「●」山本健二の場合
ネズミがいた。
白い。ハツカネズミだろうか。
なんだか寂しそうだな、と僕は思った。
「何が望みなの?」
空から声が聞こえてきた。反応して上を仰ぐネズミ。
ネズミは答えた。
「同じ世界を見ていたい」
*
「はい、山本くん、起きなさい」
特徴のある数学教師の声で目が覚めた。
「今は授業中ですよ」
「……そうですか」
そう答えてしまってから、すぐに状況を悟って焦る。授業中。まさかの居眠り。まわりを見るとクラスメートが笑っている。一生の不覚。
「……すいません」
僕は机の上に教科書が無いことに気づき、慌てて床から拾い上げた。
「珍しいね山本くん。君が居眠りとはね……。よろしい、説明しましょう。黒板を見て下さい。君は今、この問題の解答を求められているのですよ」
数学教師の山下恒夫35歳独身は特に腹を立てた様子もなく、いつも通りの嫌味ともとれる態度で状況を教えてくれた。言われたとおり黒板を見てみると、確かに数式が書いてある。
両頬を軽く叩いて首をぐるりと回す。頭と身体を目覚めさせつつ、黒板の前へと僕は歩いた。
えっと……二次方程式か。眠気を振り払うのと並行して、記憶から公式を呼び起こす。数字を当てはめて解答を導き出す。それを計算過程を含めて黒板に書き出して、僕は先生の方を向いた。
「……君は……」
教師は苦笑していた。
あ、しまった、と思う。そうかまだ、この公式は授業でやってない。
「よく勉強していますね」
拍手をするジェスチャー。僕がすみませんと言うと先生は別に謝ることではないよと言った。
「席に戻ってよろしい。……えー、山本くんは二次方程式の解の公式と呼ばれるものを使って答えを出してくれましたが、この問題に限ればもう少し簡単な方法で解くことができます。それを説明しましょう」
先生は続きを話し始めた。席に戻った僕は、額に噴き出る汗を拭った。こんなことは初めてだった。授業中に眠ってしまうなど……。睡眠不足ではないつもりだったが、自覚のない疲れがあるのだろうか。
ふと何の気なしに、斜め後ろを見る。
「あいつ……」
春日絵美が眠りこけていた。この騒ぎもどこ吹く風とばかりに。
絵美は少し伸びた髪を首の横でおさげにして水色のゴムをつけている。小柄で、元気がいい奴だ。見た目以上に中身は幼い。
絵美は僕の彼女だ。
と言っても皆は知らない。
この春のクラス替えで同じ三年三組になったのを絵美はとても喜んでいたが、僕は二人の仲がばれて冷やかされるんじゃないかと落ち着かない。
つきあってもう一年近いが、恋人という実感を持ったことはあまりなかった。一緒にいすぎるからかな。小学生の頃から互いを知っていて、どうしてもその延長みたいに感じている。
「はい、春日くん、起きてくれますか……」
僕は顔をしかめた。絵美が先生に指されている。なのに起きる気配がない。仕方なく、先生は机につっぷしている絵美の頭を教科書で軽く小突いた。
「どっかーん!」
絵美が爆発した。
*
ごうごうと燃え盛る音が響く中、絵美の机があった空間が床から立ち上る炎に包まれていた。天井まで届く炎が生み出す黒煙を逃がすため、誰かが窓を開ける。
僕は何が起こったのか理解できない。絵美は……? 絵美は無事なのか……? 炎の勢いが激しすぎて中の様子が見えない。
「全くしょうがないですね」
山下先生が熱がる様子もなく炎の中に手を突っ込んで、何かを取り出した。
「え、ねこ……?」
僕は思わず目を疑った。先生の手に掴まれていたのは確かに猫だった。水色の首輪つきの。
「首輪……飼い猫……?」
僕のつぶやいた言葉に、先生は呆れたように答えた。
「山本くん、そんなこと問題じゃないでしょう」
そ、それはそうなのだが……。
「よく見なさい。これは猫ではなく、虎です」
なにぃ。そ、そうなのか……。確かに言われてみると黄色くて黒い縞が入っている。
「って、そういう問題なんですか」
「いつも言っているでしょう。問題を解くことよりも、何を問題として設定するかが大事なんです」
爆炎の中から現れたその猫あらため虎は、前足を首のところにあげる、ネコ科特有のポーズをした。
「すみません、先生」
そして喋った。……どこかで聞いたことがあるような声だ。
山下先生は、厳しい顔をして猫に問いかけた。
「いったいなぜこんなことになったのですか?」
そ、それは僕も知りたいが……。猫……いや虎か……に聞いたところで、マトモな答えが返ってくる訳がない。
「ひまわりが爆発したんです」
答える子虎。ほうら見ろ。
「ひまわり……気象衛星ひまわりですか。それは一大事ですね……」
先生は冷静だった。しかし言っていることは意味不明だった。……うん、間違いないな。僕は挙手して質問する。
「あの、先生、僕もしかして、夢を見ているんですかね」
「はい、そうです」
先生の代わりに、虎が肯定した。うん……やっぱりそうか。夢か。だよなあ。
「って、マジかよ。また授業中に寝ちゃってるのか僕は……。昨日深夜番組見てたのがいけなかったのか?」
「うげ。最悪」
虎に幻滅された。……なんだか、傷ついた。
「い、いや、そんな変な番組じゃないよ。大して面白くもない通販番組なのについつい見ちゃうこと、あるだろ」
「ありえない」
虎にばっさり切って捨てられた。
山下先生が見かねたように口を挟んだ。
「こらこら。それじゃあ山本くんが可哀想です。彼がいくら勉強しか能のない、深夜番組好きのむっつりスケベだったとしてもですね……」
……。山下先生、僕が嫌いなのかな。夢とはいえ、いい気はしなかった。
「彼を許してあげてください」
「無理です」
虎に完全に拒絶された。
「ほら、数学の問題は解けても人生の問題は一個も解けない山本くんが傷ついてますよ」
言い過ぎです。先生、それは言い過ぎです。
「あはは」
虎に笑われた。
僕が憮然としているのが流石にわかったのか、虎が僕のほうへ近づいて言った。
「もしかして……怒ってます?」
子虎は僕の膝に乗り、機嫌を伺うように見上げている。
「お、怒ってるというか、傷ついてるんだ……。僕が何をしたか知らないが、そんなに僕を嫌わないで欲しい」
「はい……まあ、努力はしてみますけど……」
虎は、すごく嫌そうに言った。
*
僕は子虎と仲良くなることにした。教室を出て、一緒に散歩をしたり、ネコじゃらしで遊んだり、日向ぼっこをしたりした。
これが夢だということは分かってはいたが、なぜか僕はこの子虎に嫌われたくないという思いが強くて、必死に機嫌を取った。それなのに虎ときたら僕の気持ちなんかお構いなしで、嫌そうな態度を崩そうとしない。
空回りし続けたまま、一緒に教室へ帰ってきた。とたん、虎は僕の腕を離れ、教卓の上で丸くなった。そしてため息をついて呟く。
「あ~、恥ずかしかった」
さすがにむっとする。
「僕と一緒にいるのがそんなに恥ずかしかったかよ」
僕は不貞腐れかけていた。
「どんな話をしてきたんですか?」
先生が子虎に向かってそう聞いた。
「別れ話かな」
なっ。
僕は思わず虎をにらんで震えた。
「わ、わ、別れ話って何だよ! いつ付き合い始めたんだ僕らは!」
先生が割って入った。
「ちょっと待ってください。なぜ山本くんの評価がこんなにも下がってしまったのかわかりませんが……」
先生、あなたも一因のような気がするのですが。
「……山本くんに挽回のチャンスはないんですか?」
先生が真剣な顔で子虎にお伺いを立てる。
子虎は、首を横に振った。
「どう考えても無理だよ……」
僕は泣きそうだった。なんでこんなに、嫌われなくちゃいけない? そして、なんでこんなに嫌われていることに傷ついているんだ僕は?
「なんだよ、僕のどこが嫌いだ? 顔か? 声か? 身長か?」
虎は眠そうに答える。
「……そういうことじゃないんだよね」
そういうことじゃないって……どういうことなんだよ。
「ああ、わかります。山本くんの、このいけすかない性格が嫌いだということですよね?」
先生が僕の代わりにずいぶんバイパスのかかった訊き方をしてくれた。
「ていうより……飽きてきちゃった、のかもなあ」
「飽きたってどういうことだよ! さっき会ったばっかで! じゃあもうどっか行けよ!」
「行きたくないな」
「じゃあ行かなくていいよ! 僕が出て行くさ」
そう叫んだ。
*
とたん、意識が急速に覚醒する。
……ああ、また寝ていたのか! どっと冷や汗が出る。慌ててまわりを見渡すが、幸いにも誰もいなかった。
え? 誰もいない?
授業が……終わっているのだと気づいて、僕は青くなった。時間を見ると、授業が終わってからもう三十分以上経っている。クラスメートが皆出て行くまで、まったく起きなかったというのか。熟睡もいいところだ。
それに、よく思い出せないが酷い夢を見ていた。さっきの先生に指される前に寝ていたときもだ。おかしい。僕は夢なんてほとんど見たことないぞ?
「あり得ないだろ……夢を見すぎだ……」
結局、あの問題に答えた以外はこの四時限目の授業中、ほとんど寝て過ごしたことになる。山下先生は指された生徒以外が寝ていても気にしない。しかし授業が終わっても誰も起こさなかったとは……。
「参ったな……」
教室には当然、絵美もいなかった。既に教室を後にしてしまったのだ。
「じゃあ、さっさと行かないとな」
今日は土曜。もう授業もないし、ホームルームも無い。僕は鞄に教科書を詰め込んで、絵美との待ち合わせ場所に向かうことにした。
そう、今日はデートだ。絵美と喫茶店に行く約束をしていた。学校から二人で一緒に行って冷やかされるのも嫌なので、いつも通りバラバラに教室を出て喫茶店で待ち合わせる。
学校を出る。下校中の他の生徒たちはもうまばらだった。公園の前を通り過ぎ、繁華街の方へと向かう道に折れる。大通りに出て、小走りに歩いて行く。待ち合わせまでもうあまり時間がない。
しかし途中、とあるバス停の前でのことだった。明らかに自分の体調がおかしいことを思い知る。強烈な眠気。
ふらつくのを必死でこらえ、なんとかバス停のベンチに座り込んだ。その途端。
「はっ」
大地が震えるようなその声に、目線を上げると、そこにいたのは…………。
…………。
……。
僕は深く頷いていた。
「今度はわかりやすいなぁ……。夢にもほどがある」
そこにいたのは、二階建てのビルほどもある巨大なトカゲだった。
ぽかんと見つめていると、トカゲがゆっくりと振り向いた。
「わっ」
それは僕を見ての驚きの言葉だったのか。わからないが、低いその声が僕の鼓膜を揺らした。
「でかい……トカゲだなあ」
「いや、あれは龍よ、健二くん」
振り向くと、そこには……デニムのジャケットに薄い青のパンツを履いた、女子大生がいた。
「瑠美さん」
絵美のお姉さん、春日瑠美さんだった。僕は絵美の家に時々遊びに行くので、瑠美さんやお母さんとはだいぶ親しくなっている。
「瑠美さん……。リュウって……ドラゴンですか?」
「そう。その通り。大地を揺らし空を飛び炎を吐く! 爬虫類の王様ドラゴンよ!」
瑠美さんは親指を立てた。いつもながら、勢いが有り余っている感じは絵美と同じだ。さすがに大学生だけあって、絵美と違いそれなりの常識を備えているけれど。
瑠美さんはドラゴンのほうへ近づいた。
「へいドラゴン! ……私とこの無愛想な中学生男子を背中に載せて頂戴」
そう言って、どこからか取り出した木刀でボコンとドラゴンの尻尾を叩いた。
「いったぁ……」
なぜかドラゴンが大げさに痛がっている。
「何よ、見かけによらず痛がりなのねぇ……。こんな可愛らしいお姉ちゃんにダメージ受けるようなヤワじゃないでしょ」
「……お、お姉ちゃん?」
ドラゴンが訝しんだのに対し瑠美さんは眉根を上げた。
「何よ。まだ二十歳よ私。お姉ちゃんじゃ悪いわけ?」
「ご、ごめんなさい……」
謝るドラゴン。
「あの、瑠美さん……事態が飲み込めないんですが……」
なにやらドラゴンに言いがかりをつけている瑠美さんに、僕は声をかける。
「……あのね、健二くん。ここは夢の中なの。事態が飲み込めることなんかあると思ってんの?」
「確かにそれもそうなんですけど……」
「ほら、いいから乗った乗った」
瑠美さんに言われるままに僕はドラゴンの尻尾から背中へと上がらせてもらう。瑠美さんも僕の後ろに乗る。
「よぉし、出発進行~。どう、ドラちゃん、重い?」
「ちょ、ちょっとね……」
ドラゴンの返答に瑠美さんの声が低くなる。
「重くないよね?」
ドラゴンはびくっとしてそれ以上何か言うのをやめ、それから大きくその翼を広げて羽ばたいた。振り落とされないように背中の鱗につかまる僕。あっという間に大地を離れ、雲を突き抜けた。夢ってほんと……何でもありだな。
そういえば、なぜ瑠美さんが現れたのだろう。聞いてみようか。
「あの、瑠美さん……」
「ねえ、健二くん」
僕の言葉を遮る瑠美さん。
「何でしょう」
「絵美のこと」
「……何でしょう?」
「あの子、君が思うよりずっと、考えてるんだからね」
え……。
「な、何をですか?」
「……」
それっきり、瑠美さんは何も言わなくなった。僕も何も言えなくなる。
ドラゴンの背で、眼下に広がる雲海を見ながら、僕は瑠美さんの言葉の意味を考えていた。
*
「おい、君、バス来たぞ」
起こされた。
……。
目の前にはお爺さん。
「あ、いえ、違うんです」
僕はそう言って立ち上がり、慌ててバス停から離れた。
時計を見る。もう待ち合わせ時間を三十分以上オーバーしている。くそ……。絵美、もう帰ったかもしれないな。
それでも僕は行かなくてはならない。この体調の悪さには不安を覚えるが、病院に行くのは後だ。
……走るか。
僕は屈伸運動をして、身体を覚醒状態に持っていく。しかし、いざ駆け出そうとした時、声をかけられた。
「健二さん」
首だけ後ろへ向けると、そこには高校の制服を着た女子生徒がいた。腰まであるロングの黒髪。知った女性だった。
「あ、お姉さん……」
イトコのお姉さんだった。近くの高校に通っているので、こうして街でたまにすれ違うこともある。
「お、お久しぶりです」
つい僕は緊張してしまうのだ、この人の前では。お姉さんは僕を見て、しばし考える素振りを見せたがすぐに口を開いた。
「クラウチングスタートの姿勢を取っているということは……お急ぎなのですね?」
察しが良いのは本当に助かる。
「は、はい。ま、また今度」
そう。僕は急がなくちゃいけないのだ。お姉さんに軽く頭を下げ、僕は走りだした。
*
喫茶店に着いた。
入ろうとすると、喫茶店の前に仁王立ちの店員がいた。邪魔だな、と思いながら避けようとすると進路をふさいでくる。
「ちょっと、入れま……」
ぶつかった。
「あ、痛」
店員が倒れこむ。四つん這いになる。
……しかしなぜかその首は僕よりも上にある……。首が……長い。茶色で……タテガミを備えていて……。
「今度は馬か……」
僕はため息をついた。今回は眠くなったことさえ自覚できなかった。夢への入り方がずいぶん性急になってきた。
馬は、僕のまわりを嬉しそうにぐるぐる回っていた。
「けーんじっ」
僕の名前を呼ぶ馬。楽しそうだな……。僕は眉間に指を当てて考えてみる。
「夢……から自分で覚めるにはどうしたらいいんだろうな」
馬がいなないた。嬉しそうに近寄ってくる。
僕が、どうするのか見ていると……馬は僕の頭を鼻でどつきはじめた。
「い、痛っ。おい、こら、やめろ」
「起きてー」
ガツンガツンと僕の頭骨にダメージを与え続ける馬。
「お、おい、やめ……ちょっ。……頼む、やめてくれ」
手で鼻面を押し戻すと、やっと馬は攻撃をやめてくれた。また僕のまわりをグルグルと走り回る。
僕は深呼吸する。えーと、自分で「これは夢だ」と自覚すれば覚めると聞いたことがあるが、それはもうできている訳だし。
「……頬をつねってみる、とかか?」
それは夢じゃないことを確かめる方法か。……いやでも、つまり同じことか?
そう思って、僕は自分の指を頬にもっていく。
すると僕の周りを走り回っていた馬がいきなり近づいてきた。
「えい」
頬を噛まれた。
「痛っ」
*
……。 ふぅ。
目を覚ます。
今度は喫茶店のテラス席で寝ていた。店の前でぶっ倒れてたりしなくて良かった……。
ふと、頬に何かがついてるのに気がついた。ついてるんじゃないな。
……つままれてるんだ。
「え、絵美」
その手は絵美の手だった。横に絵美が座っている。
「……来てたのか」
絵美はもしかして寝ている僕をずっと眺めていた、のだろうか。恥ずかしくなった。
状況を確認する。ここは……喫茶店の中のようだった。僕はテラス席の一つに座って眠っていたようだ。ということは、喫茶店に辿り着いたとこまでは現実だった訳か。
隣の絵美は右手を僕の左頬に伸ばしたまま、うつむいていた。うつむいて……いや、違う、これは。
……絵美は、寝ていた。
「おい、絵美……?」
僕が、頬をつまんでいる絵美の手を外すと、絵美の手は力なくテーブルの上にパタリと倒れた。そして絵美の身体がずずっとこちらに倒れてくる。
「おい、絵美、どうした」
僕は絵美に声をかける。
「絵美、おい……」
身体をささえながら、寝ている絵美の横顔を見つめる。熟睡だった。……なんだか、いつもは騒がしい絵美がこうして大人しくしているというのは妙な感じだ。
絵美の顔を観察してしまう。……案外、睫毛が長いのに驚く。やっぱ女の子ということか。いや男でも長い奴もいる。目は大きめだが、鼻や口はパーツが小さいなと思う。ふと顔を見すぎていることに恥ずかしくなって視線を外した。絵美の手が目に映る。短い指。絵美は、手が小さいのを気にしていた。子供の手だな、などと言うと嫌がる。別にピアニストになる訳でもなし、小さくたっていいと思うのだが。
絵美の頬を軽く叩く。
「うー……?」
絵美は寝ぼけているみたいだった。
僕は時計を見る。こんなに時間が経ってしまっているとは……。
そして振り向いた時には既に夢の中にいた。
「って…………おい……またかよ……」
絵美がいなかった。そこにいたのは猿だった。
「おーい、絵美を出してくれ。ほら、チェンジ。交代」
目を閉じている猿にデコピンを食らわせる。
「交代……?」
猿がつぶやいた。
「そうだよ、交代……こう……」
僕は何か、頭のどこかで何かが光った感じがして黙った。
「…………待てよ……」
授業中……。僕が起きたタイミングと、寝たタイミングと……。
「なんだ……何かおかしいぞ……」
……。
…………。
………………。
「飲み物」
声に振り向くと、猿が僕に飲み物を差し出していた。
「おお、ありがとう」
アイスコーヒーだった。
「バナナジュースとかじゃないんだな」
「私……ちゃんと話、聞く気でいるのにな」
猿がそう言ったので、僕はジュースを飲む手を止めた。
「どういう……意味だ?」
「もう、遅いんだ」
……。
…………。
僕は急に立ち上がる。椅子が倒れる。
「絵美なのか!」
僕が手を伸ばそうとした時、猿は急に飛び上がって店の外に出ていってしまった。
「おい、どういうことだ。絵美、お前……」
店の外から、ふいに声が帰ってくる。
「これでいいのかもね」
「いいわけないだろ! 絵美!」
……。
「だってさ、また喧嘩になっちゃうでしょ?」
*
目が覚める。
ここは……さっきの喫茶店か。
「なるほど……わかってきた……」
隣を見る。
「……今度は絵美……の番ってことか」
そう絵美が寝ていた。僕の隣の席で。テーブルの上にふたり分の飲み物があるところを見ると、絵美が注文したのだろう。僕が寝ている間に。
僕はそのアイスコーヒーに口をつけた。
「はっきりしたな…………仲直りなんか、させないって訳だ」
そう。
僕は今、絵美と喧嘩になっていた。
つまらないことだった。この間のテストの時だ。絵美が、テストの点数が酷く悪くて落ち込んでいたので、僕は慰めるつもりで言ったのだ。
「別に勉強なんかできなくてもいいじゃないか」
そうしたら絵美は怒りだしたのだ。そりゃ僕の言い方も軽かったかもしれないけど、むしろ普段、「勉強だけが人生じゃないもん」とか言ってるのは絵美のほうだというのに。
「健二は自分が頭いいから私の気持ちなんかわからないんだよね」
そう言われて僕も腹を立ててしまった。
一週間、口を聞かなかった。こんなことは初めてだった。今まで、喧嘩することはあっても、こんなに尾を引くことはなかったのだ。もしかしてこのまま緩やかに破局ってパターンもあるんじゃないか。焦り始めた僕は、意を決して絵美と仲直りをすることにした。放課後、足早に下校する絵美をつかまえて、今度の土曜に学校が引けたら喫茶店でとだけ口にした。絵美は顔を強ばらせたが、頷いた。それが一昨日。
「まさか、話もできないなんてな」
僕が起きると、絵美が寝てしまっている。どうもそういうことのようだった。絵美は……僕と話をしたくないのかもしれない。その拒絶の意志が無意識のうちに眠ることに現れてしまっている……とか。
だが腑に落ちないのは、絵美が起きると今度は僕が眠りに落ちてしまうことだ。……つまり、僕も……?
「また喧嘩になっちゃうでしょ……か」
なるほど、そのとおりだ。今日みたいに代わりばんこに起きていれば、絶対に喧嘩にならずに済む。
「手紙でも書けばいいのか?」
絵美が寝ている間に手紙を書いて、僕が寝ている間に絵美がそれを読む。それなら、意思の疎通は図れるかもしれない。
「……それじゃ意味が無いか」
そう。意味が無いんだ、それじゃ。直接話したい。僕は絵美に謝りたいんだ。
謝りたい。だから絵美に起きて欲しい。
……。
謝りたい……? 謝ったら、絵美は何と言うだろう。
ううん、私も悪かったと言って、お互い謝って、仲直り。
……。
僕はなんて都合のいいことを考えているんだろうか。自己嫌悪に陥る。また、過ちを犯そうとしている。何が悪いかもわかってないのに、ただ謝ればいいのか? なんだ? 僕は機嫌をとろうとしているのか?
絵美はなぜ怒ったのだろう? 絵美はなんで落ち込んでいたんだろう?
わからない。
それがわからないなら、僕は大馬鹿野郎だ。
……馬鹿なら馬鹿なりの、やり方がある。
鞄を開けてシャープペンを取り出した。
息を整える。
絵美の頬に手を当てる。軽く叩く。
「起きろ、絵美」
絵美の眉がピクッと動いたのを確認する。絵美のまぶたが開き出す。よし、起きたな……。
と同時に、強烈な眠気が襲ってくる。
「さて、うまくいくか……!」
*
「……」
暑い。
「…………」
目を開いて眩しさに目を細める。太陽光線が僕を焼いていた。
ため息をつく。身体を起こしてまわりを見ると、今度は砂漠だった。
「……結局、ダメだったか……」
暑い……。
しかし、不快ではなかった。
僕は座り込んだ。彼方まで続く砂の海。
ふとそばを見ると、子犬がいた。
おいでおいでと手を振ると、尻尾を振りながら近寄ってくる。
僕は横になる。犬は僕の腹のところで丸くなった。
その毛並みを撫でる。
「私を、受け入れてくれる……?」
僕は笑った。
当たり前じゃないか。絵美。