愛情
「…いらんのに。由香子があぁ言わんかったら、突き返しとった」
「何でそんなに嫌うんだ。もういい加減にしろ」
「標準語で怒らんといてや! 説教みたいでいやや」
「しょうがないやろ。仕事のせいで標準語が身についてしまったんやから…」
由香子は初めて政成の関西弁を聞いた。玄関の扉の奥で2人の声を静かに聞いていた。イチゴは廊下に置きっぱなしだ。最初からイチゴが腐ってしまうなんて心配はしていなかった。自分のいないところで2人がどんな大人の会話をするのかに興味があった。政成の関西弁には妙な違和感があり、声だけでは感情を読み取れなかった。
「悪いとは思っとる。母さんの世話、兄さんに押し付けて。でも、母さんのことはホンマに好きになれへんの」
「そんなことに怒っとるんやない」
「じゃあ、何なん!?」
「由香子ちゃんのことや」
「…由香子? 何であたしとお母さんのことで由香子の名前がでんの?」
「子どもに、母親を嫌う親の姿なんて見せるもんやない」
「……」
「実際、良美のせいで由香子ちゃんと母さんの交流が少なくなってるだろ」
政成の口調はもとに戻っていた。良美は標準語で言われる正論に何も返せなかった。手に持ったままの買い物袋が重みを増していく。指先がピリピリとしびれてきた。
「…何で、兄さんが由香子の心配するん」
「良美の子供だからだろ」
「由香子の母親はあたしや…! とらんといてよ……!」
良美は地面に向かって叫んだ。雲ひとつない空に、悲痛な声がむなしく吸い込まれる。声の後には、しばらくの静寂が続いた。良美は買い物袋を左手に持ちかえる。右手で目をこすった。
玄関では由香子が突っ立っていた。良美のあんな怒鳴り声は初めて聞いた。自分が怒鳴られたわけではないのに、恐怖を感じた。玄関のガラス戸に強い風がぶち当たる。ガタガタと大きな音をたてた。
良美の口癖は「~しといてくれたら嬉しい」だった。由香子に洗濯物を畳んでほしい時や料理を手伝ってほしい時、「してくれてもいいんちゃう?」「そうしてくれたら助かるんやけど」など、子供に対して無駄な気遣いをする。ちなみに由香子はそんな口癖が大嫌いだった。優しい母であろうとする良美が嫌いだった。
「由香子が兄さんの話するたびに怖くなる。あの子があたしじゃなくて、兄さんに愛情求めとるんかと思ったら…」
「……」
政成は久しぶりに良美の泣き顔を見た。最後に見たのは、良美が高3の時。進路のことで母親と大喧嘩した時だ。
「あたし、お母さんみたいにだけはなりたくないんや。知ってるやろ? 子供には母親と父親がおらんとあかんねん。母親だけで子育てには無理がある」
「…良美は頑張ってるよ。子育てできてるよ」
「できてへんやん…! 自分の娘があたしをどう思ってるかぐらいわかる。兄さんの方に好いとる。……兄さんがいてくれてホンマに心強いけど、もう…由香子に近づかんといてほしい」
「…そこまで言われるとは思ってへんかったわ」
政成の口調は関西弁に戻っていた。
「あたし、再婚するつもりやねん…」
「えっ?」
驚きで出た声ではない。政成には良美の声が聞こえなかった。それほど小さな声だった。良美はもう一度言う。今度は政成の目を見た。
「今、彼氏おるねん。あたしの事情全部知ってくれてて、プロポーズしてくれた」
「…そうなんや」
「その人に申し訳ないねん。父親になろうとしてくれてんのに、由香子が兄さんになついてしまってるから」
「…由香子ちゃんは、俺に父親のような愛情は求めてないで」
「そんなん分からんやん!」
「分かるで」
はっきりと断言した。良美は不安そうに顔をゆがめる。目にまた涙が溜まってきた。
政成がそう断言できたのには理由があった。由香子とのキスだ。キスをせがんだ由香子が、政成に父親のような感情を抱いているはずがなかった。
由香子は靴を脱ぎ、キッチンへ向かった。冷蔵庫を開け、無造作にイチゴが詰められた袋を入れる。薄暗いキッチンに、冷蔵庫の明かりがぼうっとともっていた。
「……兄さんもいい年やろ。結婚せーへんの。彼女は?」
「おるよ。3年目。結婚の話はしたことないけど」
「女の口から『結婚』なんて、なかなか言えへんもんやで」
「何で?」
「重い女って思われたら、それだけで関係がギクシャクして別れちゃうこともあるんやから」
政成は息を吐き、足元を見た。夕日にうつされた影が、良美の足もとまで伸びている。
「俺も同じや…」
「何が?」
「母さんを見て、結婚が思ってるほど良いもんやないって知ってる。だから…怖いんやろな」
「…彼女どんな人なん?」
「めっちゃ優しい人。聞き上手。でも、その友達がめっちゃ怖い」
「……大丈夫ちゃう? 結婚しても」
「簡単に言うなよ…」




