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白夜  作者: Maverick
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狼たちは獲物を狩り続けた。ジャコウウシにも挑んだ。狩りは失敗に終わることの方が多い。そのために狼たちは一度に大量の肉を喰らうことができる。腹に詰められるだけ詰めて帰路につく。だが空腹の仔狼たちに与える肉の量は、その求めに関わらず反比例する。


維持されるべき生命は、その努力に関わらずふるいにかけられる。仔狼の一頭の様子がおかしくなっている。動きが鈍くなり、よろよろと足元がおぼつかない。母が寄り添い、気遣う。だがそのうち歩くことはおろか、立つことも困難になってきた。母の支えを借りて立ち上がるも、すぐに力を失ってしまう。毛がしおれ始め、抜けていく割合が多い気がする。瞳は濁り、こびり付いた目脂をいくら母が舐めても綺麗にはならなかった。父はそれをじっと見ている。

ある日から、肉を運ぶ狼たちの足どりが変わってくる。彼らは常に尻尾を振って迎える仔狼たちに囲まれている。彼らの口を舐めまくって、仔狼たちは吐きもどしを促す。吐き出された肉を嬉々として貪った後には当然ながら何も残ってはいない。肉が得られる間中、それは繰り返された。足萎えの仔狼は運命を宣告された日から一切食べず、飲まない。憐れみをかけてもらうことすら、許されない。慰めもない。足萎えの仔狼は遠くで、剥き出しの歯を振りかざして威嚇する父と、鳴き声を上げる母をぼんやり眺めている。その傍で、凶暴な妹、彼にとっては姉である狼が鼻でつついて弄り倒そうとしている。ぐらつく視界の中、役に立たぬ四つ足は崩れ落ちて仔狼は横倒しになった。遠くで、不機嫌そうな唸り声と泣訴する声とが重なり合っている。すすり泣きは徐々に細くかすれていった。

それまで群れの一員、庇護を受けるべきか弱き命、暖めてもらい肉を与えられ可愛がられていたはずの存在は、ある日を境に全く逆転する。それはちょうど狼たちが獲物を探り当てた瞬間の、空気の相違と酷似していた。こちら側と向こう側、狩るものと狩られるもの、そして生と死、生物たちの間にはいつも単純な二択しかないのだから。差し伸べられるのは常に死の手、闇の前で命は微幽な生を拾い集めて、瞬く光となるのだから。喉を振り絞って哀れな悲鳴を上げても誰も見向きもしない。仲間はすぐ目の前で屯しているはずなのに、最初からたった一頭でいるようだった。冷え冷えしているのは、単に夜気の静けさや冬の風ばかりではあるまい。

黎明の暗い導きの許、溜息のような呼吸を辛うじて繰り返している仔狼を黙って父は見下ろし、おもむろにその首に歯をかけた。肢体をくわえ上げた父は、しかし親が子を守るためではなく、証拠に仔の足がもがいて空を掻いている。ほんの僅かの抵抗もよそに、父は他の仔狼たちの許へ行く。だらりと垂れ下がった四肢は、心なしか安らいでいるように見えた。大地に転がった、元兄弟の体に戸惑いの目を向ける仔狼たちを後目に、悠然と去る父。飢えきって干からびた体に肉はほとんど残っておらず、しかし飢えて(ひだる)い身を抱えているのは生者とて同じなのだった。冬は未だ飢えと死に閉ざされたままである。


狼たちは極限まで追いつめられていた。いや、狼だけでなく冬の大地を共に生きるあらゆる獣たち、地に深く住まうものたちから立っして動かぬものたちまで、ただただ耐えるしかない。

だがやはり生命とは不可思議なものである。

群れに暗い灰色の狼がいる。父ほどではないが、厚い毛の中で筋肉が盛り上がり、堂々と歩を運ぶ。力強く、体も大きく、それを持て余すようにしばしば父に対して反抗的な態度を取っていた。母にも意地悪くつきまとう。群れを率いる立場として、彼らの規律は厳しいものがあったが、どうにも彼には絶対的な自信があるようで、いくら鼻っ柱をへし折られようとも赤褐色の瞳を光らせることをやめなかった。実際、順位の上でも父母の次だったのである。

彼はよそからやってきた狼だった。群れの一員となった時から危険だとも言えた。

赤みを帯びた瞳は相も変わらず挑戦的な色を宿し、そのまま激情家の妹の方を向く。おそらく父の血をもっとも濃く受け継いだであろうその雌狼の、無垢といえるまでに狂愚なる臭いをかぎ当てる。鼻面を毛に深々と埋めて己を落ち着かせるように、何かを含ませるように。妹は拒まなかった。ややたじろいだものの、父や兄弟以外の雄を平然と受け入れ、熱い舌で誘う。ふっと目を細めたようだった。からかうように軽く妹の鼻面を噛むと、大柄な灰色の狼はのしかかるように妹に突進する。妹は短く吼え、息を弾ませている。負けじと首の辺りの毛をくわえ、揺さぶる。幼獣の頃によく兄弟同士でやりあったような遊戯は次第に激しさを増し、息つく暇もなく応酬の繰り返しとなる。狼以外の種族が見たらまるで喧嘩だが、それは尽きるとも思えぬ駆け引きゆえ、本気と戯れの狭間にて二頭は踊り狂い、舞を舞うようである。

大きな一つの毛玉となってもつれる彼らの目に、恐れはなかった。

冬によって眠らされていた熱情が迸っていた。

妹は徐々に誰の言うことも聞かなくなってくる。兄たちや、彼女より上位のものの指図をことごとく無視する。殊に格下の狼にはこれ以上ないほどの侮蔑を見せ、虫の居所が悪いときには仔狼たちにやつ当たりまでした。彼らの分け前も、自分のものであるのは明白と言わんばかりにくすねていく。

最初は隠れていたそれらの行為も、日を追うごとにあからさまに仕掛けるようになってきた。そしていつも赤目の狼が悠々とその傍で眺めているのである。この事実を父が見過ごすはずがなかった。

妹の蛮行が目に余るようになってきたと同時に、父の叱責も荒々しくなっていく。鼻や胸元が血に濡れる時があっても、妹はやめない。そしてある時とうとうリーダーである母にまで及ぶようになった。母を突き飛ばし、しとめた獲物に我先にと喰らいついたのだ。今まで母に対してもやや恭順に欠く態度を取ってはいたが、母は父ほど厳しく戒めはしなかった。

妹の隣で、赤目の狼もまるで彼女の連れといった様子で並んでがっつき始める。それを見た父の怒りが、おそらく分別や血を分けたものといった範疇を易々と飛び越えたのだろう。体当たりして首根に噛みつくとその勢いのまま小柄な彼女を放り投げてしまった。不意をつかれ、また肉に夢中になっていた妹は二転三転と転がっていった。覚醒した本能を武器に容赦なく飛びかかろうとした父は、ふと端で嗤う一頭の雄を感じた。身動ぎもせず獲物の傍に陣取ったままの狼、濁った曇天の色合いを成した毛並みに赤く鋭く光る目の、よそからやってきた逞しい狼。父の目の中で雷光に似た輝きが、瞬きよりも早く閃いたのは見間違いではあるまい。妹にはもう目もくれなかった。めくり上がった唇から獰猛な牙も露わに、父は踊りかかった。同時に相手も動く。二頭の間に、もはや狼としての絆など微塵もない。

群れにリーダーは二組も要らない。そして子孫を育むのも選ばれた一組だけが担う役目なのである。

相手の腱を噛み切ったのは父だった。

片足が突然使いものにならなくなった彼は、哀惜とも怒号ともつかぬ奇妙な声を上げ、血に染まった雪の上にのたうちまわった。涎をまき散らしながら立とうとする。あの一瞬の訪れによって、赤目の狼の行く末は定まったも同然だった。父の体にも走る裂傷を彼は彼の伴侶に舐めてもらいながら、黙って見下ろしたままではや戦闘の意を示そうとはしない。気が違ったように吼え続ける妹、彼の娘の声ももう届いてはいなかった。



雪原を波のように渡っていく音は、おおかた狼のものである。独特の調べを帯びて遠くへとたゆたう、驚くほど音楽的な声音は力強くありながら愁いを秘めて、深淵の内から湧き起こる。肉体を超えていく歌に切ない魂を乗せて、流れては吸い込まれる。狼の歌には言葉がある。重なり合う声は完成された融和を常に保っていたが、その中からでも群れを率いるものの一際野太い響きは空気を圧した。それはまさに轟きだった。地を這い天を突き大気を震わせ、遠吠えは続く。

吹雪に乱れる白の世界、見えるものはなく闇と同じだった。淀んだ空は重くて、魔物の咆哮と成り変わった風が荒ぶる。

狼たちは徐々に痩せゆく。今が最も峻厳に満ちる時だった。辛いこの時を、分かち合うことさえできれば幾分か慰めにはなるかもしれない。遠吠えもそう悲愴に沈むものではなくなるだろう。

そして不意に総毛立つ声が風と雪のまにまに紛れ込んできたのだった。

それはやはり遠くから聞こえてきた。かすれたような響きは、本来なら耳に届く大きさでも距離でもない。ましてや唸りをあげる雪風が己以外の音を許さない。しかし同族のみがそれを聞き、すぐに悟った。父の声は腹から絞り出され、次いで空気を切る鋭い呼吸音に変わった。立派な体躯は、それこそ二重に毛皮を着ているのかと思えるくらいに膨れ上がっている。

すでに始まっていた命の駆け引きは、聞こえないのに近づいてくる足音を感じさせ、また父や仲間たちの皮膚の下の血潮がどれだけ熱せられているのか容易に知らしめた。燃え上がる血は、吹雪の中に浮かび上がっている狼たちの輪郭をより濃くさせ、闘気となって覆う。父は吼えた瞬間から駆け出していた。白でありながら白すぎて灰色に鈍る大気の奥から、やがて激しい吼え声が交差し始め、仲間たちも走った。こちらと、侵入者の狼たちの悲鳴に似た威嚇がしばらく続く。

現れた狼は黒毛の雄を中心とした三頭で、痩せて飢えきっていた。なかでも黒毛の狼は並の狼より一回りかそれ以上の大きさがある。血走った目は瞬きも拒み、また黄色に濁ったそれは分かりすぎるくらいの殺意を漲らせてもいた。父が小さく見えたのは初めてのことだった。彼は若い。そして飢えと生存本能のために持っている以上の力を示すことは間違いない。だが父は、父なのである。

威嚇はいわば相手の実力と、攻撃に転ずるか否かの間合いとを計るための前置きにすぎない。だが今は単純に飛びかかる好機を窺うためだけにある。黒毛の狼はこの猟場と群れを奪うために来た。追い返したり諦めたりはできない、どちらかが果てるまで終わることはない。

先程の鋭く抉るようなそれでいて物悲しい戦慄の声を、放逐されたあの二頭も放ったのだろうか。それとも誰に聞こえることもなく咽び泣くだけだったのだろうか。

挑戦する権利があるだけでも生物にとっては大いなる名誉だ。

強大な牙が互いの体奥深くまで潜り込んでいく。貫きながら、殺すというよりは生命のありかを探ろうとするかのようだ。二頭は己の牙が届く範囲なら所構わず噛み裂いた。滴り落ちる血は雪の上に花が咲いたようで、色の消えた世界に鮮鮮と跡を残す。戦いは五分だったが、敵の方が体力で優っているとみえて動きが止まることはない。軽く雪を掴むような足で場所を変え、攻撃を避けて反撃に出る。父の周りを円を描くように動いている。急所を狙うための隙を窺っているのである。一方父はその恐ろしい大顎にものを言わせ、一気に始末しようとたたみかけている。苛烈な攻撃を仕掛けることで機を与えさせないつもりなのだ。しかもただ闇雲に噛みつくのではなく、時折わざと隙を作って相手を誘う。若い敵は血にはやって自身をも無防備にさらすから、老練な巧者はいつだって相手を手玉に取れるのである。しかし彼は敵が己であることを悟っていなかった。技も力も経験も彼に及ぶものはここにはいないに違いない、だが敗者は常に自分の内から現れるものだということを知っておく術がなかった。かつて彼を負かしたものがいなかったから。

それが今になって突然姿を見せ始める。

軽快な足が不意にぴたりと止まる時があり、それでもまだ父は嬉々として殺し合いに興じていた。力を誇るにこれ以上の舞台があるだろうか。その足がこれまでのとおり囮の役割を務めていると思い、攻撃に気を取られすぎていた。

雪が足を掴んでいる。

地を求む足が重く頼りなく、ようやくそれに気づくが、敵は若いながらも優秀な狼だった。その足が徐々に意志の下に利かなくなりつつあるのを瞬時に見極めると猛攻に転じたのである。父に突進し、首に喰らいつき激しく振り回した。足が自由なら攻撃を交わせただろうし、踏ん張れるのなら弾き飛ばされることはないはずだった。彼は地面に倒れて腹を見せてしまった。敵の牙が首に襲いかかる。金切り声が外界を囲む冷気を割る。

厚い毛は寒さから守るだけではない。血塗れの首をひねり、まだ喰らいついている敵の不意をつく。もがき続けていた四肢がようやく意志と一つになり、彼はまだ戦うことができた。敵を引き離すと飛びかかった。爪でひるませ、喉の辺りを噛み裂く。ぱっくりと口を開けた喉がひくつき、堰を切って大量の血が溢れ、若い狼は反撃しようとしたがそれだけの力がもう出ないようだった。戸惑ったように数歩進んだのを最後に倒れた。噛まれた鼻面からの血も彼を浸し気道を塞いでいく。己が手で首をゆるゆると締め上げているのと同じだった。赤い大輪の花の上に彼は横たわったままだった。

父は立ち上がり、そのままくず折れる。足が言うことを聞かない。赤い花弁を押し潰してのたうつ。周囲は鮮烈な匂いが濃く漂い、意識を溶かし酔わせる。死闘とこの香りは他の狼たちに一種の中毒をもたらしていた。今まで彼らは眼前の光景に憑かれて垂れ流れる涎も自制できぬままに、吼えに吼えて猛り狂っていたのだった。全てが終わった今、冬の大地は再びそ知らぬ顔をして白のみの無に帰していた。

父はまた立ち上がったが、その目は何も映してはいない。すでに片目しかない暗い瞳はしかし驚くほど光に満ちて、絶望と怒りの最中に一瞬の生を燃え上がらせていたのだ。戦いの終焉に至ってなお、彼は強い目であり続けた。群れにも敵にも一瞥することなく、父は引きずる足を踏みしめて歩き出した。初めて巣から這い出る幼獣に似る足どりで、どこへ行くか分からないながら明確に歩くという意図は持って進んでいく。勇を鼓してか細く鳴く母の声も無視する。誰の許にでもない、彼だけが見える道を辿っている。赤い小さな花だけが申し訳程度に彼の後に従う。父の背はあっという間に白い闇に消えていった。



群れは結合と離反とを繰り返して一つになっていく。小競り合いが何度か起こった後は、群れは本来の落ち着きと秩序を取り戻していた。父の群れで血族ではないがずっと一緒にいた狼と、あの冬の夜にやってきた三頭のうちの一頭がしばらく覇権争いを繰り広げた。だが父と戦った黒の狼が例外的に強かっただけだったので、群れの狼がリーダーの位に収まることとなった。母とはつがいになれないが、群れを率いるには十分に違いない。

母も、いずれ遠くないときにリーダーを追われる日を迎えるだろう。より力あるものが取って代わる、当たり前の自然の業だ。

仔らは着実に育ってきているし、群れの秩序も守られている。灰白色と黒の斑模様の狼も、また彼の兄も無事に安定した中にいた。挑戦する者でも守る者でもなく、ただ群れを糧とし糧とされる立場の者が、最も賢明であり長生きができるというものだった。彼らはそうやって生き続け、彼ら自身の物語を語る術はない。語る必要もない。

連日の如く吹き荒んでいた吹雪が止み、滲むような太陽が白を銀に照らす明るい日、群れは久々の狩りに出かけ、浮き足立って一心に獲物を追っていた。灰と黒の斑狼も、最後尾で仲間たちと声を交わしながら先を急ぐ。

ふと風が変わり、彼は異質な臭いを嗅ぎとった。すぐに仲間を呼ぼうかとも思ったが、彼らは狩りに夢中でかなり先を行ってしまっているし、おそらく耳を貸さないだろう。だが気になっていた彼はしばらく地面を探っていた。

枯れ木が立つその下生えに、原因はあった。

重い鈍色の毛が風に遊ぶ。下生えの萎れた草の中にさえ収まってしまうほど、その体は縮んでいた。かつてあれほど力強く堂々と君臨していたのに。

力ある者でも所詮は同族内の、さらにその一つの小さな群れを率いるだけの存在でしかない。

この灰と黒の斑の、他の狼たちよりじっとものを見る癖のある狼は、束の間立ち止まって臭いを嗅ぎ、丸く目を見開きながら暫し見つめていた。黄褐色の瞳には、特に感情のうねりが含まれているわけでもない。柔らかに通り過ぎた風はさほど冷たいとは感じられなかった。やがて狩りを思い出し、耳を澄ませると、彼は一散に駆け出していった。

春はそう遠くではない。白い夢はまもなく終焉に辿り着く。

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