春の色
キスを見た。ドラマではない。男女のキス。しかも、中学生と大人の。しかも、同じクラスの可愛くもない女子の。
2人はしばらく唇を重ねていた。夕暮れの公園。ブランコの柵の前。幸いに平日だったので、子供の姿はなかった。将也は自転車に乗り、片足をついたまま公園の入り口に生える草木の木陰から、その様子を黙視する。春風に木の葉がカサカサと揺れた。将也には、その音が沈黙を破る騒音に聞こえた。同級生の女子は男性から顔を離し、乱れた長い黒髪を耳にかけた。男性は立ったまま動かない。将也から2人の距離は遠いめ表情は読み取れなかったが、2人の間にいやらしい雰囲気などなかった。春という優しい季節がそう見せているだけかもしれない。もし、2人を露出の多い夏の夜に見ていたら、いやらしく見えたかもしれない。
将也は同級生から目をそらせなかった。同級生はしばらくうつむき、男性の袖をそっと掴んだ。そして何か言うと、将也のいる方とは反対の入り口へと歩いていった。
「……姉ちゃん帰ってんの」
家の玄関には、使い古されたスパイクがきちんと揃えてあった。将也の姉の輝美は、サッカーのスパイクをいつも玄関の隅に揃えている。将也と3つ違いとはいえ、高2の女子である。しかし、将也よりも大きいサイズの靴だった。それを見るたびに、将也は母親似の体格を恨んだ。母親の佳代は、「高校生になれば伸びるわよ」と励ましてくるが、しょせんは小さな母の慰めでしかない。中2で成長した姉を思うと、将也は悲しい気持ちになった。
「あら、お帰り」
「姉ちゃんおるん?」
将也はリビングから顔を出した佳代に尋ねた。
「輝美、今日からテストやねんて。高2最初のテストやから、頑張ってるみたい」
「…へぇ」
佳代は必ず言葉に説明をつけたがる。将也は極力短く返事をすると、階段へと足をかけた。
「ゲームするんやったら、音量さげや! 将はテストないん?」
「テストは夏休み前。俺、まだ中2やし…勉強せんでもいいやん。いつも学年の中くらいの成績やし」
「あんたは…。自分の都合悪くなったら長舌になってー」
佳代の怒声もない呆れた声を、将也は鼻であしらった。軽い足取りで階段を上っていく。その軽すぎる足音に、佳代は不安を覚えた。
「あんた、ちょっと痩せた?」
「何で」
将也の声は少しどもっていた。家族に自分の体型について触れられるのを、極端に嫌っている。友達にいじられるのは、怒りすら感じないのだが、家族にいじられるとなると話は別だ。言葉の真実性は同じでも、重みが違う。
佳代はハッとして、口をつぐんだ。
「……今日の夕飯、ハンバーグにするわ。お父さんも好きやし」
佳代は将也からの視線をそらすため、靴箱の上にある時計に目をやった。父の帰宅時間までまだ余裕がある。
「わかった」
将也はそそくさと部屋に入っていった。
入るや否やベットに倒れこむ。しばらく布団に顔をうずくめた。隣の部屋からは何も聞こえない。驚くほど静かだ。いつもは夜までテレビの音が聞こえてくることもあるというのに。時々聞こえるのは、シャーペンのカチカチという音であったり、コマ付の椅子が床を滑る音だった。
枕に顔を押し付け、視界は暗い。部屋には静けさが漂う。瞼の裏にはあの光景が浮かんだ。まだ成長途中の中学生にキスをする大人。どんな気持ちだったのだろう。やはり、大人の女性には劣るところがあるのだろうか。それとも…。
「………」
将也は、そっと自分のズボンのチャックに手を伸ばした。ゆっくりとチャックを下す。
「……っ」
部屋には妙な静けさが漂っていた。