「○」春日絵美の場合
「何が望みなの?」
そう言われた気がした。
私は窓の外を見続けていた。窓の外は快晴。空は穏やかだった。雲が流れているのか私たちが動いているのかわからなくなる、それほど、空は大地と対等だった。
……。
何が望みか、か……。
「同じ世界を見ていたい」
私はそうつぶやいた。言ってから、はっと我に返る。
いかん、今は授業中だと言うのに……。
誰か聞いていなかったかと顔が赤くなった。
「そうですか」
うわっ。聞かれてた。
声のしたほうを見ると、牛がいた。
「……。って、なんだ牛か……」
「すみません」
……いやいや、安心してる場合じゃない。なんで教室に牛がいるの?
みんな大騒ぎになっちゃうよ……そう思って教室を見渡した時、気がついた。教室じゃない。私がいるのは花畑だった。
いや、花畑と表現するのは違和感がある。だって、全部ヒマワリなんだもの。花畑でも間違いではないけれど、限りなく「畑」で、わずかに「花」って感じ。こんなに花畑という言葉にマッチしない花はない。
「ていうか、なんでヒマワリなの? まだ夏じゃないよ」
そう、春だ。今はまだ4月。
「すいません」
また謝る牛。そして牛は、憎々しげにヒマワリ達に視線を向けた。
「あいつ……」
牛は尻尾をバタバタふりまわしながらそう呆れたようにつぶやいた。
「ちょっと、牛さん。そんな責めるような目をしたら……」
ほら、ヒマワリが我慢できなさそうに、震えている。
「ダメだよ。あ、ちょっと……やばい…………!」
私はヒマワリの限界が近いことを知って、身構えた。ヒマワリの花が一瞬縮む。そう思った瞬間、一斉に種を天高く発射し始めた。
こうなっては仕方がない。私もそれにあわせて拳を握りしめて、天高く突き上げた。
「どっかーん!」
*
「春日くんは……寝言も全力ですね」
特徴のある声がして、私の意識は一気に覚醒した。
さっきまでの花畑は消えていた。今、視界にはタイル貼りの天井。蛍光灯……。教室だった。
「それにしても寝る子の多いクラスです」
くすくす笑う声で、今のが夢だったと気がついてポリポリと頭をかく私。
密かに女子に人気のある数学の山下恒夫先生が、すぐ傍に立っていた。とりあえず謝ったほうが良さそうだ。
「すみません、先生」
「どんな夢を見てたんですか?」
私は冷や汗をかいていた。そんなこと聞かないでよ、と思ったけど、しかたないので正直に言う。
「ひまわりが爆発したんです」
「ひまわり? ひまわりってあのひまわりですか」
そう、そのひまわりです。でも私、何言ってるんだろう。
「花のひまわりですか?」
「はい、そうです」
「ひまわりが爆発したんですか。……それで、どっかーん、ですか」
クラス中が笑い声に包まれた。その言葉で私は悟る。
やっちゃったんだ……。顔が赤くなるのを感じる。
「いきなり叫ぶから、びっくりしました。寝言はもうちょっと控えめにお願いしますね」
私は頭を抱える。
「……うげ。最悪……ありえない……」
授業中にウトウトするのはよくあることだけど。まさか寝言を言うとは……。
私は恐る恐る斜め前の健二の席を見た。
って……あれ、健二寝てないか? どう見ても、船をこいでいる。
山本健二は……私の彼氏。小学生の時は遊び仲間。中学に入って、異性として意識したのは私が先だったと思う。付き合い始めたのは去年だ。今、私たちは三年生になったばかり。二人で同じクラスになれたのは今年一番嬉しいできごとだ。
健二は私と違って、超がつくほど勉強ができる。あんまり勉強熱心な様子もないのに、テストの点数はどの教科も90点代とか下手すりゃ100点とか、私が見ることのできない数字がついている。
授業中も私と違って寝てることなんか無いのに、珍しいこともあるもんだ。
「春日さん、今あなたは黒板に書いてある、あの問題を解かなくてはならない立場にいます」
先生はそう言って、黒板のほうを向いた。
「無理です」
「あのですね……問題も見ずに即答しないでください」
先生は呆れた口調で言った。
でも先生、私はたった今、大恥をかいたんですよ? そんな、数学の問題なんか解いてる場合じゃないんです……という気持ちをこめて先生を見つめる私。
「数学の問題なんか、ですか……」
あれ。先生が苦笑している。
「声に出てましたよ」
山下先生はいい笑顔だった。
「……あはは」
私は笑うしかなかった。
「まあ、気持ちはわからないでもないですけどね。先生ならあんな寝言を聞かれたら恥ずかしくて学校に来られないでしょうし」
さりげに酷いことを言う山下先生。
「もしかして……怒ってます?」
私が上目遣いに先生を見ると、笑いながらぽんぽんと私の頭を叩いた。
「怒ってませんよ。さあ春日くん。黒板の問題にチャレンジしてくださいね?」
「はい……まあ、努力はしてみますけど……」
まったく自信はなかった。
*
授業が終わってすぐ、教室を出た私は公園にいた。
「あ~、恥ずかしかった」
私はため息をついた。このため息は、さっきの失態のせいだけではなかった。
……。
考えなきゃいけないのは、健二とのことだった。
公園のベンチに腰掛ける。
「……別れ話かな」
土曜日、学校が終わったら、繁華街の喫茶店で落ち合おう。健二が一昨日そう言った時、私は思った。終わった、と。今までも時々、こうして学校が終わった後にこっそり二人で落ちあってデートをすることがあった。でも、今回は違う。だって今、私達はかつてないほどケンカ中なのだ。
この間の中間テストの時だった。私は例によって、絶望的な点数を頂戴した。そう、私はまさに絶望していたというのに、健二は酷いことを言ったのだ。
「勉強なんかできなくてもいいじゃないか」
何言ってんの健二、と思った。
健二はわかってないんだろうか。今年は受験があるのだ。高校受験。このままじゃ、私は健二と同じ高校に行くなんて夢のまた夢だ。健二は学校でもトップクラスの成績。普通に考えたら進学校に行くに決まってる。私立も考えてるかもしれない。そこに私が行くなんて……。
「どう考えても無理だよ」
考えれば考えるほど落ち込んでいく。日本の中学三年生は成績によって分類される訳で、その分類では私と健二は一緒になれない。別の高校へ行くしかない。そうして、二人は別の人生を歩んでいく……。
私は今からでも死に物狂いで勉強して、一緒の高校に行くべきなんだろうか。勉強は嫌いだけど、健二となら頑張れる、という気もする。
「……そういうことじゃないんだよね」
そう。そういうことじゃない。健二の気持ちなんだ、問題は。
健二は、私との成績の差も、それが何を意味するかも、きっとわかってる。わかってて言ってるんだ。
つまり健二は私と別の高校でも構わないと思ってるってこと。健二は私のことが嫌になったんだ。
「ていうより……飽きてきちゃった……のかもなあ」
付き合い始めて、一年以上になる。倦怠期って奴かもしれない。私は健二のことを全然知らないけど、健二のほうは私に飽きちゃったんだろう。だって、私は健二と違って底が浅いもん。見た目通りの単純な奴だもん。
「行きたくないな……」
私は呟いた。
*
「じゃあ行かなくていいよ!」
……そう、言われた。振り向くと、そこにはウサギがいた。砂場の砂から顔を出しているウサギ。私は答える。
「行かなかったら、どうなるの?」
「健二に会わなくて済むんだよ」
今度はブランコが答えた。ギコギコ揺れている。私はそっちへ近づいた。
「会わなかったらどうなるの?」
「健二から聞きたくない話を聞くことはないってことじゃよ」
お爺さん口調で喋ったのは、公園の真ん中にある大木だった。
「聞きたくない話……」
「別れ話、さ」
断ずるように言ったのは、その大木の横に立っている立て看板だった。
看板は砂だらけで文字が読めないけど、何か書いてある。
私は砂を手で払った。
……そこには「危ないから登らないで」と書いてあった。
「うっさいな! 登らなきゃ景色は見られないんだよ!」
私はそう言って看板を蹴っ飛ばした。
「私は行くから」
逃げる訳にはいかない。健二が何か言いたいことがあるんだったら、それは絶対に聞かなくちゃいけないのだ。私はもう話も聞かずに腹を立て続けるのはやめたんだ。そう、決めたんだ。
「それに、聞いてみなくちゃわかんないでしょ? 健二、仲直りしようって言うかもしんないじゃん」
自分に言い聞かせるようにそうつぶやく。
「……ありえないだろ」
しかし重々しい口調でそれを否定された。さっきのウサギだった。
「何よ!? そんな簡単に嫌われたりしないもん」
「夢を見過ぎだ」
ウサギの声に、私は言葉に詰まる。なんでこんなにウサギの言葉が……重くのしかかってくるのか。
「そうさ、夢だよ、わかってんだろ? なあ、本当に愛が永遠だなんて思ってるのか?」
再びブランコが言う。
「のう、お前さんは小学生の時から健二のことを好きじゃったか?」
……。
「嫌いじゃあなかったじゃろうが、今とは違う気持ちじゃったろう? 健二を好きになったのは中学生になってからじゃ。まだほんの一年じゃ。人の気持ちはこうもあっさりと変わる。どうして、永遠に続くなどと思えるのじゃ」
うるさい。うるさい。
「続かないんだよ。もう、健二はお前に飽きて、次の恋を探そうとしてるのさ! はっは……」
「うるさい!」
また看板が喚き始めたのを蹴りつけて黙らせる。倒れた看板を踏みつけた。カンカンと音がして凹みを増やしていく看板に乗って飛び跳ねる。うるさいうるさいと喚いている私が一番うるさい。
「参ったな……」
振り向くとウサギがわがままを言う駄々っ子を見る目で見ていた。泣きそうになる。なぜだかこのウサギだけには……認めて欲しかった。
「ウサギさん……私、飽きられたんだと思う?」
ウサギは、悲しそうな目をして私を見た。
私もそのウサギの小さな目を覗き込んで、返事を待つ。
でも、ウサギは何も言わなかった。
「ありがと。……肯定、しないでくれるだけで十分」
私は頷く。
「でも私はまだ健二を好きだもん。だから、健二に会いに行く」
ウサギは、首をすくめたように見えた。
「じゃあ、さっさと行かないとな」
*
「はっ」
私は自分が公園のベンチで寝てしまっていたことを知り、青くなった。
いけない、待ち合わせ……!
飛び起きて、慌てて駆け出す。公園を出て、繁華街への道を走る。大通りに飛び出す。歩道を二列に並んで走る高校生の自転車を避け、シルバーカートのおばあちゃんを避け、バス停で寝てる男の子を避け、ただ喫茶店に向かって駆け抜ける。
よし、あのクリーニング屋を曲がったら……。
「きゃっ」
「わっ」
避けきれなかった。誰かにぶつかった。
「いったぁ……お、お姉ちゃん?」
目の前で尻餅をついているのは……私のお姉ちゃんだった。
「絵美……危ないじゃん」
お姉ちゃんは大学生なので、授業があったりなかったり、たまに街をぶらついてることもあるみたい。
「ご、ごめんなさい……」
私は立ち上がり、パンパンと制服のスカートをはたく。
「何慌ててんのよ」
「ちょ、ちょっとね……」
私はお姉ちゃんをふりきって走り去った。
*
それから、私は走り続けた。山を越え、海を泳ぎ、川を飛び越え、砂漠を駆け抜けた。
そして荒野を走っている時、その光景を見た私は立ち止まる。
「ちょっと待ちなさいそこのヘビ!」
紫色にピンクの斑点という毒々しい色をしたヘビがいた。そして、目の前で震えている緑色のカエルを食べようとしている。
「あ、いえ、違うんです」
「言い訳無用!」
私はヘビに睨まれ動けないカエルの前に立ちはだかり、ヘビを睨みつけて指を差した。
「尻尾まいてとっとと逃げ出しなさい!」
しかし後ろから変に冷静な声が聞こえてくる。
「ヘビの体は、どこからが尻尾なのですか?」
ふりむくと、私がせっかく命を救うべく戦っているというのに、ツッコミを入れたのはそのカエルだった。
「えっと……それはわかんないけど」
「それにヘビの移動方法を考えますと尻尾を巻かないほうが逃げやすいように思います」
「そ、それもそうなんだけど……」
やけに冷静に分析するカエル。
「そ、そんなこと言ってる場合じゃないよ。あなたカエルなんだからヘビに食べられちゃうんだよ」
私は注意する。
「なるほど。ではカエルはやめましょう」
そう言うと、カエルはぐんぐん大きくなり、それから紫色の煙に包まれた。
「わっわっ……」
煙がだんだんと晴れてくると、そこには美人のお姉さんが現れた。くのいちの格好をしている。
「あ、お姉さん」
ヘビが声をあげる。
「お、お久しぶりです」
そしてなぜかへりくだっている。
しかしヘビの言葉にお姉さんは答えず、自分の姿を見回した。
「私の格好がくのいちだということは……。カエルと煙から、ガマに乗った忍者のイメージに流れたということのようですね」
お姉さんの分析に、私はドキッとしてしまう。確かに私はその連想をしていた。お姉さんは、私を見て、それからヘビのほうを向いて言った。
「ちょっと外してもらえますか?」
「は、はい。ま、また今度」
そう言って、ヘビは地中に潜っていった。
私は動くこともできずにお姉さんを見ていた。
「絵美さん。初めまして」
なぜか、それを聞いて首の後ろが寒くなるような感覚を覚える。この人……。私、この人に会ったことが無いはずなのに、知ってる……?
「絵美さん。あなたが知っておくべきことが二つあります」
「き……聞きたくないです」
そう。聞きたくなかった。考えたくなかった。私は突然目の前に現れたこの人が怖くて仕方がない。
動けない私にお姉さんは近づいた。背の高いお姉さんは私に目線をあわせるように腰を落とす。それも私には不快だった。
「一つ。本来であれば私の姿はくのいちではなく、「呪いが解ける」からの連想で、お姫様……西洋の物語に出てくる王女様のような格好をしていたでしょう」
「聞きたくないです!」
でも。私は知っている。それは私が打ち消した、もう一つの連想なのだ。それは私が想像したくなかったものなのだ。
「もう一つ。私はあなたに会ったことはありません」
そう。私はこの人に会ったことがない。
この人に会ったことがあるのは……健二だ。
「……助けて」
私のうめきに、お姉さんは悲しそうに微笑んだ。
「あなたを助けられるのは、あなただけです」
そう言うと、くるりと踵を返してお姉さんは歩いて行った。荒野の砂埃に紛れるように、消えた。
私は……誰もいなくなった荒野で、泣いていた。
でも、それも少しの間。
気がつくと、そばにブランコがあった。
「ねえ」
私はブランコに話しかける。
「夢なんだよね、これ」
「ああ」
だるそうに答えるブランコ。
「覚めるには、どうしたらいいの」
「……無理だよ。外から刺激を受けなきゃ、夢からは逃れられない」
ブランコはぶっきらぼうに答えた。
「外から刺激……頭を打つとか?」
私は、ブランコの前に立って、しゃがんだ。
「あ、コラ、何を……」
後ろを向く。鎖で吊るされた座台に、後頭部を当てた。
深呼吸をする。
「お、おい……まさか」
腰をひねり、振り向いて片手で座台を強く押した。そして体の向きを戻し、背後から座台が迫るのを待つ。
「や、やめろ! ばか!」
遠ざかった鉄の座台が重力に負けて戻ってくるのが……空気を押しのける音でわかる。
目を強く閉じた。
「目覚めろ私!」
*
いてて……。
目が覚めた私は、自分が泣いているのに気づいた。
「お、お嬢ちゃん、大丈夫かい?」
声をかけてくれたお婆さんに、私は大丈夫ですと言って立ち上がった。
ここは商店街の入り口の花壇の縁だった。座って寝ていて……体制を崩して地べたに倒れこんだということらしい。頭を軽く打ったのがわかる。ズキズキと痛む。
でも涙はそのせいじゃない。
ひどく落ち込んでいるのがわかる。夢の内容を覚えていないのは……幸いかもしれなかった。
それにしても、今日はやたらと寝てしまう。しかも今のは、眠くなったことさえ覚えていなかった。いよいよ、何かがおかしいみたいだ。
私は涙をぬぐったものの走る元気を出せず、トボトボと歩いた。
そして喫茶店にたどり着いた。
*
健二は、私に何を言うつもりだろうか。
やっぱり別れ話だろうか。でも、別れよう、なんてそんな簡単に切り出してくるとは思えない。健二は私と違って、理屈で攻めて来る。きっと、私と健二がいかに合わないか、別れたほうがお互いのためであるか、滔々と説明してくれる。そして最後には、私も別れたほうがいいような気になっている。スムーズな別れが訪れることだろうさ。
……。
……。
はっ。ばかな。そんな、訳がない。
別れたほうがいいような気になる? そんなこと、ありえない。健二がどんな理屈を並べても、私は健二が、好き。これだけは健二にだって、覆せない。
「いらっしゃいませー」
喫茶店に入ると、店員の声が響いた。私は注文カウンターには行かずに、店内を見渡す。
「あ、いた」
健二はテラス席にいた。一人で座っている。あれ、飲み物も頼んでないみたい。私が来るのを待ってくれてたのかな。
「けーんじっ」
私は意識して明るく声をかけ、健二の隣に勢いよく腰掛けた。
「……」
反応が無かった。おそるおそる健二のほうを伺う。
「……って、寝てるし」
健二は待ちくたびれて寝ていた。私は時計を見る。待ち合わせ時刻からはもう一時間以上経ってしまっている。二回も寝ちゃったし……。さすがに待たせ過ぎたみたい。
「起きてー」
健二の前で手を振ってみる。ダメか。完全に寝てる。
私は起こす方法を考えてみた。A:頭を引っ叩く。ダメ。B:大声を出す。ダメ。C:キスしちゃう。
……。
バカか、私は……。
結局、考えた末に、D:頬をつねる、にした。
「えい」
「痛っ」
……。健二がうっすらと目を開く。
「え、絵美」
……え?
健二の背中から、もこもこと煙が吹出していた。いや違う……煙じゃない。毛皮……だ。
「来てたのか」
だんだんくぐもった声になっていき、背中から現れた毛皮が全身を覆っていく。毛皮の塊と化す健二。
「や……やぎ?」
いや、違うな……。羊だ……。そう、いつの間にか、健二が羊になっていた。
「なんで……?」
私は、泣き出しそうだった。
「おい、絵美……?」
羊が話しかけてくる。
「健二は……? 健二はどうしたの?」
私は、泣き出した。
「おい、絵美、どうした」
羊は、狼狽えているみたいだった。
「私、また夢見てるの? なんですぐ、寝ちゃうの? ねえ、健二は?」
私は、泣きじゃくっていた。
「絵美、おい……」
羊が困っているのがわかる。私はいつも、困らせてばかりだ。健二を。健二は、そう、困ってるんだ。健二は。飽きたとかいうよりも……、うんざりしてるんだ、私に。私が面倒になったんだ。
「そうやって泣いてりゃいいと思ってんだから」
声がする。
……?
これは羊の声じゃない。
……私の声だ。
「私が面倒くさくなったんだ」
涙声でそう言う私に、その声は強い調子で叫んだ。
「泣くのやめなさいよ!」
でも私は泣き止まない。
「……私といても疲れるだけだもん」
もう一人の私の声は、あざ笑うように言った。
「告白したほうの引け目ってやつ? 遠慮しすぎなのよ。普段は図々しいくせに、ほんと呆れる」
「私なんか……」
遮られる。
「いい加減にしな! 覚悟決めて、交代!」
*
「うー……?」
私は目が覚めた。……。目の前では、健二が寝ている。
「交代……?」
そう呟いて、でも自分でも何を言っているのかわからない。
夢……ダメだ、今度は夢の内容が思い出せない。
私は健二の顔を見た。
健二の耳の下のところにほくろがあるのに気づいた。ずっと一緒にいて顔も毎日のように見てるのに、まだ知らないことがある。
あ、鼻毛……ちょっと出てる。
私は思わず自分の鼻に手をやってしまう。
「飲み物……」
私は立ち上がって、受付へ行き、ふたり分の飲み物を買った。健二はアイスコーヒー。私はグレープフルーツジュース。
「私……ちゃんと話、聞く気でいるのにな」
なんとなく、わかりかけていた。何が起こってるのか。
私たちはもう、話すことができない。健二と話せることは、一生無い。
オセロの駒の黒と白。黒が表なら白は裏。白が表なら黒は裏。同時に表になることは、絶対にない。
「もう、遅いんだ」
……。
だったら……。
「これでいいのかもね」
……起きてるのは、健二のほうがいいよ。
私は健二の頬をペシペシと叩いた。
「だってさ、また喧嘩になっちゃうでしょ?」
健二、バイバイ。
*
ニワトリが、いた。
「今度はニワトリかぁ……」
まわりを見渡すと森の中みたいだった。木々で視界が遮られている。空は青い。
「今度は絵美……の番ってことか」
ニワトリが喋った。
ああ、そっか。健二だ。健二なんだ。
「そう、私の番……」
「はっきりしたな」
「うん。はっきりしたね」
「仲直りなんか、させないって訳だ」
「……うん。もう、仲直りできない」
「まさか、話もできないなんてな」
「うん、もうできない」
「また喧嘩になっちゃうでしょ……か」
「うん。……喧嘩になっちゃうからね」
だから、もう話なんかできないほうがいいんだ。
「手紙でも書けばいいのか?」
「……手紙?」
「それじゃ意味がないか」
その時、ニワトリがそっぽを向いた。その視線の先に私も目をやる。
「あ……」
お姉さんだった。私の知らない筈の、健二のイトコのお姉さん。
「諦めたのですか?」
お姉さんは尋ねた。
私はその言葉にお姉さんを睨んで、怒りをぶつけようとして、でも結局、頷いてしまった。
「はい」
「そうですか」
「私じゃ……ダメなんです」
「そうですか」
「……健二は、あなたを好きなんですよね」
そう私は聞いた。
お姉さんは、薄く笑った。
「はい。健二さんは私のことが好きなのです」
「あはっ。やっぱり……」
声が涙で消えた。でも私は笑った。
「健二をよろしくお願いします」
「……はい」
私が頭を下げると、お姉さんは変わらぬ薄い笑みを浮かべたまま頷いた。
その時だった。
ニワトリがお姉さんに飛びかかった。クチバシで、足で、攻撃を加える。飛べない筈のニワトリは激しく羽ばたいていた。白い羽根が舞った。
「こら、ちょっと……」
私はニワトリを止めようとする。抱えこむ。私の腕の中でニワトリが暴れる。
「ど、どうしたの? ちょっと落ち着いて……」
気がつくと、お姉さんは消えていた。
慌てて周りを見渡す。しかし夢が覚めた訳ではなさそうだった。
私は思わず、つぶやいた。
「……健二……違うの?」
ニワトリが暴れるのをやめた。
私は気づいた。
……。
あの人は、私が知らないことを言っていない。ただ私が知っていて聞きたくないことを……言っているだけだ。
「私だ……」
記憶がよみがえる。
前に一度、健二がイトコのお姉さんの話をした時。
私はほんの少し、ほんの少しだけ。
嫉妬を……したんだ。
私が出会う前から健二を知っている人がいて、健二がその人に、少しだけ憧れを持っていることに。
……でも。
「あの人は健二のイトコのお姉さんなんかじゃない。あれは……私が勝手に創りだしたんだ」
「へえ、気づいたじゃん」
振り向くと、私がいた。
「うん、気づいた」
私に、笑ってやる。
「じゃあ、特別に教えたげるよ」
そのもう一人の、ちょっとハスッパな私は、私を指差した。
「あんた、物分りの良い女になりかけてるよ」
「…………え?」
褒めてる……? ううん、違う。
「……考えてみる」
私は笑った。
「頑張れ」
私も笑った。
その時、ニワトリが鳴いた。
「起きろ、絵美」
健二の声だ。
「……行っといで」
私が、親指を立てていた。
*
「さて、うまくいくか……!」
声がしたほうを見る。
「え…………」
目の前には、健二。あれ……起きてる?
起きてる!
健二が起きている。こっちを見ている。
私は感激で泣きそうになりながら、健二に抱きつこうとして、それに気がついた。
「健二……! それ……!」
その、赤いものを目にして、背中の毛がよだつのを感じる。一瞬で目が覚める。
だって……!
健二の、手の甲から、血が出ていた。刺さっている棒みたいなものは……シャープペンだ。そこから血が一筋、肌を伝ってテーブルに垂れていた。
刺したんだ! 健二、起きているために!
「け、健二、その手!」
「ははっ……。ちくしょう。これでもダメか……。なんで眠くなるんだよ……」
健二は朦朧とする意識を振り払うように額を抑えた。
健二の左手は血を流し続ける。私の左手も……痛い。
「健二! 無理しないで、健二!」
私は泣いていた。健二の肩を掴んで支える。
「絵美……。聞いてくれ……」
「健二! 無理を……」
健二は……。
笑って。
「……僕は絵美と……一緒にいるからな」
そう言って。
それから、一瞬の間を置いて。
ごめんな、と口にした。
そのまま、眼を閉じる。
滑り落ちるようにして。
私のほうに寄りかかってくる健二。
「健二……!」
もう、意識は無かった。体重を預けてくる健二の身体を支えながら、私は健二の手の甲に刺さったそのシャープペンを抜いた。血が私の手にも伝わってくる。
私は泣きながら、ジュースの氷でハンカチを濡らして、健二の手を縛った。
健二の体を椅子に座らせる。
そして、健二の手に自分の手を重ねた。
私は大馬鹿だ。
一人で諦めたりして。
何が、バイバイ、だ。
健二の手を握る手に力をこめる。
……今度は、私の番。
健二。
「私を、受け入れてくれる……?」
*
そこは、草原だった。
目の前に、イノシシがいる。
小さな、小さなイノシシの子供。眠っている。
寝息にあわせて小さな身体が少しだけ上下している。
私はその傍に、座り込んだ。
「健二」
イノシシの子供は、眠ったままだ。
私は胸に手をあてて、大きく深呼吸をした。
「もう、同じ世界を見ていたいなんて言わない」
私は、自分の手を見つめる。
「いくら同じ世界を見ていたって……」
目を前に向ける。
「健二のいない世界じゃ、意味ないもん」
目を覚ましたばかりの眠そうな彼を、私は抱きしめた。