虫唾
将也は家についた。珍しく、佳代が出迎えにこない。玄関にある靴を見渡してみる。ベージュのパンプスがないことに気づいた。どうやら、まだ帰っていないらしい。時刻は午後4時半。佳代のパートは午後4時までのスーパーのレジだ。若いアルバイトが増えて、勤務時間が減ったと嘆いていた。
将也は母親のいないことに安堵すると、いつもより軽やかに階段を上がった。木材の床がキシキシと軋む。
今日は、隣りの部屋から音が聞こえた。一枚壁があるとはいえ、少しは聞こえてしまうものだ。名も知らない歌が、かすかに聞こえていた。姉の輝美は、マイナーなバンドの曲ばかり聞いている。甲子園のテーマ曲や、ドラマの主題歌ばかり聞いている将也とは大違いだ。
将也はベットに倒れこむ。強い眠気に襲われた。久しぶりの女子と2人きりの会話に、その内容に精神が疲れていた。隣りの部屋からうっすらと聞こえてくるメロディーが、余計に眠気を誘った。将也はそのまま目を閉じた。
どれくらい眠っていたかはわからない。強いノックの音で目が覚めた。頭が重くボーっとする。返事ができなかった。数秒たってから「入るで?」という声と同時に、ドアが開いた。佳代が顔を壁とドアの隙間からゆっくりと出す。
「やだ。制服のままで寝てたん!? しわになるやろ」
頭に金切り声が響いて痛みが走る。将也は体を起こし、顔を歪ませた。佳代の眉間には、もっとしわがよっている。
「いつから寝とったん?」
「帰ってすぐ」
佳代は、将也の部屋にある時計を見た。時刻は午後7時。
「母さんは、いつ帰ってきたん」
「5時くらい。買い物してたんや。珍しく静かやったから、将が勉強しとると思ってたのに…。学校の宿題とかは?」
母親はため息をつき、袖をまくりあげた。ほのかに玉ねぎの匂いがした。
「夜、するし」
将也の言葉に、佳代は返事をしなかった。かわりに肩を落とす。
「夕食できてるから」
今日の夕食は、もやし炒めだった。リビングには将也以外全員がそろっていた。祖母と輝美は、もう食べ始めている。父親の広司は新聞を置くと、コップにビールを注いだ。
「ほどほどにしてよ」
佳代の忠告が入る。広司はへらへらと笑った。将也に虫唾が走る。父から目をそらし、輝美の隣にあぐらをかいた。ほのかに土の匂いがした。輝美はいつも体操服のまま家で行動する。佳代はそのことをよくは思っていないらしい。
「輝美。テストっていつまでなん?」
「終わった。明日から部活」
「はやいんやね」
「課題テストやから」
輝美は一切佳代の顔を見なかった。
「将も勉強しなさいよ」
佳代は将也に話を振る。将也は思わず佳代を睨む。ぎこちない笑顔がそこにはあった。
「何回も同じこと言うなや。分かっとる」
「言わんとしーひんやろ。母さんもね、言いたくて言ってるんやないの」
「言いたくなかったら、言わんかったらええやん…!!」
将也はお箸を机にたたきつけた。もやし炒めの汁が飛び散り、床の畳に染み付く。
「将也!」
佳代が腰を上げる。将也は怒りが収まらなくなり、リビングを出ていった。階段を大きな音をたてて駆け上がる。ドアを勢いよくしめた。大きな音が2階の廊下に響いた。