黒い嵐
ソーニャは今になっても、この日のことを思い出すと、なんとも言えない気分になる。
他の村人たちと永遠に無関係になってしまった、あの日……何があったのかはわからない。恐らく、永遠に知ることはできないだろう。ただ……思うことはある。
こうなることは、ずっと前から決まっていたのだろうか? と。
その日、勇次はいつものように駄菓子屋にいた。相変わらず客の来ない店で、パイプ椅子に座りテレビを見ている。
「おーい、勇次」
またしても、ソーニャの声。
ソーニャは店に入ると、いつものように勇次の顔をじっと見つめる。そして一言。
「ねえねえ勇次、昨日はお小遣いもらったんだけど……だからいっぱい買えるんだけど」
「いいよいいよ……人生何があるかわからん。小遣いは貯めておけ。人生、最後に勝つのは夢でも希望でもない。金だ。無駄遣いすんなよ」
小学生、それも一年生に対し夢も希望もない言葉をかけると、勇次は再びテレビの画面に目を向ける。怪しげなオカルト系の番組が放送されていた。
(見てください、画面のこの部分に河童が写っています!)
(おお!)
(きゃあ! 怖い!)
勇次は苦笑いする。まさかカンタではないだろうな、などという考えが頭をかすめたが、どうやら違う……というより、明らかな偽物でホッとする。
「何一人で笑ってるの? 気持ち悪いんだけど」
菓子を手にしたソーニャが、不審そうに見つめる。
「何でもねえよ。そいつは五十万円だ」
「勇次……そのネタはもう止めた方がいいと思うんだけど」
そう言いながら、ソーニャは勇次の前に五十円玉を置いた。勇次はその五十円を、そのままポケットに突っ込む。
「毎度あり」
「……ねえねえ勇次、これガチャンガチャンやって見せて」
ソーニャはそう言うと、レジを指差す。
「無理だよ。俺も使い方を知らない。そもそも、動くのかどうなのかも知らないしな」
「……ねえねえ、このテレビ何やってんの?」
「もの凄いバカな番組だ。こんなの見ちゃダメだ。バカがうつるぞ」
「でも、勇次も見てるんだけど」
「俺みたいなバカになっちまうぞ。ガチャンガチャンの使い方もわからないような――」
(ここ! ここ見てください! 見えますか、この鴉天狗が!)
「なんだと! 鴉天狗!」
言葉と同時に、勇次は凄まじい速さで顔を画面に向ける。しかし、画面に写っているのはカラタロウとは違う、明らかな偽物だった。
「……勇次、おかしいんだけど」
ソーニャがそう言い、勇次は再びソーニャの方に顔を向けた瞬間、空の異変に気づいた。空が曇り始めているのだ。そして、みるみるうちに暗くなっていく。
「あ……おいおい、今日って雨だったか?」
勇次は外に出てみる。すると、今にも一雨来そうな空模様だ。
「お、おい……傘貸してやるから早めに――」
だが、勇次の判断は遅かった。空が凄まじい勢いで暗くなり、ゴロゴロという音も鳴り始めている。そして次の瞬間には水滴が一つ、また一つと落ち始め……やがて、バケツいやタライをひっくり返したような大雨が降り始めた。
勇次は慌てて店内に避難する。
「おいおいおい、こりゃあひどいな……ソーニャ、仕方ないから雨あがるまで店で待ってろ」
「勇次……部屋の中、変な匂いがするんだけど」
言いながら、ソーニャは顔をしかめる。
まあ、当然の話だろう。川に潜んでいる河童と草原を蠢く化け猫、そして山を徘徊している鴉天狗が毎晩のように遊びに来るのだ。この三者の匂いが、家に染み付いてしまっているに違いない。
「仕方ないだろ……文句言うな」
そう言いながら、勇次は店の電話の所に行き、受話器を取る。そして中島の家に掛けてみたが……誰もでない。弓子の携帯電話にも掛けてみたが、留守電に繋がるだけだ。
勇次は妙な胸騒ぎを感じた。
おいおい……。
どういうことだよ、これは……。
この雨で、家に誰もいないって言うのか? これは明らかにおかしいぞ。異常だ。
しかし、この状況じゃあ確かめようがない。
とりあえず、この大雨じゃあ動くのは危険だ。明日は祝日で、ソーニャも学校は休みだ。今晩はウチに泊めて、明日の朝に帰すとしようか……。
勇次がそんなことを考えていると、更なる問題が発生した。
裏口の扉を、かりかりと引っ掻くような音がする。強い雨音に混じり、かすかに聞こえてくるのだ。間違いなく、ミーコの仕業であろう。
勇次はさりげなく扉に近寄ると――
「勇次、開けるニャ」
外から声がする。
「今日は帰れ。客が来てるんだよ」
勇次は小声で囁きながら、ソーニャの様子を見た。ソーニャはテレビを見ている。放送しているアニメに夢中で、勇次の怪しげな行動には気づいていない。
「あのチビ娘だニャ。ずっと猫のままでいるから、開けて欲しいニャ。開けないと、大声出すニャ」
「この野郎……おとなしくしていてくれよ」
勇次はそう言うと、扉を開けた。
すると、びしょ濡れになったミーコが入って来る。ミーコは入ると同時に体を震わせ、辺りに水滴を撒き散らした。
「うわ……猫……猫ちゃんだ……猫ちゃん!」
うわずったような声が背後から聞こえてきた。勇次が振り向くと、目を輝かせたソーニャが立っている。
「ソーニャ……まずは落ち着くんだ。びしょ濡れの猫を拭いてやらないと」
勇次はその場であぐらをかき、ミーコを足の間に置く。そして、タオルで優しく拭いてあげた。
ミーコは目を細め、うっとりした表情をしている。それを見ているソーニャも目を細め、うっとりとした表情をしている。
「勇次……触りたいんだけど……猫ちゃんに触らせて……」
我慢できなくなったソーニャが、勇次をつつく。
「優しくしろよ。猫だって、あっちこっちいじくられるのは嫌なんだからな」
勇次はミーコを優しく丁寧に持ち上げ、ソーニャに手渡す。
ソーニャはミーコを受け取ると、優しく撫でてやっている。ミーコは特に嫌がる様子もなく、おとなしくソーニャの手に身を任せていた。
不意に、ソーニャが叫び声を上げる。
「勇次! この猫、尻尾が二本ある! 凄い! カッコいい!」
「う……た、たまにそういう猫もいるんだ。いいか、尻尾には触るなよ。猫は尻尾に触られるの嫌いなんだからな」
「あーい」
勇次の心配をよそに、二人は仲良くやっているようだ。
勇次はそんな二人の様子を見ながらも、胸騒ぎを抑えられなかった。一体、ソーニャの家で何が起きているのか……それがわからないのだ。
スマホを取り出し、もう一度電話を掛けてみたが、家の電話も携帯電話も出ない。弓子は現在、六十歳である。こんな大雨の中、出かけるとは思えない。確か車の免許も持っていないはずだ。まして、可愛い孫娘が大雨の中、帰っていないというのに連絡もないというのは……理解不能だ。
だが、ミーコを抱いて幸せそうにしているソーニャを見て、とりあえずは明日になれば、何とかなるだろうと考えた。いろんな条件が重なり、たまたま電話に出られないのだろう、と。
この時に何が起きていたのか、誰も知らない。
勇次とソーニャとミーコはもちろんのこと、カンタもカラタロウも、あるいは他の存在も……具体的なことは誰も知らない。確かなことは、この嵐の夜に村の中で何かが起きていたこと。その何かに、三人の妖怪と一人の人間は薄々気づいてはいたが、事の重大さがわからず、何も手を打たなかったこと。そして……仮に事の重大さに気づいたとしても、止められはしなかっただろうということ。
「勇次、村の様子が何か変だニャ」
ソーニャが寝静まった頃合いを見計らって、ミーコが話しかけてきた。
「変? どういうことだ? 何か見たのか?」
「いや、見てないニャ。でも……何か変だニャ。大雨のせいかも知れないし、気のせいかもしれないけどニャ……」
そう言いながら、ミーコは毛づくろいを始めた。
「何だと……お前、すまんが村の様子を見てきてくれよ」
「嫌だニャ。こんな嵐の中、出たくないニャ」
「だったら、俺が行く。お前、ちょっとソーニャのこと見ててくれ」
「どうやって見ればいいニャ? 姿変えてもいいのかニャ?」
「いや、それはマズイな……仕方ない、明日、雨があがったら調べてみよう」
正直、勇次も胸騒ぎは感じていた。ミーコの言葉も気になる。しかし、こんな田舎で何が起こるというのか、という気持ちの方が強かったのだ。彼は最終的に、人間の常識で判断してしまった。
常識の通じない世界で生きていた、はずなのに。
翌朝。
昨夜の大雨が嘘のように、雲一つない綺麗な青空である。ミーコは夜の間にねぐらに帰ってしまったらしく、影も形も見えない。相変わらず気まぐれな奴だ、と勇次は一人でうなずくと、顔を洗い、歯を磨く。ソーニャはすでに起きていて、顔を洗っている。祖母である弓子の影響なのか、祝日だというのに早起きな娘である。
「ソーニャ、とりあえず朝ご飯食べてから帰ろう。今から婆さんに電話かけてみるからな」
「あーい」
勇次がさっそく電話してみると――
(……もしもし)
受話器の向こうから聞こえる弓子の声は、明らかにおかしかった。
「あ、あの……どうも、勇次です。夕べは雨がひどくて……それでお孫さんをウチに泊めたんですよ……失礼ですが、夕べはどうされたんです? 何度か電話をかけたんですが、誰も出なかったんですよ?」
(……はあ、色々ありまして……)
この返答に、勇次は困惑した。いつもの弓子と確実に違う。こんな反応が返ってくるはずがないのだ。いつもの弓子なら、もっと威勢のいい返事がくるはずなのに……。
どういうことだ?
「じゃ、じゃあ……今からソーニャちゃんを送って行きますんで……よろしくお願いします」
自分でも何を言っているのかわからないまま、電話を切る。そして、困惑した状態のままトーストをソーニャと一緒に食べた。
得体の知れない不安感が広がっていく。
ソーニャの手を引きながら、勇次は周りを見渡す。特に変わった点は見当たらない。人通りはほとんど無いく、二人の村人とすれ違い、挨拶したが無視された。それはいつもと変わらぬ光景である。しかし、何かがおかしい。いつもと何か違う。だが、それは何なのかがわからない。
そして中島の家に到着したが――
「おばばー、帰ったんだけど」
ソーニャが表で呼び掛けるも、誰も出てこない。いつもの弓子なら、ソーニャが呼び掛けると、すぐに出てくるはずなのに。眠っているのだろうか? いや、さっきは電話に出たのだ。
そこまで考えた時、勇次はようやくおかしな点に気づいた。
ここに歩いて来るまでの間、動物を一匹も見ていない。たいがい、蛇や蛙を一匹は踏みそうになるはずなのに……。
そして、村人からの敵意ある視線がない。
その時、扉が開いた。
出て来たのは弓子に間違いないが……いつもと比べると覇気がない。さらに、顔色も悪い。映画に出てくる吸血鬼か何かのように青白い顔だ。
「ああ、これはどうも……ええと、ソーニャちゃん……ウチにお入りなさい」
何もかもがおかしい。
さて、どうする?
「ああ……弓子さん、おとといのカレー、美味しかったです。タッパーに入れてくれた……」
勇次はそう言いながら、さりげなくソーニャの顔を見る。すると、ソーニャの様子もさっきまでとは違うものになっていた。表情はこわばり、体は小さく震えている。
異変に気づいたのだ。
「……カレー美味しかったかい、それは良かった」
「ええ、美味しかったですよ……ちなみに、おとといもらったのはカレーじゃなくて煮物ですがね……」
勇次はソーニャの手を引きながら、少しずつ後退りすると――
弓子の表情も変わる。
「何を言っているんだろうねえ、この不良は……ソーニャちゃん、こんな不良と遊んじゃ――」
そこまで言った時、弓子の言葉が止まる。
弓子……いや弓子のふりをしている何かは、勇次の後ろにいる者を見ている。そして、その後ろにいる者のせいで驚愕の表情を浮かべている。
「お、お前は……」
弓子の目、そして不気味な声……勇次がさりげなく目線を向けると、そこには尻尾が二本ある黒猫が、背中の毛を逆立てながら弓子を睨んでいたのだ。
「ミーコ! こいつは何なんだ! 妖怪か?」
人前では話しかけないと決めていたことも忘れ、ミーコに叫ぶ。すると――
「違うニャ! こんな奴は見たことないニャ! でも間違いなく人間じゃないニャ! 早く娘連れて――」
「行かせるかあああ!」
突然、弓子の表情が一変する。髪の毛が逆立ち、目の色は緑色で、しかも光っている。口からは人間の声とは思えない、得体の知れない音が洩れているのだ。
そして弓子は、六十歳とは思えぬ凄まじい勢いで、勇次とソーニャめがけ突進してきた。