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黒い夢

 勇次は毒づきながら、狼を睨みつける。例え相手が何者であろうと、引くつもりはなかった。もしここで引いてしまったのならば、弓子をあんな化け物に変えた者を見逃すことになる。そうなったら、勇次は自分のことを一生許すことはできないだろう。

 それに、ここを離れたとしたら……やっとできた友だちとも会えなくなるのだ。今までずっと敵だと思っていた妖怪たち。だが、カンタやミーコ、カラタロウの三人の存在は……この陰湿な村人たちとの暮らしの中で、どれほど自分の心を癒してくれたかわからない。

 この親友となった妖怪たちと別れ、弓子とソーニャの平和な生活を滅茶苦茶にしたクズ共を放っておいたまま、どこかの街でひっそりと暮らすつもりはなかった。そんなことをしてしまったら……恐らく自分は、罪の意識と寂しさに耐えられなくなり、やがて自ら命を絶つのではないか……。彼の左手首に刻まれた二本の印が、そう告げていた。


「お前は何もわかっていない。お前の戦いに勝ちはない。この戦いで、お前は負けるのだ……確実にな。なぜ、それがわからんのだ……お前のような者が、過去に何人いたことか……そして、過去に何人の勇敢な戦士を見送ったことか……」

 狼は勇次の顔を見下ろしたまま、話を続ける。その声に微妙な変化が生じていた。先ほどまでの威圧的な声色ではない。どこか懇願するような雰囲気が感じられる。

「知るか……やってみなきゃ……わかんねえだろ……殺したきゃ殺せ……俺は絶対に……奴らを許さん……許さねえ……婆ちゃんに……誓ったんだ……てめえにわかるか……この……野良犬が……」

 勇次は狼を罵りながら、懸命にもがいた。だが、胸の上に置かれた足は離れない。苦しさの中、勇次はポケットにある物を思い出した。必死でポケットの中をまさぐると、金属の塊が指に触れる。カラタロウに渡されたリボルバーである。念のためポケットに入れておいたのだ。必死の思いでリボルバーを取り出し、銃口を狼に向けた。

「撃つぞ……この野郎……足をどけろ……頭フッ飛ばすぞ……」

「お前、いつの間にそんな物を……呆れた奴だ」

 狼の声に、苦笑するような音が混じる。同時に足の力が増した。

「この……クソ……があ……」

 勇次は引き金を引く。だが引けない。引き金が異常に固く、動かないのだ。彼が引き金と格闘している間にも、足の力がどんどん強まっていく。やけになった勇次はリボルバーで殴りつけたが、狼は表情一つ変えない。

 だが、いきなり呼吸が楽になった。胸の上で、押し潰さんばかりに力を入れていた狼の足がのけられたのだ。と同時に、肺にかかっていた負担が消える。勇次は体を起こし、何とか立ち上がった。

 次の瞬間、鋼鉄の球が高速で命中したような、耐えきれない強烈な痛みが腹部を襲い、勇次は一瞬にして崩れ落ちそうになる。しかし倒れられない。痛みを与えた何かが体を壁に押しつけている。下を見ると、狼の頭が腹部にめり込んでいたのだ。

 次の瞬間、狼は頭を離した。勇次はそのまま、前のめりに倒れる。薄れゆく意識の中、狼の声が聞こえてきた。

「拳銃は安全装置を外さなければ、引き金は引けないのだ。忘れるな」




「おい勇次! しっかりしろ! 大丈夫か!」

 遠くから声が聞こえる。聞き覚えのある声。カンタだ。目を開けると、見慣れたカンタの顔、そして生臭い匂い。だが、匂いすら今はありがたい。生きている証だ。勇次は体を起こし、周りを見渡す。駄菓子屋の裏口が見える。暗くなり、月が出ている空が見える。外に寝かされているのだ。そして店からは、かすかにソーニャとミーコの声が聞こえる。とても楽しそうな雰囲気で、勇次は思わず微笑んでしまった。

「おい勇次……何笑ってんだよ。頭でも打ったのか」

 心配そうな声で尋ねるカンタ。普段ボケた発言を繰り返すカンタにそんなことを言われると、何と返せばいいのかわからず困ってしまう。

「ああ……大丈夫だ。しかし……俺は何でここにいるんだ?」

「知らないよ……俺が店の中にいたら、いきなり狼の遠吠えが聞こえて……慌てて外に出て見たら、お前が倒れてたんだ。しかし……まさか狼が来るなんて思わなかったよ」

 カンタは明らかに怯えている。普段の明るさが感じられない。あの得体の知れない者たちを相手にしてさえ、臆せず戦ったカンタを怯えさせる……あの狼は、それほどまでに恐ろしい奴なのか。

「なあカンタ……その狼ってのは何者だ?」

「日本の狼が……長く生きているうちに変化へんげの法を学び、生き物の理を捨て、妖怪になったんだ……あいつは、俺たちなんかよりはるかに上の存在のはずなんだよ。こんな村の一つくらい、消し去るほどの力を持ってると言われてるんだ。そんなのが何でここにいるのか……勇次、お前何したんだよ」

「いや、何もしてねえよ……ただ……いや、何でもねえ。とりあえず、中に入れてくれ。いろいろあって疲れたよ」

 家に入ると、ソーニャがミーコと何やら真剣な顔で話し合っている。ソーニャはテレビを指差しながら、身振り手振り付きでいろいろ語っており、ミーコはそれをボケーッとした顔で聞いている。どうやら、ドラマの概念について説明しているらしい。

「だからミーコ、この女はあの男のことが好きなんだけど、あの男はその女のことが好き……だけどその女はあの男のことが嫌いじゃないけど、この男のことも忘れられないってワケ」

「ふーん……人間は本当にめんどくさいニャ。好きだの嫌いだの……手っ取り早く交尾しちゃえばいいのにニャ」

「こうび? 何それ?」

「あー? 交尾も知らないのかニャ。小娘に教えてやるニャ。交尾って言うのはニャ――」

「そこまでだミーコ!」

 勇次が慌てて乱入し、話を中断させた。そして部屋の中を見渡したが、意外と綺麗なままである。てっきり、食べかすや菓子の袋などがあちこちに散らばっているかと思っていたのだが意外だった。ミーコは案外きれい好きなのか。いや、ソーニャがしっかり者なのかもしれない。

 勇次は部屋を突っ切り、店の方に行くと、レジ横のパイプ椅子に座る。シャッターが閉められ、電気が消えたままの店内はひどくもの悲しい。ここにいると、先ほどの弓子のことを思い出してしまう。

 弓子の最期……今のソーニャには絶対に伝えることができない。しかも、止めを刺したのは自分なのだ。勇次は暗い店の中で、弓子のあの崩れかけ、前歯が抜け落ちた顔の訴えを思い出した。

 もし、あの世があるのなら……妖怪が実在するくらいだ。恐らくは閻魔大王のような存在もいるのだろう。そして自分は弓子を殺した罪により、地獄に行くのだ。だが、勇次は地獄に行くのは怖くなかった。弓子を殺した罪に対する罰は受けるつもりだ。しかし、その前にやることがある。この村を支配する何者かを殺す。例えそのために、どんな罰を受けようとも。

 人の命を奪った以上、いずれ自分も修羅道を通る。そして地獄に行かなくてはならないのだろう……。


「勇次……大丈夫か」

 パイプ椅子に座っていた勇次の所に、カンタがやって来た。勇次の顔つきを見て、何かを感じ取ったのだろう。あるいは、かつて弓子だった何かの匂い……いや、死臭が染み付いているのかもしれなかった。

「大丈夫だよ……今はな。ところでカンタ、お前は川に帰らなくていいのか?」

「何言ってんだよ。お前がピンチの時に、呑気に川で寝ているわけにもいかないだろう。最後まで付き合うよ。それに……あのソーニャって娘、可愛いよな。あんなに妖怪を怖がらない人間は初めて見た。あの娘は助けてやりたい」

 カンタは好奇心旺盛なソーニャのことを気に入ってくれたようだ。確かに、ソーニャの度胸は大したものである。考えてみれば、弓子もかなり度胸があった気がする。村でもかなり評判が悪かったはずの勇次に、ニコニコしながら話しかけてきたのだ。ソーニャに度胸があるのは、中島家の女の血筋なのかもしれない。

「ところでカンタ……他の二人はどうしてる?」

「まだ寝てる。よっぽど疲れていたんだろうな。しかし……勇次、これからどうするんだ?」

「いや、船を探そうと思ったんだがな……あの狼が、この店にいれば安全だ、と言っていた。しかも、船は見当たらない……だから作戦変更だ。ここに立てこもり、道路が復旧するまで待つ。そして道路が通れるようになったら、子供たちを街に送り届ける」

 そこまで言った時、勇次はふと不安になった。あの狼の言ったことを信じていいのだろうか。奴はしょせん妖怪だ。勇次や子供たちがどうなろうが、知ったことではないのだろう。これ以上、妖怪を巻き込むなとも言っていた。当たり前の話だが、妖怪の方が大切なのだ。となると――

 そこまで考えた時、勇次は猛烈な眠気に襲われた。考えてみれば、今日は朝から動きっぱなしである。得体の知れない奴らと、殴り合ったり取っ組み合ったり……さらには、巨大な狼に殺されかけたのだ。

「勇次……今日はもう寝た方がいいぞ。お前、疲れてるんだろ。あとは、俺とミーコが見張ってるから」

 カンタの優しい言葉。勇次は甘えることにした。この先、もっと激しい戦いが待っているかもしれないのだ。いや、確実に激しくなるだろう。ゲームか何かのように、呪文を唱えるか薬草を使うかして体力を回復させられればいいのだが、現実にはそうもいかない。勇次は立ち上がり、駄菓子の陳列棚の隙間に入り込んだ。そのまま横たわる。

「お、おい……向こうの部屋で寝れば――」

「今日は……嫌な夢を見そうな気がする。うなされた挙げ句、妙なことを口走りそうな気もするんだ。子供には聞かせたくねえ」




「おい勇次! 起きろ! 大丈夫か!」

 声が聞こえた瞬間、勇次は跳ね起きた。予想通りである。予想通りに嫌な夢を見た。悪夢を見たのは久し振りだ。これまで生きてきて見る悪夢は、妖怪に追いかけられるような内容がほとんどだったが、夕べ見たものは――

 いや、思い出したくはなかった。

「勇次……お前、凄い声を出してたぞ。向こうの部屋にも聞こえそうなくらいの声を……大丈夫かよ」

 そして心配そうに自分の顔をのぞきこんでいる者は……またしてもカンタである。カンタは本当にいい奴だ。もしカンタが河童の男ではなく、人間の女だったら……勇次はためらうことなく、この場でプロポーズしていただろう、などというバカな考えが頭をかすめた。

「カンタ……すまねえ。もう大丈夫だ」

 勇次は起き上がり、居間に歩いて行く。時計を見ると、まだ七時過ぎである。普段なら眠っている時間帯だ。そのせいか、眠くて仕方ない。子供三人は既に起きて、顔を洗っているようだ。前の店主が仕入れておいた雑貨品の中に大量の歯ブラシがあったので、それを一本ずつ渡した。

 そしてあちこち漁り、賞味期限切れ寸前の食パンを引っ張り出す。勇次は面倒くさいことや、手間をかけることを嫌う。そのため、彼の主食はパンである。米は洗ったり炊いたりしないといけないが、パンならそのまま食べられるからだ。パンが好きだとか、米が嫌いとか、そういった理由があるわけではない。

 そしてパンを焼こうとした時、ふと重大な異変に気づいた。ミーコがいない。

「おいカンタ、ミーコはどこ行った?」

「ああ……さっき、散歩に行ってくるって言って……あいつも、ずっと家の中にいて退屈したんだろ」

 興味なさそうに答えるカンタ。カンタのその態度には、どこか奇妙なところがあった。勇次は少し引っかかるものを感じたが、今は子供たちに食事を摂らせることの方が先だ。ミーコは気まぐれな奴である。恐らくは、駄菓子が報酬のベビーシッター――ベビーが相手ではないが――に飽きてしまったのだろう。この先は……いつものように、夜になったら現れるかもしれない。少なくとも、ミーコはよくやってくれた。彼女をこれ以上は巻き込めない。

 そう、カンタのこともだ……。


 子供たち三人はトーストを食べている。ソーニャは食べながらカンタにひっきりなしに話しかけ、春樹と恵美は二人をチラチラ見ている。カンタと話してみたいのかもしれないが、まだ話しかける勇気がないようだ。

 みんなのそんな様子を、勇次は黙って見ていたが、不意にカンタの視線がこちらを向く。

「勇次……表を見て来てくれ。一雨くるかもしれないんだ」

 勇次は困惑した。どういうことだ? だが、カンタの目は何かを訴えている。恐らく、外に何かあるのだろう。ここでは言えないような何かが。

「わかった。見てくる」


 勇次は外に出て、周りを見渡す。カンタの優れた嗅覚が、敵の匂いを感じとったのかと思ったのだが、敵らしき者の姿は見えない。見えるのは空を飛んでいるカラス、そして鶏をくわえた黒猫――

「ミーコ! お前どこ行ってたんだよ!」

 勇次は思わず声を出す。ミーコがまさか、こんなに義理堅い奴だとは思わなかった。

 しかしミーコはすたすた歩いてくると、鶏を口から落とす。

「勇次……村に行って来たけど、さらにおかしくなってるニャ……」





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