安い言葉
階段を上がってくる足音が聞こえた。佳代がしかりつけに来たのかと思ったが、足音は将也の部屋の前を過ぎた。隣の部屋のドアが開く音がした。食事を終えた輝美が上がってきただけだった。テレビをつけている。
輝美は家族の喧嘩には絶対に口出しをしない。仲裁や、母親をかばう言動もとったことがなかった。将也は、そんな輝美を家族で一番信頼している。
将也は、先ほどの言葉を反芻する。「言いたくて、言ってるんじゃない」。将也の担任も同じことを言っていた気がする。「怒りたくて、怒るんじゃない」。誰も、教師が好きで怒ってるなんて考えていない。嫌々怒っているとも思わないが。少なくとも、教師が怒ることに憤りは感じない。しかし、教師が説教に理由をつけるたびに思い知らされる。大人は自分の立場を守ることで精一杯なんだと。普通に怒ればいいのに、そんな保険をかけるから、逆に言葉が安っぽく聞こえる。
母親も同じだ。「言いたくて、言ってるんじゃない」。まるで、子供を怒るのは本望ではないような言い方だ。
「じゃあ、怒るな……」と、将也はもう一度呟いた。
将也は目を覚ました。カーテンの隙間から入る日差しが、目を刺激する。デジタル時計を見るが、光が反射して読み取れない。将也は体を起こす。時計を手に取ると、午前7時だった。寝過ぎからくる頭痛がする。
将也は普通、休日の起床はお昼過ぎだ。部活もしていないし、勉強もしないので、時間をもったいないと思う日はなかった。佳代は家事やパートに追われ、時間がほしいとよく呟く。将也が憐れみや共感を抱くことはなかった。
寝巻のまま階段を降りる。パンの焼けた匂いがほのかに残っていた。輝美が目の前の廊下を通る。
「お昼はチャーハン。夜はカレー」
靴を履きながら、棒読みする輝美。輝美の背中は広く、ブレザーが悲鳴を上げているようだ。もともと可愛くもない制服。将也は輝美と同じ高校にはいかないと、決めていた。ショートヘアーの輝美は、うなじが丸見えなのだが、色気などはまったく感じられない。細く筋肉質な足をトントンと床にたたき、靴を履き終える。玄関に将也の靴しかないことに気づいた。玄関が広いと感じれたのは、久しぶりだった。
「母さん出かけたん? 父さんは、仕事やっけ?」
将也はお腹をポリポリと掻く。輝美は、弟の肉と骨だけのお腹を見て顔をしかめた。
「傷心を癒やしに温泉デートに行くんやって。明日までには帰るって」
「あの2人って何歳やねん。デートって…」
将也は鼻で笑った。
「昨日。お母さん泣いたんやで。将也が反抗期になってるって。そんで、お父さんが温泉行こうって」
輝美はおどけて言ってみせてから、ため息をついた。
「おばあちゃんは、老人会の旅行。ゴールデンウイークは予約が取れなかったらしくて、今日からになったんやって」
輝美は、立鏡で長くもない前髪を整える。
「泣くとか、余計にうざい」
「まじで反抗期やん」
輝美が玄関の扉を開けると、風が狭い隙間から勢いを増して流れ込んできた。家の前に植えてある花の花びらが、地面を舞いながら入ってきた。玄関が閉められると、光と影が遮られて無音になった。動きを失った花びらが床に残される。
今日。将也は家に一人。別にすることもなかった。