黒い過去
勇次が自分の能力に気づいたのは、まだ幼い頃だった。
まず、自分の腕力は凄まじい強さであることに気づいた。周りの少年たちと比べると、勇次の腕力は異常とも思えるレベルだったのだ。
勇次はその腕力を用いて、たちまちガキ大将となるが、成長すると更に恐ろしいことに気づいた。自分には、人外の者が寄って来るのだ。
有り得ないはずの者、存在しないはずの何か……そんな者たちを数えきれないくらい見た。いや、見るだけならまだマシだ。話しかけてきたり、触れられたり、追いかけられたりした。酷い時には、物を壊したりなどのイタズラをしたりした。しかも、そいつらは決まって勇次が一人でいる時に出現する。他の人間がいる時には現れなかったのだ。
勇次は大人たちに訴えた。
妖怪が出る、と。
大人たちは、初めは笑った。次には強い口調で叱りつけた。その次は本気で怒った。唯一の味方であるはずの母親ですら、勇次の言うことを信じてくれなかったのだ。
勇次は遂に、心療内科に連れて行かれた。そして、医者は勇次に言った。
「君は病気だ。治るまで、病院に通いなさい」
勇次は病院に通ったが、人外の者たちは現れ続けた。
やがて、勇次は悟る。自分の言うことは、誰も信じてくれないのだ。そして自分も、誰のことも信じないのが正解だ。例え母親のことであっても……。
勇次は家に帰らなくなった。街でケンカに明け暮れ、チンピラたちから一目置かれ、あちこちを転々と寝泊まりしながらも、妖怪の影に怯える日々。
妖怪はいつも、忘れた頃にやって来る。
勇次の生活に妖怪の影がちらつき始めた時……勇次はそこを離れ、また別の街に行くことにしていたが、どこに行っても、妖怪は付きまとう。
勇次の心はどんどん荒んでいった。人を殴った。道行くチンピラや不良学生、場合によってはヤクザや格闘家相手でも殴りかかって行った。集団が相手でも怯まず向かって行った。しかし彼は、よくいる不良少年のように、弱い相手を殴るような真似はしなかった。むしろ、強そうな相手や人数の多い相手を選び、ケンカを売ったのだ。その方が、全てを忘れられる気がしたからだ。負けても構わなかった。死んでも仕方ないとも思っていた。にも関わらず、誰も彼を倒せなかった。生来の人間離れした腕力に加え、繰り返されるケンカにより、彼の格闘能力は磨きぬかれ、凄まじい強さを身に付けさせていたのだ。
やがて、度重なるケンカ沙汰により警察に逮捕される。
そして、取り調べを担当した刑事から、驚愕の事実を告げられる。勇次の母が病死していることを。
だが当時の彼の心からは、悲しみを感じるために必要な何かが失われていた。ただただ自分の不運を嘆くことしかできなかったのだ。彼の心は、どこから見ても闇に覆われていたのである。
全ては、妖怪のせいだった。妖怪が憎くてたまらなかった。
だが、三日月村に越してきた日の夜、勇次に重大な変化が訪れる。
越してきた日の夜、勇次は何をするでもなく、ボーっとしていた。元より無趣味な男であり、かつ面倒くさがりやである。越してきたばかりの場所がどんな所なのか、調べてみようという気などさらさらない。彼はただただ、家でテレビの画面を眺めていた。
その時、裏口の扉を叩く音がした。
「誰もいない。帰れ」
勇次は扉に向かい、そう行った。村の人間と仲良くする気はない。こんな村、いられなくなったらいつでも出て行ってやる……と思っていた勇次にとっては、村人とのコミュニケーションなどは本当にうっとおしいだけのものだった。
しかし、またしても扉を叩く音。
そして――
「誰もいないって……声がしてるじゃないかよ」
奇妙な発音の声。
勇次は不快になった。外に来ているのが、何者かは知らない。しかし、恐ろしく図々しい上に頭が悪いようだ。そういう奴には、体でわからせるしかない。
勇次が扉を開けると、そこにいたのは――
「よお人間。俺カンタ。よろしくな」
親しげに語りかけてくる河童であった。
「……妖怪か。また来やがったのかよ」
勇次の心に、はっきりとした殺意が生まれた。
だが、カンタは気づいていないようだ。親しみのこもっているらしい表情で、こちらを見ている。
「なあ、相撲とらないか? 相撲とろうぜ相撲!」
「……ナメてんのか、てめえ。ブッ殺してやるから待ってろ。てめえの皿かち割ってやるよ」
勇次が低い声でそう言った途端、カンタの表情が変化する。見る見るうちに悲しそうな顔つきになっていったのだ。勇次はこれまで河童には会ったことがなく、したがって河童の表情などわかりにくいはずなのだが、それでも、はっきりと理解できた。
目の前の河童が、自分の発した言葉で深く傷ついたことが……。
「俺……そんなつもりじゃなかったんだ。あんたを見て、仲良くなれそうな人間だと思って……あんたみたいな人間、近頃は少ないから……でも、あんたは河童が嫌いなんだな……わかったよ、もう来ない」
そう言うと、河童はくるりと背を向け、立ち去ろうとした。
だが、その時――
「おい! ちょっと待ってくれよ!」
勇次は思わず叫んでいた。
初めての経験だった。妖怪は自分を害する存在なはずだったのに、目の前の河童は、初対面の自分に本気で親愛の情を向けてきてくれたのだ。
だが、そんな河童を自分は拒絶してしまった。しかも、深く傷つけてしまったのだ……。
勇次は河童の肩を掴み――
「ごめん……俺は来たばっかりだったから……ところで、俺と相撲が取りたいのか? 俺は強いぞ!」
勇次の言葉を聞き、河童の表情がまた変化する。今度は嬉しさがこっちにまで伝わってくる、明るい表情だ。
「お前は強そうだな……相撲だ相撲!」
そして一時間後。
勇次は疲れきり、草の上に仰向けに倒れていた。力士のぶつかり稽古のように、何度もぶち当たっていき、そして何度も倒されたのだ。カンタは体は小さいが、凄まじいパワーの持ち主である。
そのカンタは、すずしい顔でこっちを見ている。もしかしたら疲れているのかもしれないが、表情からは読み取れない。
「勇次……お前は人間としては強いが、河童の中じゃ弱いな」
そう言いながら、仰向けになった勇次のそばに腰かける。
河童特有の生臭い匂い……だが、そんなものは気にならなくなっていた。
「俺はずっと……あんたら妖怪にいじめられてたんだよ。あんたも、俺をいじめるために来たのかと思ったんだが……あんたは、良い妖怪なんだな」
気がつくと勇次は、小さい頃の話をしていた。
生まれて初めて、妖怪と接触した時、あまりの恐怖に意識を失ったこと……。
学校の帰り道、妖怪に追いかけられたこと……。
留守番をしている時に家の中に侵入してきて、目の前でさんざん悪さをした挙げ句、それら全てを自分のせいにされ、母親にひどく叱られたこと……。
「そうか。お前、大変だったんだな。でも、その妖怪たちは……お前と仲良くしたかっただけなのかもしれない。それに都会みたいな場所に長く住んでいると、妖怪の心が荒んでいくって聞いたことがある」
「心が……荒むのか」
「ああ。俺は都会に行ったことがないからわからないけど……都会って、夜になっても明るいんだろ。妖怪は暗いところが好きだから、常に明るい場所にいるとおかしくなるって聞いた。それに、妖怪にもいろんな奴がいる。でもな、妖怪は善でも悪でもない。妖怪は妖怪のルールで生きてるだけなんだ。それは忘れないでくれ。あと……今日からお前は、俺の友だちだ。明日また遊びに来るよ」
そして次の日も、夜になるとカンタはやって来た。川で採ってきたのだろう、三十センチほどの魚を数匹ビニール袋に入れて、水を滴らせながら彼は現れた。
「……カンタ、すまないが体を拭いてくれ」
さすがの勇次も、びしょ濡れのカンタをそのまま家にあげる訳にはいかず、バスタオルを投げてやる。すると――
「拭かなくていいよ! 外で相撲取ろうぜ相撲!」
そう言って勇次の腕を掴み、強引に連れ出そうとするカンタ。
「ちょっと待て! 今日は違うことして遊ぼう! 相撲は明日! 体を拭いて家で遊ぼう!」
そう言って、カンタを家に半ば強引に招き入れる。そして、冷蔵庫から胡瓜を取り出した。
「なあカンタ、胡瓜は好きか?」
「好きだ! くれるのか? 胡瓜くれるのか?」
カンタは目を輝かせ、クチバシを半開きにして胡瓜を見つめている。
「ああ……胡瓜やるから、今日は体を拭いて家で遊ぼう」
「わかった!」
そして、勇次とカンタは二人並んでテレビを見始めた。実のところ、体のあちこちが痛くて相撲をする気にはならなかったのだ。一方のカンタは、物珍しそうにテレビを見ながら、胡瓜をかじっている。
「凄いな、てれびって……面白いもんだ」
カンタがそう言った時、裏口の扉を、かりかりと引っ掻くような音がした。
「ん? 何だ?」
勇次は立ち上がり、裏口に向かった。実のところ、河童のカンタを他の人間に見られるのは確実にまずい。見つかったら、何をされるかわからないのだ。勇次は、昨日会ったばかりのカンタに強い親しみを感じていた。カンタが人間にひどい目に遭わされる場面など、絶対に見たくない。
勇次は注意深く、扉を開けると――
そこにいたのは、一匹の黒猫だった。毛並みは美しく、夜の闇すら凌駕してしまう黒さである。瞳は大きく、金色に輝いていた。体つきは太りすぎず痩せすぎず、猫特有のしなやかさを感じさせる。三つ指を着くような格好で行儀よく座り、勇次の顔を見上げていた。
そして、黒猫は――
「ちょっとあんた、ここにカンタ来てるニャ。匂いでわかってるニャ。ついでに魚の匂いもしてるニャ。こっちは全部お見通しニャ。入らせてもらうニャ」
そう言うと、勇次の返事を聞きもせず、彼の足の間をすり抜けて入って行った。
勇次は一瞬困惑したものの、すぐに状況を理解する。
「おいカンタ、なんか猫魔人みたいなのが来たぞ。お前の友だち――」
「猫魔人ってなんだニャ?! あたしは化け猫のミーコだニャ! お前なんかより、ずっと前から生きてるニャ!」
黒猫はそう言うと、いきなり宙に飛び上がった。
そして、空中でくるりと一回転する。
次の瞬間、黒猫は人間の姿になっていた。 長い黒髪の若く美しい女……顔だけ見ればの話だが。頭ににょっきりと突き出ているのは猫のような三角の耳であり、Tシャツとジーパン姿の腰からは、毛がふさふさした長い尻尾が二本はみ出ていた。
「おいおい、どこのアニメキャラなんだ、この猫魔人は……」
勇次は呆れた表情で呟いた。
「また猫魔人って言ったニャ! 怒ったニャ! お前をひっかいてやるニャ! フシャー!」
ミーコと名乗った猫女は髪の毛を逆立てるが、カンタが魚を片手に止めに入った。
「ミーコ、ほら魚だ魚」
「ニャ!」
ミーコは表情を変え、両手で魚を掴み食べ始めた。バリバリと骨を噛み砕く音が、部屋に響きわたる。相当、丈夫なアゴと歯をしているようだ。
ミーコは魚をかじりながら居間に入り込み、カンタと共にテレビを見始める。
「カンタ……こいつ何を言っているニャ」
ミーコは画面に映っているニュースキャスターを指差す。
「全然わからん。しかし、こいつの髪の毛はおかしいな……」
胡瓜をかじりながら、答えるカンタ。
勇次は改めて、居間の様子を眺める。
居間であぐらをかき、テレビを見ながら胡瓜をポリポリかじる河童と、ちゃぶ台に両肘をつき、テレビを見ながら魚をバリバリかじる猫女。
テレビの画面では、真剣な表情で昨今の政治情勢について語っているが、髪が若干ズレているニュースキャスターが映っている。
その光景のシュールさに、勇次は思わず笑い出していた。
「ん? 勇次、どうしたんだよ?」
振り向き、勇次を見るカンタの表情は、暖かいものに満ちている。人間からは感じたことのない、暖かい何かに。
さらに、その次の日の夜……勇次はカンタと外に出て、相撲を取っていた。勇次は正直やりたくはなかったのだが、カンタがどうしても、というので仕方なく付き合っていた。
傍らにはミーコがいて、のんびり見物している。勇次がカンタに倒されるたび、楽しそうに笑っているが、カンタが倒されても笑う。元が猫であるミーコにとっては、どちらが倒れてもおかしいようだ。
やがて、勇次は限界を迎える。
草原に仰向けになり、荒い息をしながら空を見上げた。
星が凄く綺麗に見える。都会の空とは、まるで違う景色だ。月も星も、全てが眩しく見える。辺りは真っ暗闇なのだが、カンタと相撲を取っている間に、いつの間にか目が慣れてしまっていた。今では辺りが良く見える。こちらを見て笑っているミーコの顔も、四股を踏んでいるカンタの姿も、そしてこちらに飛んで来る鴉天狗の姿も――
鴉天狗だと?!
今度は鴉天狗か……。
勇次が体を起こすと、目の前で凄まじい羽音を立てながら、鳥と人間を合体させた何かが舞い降りた。身長はさほど高くないが、背中から生えている巨大な翼のせいで実際以上の大きさに見える。
「何だよカラタロウ、何しに来たんだ」
カンタの言葉を聞いて、カラタロウと呼ばれた鴉天狗はもったいぶった様子で口を開く。
「お前らが騒いでいるのを見て、不安になった。ただそれだけだ。それ以外、別に用はない」
「なんだニャ。相変わらずスカした奴だニャ」
ミーコはそう言うと、立ち上がり、勇次のそばに来る。
「勇次、そろそろテレビ見たいニャ。テレビ見ようニャ」
「お、そうだな。相撲はこれくらいにしてテレビ見るか」
カンタはそう言いながら、ミーコと一緒に家に入っていく。さらにカラタロウと呼ばれた鴉天狗も、何の断りもなく、何のためらいもなく、二人の後から入って行く……。
「鴉天狗よ……お前もか……」
勇次は思わず、そう呟いていた。
それ以来、三人はほぼ毎晩やって来る。そして、四人で下らない話をしたり、カンタと相撲を取ったり、ミーコの毛づくろいやノミ取りを手伝ったり、カラタロウと将棋をしたりしていたのだ。
村人からは好かれていなかったとはいえ、平和な楽しい日々であった。
あの日までは……。