黒い草人間
勇次は絶望的な気分のまま、ヨロヨロしながら歩いてくる弓子を見ていた。だが、はっと我に返り、できるだけ駄菓子屋から引き離すべく歩き始める。こんな場所で殺り合うわけにはいかない。殺すにしても、せめてソーニャの目には触れさせたくない。
駄菓子屋から離れて行く勇次に、奇妙な歩き方で近づこうとする弓子。恐ろしくのろいスピードだ。だが……執拗に勇次のあとを付いて来る。まるで、子供の見る悪夢に登場する怪物ような雰囲気だ。だが、その姿がさらに勇次の胸を痛める。こんな姿は絶対に見たくなかったのに……。
勇次は駄菓子屋から充分に距離を空けると、その場で立ち止まり弓子を待つ。自分の手で決着をつけるために。
やがて弓子が近づき、彼女の顔が見えてきたが……朝に見た時とは恐ろしく違っている。そのあまりの不気味さに、勇次は思わず目を背けそうになった……
弓子の顔の皮膚はところどころ剥がれ落ち、剥がれた部分から黒い何かがむき出しになっている。断じて人体の一部ではない、黒い何かが……。しかも片方の目からは眼球が消え失せ、黒い何かが蠢いていた。口は半開きになっており、前歯はほんの数時間の間に抜け落ちてしまったらしい。しかも、弓子の体からは、凄まじい悪臭が漂っているのだ……。
弓子だったはずの者は、ヨロヨロしながら歩く。一歩歩くごとに苦痛を感じるらしく、顔が歪む。やがて、顔を歪ませながら勇次の前に立つ。
「ゆう……じ……まごを……そー……にゃ……を……おねが……い……たす……け……て……そー……にゃを……ゆう……じ……にげ……て……」
弓子は途切れ途切れの、蚊の鳴くような声を振り絞り、訴えてくる。片方に残っている瞳からは、悲愴ではあるが強い思いが伝わってきた。
その瞬間、勇次は理解した。弓子は最後に残った理性と命の残り火を燃やし、ここにやって来たのだ。孫娘の命、そして未来を自分に託すために。ただそのためだけに、地獄のような苦痛に耐え、ここまで歩いてきたのだ。
そして次の瞬間、顔が崩れだし――
崩れた下から、黒い異形の何かが姿を見せる。弓子よりも一回り小さい、得体の知れない草花を巨大化させて人間と合成させたような、悪夢の中だけに潜む生き物に変貌したのだ。
だが、勇次に恐怖はなかった。
恐怖を、怒りと絶望と殺意が打ち消した。
「婆ちゃん……約束する。絶対にソーニャを守ってみせる……どんな手段を使ってでも……必ずソーニャを守ってやるよ……この先、一生な……そして……俺が奴らを皆殺しにしてやる……婆ちゃんの仇は……俺が討つよ。だから……安らかに眠ってくれ」
言葉と同時に勇次は飛び込む。そして顔とおぼしき部分に左拳を叩き込んだ。強烈な拳の一撃が炸裂する……だが、草人間は怯まない。奇怪な形の腕を振り回して攻撃してくるが――
振りが大きすぎ、勇次は難なくかわす。さらに左右の拳を顔面に叩き込むと同時に、高速のタックルを喰らわして組み付いていく。
暴れ、振り落とそうとする草人間。しかし勇次は組み付いたまま背後に回り込み、両手で頭を掴む。
「婆ちゃん……先にあの世で待っててくれ」
勇次は囁くと同時に、頭を捻り上げ、首の脛椎――とおぼしき場所――を一瞬でねじ切った。
草人間はそれでも、もがき続け、暴れる。だが……突如、口から緑色の体液らしき何かを吐き出す。
そして、動きを止めた。
勇次は、かつて弓子だった者の体を横たえる。弓子は勇次を処刑人に選んだらしい。勇次にソーニャのことを託し、そして怪物としての生を断ち切ってもらうために、ここまでやって来たのだ。勇次は今なら、神でも殺せるような気になっていた。
奴らを殺す前に、聞きたかった。何のために、こんなことをした? と。
できることなら、今すぐにでも村の中心部に行き、出てくる者、向かって来る者を片っ端から殺してやりたい。いや、実際にそうするために立ち上がって歩き出したのだが、どうにか自制心を働かせて立ち止まった。
とにかく、まずはソーニャを助ける。ソーニャだけではない。他にも二人いるのだ。その三人の子供たちを無事に脱出させなくてはならない。それが最優先なのだ。
弓子の最後の願いだけは、自分の命に換えても成し遂げる。それが弓子に止めを刺した自分の、一生背負うべき十字架である。
舟か……いざ探してみると、ないもんだ。ま、そもそも舟なんかに興味はない。どこかで見ていたとしても、記憶には残らないだろうし。
勇次は村の中を歩き、舟……まではいかなくても、ボートのような物がないかと探してみるが、全く見当たらない。それ以前に、勇次は村人との付き合いがほとんどなかった。そのために、村のどこに何があるとか、誰が何を持っているとか、そういったことは全く知らない。そもそも、他の村人について知っていることと言えば……勇次を嫌っている、ただそれだけである。
いつのまにか、勇次は学校に来ていた。さっきは人が集まっていたが、今は無人のようだ。夜の学校は独特の雰囲気を醸し出している上、中には何が潜んでいるかわからないが、元よりそんなものに怯んでいる状況ではないのだ。勇次は再度、学校に侵入する。
夕方に大立ち回りを演じた教室に行ってみるが、誰もいない。改めて見ると、木造の校舎は簡単に燃えてしまいそうだ。ここに村人を全員かき集め、爆破するという作戦を思いついたが、今はまず舟を探すのが先だ。
学校の中をあちこち探索してみたものの、誰もいない。そう言えば、駐在の警官が嫌みったらしく言ってきたことがある。お前が越してきてから、村では外出の時に鍵を掛けて戸締まりに気を付けるようになったのだぞ、と。何を言わんとしているかは明白だが、相手にはしなかった。だが、今の学校には鍵が掛けられていない。どこも開けっ放しである。これはどういうことなのだろう。
勇次はあちこちに入り込み、探ってみるが何も見当たらない。確か、小学校の生徒は全部で十人のはず。その内の三人は現在、店にいる。残り七人は……どうやら植え付けられてしまったらしい。種とやらを植え付けられると、みんな最後には弓子のようになってしまうのだろうか。哀れな話だ。
そこまで考えた時、勇次は志賀と名乗った男の存在、及びその言葉を思い出した。志賀は確か、こんなことを言っていたはずだ。もって一週間、その前に体が変化すると。弓子は草人間のような者に変化した。みんな、あんな生物に変化するのだろうか……。
何のためにそんなことをしているのかは不明だが、事情を知っていると思われるのは……今のところ志賀だけだ。舟を見つけ、子供たちを送り出したら……志賀を探す。
勇次は校舎を出て、校庭を歩く。ここに来てから二年になるが、この小学校に来たのは初めてだ。改めて見ると、古い木造の校舎はどこか暖かみを感じる。素敵な雰囲気だったのだろう……しかし、今は謎の侵略者たちに占領されてしまっている。感傷にひたるのは後回しだ。
金網に囲まれた小屋を見つけた。ソーニャの話によると、鶏や兎が飼われているという話だった。しかし扉は開いている。中には何もいない。逃げたのか……それとも食われたのか。生き物のいた痕跡は大量に残されているが。
いずれにせよ、これ以上ここにとどまっていても、得られる物は無さそうだ。次はどこに行けばいいのだろうか……
その時、校庭の真ん中に何かを見つけた。さっきまではいなかったはずの巨大な何か。勇次は素早く身を隠そうとしたが、次の瞬間には驚愕の表情を浮かべ、立ちつくした。
校庭の真ん中にいるのは巨大な白い犬だ。子牛……いや、それ以上に大きい。校庭で尻を地面に着けた体勢で、じっとこちらを見つめている。明らかに犬の視線ではない。意思と知性とを感じる視線だ。
「てめえは……奴らの仲間か……ただの犬じゃねえだろう……言葉わかるか?」
言った直後、勇次はその顔と姿に見覚えがあることに気づいた。
そうだ……俺はこいつと会ったことがある。初めて妖怪らしきものを見た、あの日……そうだ、こいつはあの時に出会った狼の妖怪だ。日本狼の……。
「お前……あの時の……」
勇次はそう言いながら、ジリジリと間合いを離していく。彼の修羅場をくぐり抜け、培われた勘は言っていた。目の前にいる者は、カンタやミーコなどとは違う。はるかに恐ろしい妖怪だ。ただでさえ、得体の知れない連中と交戦中だと言うのに……勇次は自分の不運を呪うしかなかった。間合いを離してはいるが、そんなものは抵抗にもならない。例え自分が全速力で逃げ出したとしても、目の前の狼は一瞬にして追いつき、一撃で自分を引き裂いてしまうだろう。
だが――
あの時と同じく、狼は言葉を発した。
「お前と話すのは……久しぶりだな」
狼は悠然とこちらに歩いてくる。
「まず、そこの小屋の中に入れ。お前に話がある」
勇次は小屋に入り、腰を降ろす。鶏と兎の出す獣臭が漂い、地面には餌や糞がこびりついていた。だが今の勇次には、そんなものを気にしている心の余裕などない。
狼は勇次の目の前で、腹を地面に着けて座り込み、こちらをじっと見つめている。その瞳からは、親しみと同時に悲しみのようなものを感じ、勇次はひどく落ち着かない気分にさせられた。
そして、狼はまたしても言葉を発する。
「お前は……これ以上関わるな。店にいろ。そして道路が通れるようになったら……子供たちを連れて逃げるんだ。あとのことはお前に関係ない」
その言葉を聞いた瞬間、勇次の表情が変わる。彼は狼に対する恐怖を忘れた。そして、先ほど草人間を殺した時のような凄まじい目で睨みつける。
「狼さんよお……そうはいかないんだ。俺はな、婆ちゃんをこの手で殺したんだよ……奴らのせいでな。婆ちゃんが……どんな姿で死んでいったか……てめえ知ってんのか? 婆ちゃんがな……どんだけ良い人だったか……てめえ知ってんのか? 奴らが他所で何しようが構わねえ。でもな……婆ちゃんをあんな姿に変えた……その借りだけは……絶対に返させる。奴らを……殺す」
いつの間にか、勇次の目には涙が浮かんでいた。母親の死を聞かされた時でさえ、彼の心にはひとかけらの悲しみもなかったはずなのに。
勇次の態度を見て、狼の顔色がわずかながら変化する。狼は口を開いた。
「……勇次、お前は何を言っているのだ? 奴らは――」
「その前に聞きたい。奴らは何なんだ? あんなの、見たことねえぞ」
「……」
狼の瞳に、奇妙な感情が浮かぶ。だが、勇次はそんなことはおかまいなしだった。
「なあ、あいつらは一体何なんだよ? カンタもミーコも、あいつらは人間でも妖怪でもないって言ってたんだ……あいつら何なんだ?! なあ――」
次の瞬間、勇次は得体の知れない力で持ち上げられたかと思うと、一気に地面に叩きつけられた。
全身をかけめぐる激痛……仰向けになった勇次のみぞおちを、狼の前足が押さえつける。
そして――
「図に乗るな。お前は人間だ。たった一人の人間に何ができる。奴らはお前の手に負える相手ではない。見ろ……お前は私の足すら払いのけることができないのだ。その程度の力もないお前に何ができる。もう一度言う。奴らはお前の手に負える相手ではない。お前が人間相手にしていたケンカとは違うのだ」
「んだと! 離せ! この野郎! ぶっ殺すぞ!」
勇次は渾身の力を込め、狼の前足を払いのけようとする。しかし、足の力は凄まじく、引き離すことができない。やけになって狼の顔を殴りつけるが、拳に伝わってくるのは、大木を殴っているかのような感触である。さらに何度も殴り続けるが、狼には効いている気配がない。
やがて、みぞおちにかかる力が徐々に強くなっていく。今や勇次は呼吸すら辛くなってきた。
「お前は無力な人間だ。ただの……駄菓子屋だ。お前にできることなど何もない。また、お前がする必要もないのだ。さっさと店に帰れ。そして、子供たちと一緒におとなしくしているんだ。でないと、この場でお前を殺す。奴らの標的は人間だ。妖怪ではない。だがお前が余計なことをしたせいで、妖怪が巻き込まれてしまっているのだ……これ以上、人間の問題に妖怪を巻き込むわけにはいかない。さあ、今すぐ選べ。この場で死ぬか、店でおとなしくして全てが収まるのを待つか……」
狼の足は、どんどん力を増していく。凄まじい苦痛……体がミシミシ音をたてているような気さえする。勇次は肋骨ごと体を潰されるのではないかという恐怖を感じた。しかし、勇次はなおも抵抗を続ける。
「ざけんじゃ……ねえ……てめえら……こそ……いい……のか……よ……よう……かい……の……くせ……に……」