが全てを委ね、ファーナが責任を持って受け入れる。

部下に裁量を与えて、仕事を任せる…か。

たしかに、それが一番うまく回りそうだな。

「さて、一段落ついたところで、お茶の時間でいいかしら?」

会議の最中は一言も発言しなかったシアさんが、皆の前にカップを置く。

それぞれからは、きちんと湯気が立ち上っていた。

いつ終わるかも分からないはずなのに、見計らったような適温…さすがだな。

だが、俺にはこれを飲む前にやらなければいけないことが、もう一つ残っている。

「ライナス、茶を飲みながらでかまわないから、俺の頼みを聞いてもらえないか?」

椅子を降りてひざまずいた俺の態度を見て、ライナスがカップを置く。

緩やかな笑みのままで、俺の瞳を真っ直ぐ射抜いた。

「ティストがそうまで強く何かを願うなんて、初めてじゃないかな。

 なんだい?」

「俺がアイシスに魔法を教えることを、許可して欲しい」

ガイと対峙したあの時も、アイシスが魔法を使えれば、わずかでも身の危険を減らすことができたはずだ。

魔法に対して有効な対策は、完全な回避か、魔法による軽減。

だから、拮抗した実力同士では、体さばきに魔法も合わせての受け流しが、理想の対応になる。

これからを考えるなら、魔法は絶対に覚えておくべきだ。

「魔法を教えられるものは、貴族か、貴族が任じたものだけだ。

 それを忘れたわけではあるまいな?」

「重々承知しています」

レジ師匠の指摘に、はっきりと答える。

魔法は習得するのが難しく、誰にでも覚えられるものではない。

そこに目をつけ、魔法を有料で教えることで、財産を築いた貴族がいた。

真似をするように周囲の貴族たちも始め、財源を失わないために共謀し、ある法を作り上げた。

『魔法を教えるのは、貴族か、貴族が任命したものだけとする』

これで、誰かが魔法を覚えるには、必ず貴族に利益が入ることになる。

全て師匠たちに習った、魔法の生い立ちだ。

「ひとつ、よろしいでしょうか?」

「なにかな?」

「貴族でないものが、魔法を教えることに問題があるのでしたら…。

 ティスト・レイアが貴族になることで、解決できないでしょうか?

 それだけの資金は、あるのでしょう?」

ファーナの言葉に、部屋中の視線が俺へと集中する。

たしかに、師匠たちが贈ってくれた金を使えば、貴族として成り上がるには十分だ。

ギルドで懸命に稼げば、貴族としての地位を維持するぐらいは、できるかもしれない。

「………」

ライナスや師匠たちの表情の変化に気づいてしまう自分の目が、妄想から現実へと引き戻してくれる。

みんなの顔が『不可能だ』と無言のうちに教えてくれていた。

それに、己のしでかした事を忘れて、のうのうとロアイスで生きるつもりはない。

今の生き方が、俺には似合いだ。

「金で解決できるのなら、魔法の授業料をライナスに納めることで、なんとかならないか?」

「私にくれるのかい? それはありがたいな。

 使う機会がないからと、小銭さえ持たせてもらえないからね」

軽口とともに、さっきまでの空気がなかったことにされる。

話題を合わせようとするライナスの隣で、ファーナだけが表情を消していた。

「なぜ、そこまであの子に肩入れするのですか?」

クレア師匠の問いかけに、頭を切り替えて考えこむ。

どう言えば、正しく伝えられるのか、分からない。

感情はたしかにあるのに、どんな言葉にしても、少しずれてしまう気がする。

『あいつは、俺なんだ』

これが、たしかに一番近いけど、それでも全てを言い表せていない。

「師匠は、なぜ俺にあそこまでしてくれたのですか?」

きっと、師匠たちにならこれで伝わるはずだ。

俺のために心を砕いてくれた師匠たちと、気持ちは近いはずだから。

「許してください、愚劣な質問でしたね。

 同じ質問を私がされたらどういう感情を抱くか、よく分かりました」

俺の横に、クレア師匠が歩み寄る。

そして、俺と同じように、ライナスへと向かって頭を下げてくれた。

「ライナス様、どうかティストに魔法を教える許可をお願いいたします。

 いえ…。

 ティストに、魔法を教える資格を、私が与えることをお許しください」

「………」

何も言わず、レジ師匠も俺の隣で、地に膝を着けてくれる。

師匠たちの気遣いが嬉しくて、俺はより深く頭を下げた。

気の遠くなるような沈黙。

顔をあげずに、じっとライナスの返事を待つ。

ふぅ…と、ライナスの小さなため息が聞こえた。

「ティストが教えるのは、アイシスさんだけだ。

 そして、アイシスさんも、今後誰かに教えるのは無しにしてもらう。

 それでかまわないかな?」

「ありがとうございます」

「ありがとう、ライナス」

師匠たちの後に、俺自身も、できる限りの礼を尽くして、頭を下げる。

本当に、ライナスにも師匠たちにも、感謝してもしきれない。

「本当によろしいのですか?」

少し語調を強めて、ファーナがライナスの意思を確認する。

ここで許可を出せば、貴族たちから反感を買うのは間違いなくライナスや師匠たちだ。

それを危惧してのことだろう。

「無断で教えることもできたのに、ティストはしなかった。

 私たちの前で使わないように隠したり、もう覚えていたと言い張ることもできるのに…ね。

 そういう信頼関係を、私も大切にしておきたい」

「出過ぎた発言をお許しください」

「いや、いつもありがとう。

 私の身を案じて進言してくれるのは、ファーナくらいだからね」

「私は、ロアイス王家に永久の忠誠を誓っておりますから」

穏やかな笑みを交わす二人を見ていると、妙に納得する。

言外のやりとりを楽しめる深い思考、本音を決して見せない泰然とした態度。

これが、気高き者たち…か。

とてもじゃないが、俺には入り込めない世界だな。

「アイシスさんが、無事に習得できることを祈っているよ」

「身に付くまで、気長にやるさ」

覚える機会に恵まれている貴族たちでさえ、魔法を使いこなせるのは半数を超える程度だ。

教える側の傲慢な態度と、感覚という伝えにくいものを教わることに、大半が諦めていく。

原因は、努力なのか、それとも、才能や資質なんていう生まれ持ったものなのかは、誰にも分からない。

だが、どんなに時間をかけてでも、アイシスには教えておく。

覚えておけば、必ず役に立つものだから。



積もる話に花を咲かせるシアさんを残し、仕事へ戻るファーナについて私室へと移動する。

調べたいことがあると言ったら、快く許可してくれた。

「で、何を調べるつもりなの?」

数冊の蔵書を本棚から引き出して、机へと運びながらファーナが問いかける。

勝手に動こうと思ったが、ファーナにだけは伝えておくべきか。

「リンダント卿の居場所だ」

感情がこぼれ落ちるように、声が低くなる。

それに応えて、俺を観察するファーナの目が鋭さを増した。

「知っているなら、教えてくれ」

俺の問いに、ファーナはすぐに答えない。

ただ、じっと俺のことを確かめるように覗き込んでいる。

「知らないなら、自分で調べさせてもらう」

「そんな顔をしている人間には、教えられないわね。

 何があったのか、どうしてそんなことをしたいのか、情報を提示して。

 私はあなたの力になると約束したはずよ」

「分かった」

アイシスを連れ戻すために動いていた連中のこと。

それを依頼したのが、アイシスの父親であること。

知っている事実に俺の憶測を交えて、全てを伝える。

ファーナは、ただ無言で俺の話に耳を傾けていた。

「それで、リンダント卿に会って、どうするつもり?」

「意図を聞き出す」

なぜ、アイシスを連れ戻そうとしているのか。

連れ戻したアイシスをどうするつもりなのか。

それが分からなければ、俺も相手への対応が定まらない。

「対話だけで済むとは、到底思えないわね」

小さくため息をついたファーナが、視線の温度を下げる。

その冷ややかさの中に、怒りが混じっているように見えた。

「私個人の見解を言えば、会うべきではないわ」

「なぜだ?」

「アイシスさんを連れてきたときに、あなたが最低限のことさえしていないからよ。

 クリアデルの連中と口約束では、連れ去られたと騒がれても文句は言えない。

 そもそも、あなたが払ったという金が、相手に届いているという保証さえないわ。

 もし、返金するかわりに娘を返せ…なんて言われたら、どうするつもり?」

指摘されるごとに、いかに自分の考えが足りなかったかが分かる。

リンダント卿に会ったことで事態が悪化する可能性なんて、考えてもいなかった。

「あなたの力なら、雇われの傭兵を相手に不足を取ることはないでしょう。

 リンダント卿が従える私兵でも、負けはしないでしょうね。

 だけど、貴族に対して武力を行使するなら、今度は騎士団が動くこともありえるわ。

 あなたにとって最悪の事態を想定するなら、その場を収めに行かされるのはレジ様とクレア様…かしらね」

組み上げられていく想像を聞いているだけでも、気力が削がれていく。

皮肉にまみれているが、これほどに的確な警告もないだろう。

「貴族を敵に回すという行為を、ご理解いただけたかしら?」

「分かった。軽はずみな行動は、できるだけしない。

 …だが、どうするべきなんだ?」

視線をそらし、ファーナがため息をつく。

その反応だけで、返事としては十分だった。

「打つ手はない…か」

「逃げ隠れて待つ…くらいしか、私には考え付かないわね」

「何を待つんだ? 相手が諦めるのをか?」

「そのとおりよ。

 ロアイスは決して狭くないし、離れているあなたの家までは、きっと探し当てられないはず。

 見つけられない相手にどれだけの労力を割くかを見ても、相手の事情は推し量れるわ」

何もしていないアイシスが、なぜ、逃げ回らなければいけない?

その事実だけでも、苛立つには十分な理不尽だ。

それに、結局のところは濁しているだけで、解決の方法は見つかっていない。

奴らがアイシスを諦めなければ、衝突は必至だろう。

「たくさんの忠告は、ありがたくもらっておくが…。

 解決しないなら、俺は自分の思うとおりに動かせてもらう」

これだけ気にかけてもらっているのに、その信頼を壊すようで申し訳ないと思う。

だが、俺に出来ることといえば、このダガーを振るうことぐらいしかない。

それが分かっているからか、ファーナも溜め息をつくだけだ。

「私も出来る限りは手を回すわ」

「頼む」

出来る限り…か。

いい言葉だな。



城から戻り、ライズ&セットで、アイシスの身支度を待つ。

奴らを逃がしたのだから、ここにアイシスがいることもリンダント卿に知られているはずだ。

早く出て行かなければ、カルナス一家にまで迷惑が掛かる。

「お待たせしました」

「よし、行こうか」

椅子から立ち上がったのに、すぐに背もたれへ体重を預ける。

情けないな、まだ足がふらつく。

「ねえ、ティスト。せめて、一日くらい休んでから…」

「大丈夫…だ」

ここで俺のために時間を使っても、誰一人幸せになれない。

だったら、這いつくばってでも自分の家に帰るべきだ。

それで、少しでもマシになるかもしれないのだから。

「でも…」

「なら、ユイも一緒に行けばいいじゃない。

 どうせ、ティストちゃんのことが心配で、他のことなんて手につかないんだから」

「そ、そんなことっ…」

シアさんの指摘に、ユイが頬を赤くして抗議する。

心の底から楽しそうなシアさんが、その笑顔で俺を見る。

「傷口は塞がっても、痛みまで消えたわけじゃないでしょう?

 それじゃあ戦えないし、守れもしないわよ?」

何も言い返せない。

歩くのが精一杯なのに、強がりもいいところだ。

「あの…」

小さな声に、全員が視線をアイシスへと向ける。

「私だと、先生の手当てもできないですし、治療のこととかも聞きたいから…。

 ユイさん、来てもらえますか?」

つまづきながら、ゆっくりとアイシスが告げる。

驚いていたユイの表情は、輝くような笑顔へと変わっていた。

それだけでも答えになりそうな笑みで、アイシスの踏み出した一歩にユイが応える。

「うん、喜んで」

「決まりね」

「よろしく頼む、ユイ」

大きな袋を肩から提げて、ラインさんが店に入ってくる。

「おう、準備できたか?」

「それは?」

「三人分で一週間。足りなくなることはないはずだぜ」

三人…ね。

ユイも一緒に行くことは、二人の中で決定事項だったんだな。

「ありがとうございます」

受け取ろうと伸ばした俺の手は、ラインさんの大きな手のひらに止められる。

「家までは、運んでやるよ」

「たまには保護者付きも、悪くないでしょ?」

二着の上着を持ったシアさんが、大きな方をラインさんに手渡す。

全部、予定通り…なんだろうな。

「何から何まで、すみません」

「悪いと思ってるなら、さっさと治せ。さすがに、怪我人とは飲めないからよ」

「はい」

本当に、助けられてばかりだ。

何をすれば、この恩を返せるだろう?

二人の好きな銘柄の酒が思い浮かび、他のことが考え付かない自分が情けない。

でも…たぶん、間違ってはいないと思う。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ