黒い感情
考え込む勇次。だが表から聞こえてきたにぎやかな声が、思考に割って入る。表ではカンタが春樹と相撲を取っている。春樹に勝ち目はなく、何度も倒されていた。だが、カンタは明らかに手加減し、倒す時もケガをしないよう気を配っている。その様子が、見ていて微笑ましくも頼もしい。ミーコもそうだったが、カンタも間違いなく子供好きだ。
「あ、あの……勇次さん……」
奇怪な状況にいることも忘れ、二人の様子を見て微笑んでいた勇次に恵美が話しかけてきた。
「ん、何だ?」
「あの……ここは安全なんですか?」
「わからん。一応、安全だとは言っていた」
勇次は曖昧な答え方をした。一体、目の前の娘にどこまで伝えていいものかわからない。ただ、今言えることは……子供たちを不安がらせてはいけないということだ。
「誰が……誰が言ってたんですか?」
しかし、目の前の恵美という少女の質問は終わらなかった。どうやら、勇次の答えがさらなる疑問を生じさせたらしい。しつこく尋ねてくる。
「え、あ、ああ……昔ここいらに……鴉天狗が住んでいてな……そいつが言ったんだよ。この店には、悪い奴が入れない魔よけがしてあるって」
「じゃあ……何でカンタやミーコは入れるんですか? 妖怪なのに、魔よけは効かないんですか?」
どうやら、この恵美という少女はかなり賢いようである。勇次のその場逃れで思いついた、適当な答えの矛盾点を突いてきた。さらに、恵美は疑問に思った点ははっきりさせないと気が済まない性分でもあるらしい。
「……ここいらを仕切ってる、日本狼の妖怪がいるんだが、そいつが言ったらしいんだ。この店には手を出すな、と」
「日本狼ですか……」
「そう、日本狼だ。絶滅したと思われていた日本狼は……何と妖怪と化し、ひっそりと生き延びていたんだよ。凄いだろう」
そこまで言った時、勇次の頭に閃くものがあった。カンタは狼が森に棲んでいると言っていた。それに、あの狼は全ての事情を知っているらしい。ならば……森に入って呼びかければ、狼は現れるのではないか。狼に事情を聞く。そして……協力してくれるよう頼みこむ。そうすれば……奴らを全滅させることもできるかもしれない。狼は自分の叔父だった者と――顔も知らない男だが――知り合いだったかもしれないのだ。ならば、その甥である自分にも協力してくれる可能性はあるだろう。
「あの……勇次さんは、その狼を見たことがあるんですか?」
なおも尋ねてくる恵美。どうやら、恵美もかなり好奇心が旺盛であるらしい。あるいは今後、狼の研究をライフワークにでもしようと思ったのか。いらぬ好奇心は身の破滅を招くこともあると勇次が知ったのは、小学生の時、妖怪に追いかけられてからだが、彼女がそれを知るのは……当分先の話なのだろう。あるいは明日にでも、知ることになるのかもしれないが。
「……いや、ない」
勇次はそう言うと、家の中に戻った。これ以上、恵美からの質問攻めにあったのではたまらない。ソーニャも一人きりにはさせられないのだ。勇次は部屋に入って行った。
ソーニャは一人、物思いにふけっている。一体、何を考えているのか……具体的な内容まではわからないが、それがどういった方向に進むかはわかる。やはりミーコには家に残っていて欲しかった。ミーコなら、こんな顔をさせる隙を与えない。怖い顔で、いろんな仕事をやらせるだろう。その方がむしろ、こういう時には慰めになるのかもしれない。
「ソーニャ……外でカンタと春樹が相撲取ってるぞ。見に行かないか?」
「興味ないんだけど……」
ソーニャはつまらなさそうに答える。その表情は暗い。前にも思ったことではあるが、勇次はこういう時に気の利いたことを言えない自分の性格が呪わしい。やはり、人にはそれぞれ役割がある。こんな時のソーニャ相手にはミーコの方が適任だ。ミーコは人ではないが……。
勇次がそんなことを考えていると、不意にソーニャが口を開く。
「ミーコはねえ……今までに何度も子供を産んだって言ってたんだよ。ねえ、知ってた?」
「いや……初耳だ」
「けど、産むたびに子供がいなくなって……妖怪になって初めてわかったって。子供は人間に捨てられたんだ、って」
「そんな……」
勇次は驚いた。ミーコからそんな話を聞いたことなどない。だが、ミーコは二百年以上生きているという話だ。子供を産んでいてもおかしくない。
「ミーコは人間が大嫌いだって言ってた。人間がどうなろうが知ったことじゃない、とも言ってたんだけど……でも、勇次のことは好きだって。だから、勇次のためだけに……あいつらと戦うって。それ聞いたら、ミーコ凄いな、カッコいいなって思ったんだけど」
ソーニャは小学校一年生らしからぬ落ち着いた口調で、淡々と話す。そして言い終わった後、にっこり微笑んだ。あたかも勇次を元気づけるかのように。
その時、勇次はようやく理解した。いつの間にか、ソーニャを心配させていたことに。外に飛び出して行っては、ボロボロになって帰って来る。そんな自分を見てソーニャは心配し、元気づけようと思ったのだろう。
そして彼女は、ただ頑張れと言うより数倍効果のあることを言ったのだ。普段は「めんどくさいニャ」のような、やる気の欠片も感じられない言葉しか吐かないミーコなのに……。
「……ソーニャ、せんべいでも食べるか」
「うん!」
テレビを見ながら、ポリポリとせんべいを食べる二人。一応、村は得体の知れない侵略者により支配されているはずなのだが、今の二人からは、そんな気配は露ほども感じられない。まあ、外の三人もそうなのであるが。
もっとも、勇次が意識的にそうしている部分もあるのだが。こんな状況だからこそ、子供たちには余計な負担はかけたくない。たとえ表面的にではあっても、楽しい生活をさせてやりたいのだ。
恐らく、カンタも同じことを考えているのだろう。だから、外で春樹と相撲を取っているのだ。相撲を取り、へとへとにすることで心的ストレスから意識を逸らせる。カンタのような妖怪は自らの生きてきた日々の中から、そういった知恵を学んだのだろう。
不意に、外から歓声がした。カンタや春樹たちの声だ。
そして、外から米袋を担いだミーコが入ってくる。ミーコは米袋をちゃぶ台の上に乗せると、何やら言いたげに胸を張る。二本の尻尾はピンと立ち、顔は誇らしげだ。
ミーコと付き合いの長い勇次には、すぐに理解できた。
「ミーコ……凄いな。助かったよ。いやあ、お前凄いぜ……」
猫は飼い主に、捕まえた獲物を見せる習性がある。ミーコは猫だった頃の癖が残っているのか、時たま捕まえた獲物を勇次に見せに来るのだ。ひどい時など、猪を一頭担いできたことがあった。仕方ないので、徹底的に褒めちぎる。そして、肉の解体などをしてもらったのだ。今回も、米を炊いてもらうとしよう。
そして自分は、山に向かう。狼を探し、協力してもらうために。
「全く、お前らは仕方ないニャ。あたしがいなけりゃ……何もできないニャ」
ミーコは褒められたのが嬉しくてたまらないのだろう。こんなことは大したことじゃない、とでも言いたげにクールな表情を作ろうとしているが、つい表情が緩む。その上、ソーニャが追い討ちをかける。
「うわあい! やっとご飯が食べられる! ミーコ凄いよ! カッコいい! あたし、大きくなったらミーコみたいになりたいんだけど!」
「そ、そんな大したことじゃないニャ! 本当にお前たちは……あたしがいないとダメだニャ!」
ソーニャからの賛辞の言葉を聞き、ミーコは今にも外に飛び出して、屋根に登りつきそうなくらいテンションが上がっている。その様子を見て、勇次は苦笑せざるを得なかった。ソーニャは末恐ろしい娘である。キャバ嬢の母親譲りの転がしテクニックだ。
だが――
勇次はそんな光景に背を向け、外に出て行った。
表ではカンタと春樹が四股を踏んでおり、それを恵美が楽しそうに見ている。これもまた、見ていて笑みがこぼれてしまいそうな光景ではある。しかし――
「カンタ……俺はちょっくら、森に行ってくる。子供たちをよろしくな」
そう言い残し、勇次は去って行った。
三日月村の南側に位置する広大な森林……正式な名称を勇次は知らない。この森について知っていることはただ一つ。古くから住んでいる人には、狼森と呼ばれているのだ。昔は日本狼が数多く生息しており、森のあちこちで見られたのだと言われている。当然ながら今は見られない。
勇次は森の奥へ進んだ。まだ日は高い。現在、午後三時である。ミーコがこの時間帯に帰ってきてくれて良かった。正直、暗くなってからでは戻ってこれる自信がなかった。行くなら今のうちである。勇次はさらに進んで行く。
やがて、勇次は足を止めた。
「狼! お前に用がある! 出て来い!」
勇次は叫んだ。狼は出て来ない。だが、心なしか周囲の何かが変わった気がする。勇次の周りの空気に変化が生じた……いや、気のせいかもしれないが。
「狼! いるんだろうが! さっさと出て来い!」 勇次はもう一度、叫んでみた。考えてみれば、自分から妖怪を呼んだのは久しぶりだ。最後に呼んだのは……小学生の時だった。心療内科の医者の前で、声が枯れるまで叫んだ。結局妖怪は現れず、悔しさのあまり今度は涙枯れるまで泣いたのであるが。
しばらく待ってみる。だが、現れない。勇次は運命の神の底意地の悪さに対し、怒りを通り越して苦笑するしかなかった。妖怪というものは、必要のない時には現れるが必要な時には来てくれないらしい。
だが……今はそんなことを言っていられないのだ。今回ばかりは、自分一人だけの問題ではない。ソーニャたち三人を安全に魔歩呂町まで送り届けなくてはならないのだ。
「くおら狼! どこにいやがる! 出て来い! ブッ殺してやるからよ!」
勇次はわめき、手近な樹木を蹴飛ばした。さらに枝をへし折り、投げつける。だが、現れる気配はない。やけになった勇次はついにポケットに手を入れ、ある物を取り出した。
カラタロウからもらった小型のリボルバーである。
「おら出て来い! てめえに言われた通り、安全装置を外したぜ! こいつでてめえの脳ミソを吹っ飛ばしてやる――」
「下らんことをするな」
言葉と同時に、白い狼が森の奥から姿を現す。勇次は唖然となった。今の今まで、気配すら感じなかったのだ。もちろん足音も聞こえなかった。なのに……突如出現したのだ。やはり、目の前にいる狼はカンタやミーコなどとは格が違う。
「その拳銃には、最大でも六発しか弾丸は入らないはずだ。私の記憶が確かならな……感情に任せて無駄撃ちするな」
「だったら……無駄撃ちさせるような真似すんじゃねえよ。呼ばれたらさっさと出て来い」
そう言った直後、勇次はいきなり押し倒された。のしかかる狼の巨体。そして……狼は顔を寄せる。鼻と鼻が付きそうな位置まで。
「図に乗るな……お前ごとき、いつでも殺せるのだ。言葉遣いには気を付けることだ。特に年長者と……自分よりも強い者にはな。でないと長生きできん。その程度の事……親から教わらなかったのか?」
「お袋は俺をキチガイ扱いした挙げ句に死んだ。親父はお袋を孕ませた挙げ句に消えちまった最低のクズ野郎だ。見つけ次第殺してやるよ……」
「なるほど……」
狼は勇次の体から降りると、少し離れた位置まで移動した。そして、尻を地面に着けた姿勢でこちらを見る。こちらを見つめる瞳からは強い意思と力が感じられる。だが同時に、どこか悲しげな色が漂っているようにも見えた。
「私に何の用だ?」
狼が尋ねた。言葉が実に滑らかに口から流れ出てくる。不思議な話だ。明らかに人間と声帯の構造が違うはず。なのに滑舌は良い。カンタやカラタロウなどは明らかにおかしな発音なのだが。まあ、それを言うなら、もっと不思議な点がいくらでもあるのだが。
「お前……いや、あんたに頼みがある。今、村にいる奴らだが……奴らを殺したい。力を貸してくれ」
「断る。奴らの標的は人間だ。なぜ、我々が人間を助けなくてはならないのだ? 我々狼を絶滅させたのは人間だ。人間が何種類の生きとし生けるものを絶滅させたことか……我々とて、妖怪になりたくてなったのではない。ならざるを得なかったのだ。妖怪にならなければ、我々はとうに絶滅していただろう」
「……」
勇次には何も言えなかった。狼の言葉からは凄まじい怒りが感じられる。人間に対する、怒りと憎しみが。考えてみれば、ここは狼森と呼ばれたくらいだ。昔、たくさんの狼がいたと聞いた。それが姿を消している。さらに言うなら、この辺りの狼の絶滅に手を貸したのは……三日月村の住民たちなのだ。そんな連中がどうなろうが、知ったことではないのだ。いや、むしろ住民が皆殺しになれば好都合なのかもしれない。
俺は、そんなこともわからなかったのか……。




