揺れる心
ガタッと椅子を引く音が図書室に響いた。そしてカバンのチャックをしめる音。
「東野君。図書室で何するん?」
将也を見下ろしながら、西川は尋ねる。
「いや、何も…」
西川をつけてきたとは言えない。
「じゃあ、一緒に帰らん?」
将也の目の前に長い黒髪が垂れた。顔をあげると、西川が将也の顔を覗きこんでいた。真剣な目で、少し口角をあげて微笑んでいるように見えた。将也は背筋に寒気を感じる。西川の余裕が怖い。図書室の湿っぽさがよみがえってきた。
「でも、中尾と帰るんやろ…?」
「瞳のことは呼び捨てなんや。ふっ…。私らの会話、盗み聞きしてたん?」
西川は笑うと、入り口の方へ歩いて行った。
「えっ…!? ちょっ……!」
将也は慌てて後を追う。
「聞こえただけやって!」
「…冗談やから」
西川は背中を向けたまま言った。腰のあたりまで伸びた黒髪が、ゆらゆらと揺れている。
「山本さん。ここに小太りの小さい子…。2年生の中尾って子が来たら、西川は先に帰った、って言っといてください」
「あらー。あらあら。分かったわ」
先ほどのおばさんが、管理室の小窓から顔を出した。口元を手で隠し、いやらしい笑みを浮かべている。西川と将也の顔を交互に見て、変な想像をしているようだ。将也は顔をしかめて図書室を出た。
しかし、驚いたのは、西川が中尾のことを「小太りの小さい子」と言ったことだ。友達ならもっとオブラートに包むものではないだろうか。学校の校門を出るまで2人は無言だった。
「東野君。見てたんや」
もう一度、西川が呟く。
「たまたまってか、自転車で通りかかったら、見えたってか……。俺、島崎の家に遊びに行ってて、その帰りに…」
「東野君って、結構喋るんやね」
西川がまたフッと笑う。それに似た言葉を将也は言われたことがある。
『あんたは、自分の都合が悪くなったら長舌になってー』
一昨日の母親の言葉だ。将也に恥ずかしさがわいてきた。自分を守ろうと言い訳ばかりしている自分が情けない。
「…彼氏?」
「おじさん。お母さんのお兄さん」
「付き合っとん?」
「まさか」
「キスしてるやん」
「大人って、好きでもない人とキスできるんやで」
将也は西川の横顔を見る。悲しそうに笑っていた。人をあざけるような笑みでも、おかしそうな笑みでもない。ただ、悲しそうに笑っていた。
しばらくの沈黙が続く。春風が優しく首筋をなでた。汗が乾き、冷たくなって気持ち悪かった。
「…好きなん?」
「別に。おじさん彼女おるし」
「何でキスしたん?」
「…おじさんは優しいから。私が寂しいって言ったら、してくれた」
西川は、肩のカバンをかけなおす。ついているキーホルダーが音をたてて揺れた。中尾とおそろいの、キャラクターのぬいぐるみだった。
「それってさ、していいことなん? 彼女持ちとキスって…」
将也は首の後ろを掻いた。入学式前に切ったうなじの髪が中途半端に伸び、チクチクと痛い。
「中学生の今やないとあかんの……!」
西川の声は空に響いた。それに共鳴したように、強い風が2人の間を通り抜ける。西川は、乱れた髪をそっとなおした。