黒い苛立ち
勇次は、何と言えばいいのかわからなかった。狼の声は怒りに満ちている。憎しみに満ちている。そして……悲しみに満ちている。その激しくも深い、負の感情が生み出した闇……その前では中途半端な人間である自分の言葉など、何の効力も持たない。
「わかるな……お前も死にたくなければ、駄菓子屋の中でおとなしくしていることだ。そうすれば、お前も子供たちも助かる――」
「待て……あんたに一つ聞きたい。何で俺と店は安全なんだ?」
勇次は素早く反応する。ここに来たもう一つの目的……それは、答えを聞くことだった。なぜ自分は安全なのだ? そして店も……理解不能である。しかし、この狼は確実に真相を知っている。ならば、狼から聞き出すしかあるまい。
しかし――
「お前が知る必要があるのか? 世の中は、お前の知る必要のないものに満ちている。お前が知るべきこと……それは、生き延びるための最善の策だ。お前が生き延びるためのもっとも簡単にして安全な方法……それは、何もせずに店の中にいることだ。これは天災のようなものだ。嵐に襲われたら、お前はどう対処する? 家の中で、嵐が過ぎるのを待つだろう」
狼の声は力に満ちていたが、同時にどこか懇願するような雰囲気もあった。自分に戦いを思い止まらせようという意思が、わずかながら感じとれる。
勇次は下を向いた。そして次の瞬間、顔を上げながら睨みつける。かつてチンピラだった時、勇次は相手をそうやって威嚇していたのだ。目の前の狼は、そんなものに怯むはずはないと知りつつも、やらざるを得ない気分だった。
「なあ、あんた……あんたは人間と戦わなかったのかよ……仲間の仇を討つために……」
「復讐か……復讐は何も生み出さない――」
「あんたはそう言うと思ったよ。でもな、俺はこの件に関わっちまったんだ。目の前でソーニャが泣いたんだ……目の前で婆ちゃんが化け物に変わった……そして、婆ちゃんをこの手で殺した……今さら知らぬ存ぜぬはできないんだよ。このまま店にこもっているくらいなら……死んだ方がマシだ。ただ生き長らえるだけの人生……そんなものいらない……」
勇次はそう言うと、狼の目の前に自らの左手首を突き出す。そこにくっきりと刻まれた、まがまがしい二本の線……。
狼の表情が、わずかではあるが変化した……少なくとも、勇次の目にはそう見えた。
「人間とは……本当に愚かな生き物だ。なぜ、自ら限りある命を絶とうとするのか……いずれは死が訪れるというのに……」
「それはな、人間には死ぬよりも嫌なことがあるからだよ……俺は奴らをこのままにしておきたくないんだ……それこそが、死ぬよりも嫌なことなんだよ。もういい。協力する気も教える気もないなら、あんたに用はない」
勇次は振り向き、数歩進んだが――
あることを思い出した。
そうだ……。
俺が手首を切った時、誰かの声が聞こえたんだよ。その後なぜか意識が飛んで、気がついたら病院のベッドにいた……狼の声は、あの時の声に似ている……。
「おい! お前!」
勇次は慌てて振り向く。しかし狼の姿はなかった。時間にして、わずか数秒間……その間に、足音一つ立てずに消える。やはり恐ろしい奴だ。妖怪というよりは……むしろ土着の神に近い存在となっているのかもしれない。狼が力を貸してくれれば村を支配する連中など、すぐに蹴散らせるだろうが……。
いや、そんなことはどうでもいい。狼には協力する気がないのだ。そもそも、あんな狼に協力を要請すること自体が間違いだったのかもしれない。肝心なのは、これからどう動くかだ。仕方ない。まずは店に戻るとしよう。そして道路が復旧したら三人を魔歩呂町に届ける。その後は……。
勇次は一人、帰り道を歩く。足取りは重い。元より狼の手助けに期待してはいなかったはずだ。ただ……それでも、土下座するなり何なりして頼みこむべきだったのではないのか、という悔いのようなものもあった。しかし、あの狼の悟りきった態度を見ていると、苛立ったのも確かだが。
それにしても、狼のあの怒りと憎しみは凄まじいものがあった。妖怪になりたくてなったわけではない、ならざるを得なかったのだ、という言葉は重く、そして深い……では、カンタやミーコ、カラタロウも「妖怪にならざるを得なかった」者たちなのだろうか。勇次は漠然と、動物のままでいるよりは妖怪になった方がいいと思っていた。しかし妖怪に変わることは、本人にとって幸せなことのだろうか? それに、人間に仲間を絶滅させられ、妖怪に変化してまで生き長らえることは……幸せなのだろうか?
ふと人の気配を感じた。同時に声、そして足音も……明らかに、何者かがこちらに歩いて来ている。恐らくは人間、それも二人以上だ。声に聞き覚えがある。名前はよく覚えていないが、村の青年団に所属していた男たちだったはず。
避けようと思えば避けられたはずだった。だが、今の勇次は苛立っている。何かにこの苛立ちをぶつけたい心境だ。そうしたら、向こうから来てくれた。ならば、避ける必要はない。もし、向こうが放っておいてくれるなら、自分も放っておく。しかし、向こうが自分を放っておいてくれず、悪意を持って何か仕掛けてくるのならば……。
自分は殺意と暴力で応える。
やがて、男たちが姿を現した。二人いる。片方はバットを持ち、片手でぶんぶん振り回している。もう片方は、武器らしき物は持っていないらしい。二人とも何やら喋りながら歩いて来る。こちらの存在には、全く気づいていない。十メートルほどの距離にいるというのに、恐ろしいくらい無用心な奴らだ。
だが、片方の男がようやく気づいた。表情が一変する。勇次を睨みつけ、立ち止まった。
「てめえ……夏目を殺したって本当か?」
バットを持った男が、敵意をむき出しにして尋ねてきた。と同時に、文字通り目の色が変わる。緑色だ。二人の緑色に光る目が、じっと勇次を睨んでいる。
「ああ……いたなあ、そんなのが。お前らも、死にたくなきゃ失せろ。今はお前らに用はないんだよ……いや待て。一つ聞きたいんだがな、あの志賀ってのは何者だ?」
そう、カンタは言っていたのだ……志賀は人間だ、と。少なくとも……人間みたいなんだよ、と言っていたのは確かだ。手下の村人なら、何か知っているのかもしれない。ならば聞き出す。もし正直に吐いてくれるなら……見逃してやる。
だが――
「ざけんなよ……てめえは殺す……」
バットを持った男は、どうやら引く気はないらしい……今にも殴りかかってきそうな雰囲気だ。だが、殴りかかっては来ない。街のチンピラによくありがちな態度だ。バットを振り回し、威嚇することで戦意を失わせようという魂胆なのだろう。勇次は、目の前の男が未だ人間の時のままの思考で行動していることに改めて気付いた。人間でない何かに変わったはずなのだが、行動は人間の時のままだ。
だが、それでは自分には勝てない。
勇次は一気に間合いを詰める。
バットを持った男が、何やらわめきながらバットを振り上げた瞬間……その瞬間に間合いを詰め、接近する。男は慌ててバットを降り下ろすが――
勇次はバットを左の前腕で受け止める。空手の上段受けの形だ。間合いが近すぎ、降り下ろされたバットの威力はフルスイングした時の半分もない。勇次は前腕にわずかな痛みを感じただけであった。
そして、勇次の動きはその程度の痛みでは止まらない。受けると同時に、相手のバットを握った右腕を掴んで脇に挟む。同時に自らの右手を相手の左脇に差し入れ――
一気に投げる。
凄まじいスピードで、地面に叩きつけられる男の体……次の瞬間、男の口から何かを吐き出すような声が洩れる。
そして、男の目の光が消えた。
そして、またしても聞こえてくる声……いや、音。もう一人の男が叫び始めたのだ。近くの仲間を呼び寄せているのか……だが、勇次にとっては、ただの騒音である。
「静かにしろ」
勇次は左の拳を放つ。鼻に命中し、男は顔を歪ませてのけぞるが、勇次はさらに右の掌で喉を掴み――
次の瞬間、凄まじい握力で喉を握りつぶした。
勇次は二人を放り出し、再び歩き始める。狼との会話、そして二人との戦い……いや、一方的な殺戮。勇次はつくづく嫌になった。この村はこんな場所ではなかったはずだ。楽園のような場所ではなかったが、それでも勇次なりに楽しくやっていたのだ。なのに、今では人間のふりをした何かがうろつく場所になっている。
どうして自分は、平和に生きられないのだろう。やっと見つけた、自分の居場所だったはずなのに……。しかし、ここでの二年は本当に楽しかった。今まで生きて来た二十年。この先、何があるのか、何年生きるのかはわからない。しかし、ここで過ごした幸せな日々だけは……永遠に忘れないだろう。
じゃあな、愛しい日々よ……勇次は思わず、心の中で呟いていた。
勇次は歩き続け、森を抜けた。既に日は沈みかけている。ただでさえ物悲しい光景が、森の中での会話……そして殺し合いによって、さらに寂しさを増す。夕焼け空がふと、相手の流した血に染まってしまった自分の心のように思えた。勇次は足を早める。一刻も早く帰りたかった。
勇次が店に戻ると、シャッターの隙間から光が洩れている。誰かが店の明かりを点けたのだろう。確かソーニャは店の電気の点け方を知っていたはず。しかし、何のために点けたのだろうか。まあ、別に構わないが。
勇次は裏口から店に入って行く。カンタと春樹、そして恵美は居間でテレビを見ながら、何やら話している。考えてみればカンタはずっと店にいた。川に帰らなくていいのだろうか。
「おいカンタ、川に帰らなくていいのか?」
「ん、大丈夫だよ。この件が片付くまでは、この家にいるよ」
カンタは無邪気な顔で、こちらを見ている。他の河童も、こんな風に無邪気な表情をするのだろうか……つい、そんなことを考えてしまう。他にも聞きたいことがあったのだが、子供たちが起きているので止めることにした。ここで物騒な話をしていると……ミーコにひっかかれるかもしれない。
勇次は居間を通り抜け、店の方に行った。店にはミーコとソーニャがいる。何やら、絵本を読んであげているようだ……ただし、読んであげているのはソーニャの方だが。ミーコはボーッとした顔で、絵本を見ている。
「こうして勇者は魔王を倒し、お姫様と平和に暮らしましたとさ。めでたしめでたし」
「んー……魔王が弱すぎるニャ。敵はやはり、強くないとニャ。王道のストーリーだけど……話としてはいまいちだニャ」
二人の話している姿は母娘のようであり、また友だちのようでもある。その様子は見ていて、思わず笑みがこぼれそうだ。そういえば、ミーコは字が読めなかっただろうか。いや、あえて読めないふりをして、ソーニャに絵本を音読させているのかもしれない。自分の学んだ知識は、人に教えることで完璧に身に付くと何かの番組で言っていたような気がする。ミーコはそういったことを知った上で、ソーニャに絵本を読ませているのだろうか。だとしたら……伊達に二百年以上生きていない。さすがである。
だが次の瞬間、ミーコの表情が変わる。口を閉じ、目付きが真剣なものに変わる。今にも、髪の毛を逆立てて飛び出して行きそうな勢いだ。ソーニャの表情も変わる。ミーコの顔つきを見て怯えているのだ。
「勇次……すまないけど、小娘を頼むニャ」
ミーコはそう言い残し、勇次の横をすり抜け、素早く出て行こうとする。しかし、その腕を勇次が掴む。
そして耳打ちした。
「外に何か来てんだな。だったら俺がやる。お前の役目は、ソーニャを守ることだよ」
勇次は外に出る。店に居れば、安全ではなかったのか。もし、この店も安全でないとするなら……この先、どうすればいいというのだろう。
やがて、招かれざる客が登場した。遠くからでもはっきりわかる、紺の制服。よりによって、警官の三島だ。まだ若いが、とても口うるさく、そして勇次を目の敵にしていた。用もないのに店にやって来て、因縁を付けたりしていたのだ。
その三島が、制服姿でヨロヨロしながら歩いて来る……正直、この男が相手なら何のためらいもなく殺せるだろう。だが……なぜ、わざわざ殺されにやって来たのだろう。それとも、自分を殺すために来たのか。そう言えば、三島は拳銃を持っているはずだ。ならば撃たれる前に撃つ。勇次はリボルバーを取り出し、両手で構えた。拳銃など撃ったことはない。撃ちたくもない。だが……必要とあれば、撃つしかない。