名前
好きな人が学校を休んだ。たったそれだけのことだったのに、美波の今日の1日は退屈なものになった。勉強が辛い。給食もおいしくない。体育のランニングで横腹が痛くなる。牛乳を一気飲みしたせいだ。
インターホンを押す。玄関からは背の低い女性が出てきた。神経質そうな細長の目が将也とよく似ている。
「あらー。美波ちゃん久しぶり!」
佳代は満面の笑みを浮かべ、玄関に美波を引き入れる。門を抜けると甘い香りが美波の鼻をくすぐった。足もとに目を向ける。石段の隅にある植木には薄ピンクの可愛らしい花が咲いていた。
「久しぶりです。将ちゃ……っと、将也君います?」
「いややわぁー。昔みたいに将ちゃんって言ったげて」
「でも、親の前でそう言うと怒られるから」
「照れとるねんで。美波ちゃん、お見舞いに来てくれたん?」
「あっ、プリント届けに。渡しといてください」
美波がカバンからプリントを取り出すと、佳代は二階の窓に向かって「将!!」と叫んだ。
「えっ!? いいですよ。将ちゃん、カゼなんじゃ…」
「もう熱は下がってんのよ。せっかくやし、しゃべり」
断る間もなく、将也が家の中の階段から降りてきた。玄関に顔をだす。ヨレヨレのTシャツに、ジャージのズボンをはいている。母親だけだと油断していたのか、お腹をポリポリと掻いていた。
「…橋本!?」
将也は慌ててシャツをととのえる。美波は細い眉を下げて笑った。将也のだらしなさに苦笑したのではない。「橋本」という言葉が悲しくなったのだ。
小6までは将也に「みなちゃん」と呼ばれていた。中学に上がってからは苗字になった。美波はそのことについて何もつっこまなかったが、名を呼ばれるたびに将也が遠くなっていく気がした。
「プリント。将ちゃ…明日来れるん?」
「ありがと。行ける…」
母親の前だからか、病み上がりだからか、将也の態度はそっけなかった。
「今日のノートとか見る? 今、あるけど」
「明日、島崎に見してもらうからいい」
「孝太君? あの子字汚いやん。美波ちゃんに見してもらい」
佳代はなぜか将也をしかりつけた。女らしい娘を持っていないせいか、佳代が美波を気に入っているのは確かだった。
「……」
将也はしぶしぶ。美波からノートを受けたった。




