冬に降る花
「知ってる? 花火ってな、冬にも咲くんやで」
風に揺らめくカーテン越しに、優しく笑うキミと目が合った。
それはまるで、春の嵐のように、僕の心をざわつかせた。
彼を知ったのは、高一の夏休み直前の頃だった。
文芸部が発行した部誌を、廊下の隅で読んでいる彼の姿を見かけたのがきっかけ。
そこには、僕が初めて完成させた短編小説も載っていた。
(……もしかしたら、僕のも読んでくれてるかも……)
でも、中学の時みたいにまた揶揄われたら……。いや、でも、真剣に読んでたし……。
そう思うと胸がそわそわして、家に帰ってからも、なんだか落ち着かなかった。
それから、通学途中で眠そうに欠伸する姿を見かけたり、廊下で友人と話している姿が目に入ったり。
彼を見かけるたびに、自然と目で追ってしまう自分に気付いた。
「冬吾~! お前も明日、来るやろ?」
「いや、俺バイト入れてるから行かんて言うたやろ」
「えー! 河原くん、来うへんの~?」
「お前いっつもバイトやん! たまには遊ぼうや~!」
隣のクラスの、河原冬吾くん。
学年でも少し賑やかなグループにいる彼は、文化祭に体育祭、事ある毎に話題の中心にいた。
けれど、彼自身は騒がしいわけでもなく、他の同級生たちよりも大人びた雰囲気で、それに憧れる女子も多かった。
それに僕も、みんなと同じ。彼に憧れる同級生の中の一人にすぎなかった。
「お、夏希と一緒や。よかった」
「ほんまや、よかった! 辰巳くん、また一年よろしく」
「こちらこそ、よろしく」
高二の春。みんながどこかしら緊張しているように見えた、クラス替え初日。
かく言う僕も、近所に住む幼馴染みと同じクラスになり、内心ホッとしていた。
もうすぐ遠足もあるし、それも先輩が言うにはバーベキューをするらしい。
本当に辰巳くんと一緒で心強い。
また一から友達をつくるなんて、コミュ障の僕にはハードルが高すぎる。
すると、扉がガラッと音を立てて開き、教室が一瞬だけざわついた。
(……あ、河原くんや……)
姿を見せた彼と、賑やかな彼の友人たち。
(もしかして、同じクラス……?)
友人たちとは対照的に、静かに辺りを見回し、河原くんは僕の後ろの席に着いた。
彼の友人たちはすぐに別の教室に行ってしまったので、どうやら河原くんについて来ただけのようだ。
「川上、よろしくな」
「……え? あ、うん! 河原くん、よろしく……!」
(……わぁ! 話し掛けられた……!)
席が前後になったのがきっかけで、彼から挨拶してくれた。
僕の周りにはいないタイプだったから、返事をするのにも緊張してしまう。
(……僕の名前、知ってたんや……!)
たったそれだけで、嬉しくなってしまう自分がいた。
そういえば、一年の時に一回だけ体育でペアになったなぁ……。それで覚えてたんかな?
明日も話し掛けられたらどうしよう、挨拶の練習でもしておいたほうがえぇんかな?
そんなことを考えるくらいには、僕は浮かれていたのかもしれない。
それから一カ月。休憩時間のたびに会話を一言、二言。
時には辰巳くんを交えて三人で。また違う日は、河原くんの友人も加えて数人で。
それが続いていき、席が離れても二人で会話をするくらいには仲良くなっていた。
「他の奴らも呼んでるし、冬吾って呼んでよ。俺も夏希って呼ぶし」
四月の終わり。遠足の班も同じになり、河原くんと一緒にバーベキューで使う炭の準備をしていると、唐突にそんなことを切り出された。
「え……、そんなん急に言われても……。なんか、緊張するんやけど……」
あまりに突然で、炭を扇ぐ手に力が入る。
「なんでやねん。名前呼ぶだけやろ」
そう笑いながら、河原くんは僕の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「……あ、ごめん。軍手着けたまんま、触ってもうた」
「もう~……」
同い年なのに落ち着いていて、先生たちにも頼りにされている彼と、地味で上手く話せない僕。
何もかもが正反対。関わる事はないだろうと、思っていたのに。
接点のなかった僕たちは、いつからか一緒にいることが多くなっていた。
そして、少しずつ、少しずつ。
冬吾の存在が、僕のなかで大きくなっていくのを感じていた。
深緑が眩しい初夏の頃。珍しく「今日は違うとこで食べよう」と誘われた。
教室では一緒に食べることが多いが、わざわざ教室を出ようなんて今までなかったのに。
まぁ、天気も良いし、そんな気分なんかなぁと、冬吾の後ろをついて行く。
ちなみに、いつも一緒に食べていた辰巳くんは、最近仲良くしている文芸部の先輩と一緒に食べる約束をしているらしく、早々に教室から出て行った。幸せそうで何よりだ。
ベンチがある中庭に行くのかと思っていたけれど、途中で用務員さんに段ボールを貰い、そのままつかつかと進む彼の後を、僕は必死に追いかけた。
想像していた場所とは違い、そこは僕たちの教室からは随分と離れた旧校舎にある空き教室。
バレたら怒られないかなと思いつつ、少し悪いことをしているようで内心ワクワクしていた。
先生たちに見つからないように、屈みながらそっと窓を開け、空気を入れ替える。
埃は思ったよりも少なく、冬吾は手慣れた様子で段ボールを広げ、そこに腰掛けた。
「冬吾、ここって入っていいん?」
「え? 先生らもたまに使ってるみたいやし、別にえぇんとちゃう?」
「それやったら、えぇけど……」
「そうそう。気にしたら負けや。……でもまぁ、一応な、隠れる準備だけしといて」
「やっぱ、あかんのやんか……」
そんな他愛もない会話をしながら、僕たちは小さく笑い合った。
「夏希は夏休み、何すんの?」
冬吾はそう訊きながら大きく口を開け、いつも食べているお気に入りの総菜パンを頬張っている。
その左手には、僕のお弁当から勝手につまんでいった玉子焼き。
「僕? ……ん~、お盆は毎年おじいちゃんとこ行くから、それ以外は部誌用に何か書こうかな~とは、思ってるけど……」
「あ~、あの本な。あれ、えぇよな」
「……読んでくれてんの?」
「職員室の近くにいろいろ置いてるやん? 俺、けっこう読んでるで。自分と同じ学校のヤツが書いてるんや、おもろいなぁって。夏希の名前も、それで知ってたし」
「……そうなんや」
僕のこと、知ってくれてたんや。僕の小説、読んでくれてたんや。
そう思うと、心がまたそわそわと落ち着かなくなる。
だけど、揶揄われたあの時みたいに嫌な感じは全くしなかった。
「まぁ、それだけちゃうけどな」
冬吾はそう言いながら、「この玉子焼き、めっちゃ美味いな」と、僕のお弁当からもう一つ食べようと狙っている。それを見越して、お母さんに多めに作ってもらってよかった。
「一年の体育ん時にさぁ、一回だけペア組んだやん? そん時に、コイツどんくさいなぁと思って覚えてた」
「え……? ウソやろ……? そんなん思ってたん……!?」
「……いや、しゃあないやろ、アレは」
「う……、そう言われると、何も言えやんけど……」
ペアを組んだ時、僕は準備体操で冬吾の体を支えきれずに二人で倒れ込んでしまった。
その後も僕たちのペアだけなかなか進まなくて、みんなに笑われたのを思い出す。
周りは笑っていたけど、やっぱりどんくさいと思われていたんだと、思い出したくないことを思い出してしまった。「あんま落ち込むなって」と、変に慰められても嬉しくない。
「……あぁ~、夏希はやっぱ、夏生まれなん?」
会話が途切れた、束の間の沈黙の後。
落ち込む僕を見て話題を逸らそうとしてくれたのか、不意にそんなことを訊かれた。
「え? うん、そうやで。八月生まれ」
「そうか、八月……。夏休みは親戚んとこでバイトするから、会えやんなぁ」
「……あ、そうなんや。えっと……。冬吾は、やっぱり冬?」
「俺は一月。……俺らの親、安直すぎへん?」
そう二人で笑いながら、最後に残しておいた好物のアスパラの豚巻きを頬張る。
(……そっか。夏休みは、会えやんのか)
楽しそうに笑う横顔を見て、なぜかはわからないけど、無性に寂しくなった。
でも、バイトがなかったら僕と遊ぶ約束をしてくれたのかなと思うと、少し嬉しくなる。
「そういえば、冬吾っていっつもバイトしてるやん? 何か買いたいものとかあんの?」
帰宅部の冬吾は、テスト期間以外はほぼ毎日ガソリンスタンドでバイトしているらしい。
よく彼の友人たちが「遊んでくれない」と愚痴っていた。
「あぁ。……俺な、将来“花火師”になりたいんよ」
「花火師……?」
「そう。祭りの時に上がる、でっかい花火。あれ作りたいねん」
そう言いながら、少し恥ずかしそうに冬吾は笑った。
「でもな、いろいろ資格も取らなあかんし、一人前になるまでに何年も掛かるらしいから、今からお金貯めてんの。やから、夏休みも親戚の伝手で煙火……、花火作ってるとこでバイトさせてもらうねん。まぁ、ほんまに雑用やけど、見てるだけで勉強なるし」
「そうやったんや……。すごいな……! 僕も冬吾が作った花火、見てみたい!」
「ほんま? そんなん言われたら、めっちゃやる気出てきたわ」
もう将来の夢を決めて行動しているなんて、尊敬する。
「夏希は? 何か、将来なりたいもんとかあるん?」
「僕……? 僕は……」
今まで誰にも言ったことはないけど、冬吾なら茶化さずに聞いてくれる気がした。
「しょ……、小説家、に、なりたい……」
初めて人に言った、幼い頃からの夢。
緊張で、声が少し震えてしまう。
「へぇ! かっこえぇやん!」
冬吾の弾んだ声にそっと顔を上げると、外からの光が反射して、まるで海の中にいるみたいに教室がきらきらと輝いていた。
「俺は何も思いつかんからなぁ。頭のなか、どうなってんやろなとは思うけど」
「そんなん思うてたん? 僕は、夢のために頑張ってる冬吾、すごいと思う! 負けてられやんなって、僕も、頑張らなあかんなって思ったで」
「俺も、自分の作った花火、夏希に見せられるように頑張るな」
「うん! 僕、応援するわ!」
興奮気味にそう言うと、冬吾は照れたように目を細めて僕を見た。
「夏希、知ってる? 花火ってな、冬にも咲くんやで」
「そうなん? 冬にもやってるん?」
「そう。寒いけど、空気が澄んでてな。光の粒がキラキラして、夏とまた違ってキレイなんよ」
開いた窓から、柔らかな日差しが降り注ぐ。
「いつか、夏希にも見せたいわ」
ふわりと、風に揺らめくカーテン越しに、優しく笑うキミと目が合った。
それはまるで、春の嵐のように、僕の心をざわつかせる。
僕らの頬を掠める風が、少しずつ、夏の色を見せ始めていた。
「今度の金曜、なんか予定ある?」
いつものように冬吾と過ごす昼休み。あの空き教室は、僕らの昼食の定番の場所となっていた。
「金曜? 先生も先輩らも修学旅行でおらんし、部活ないから帰るだけやで」
場所は沖縄。他の学校は二年の時に行くとこもあるらしい。先輩たちは「良いネタ浮かばんかな~」と、楽しそうだった。
「俺、その日バイトなくなったんよ」
「そうなん? 珍しいね」
毎週金曜日の放課後は、僕は部活。冬吾はバイト。
けれど今週は、三年生の修学旅行で先生もいなくなるので休みになった。
「ほんまは出勤日やったんやけどな。こないだ先輩の代わりに出たから休みになった」
そう言うと、冬吾はどこかぎこちない様子で財布を取り出した。
「……これな、バイト先の社長に貰ったんやけど。……一緒に行かん?」
「何これ……。あ! これ、観たかったやつ!」
そこには、先週公開されたばかりの映画のチケットが。アクションが凄いと話題の作品だ。
「……じゃあ、一緒に行かへん?」
「行きたい! めっちゃ嬉しい!」
「よかった。……でも、アイツらにバレたら煩いから、内緒にしとこら」
「……あ、確かに。バレたら拗ねそう」
僕もそう言うと、冬吾は「間違いないな」と笑っていた。
いつも「遊んでくれない」と騒ぐ冬吾の友人たちは、少し賑やかなだけで僕にも気軽に話し掛けてくれる。冬吾の周りには、良い人ばっかりおるみたいや。
そして、その輪のなかに自分もおるんやなぁと、何だか嬉しくなった。
「……めっっっちゃ、面白かった……!」
「……あれはヤバいな……」
金曜日の放課後。約束していた映画は、とてつもなく面白かった。
冬吾も珍しく興奮していて、観終わってすぐにパンフレットまで購入していた。
その後は同じ施設内にあるゲームセンターで遊び、楽しくて時間があっという間に過ぎてしまう。
「夏希、これやるわ」
そう言って手渡された、クレーンゲームで獲ったぬいぐるみのキーホルダー。
「貰ってもえぇん?」
「俺がこんなん持ってても、おかしいやろ」
「そんなことないよ」
それは、ボールチェーン付きの黒猫のぬいぐるみ。首には赤いリボンが巻いてある。
ふわふわの可愛らしいこの猫が、もし冬吾の鞄に着いてたら……。
「……そうや! 僕が同じの取って、冬吾にあげるわ!」
「はぁ? 止めとけって」
「無駄遣いはせぇへんから! 任せといて!」
「はぁ……、一回だけにしとけよ……」
冬吾が止めるのも聞かず、僕は同じ黒猫のぬいぐるみを獲得するため、ふわふわたちが積まれた一角に狙いを定めてアームを動かした。
「……あ! うそ! やった! 冬吾、見て! 獲れた!」
「ウソやろ……」
残念ながら同じ黒猫ではなかったけど、ふわふわの白いうさぎのぬいぐるみ。
あまり乗り気ではなさそうだったが、「今日の記念やね!」と言うと、冬吾も最後には笑って受け取ってくれた。
(……今日、めっちゃ楽しかったな……)
家に帰ってからも、今日のことを思い出して自然と口角が上がってしまう。
貰ったぬいぐるみは少し眼つきが鋭いが、それがほんの少し冬吾に似ていて愛着が湧く。
放課後にファストフードを頬張りながら、映画の感想を語り合って、ゲームセンタ―で友達と遊ぶ。中学の頃に憧れていた夢が、今日だけでたくさん叶ってしまった。
(……来週、学校行くの楽しみや)
会いたいな。はやく月曜にならんかな。
この数カ月で、自然とそう願ってしまう自分がいた。
「やから~! うちら、最後の部誌やん? ちょっと奇抜なテーマでもえぇと思うんよ」
「何言うてんの。最後やからこそ、堅実なテーマにしようや」
今日は文芸部の部室で、先輩たちと一緒に次の執筆テーマを決めることになった。
三年の先輩たちにとっては、最後の部誌。見るからに、相当気合が入っている。
けれど、いつものように先輩たちが白熱し始めてしまい、後輩たちもその熱量にポカンと口を開けて眺めているばかり。辰巳くんと僕は慣れているため、早々に離脱した。
だけど、先輩たちのいる部室のこの賑やかな雰囲気が、僕は大好きだった。
「……え、オレが風邪で休んでる間に、そんなに進んでたん……?」
「進んでるって、何が……?」
先週の金曜日。放課後に二人で映画を観に行って、その後ゲーセンで遊んだと報告すると、辰巳くんは飲んでいた紙パックのジュースで盛大に咽ていた。
鼻に入って痛そうだなぁとポケットティッシュを手渡し、その背中をそっと擦る。
何か誤解があるようだが、辰巳くんは僕に新しい友達ができるのをとても喜んでくれていた。
それに、僕の中学の頃を知っている、唯一の友達。
「ごめん、ごめん。何にせよ、夏希が楽しそうで安心したわ」
涙目だが、その表情は晴れやかで、本当に僕のことを思ってくれているのが伝わってくる。
「こらぁ、そこの二人―! 青春してやんと、次のテーマ真面目に考えてー!」
部長に注意され、僕たちは笑いながらまたその輪に加わった。
「ちょっと、ナッキー。何をニヤニヤしてんのよ?」
「え? 僕、そんな顔してますか?」
自分ではわからないが、「嬉しいことでもあったんか」と、先輩たちの視線が僕に集中する。
「え、何やろ……? 久し振りに先輩たちの顔、見れたからかなぁ?」
「は? ナッキー可愛すぎるんやが?」
「ちょっと川上くん、抱きしめても……、えぇかな?」
「はいはいはーい! お触り禁止ですー! 事務所通してくださーい! 夏希も思ってもないこと言うんじゃありません!」
真面目な顔で僕を抱きしめようとする先輩たちと、それを制止する辰巳くん。
ふざけているのはわかっていても、僕はそれが楽しくて仕方がない。
「じゃれてるとこ、ごめんやで~。ちょいと力を貸しておくれ……」
そこに演劇部に所属する先輩が「ラストに納得いかん」と、自分で書いた台本を持って訪ねて来て、部員総出でアイデアを捻り出す。
台本が完成するまでの間、ラストシーンの練習がストップしてしまうのも痛手になるからだ。
こちらも高校生活最後の演劇。最高のものにしなければと、みんな他の部のことなのに目が真剣だ。
小説も、漫画も、詩も、演劇も。
創作は、人を感動させることができる、かけがえのないもの。
同じものが好きってだけで、こんなに学校が楽しい。
賑やかな先輩たちを眺めながら、この学校を選んで本当によかったと、僕は改めて実感した。
「川上くん、おはよう~!」
「あ、吉田さん、おはよう」
下駄箱で上履きに履き替えていると、隣のクラスの吉田さんに声を掛けられた。
冬吾と仲の良いグループの一人だ。髪色は少し派手だが、いつも笑顔で男子からも女子からも好かれている。あと、なぜかいつもお菓子をくれる。僕が吉田さんの小学生の弟に似ているかららしい。
今日はちょっと酸っぱいグミをくれた。少し複雑だが、お菓子に罪はないので有り難く頂戴する。
「あれ? 何か、川上くんにしては珍しいの持ってんなぁ?」
「あ、これ?」
鞄に着けているのは、ゲームセンターで冬吾がくれた、あの黒猫のキーホルダー。
「うん。このキャラ、あんまり知らんかったんやけど、ゲーセンで取ったんよ」
「え~、いいな~! それ、めっちゃ人気あるんやで! 赤いリボンのは数少ないんやって! 私はね、自分のってわかるように、ポケベルにつけてる~。落とさんように気を付けてな!」
「そうなんや、ありがとう! 気を付けるわ」
それから二人で会話をしながら教室に向かう。僕にも話し掛けてくれるなんて、ほんまにえぇ子なんやな。みんなに好かれるのも、わかる気がする。
「川上くん、じゃあね~! ……教科書、後でこっそり借りに行くな……!」
「うん。僕おらんかったら、机の上に置いとくから持っていってえぇよ」
「ありがとう~! ホンマに助かる!」
手を振りながら隣のクラスに入っていく吉田さんに、僕もつい手を振り返してしまった。
うん。コミュ力の高い人って、本当にすごい。教科書の貸し借りなんて、友達みたいでちょっと嬉しい。少し照れながら、僕も教室に向かった。
「……あれ?」
部活に行こうと鞄を手に取ると、昼休みにはあったはずのキーホルダーが見当たらない。
慌てて机の足元周辺を見回すが、どこにも見当らなかった。
確か、昼休みにお弁当を取り出した時にはあった。けど、その後は移動教室で、早めに食べて移動しようとバタバタしていたから、休憩が終わった後はちゃんと確認していない。
「夏希、どうしたん?」
「部活行かんの?」
冬吾と辰巳くんが声を掛けてくれたが、事情を話すと一緒に探すと言ってくれた。
「ちょっと遅れるって部長に言うてくるわ!」
「うん……、ごめん。ありがとう……」
「そんなん気にすんなって!」
「冬吾はバイトあるやろ? 気にせんと行って」
「いや、いつも早めに行ってるだけやから。時間は大丈夫」
「……ありがとう」
たかがキーホルダーに、こんなに必死になるなんてと、みんなに笑われるかもしれない。
でも、僕はどうしても探したかった。
(どこにいってもたんやろう……)
その後も教室のゴミ箱の中を探したり、ロッカーの中を探したり。
だけど、どこにも見当らない。
冬吾も落とし物で届いてないか訊いてくると言って、用務員室へと向かった。
「……あ」
(……もしかして、吉田さん……?)
一瞬、そんな考えが頭を過った。
吉田さんに限って、そんなこと絶対にありえへん。
でも、一瞬でもそう思ってしまうと、頭の中がぐるぐるとその考えでいっぱいになってしまう。
(……会って、訊いてみよう)
そのほうが絶対にいい。時間的には部活に行っているか、もう帰っていてもおかしくない。
でも、疑ったままは絶対に良くない。そう思い、僕は少し緊張しながらも、意を決して隣のクラスへと向かう。
そして、開いた扉の向こうに、その姿が見えた。
「……あの、吉田さ……」
だけど、そこで見たものは、僕の予想とは違っていた。
「いい加減にしいよ! それ、アンタのと違うやろ!」
「は? 私のやけど? 証拠でもあんの?」
僕の目には、見たこともない剣幕で怒る吉田さんと、一人の女子生徒。
そして、それを遠巻きに取り囲む数人のクラスメイトたちの姿。
「それ、川上くんのやろ? あんた、前にそんなん興味ないって笑ってたやん!」
「は? 何でそんなこと言われやなあかんの? 別に、可愛いから買うただけやし」
その生徒が手にしている物をよくよく見ると、それは自分が探していた黒猫のキーホルダー。
「あ、あの……。それ……」
思わず声を掛けると、全員の視線が一気にこちらに集中する。
そして、振り向いた女子生徒は僕を見ると肩をぎくりとさせた。
「……高橋さん。……それ、見せてもらっても、いい……?」
振り向いたその子は、一年の時に同じクラスだった子だ。
「は? 何で見せやなあかんの?」
「……それ、もし僕のやったら、リボンの裏に日付……、書いてあるから」
僕のその言葉に、その強気な表情が一瞬だけ強張った。
すると、僕の後ろから伸びた手が、そのキーホルダーをサッと掴んだ。
「あっ!」
「……書いてあるわ、日付」
突然現れた冬吾の手には、あの日貰った黒猫のキーホルダー。
怒気を含んだその言葉を聞いて、その場にいる全員の視線が彼女に向いた。
「──ッ! ……な、何よ、そんなん……! 男のくせに、気持ち悪い!」
高橋さんは冬吾の持つぬいぐるみを奪うと、窓の外に放り投げた。
「アンタねぇ!」
「あかん! 叩いたらあかんよ! 吉田さん!」
「でも……!」
僕が吉田さんを必死に止めている間に、高橋さんは自分の鞄を取って教室から飛び出してしまった。それを見ていたクラスメイトたちが、一斉に「あれはないわ」と非難する。
「……あれ? 夏希、冬吾も。どうしたん?」
事情を知らない辰巳くんが、廊下から教室を覗き込む。
「……辰巳くん、ごめん。僕、今日は休むな……。辰巳くんは、部活行ってきて……」
「え?」
「ごめん」
「え? ちょっと、夏希?」
せっかく手伝うと言ってくれたのに。
自分の情けない顔を見られたくなくて、僕は教室を飛び出した。
階段を駆け下り、外へと繋がる渡り廊下からキーホルダーが落ちているであろう場所を目指して上履きのまま走った。そして、花壇を壊さないように、一つずつ草をかき分けていく。
指先が葉で切れて痛みが走っても、制服が汚れても、ただ黙々と草をかき分ける。
「……夏希。もう止めとけって」
「……」
「夏希」
追いかけてきたのか、冬吾が宥めるように僕の名を呼ぶ。
「……なんで? あのキーホルダー、僕の大事なヤツやもん……」
自然と目の前が滲んでいく。声が震えて、思わず唇を噛み締めた。
「また同じの、買えばえぇやん」
「……嫌や。アレがえぇんやもん……」
ぼろぼろ零れる涙を手の甲で拭いながら、僕は汚れるのも気にせず、また草の根をかき分けてキーホルダーを探す。爪先が泥に塗れても、僕は探すのを止めなかった。
すると、冬吾は無言のまま僕の隣にしゃがんだ。
「……二人で探したほうが、早いやろ」
「……ありがとう」
その後も二人で黙々と探すが、ただ時間だけが過ぎていく。
少しずつ、日が落ちていくのがわかる。
「……あ!」
冬吾の声に顔を上げると、その手には黒猫のキーホルダーが握られていた。
「……耳んとこ、破けてもうてるけど……」
そう言って、申し訳なさそうに僕の手のひらにそれをそっと載せた。
右耳が枝に引っかかったのか、少し破れていたが、それは間違いなく僕の探していた物だ。
「ううん、嬉しい……! 冬吾、見つけてくれて、ありがとう……」
僕は思わず、それを両手でぎゅっと握り締めた。
他の人からすれば、どこにでもあるキーホルダー。
けれど、僕にとってこれは、友達に貰った、大切な……。
「……僕な。中学の時、いじめられててん」
始まりは、とても些細なことだった。
友達を揶揄っていた同級生に、注意しただけ。
それだけで、次の日から僕がいじめのターゲットになってしまった。
今まで仲良く話していたクラスメイトたちも、みんな、僕から離れていってしまった。
「やから、ここに来てほんまに楽しいし、冬吾とも話せるようになって、僕……。僕、ほんまに嬉しかった……。これも、冬吾と遊んだ記念やから、別のやと意味ないんよ」
キーホルダーをぎゅっと握り締め、そっと胸に当てた。
「……僕、おかしいんかなぁ?」
悲しくて、やるせなくて、声が震えてしまう。
顔を上げると、冬吾の顔が涙で滲んで見える。
きっと、今の僕は酷い顔をしているだろう。
「……こんなん大事にして、僕……」
「何もおかしないよ」
冬吾は俯いた僕を抱き寄せて、「夏希はおかしくない」と、宥めるように背中をそっと擦ってくれる。
小さい子どもに接するように、優しく、優しく。
辺りは夕日に照らされていて、こんな時間になるまでずっと一緒に探してくれていたんだと今さらながらに気付く。少し汗ばんだ制服と土の匂いに、僕は無性に胸が苦しくなって、その腕のなかで声を上げて泣いてしまった。
季節はもうすっかり夏で、少し遠くで、ひぐらしの鳴き声が響いている。
──十六の夏。
冬吾の存在が、僕のなかで誤魔化せないほどに大きくなっていた。
「えっ!?」
「……夏希! 声大きい……!」
教室の隅で、辰巳くんに慌てて口を塞がれる。そのままカーテンの裏に行くと、辰巳くんはそっとその手を離した。
「ごめん……。でも、……辰巳くん、先輩と……?」
「……うん、まぁ。昨日、告って返事もらえたから……」
「おめでとう! でも僕、二人はもう付き合ってるんやと思ってた……」
「えっ!?」
「辰巳くん、わかりやすかったし……」
昼休みのたびに一緒にご飯を食べていたし、たまに二人で帰っていたりするのを見ていた僕としては、交際していなかったという事実のほうが驚きだった。
「……朝から何してんの?」
冬吾がカーテンを覗き込み、秘密の会話は終了だ。
「あ、おはよう」
「冬吾、おはよう。辰巳くんな、先輩と付き合うことになったんやって」
「……まだ付き合うてなかったんか」
そう言って冬吾は、「まぁ、よかったやん」と辰巳くんの肩を叩いていた。
「……辰巳。彼女できたんやったら、今度の花火大会、二人で行くん?」
「あぁ~……。うん、そのつもりやけど……」
「……ふ~ん。……あ、行くんやったら俺のオススメんとこ教えちゃるわ」
「え? 何? なんで急に親切に教えてくれるん……? こわ……」
「……まぁ、要らんかったら別にえぇんやけど」
「うわぁ! ウソウソ! 冗談やって! 冬吾さま~! ぜひ教えてください!」
ワァワァと楽しそうな二人を眺めながら、僕もカーテンを直して席に着く。
今日は一学期の終業式。夏休みを前に、クラス全体がいつもより少し賑やかだ。
みんな、夏休みはどうしようかと相談していたり、毎日塾に行くと嘆いていたり。
そんなクラスメイトたちを横目に、僕は少しだけ休みが早く過ぎないかなとぼんやり考えていた。
「……夏希」
「あれ? 冬吾、どうしたん?」
全校集会も終わり、みんなで教室に戻る途中、後ろから声を掛けられた。
ぞろぞろと先を行くクラスメイトたちに見つからないように、冬吾は僕を柱の陰へと連れて行く。
「……夏休み」
「……? うん」
珍しく言い淀むその姿に小首を傾げると、冬吾は小さく深呼吸して僕を見つめた。
「……一緒に、花火見に行かへん?」
「え」
「……八月の最後の土曜日。その前に煙火のバイトも終わってこっち帰ってきてるから、一緒にどうかな、って……」
「行く! ……花火、冬吾と一緒に見に行きたい……!」
僕がそう答えると、冬吾はホッとしたように息を吐いた。
「じゃあ、また後で時間とか決めよら」
「うん!」
夏休みは会えないと思っていたのに、まさか誘ってもらえるとは思わなかった。
少し沈んでいた気分が、それだけで一気に晴れてしまった。他の子たちみたいにポケベルは持っていないし、お互い外だから公衆電話は使えない。
約束の花火大会は、八月二十八日。夏休み最後の土曜日だ。
きっと人も多いし、すぐには会えないかもしれない。
だけど、その後に書いたメモ書きが、僕にとって大切な物になるのにそう時間は掛からなかった。
「夏希~、明日の準備ちゃんと出来てる?」
「うん。もう着替えとかも詰めたし、あとは本くらいかなぁ」
夏休みに入り、僕たち家族は明日から父の実家に帰省する。
毎年のことながら、他のことはすぐに出来るのに、持っていく本だけが決まらない。
だけど仕方ない。だって、おじいちゃんたちの家の周りは田んぼばっかりで、あまり車も通らない。それに、夜になると虫の音やカエルの鳴き声、フクロウの声が聞こえてくる。
読書するのに、ちょうどいいBGMなんだ……。
母も笑いながら、「三冊くらいにしときよ」と階段を下りていく。
(……ん~、どうしようかな……)
推理小説は変わらず好きだけど、最近はホラーも面白い。でも、せっかくおじいちゃん家に行くのに、読書ばっかりもあかんかなぁ?
(そうや、今年は僕も先輩らみたいにネタ探ししてみよかな!)
そう思い立ち上がると、踏み出した右足の力が抜け、床に膝をついてしまった。
「うわ……、あぶな……」
(……小説書いてて、寝不足やったからかなぁ……?)
数年前からこういう症状が度々起こり、病院にも行ったが特に原因は見つからなかった。
違和感はあるが、それも一瞬だけですぐに戻ってしまうため、特に気にすることもなく過ごしていた。
明日のために今夜は早く就寝しようと、僕はノートを鞄に詰め部屋の明かりを消す。
けれど、今思えばその日から少しずつ、僕の体はおかしくなっていったのだと思う。
「なっちゃん、最近学校はどうね?」
台所から湯がいたトウモロコシと素麺を運びながら、おばあちゃんは僕の隣に腰掛ける。
僕の頭を撫でながら、「これも食べなぁよ」とお刺身を皿に取ってくれた。
農家としておじいちゃんと一緒に朝から農作業をしているその手は、僕よりも健康的で、優しくて、あったかい。
「先輩も優しいし、友達もおるから楽しいで」
おばあちゃんが準備してくれていた昼食を食べながら、僕は笑顔でそう答えた。
「おばあちゃん。心配せんでも、夏くん最近ずっと楽しそうに行ってるで」
「あら、そうね。それ聞いて、ばあちゃん安心したわぁ」
姉の言葉に、おばあちゃんはようやく笑顔を見せてくれた。
どうやら僕が心配させまいと強がっているように見えたのかもしれない。
素麺も、麵つゆと一緒に僕が去年美味しいと言ったささみと胡瓜を和えたピリ辛のタレも用意してくれている。姉の好きな野菜の天ぷらに、父の好きな巻き寿司に、母が好きな白菜のお味噌汁。
「なっちゃんが笑顔やと、ばあちゃんも元気出るからね」
そう言って笑うおばあちゃんの目尻には、とても優しい笑い皺。
学校に行けなくて家に籠っていた時も、おじいちゃんとおばあちゃんは何も言わずに僕を迎えてくれた。
「僕もね、おばあちゃんとおじいちゃんが笑ってたら、めっちゃ嬉しいで」
「んまぁ~! この子はもう……! ほんまに可愛い子やで」
力の限り抱きしめてくるおばあちゃんと、支えきれずに後ろに倒れ込む僕。
それを見て、お父さんと一緒にビールを飲んでいたおじいちゃんが楽しそうに笑っている。
また来年も、こんな風に家族みんなで過ごせたらいいなと、僕は心のなかで願っていた。
「あぁ~、この格好、変ちゃうかな……?」
花火大会当日の朝。何だか落ち着かなくて、髪型が気になったり、服装を確認したりしてしまう。
そして、冬吾に貰ったメモを何度も読み返す。
メインの花火は十九時半からだけど、出店は十六時から。だから一緒に見て回ろうという話になり、少し早めに会う約束をした。
「夏くん、花火行くんやろ? 帰りも人多いから気を付けてな?」
「うん。桜花ちゃんは? バイト何時からなん?」
「私は十六時からラストまでやで。この時期は花火終わってからが混むんよな~」
二つ上のフリーターの姉は、毎年この時期の人の多さに辟易した様子だったが、「まぁ、稼いでくるけど~」と半ば諦めモードだった。
「夏くん、駅まで歩いて行くんやったら、早めに出たほうがえぇよ」
「あ、そうやね。じゃあ、そろそろ行ってくる!」
逸る気持ちを抑えつつ、玄関を出て駅へと向かう。少し前までは憂鬱だったこの道のりも、途中で見かける中学校も、今となっては遠い過去の出来事のようだ。
今は全く気にならないし、高校に入ってから、毎日が楽しくなった。
(……これも、みんなのおかげやな)
そんなことを思いながら、僕は駅へと足を進める。
けれど、今日に限って道が工事途中で封鎖されていたり、そのせいで迂回して電車に乗り遅れたり……。
結局待ち合わせの最寄り駅に着いたのは、約束の十分前だった。
「どうしよ……、時間過ぎてまう……」
慌てて電車を降りるが、ここにいる人たちもきっと花火大会に向かうのであろう。
すでに浴衣姿の人がたくさんいて、なかなか前に進めずにいた。
(……冬吾、もう着いて待ってるんやろな……)
そんなことを考えながら階段を下りていくと、突然右足の感覚が無くなったのがわかった。
「──あ……」
気付いた時には、もう遅かった。
階段を踏み外した僕の足は、踏ん張ろうとしても力が入らない。
頭や背中を階段にぶつけながら、ぐるぐると視界が回る。
下まで転がり落ちると、激しい痛みに息が出来ない。
「──え!? おい!? どうしたんっ!?」
「ちょっと大丈夫!? 誰か! 急いで救急車呼んでっ!!」
周りの人の叫ぶ声が聞こえる。
遠のいていく意識の中で、ふと、冬吾の顔が浮かんだ。
(……今頃、僕が来るの、待ってるんかなぁ……)
遠くで、開始の合図である花火の音が聞こえる。
(……ごめんなぁ)
二人で花火を見るの、楽しみにしてたのに。
(……約束、守れやんで、ごめん……)
遠のいていく意識のなかで、唯一、それだけが心残りだった。
*****
「夏くん、着いたよ~」
「あ、桜花ちゃん、ありがとう」
助手席のドアを開け、姉が用意してくれた車いすに座り直す。
「また仕事終わったら連絡するな。いつものとこでえぇんよな?」
「うん、ありがとう! 気を付けてな!」
姉の車を見送り、僕は病院の受付へと車いすを手で漕いでいく。
今日は二カ月に一度の診察の日。もうこの生活にも、だいぶ慣れた。
──十年前の、あの夏の日。僕の右足は動かなくなった。
目が覚めた時にはもう病院のベッドの上で、あの夏祭りの日から、すでに一カ月が経過していた。
僕の意識が戻ったと知らせを受けて、父も、母も、姉も、目の下に隈をつくり、涙をボロボロ流しながら病室に駆け込んできたのを覚えている。
目が覚めてからも、検査とリハビリの毎日。
だけど、どんなに頑張っても、僕の右足の感覚はほとんど戻ってはこなかった。
「夏希、学校なんやけど……。先生がな、留年になるって」
「……そっか」
何となくわかってはいたけど、その現実を突きつけられると、やっぱりショックだった。
「それでな。お父さんと桜花とも話したんやけど、お父さんの単身赴任先に、みんなでついて行こうかって……。家もバリアフリーちゃうし、何かと大変やろ? もしできるんやったら、そこで家探して、今の家、引越そうかと思うんやけど……」
「……うん。僕も、そっちのほうがいいかも……」
「……わかった。じゃあ、お父さんにも桜花にも言うとくな」
「うん、お願い」
それからほどなくして、運良く家も見つかり、僕たちは家族全員で父の赴任先に引っ越した。
住む家は、事情を知った父の会社の人が紹介してくれた。前の家主が家族のためにバリアフリーにリフォームしていて、僕にとっても家族にとっても助かる設計になっていた。
紹介してくれた父の会社の人に、後日お礼の手紙を書いたら、とても喜んでくれたらしい。
だけど僕の心は、家族に要らぬ負担を強いてしまったという罪悪感でいっぱいだった。
(……結局、あれから冬吾にも、会えずじまいやったな……)
この十年で変わったこと。
高校生でも、大学生でも、携帯を持つのが当たり前のようになったこと。メールでいつでも相手と連絡が取れ、仕事がしやすくなった。
辰巳くんや先輩たちとは、たまにだが、今でもメールで交流は続いている。
みんな、何かしら創作に関わる仕事に就いていた。
そして僕も、まだまだ有名とは言えないが、小説家としてデビューし、細々と生計を立てていけるようになった。
姉もこちらで結婚し、今は近所で暮らしている。義兄もとても優しくて、僕を本当の弟のように可愛がってくれる。僕もつい頼りにしてしまうので、桜花ちゃんはよく拗ねているけど。
両親は父の転勤先に母が付いて行き、僕はあの家で一人暮らし。両親は僕を心配していたけど、トイレもお風呂も一通り自分でこなせるようになったし、料理も得意になった。
何もかも諦めていたあの頃からは想像もつかないような、僕の今の生活。
「──では、二カ月後にまた予約を入れておきますね」
「はい、お願いします。ありがとうございました」
診察を終えて病院を出ると、僕は目的地へとのんびり車いすを漕いでいく。
ほとんど家から出ない僕の、貴重な散歩の時間。
緑が青々として、風が夏の匂いを運んでくる。
目的の場所に着くと、自動ドアが開き、ふわりとコーヒーのやさしい香りに包まれる。
車いすでも簡単に入店できるバリアフリーの扉に、広めの通路。そして、いつも優しく迎えてくれるマスターの姿。
僕がこの地に越してきて、初めてできた行きつけの喫茶店。
「こんにちは」
「おや、いらっしゃい」
窓際に座る常連さんたちにも軽く挨拶をして、僕はゆっくりと空いている席に向かう。
姉が迎えに来るまでの時間、僕はいつもここで過ごしている。
のんびり新聞を読んでいるおじいさんに、ケーキを食べて頬を緩めている親子連れ。店内に流れるこの優しくて温かい雰囲気が、僕はとても気に入っていた。
「夏希くんは、今日もナポリタンかな?」
「はい! お願いします!」
ここに来る時は、必ず注文するナポリタン。
初めて食べた時に、あまりの美味しさにもう一皿注文してしまったくらいだ。
次は違うものを注文しようと思うけど、やっぱりここに来ると食べたくなってしまう。
毎回食後に注文するメロンクリームソーダも、マスターがたまに載せてくれる半熟の目玉焼きも、本当に美味しくて僕のお気に入りだ。
「夏希くん、来週の祭りは行くのかな?」
「……祭りですか?」
ナポリタンを食べ終え、バニラアイスが程よく溶けたメロンクリームソーダを飲んでいると、マスターが小声で尋ねてくる。
「今のところ、行く予定は……」
そう言って首を横に振ると、マスターはそっと券を二枚取り出した。
「実はね、車いすの席を二枚買ったんだけど、千代子さんの体調が良くなくてね」
「えっ? 大丈夫なんですか……?」
千代子さんはマスターの奥さんで、僕と同じ、車いすで生活している。
この喫茶店を知ったのも、病院で知り合った千代子さんが教えてくれたからだ。
「ただの風邪だったから今のところ大丈夫だけど、二人とももう年だからね。無理はしないでおこうかって。勿体ないから、夏希くんにどうかなと思ったんだけど……」
マスターのその寂しそうな顔に、僕は思わず「行きます」と答えてしまった。
「……夏くん、こんな良い席、ほんまにお金払わんでえぇんかな……?」
「うん……。払うって言うたけど、受け取ってもらえやんかったから……」
僕たちがいるのは、マスターが奥さんの千代子さんと毎年予約しているという会場の、車いす専用の観覧スペース。他の席よりも広々としていて、テーブルまで準備されていた。
「早めに来たけど、やっぱり人多いね」
「うん。でも、みんな楽しそう」
時計の針はまだ十五時を回ったところ。花火が上がるまでまだ時間がある。桜花ちゃんがせっかくやからと、出店でいろいろ買ってくると言い、僕はその場で待つことに。
このスペースにも、車いすの人たちがちらほらと集まり始めていた。
周囲を見回すと、浴衣姿のカップルや家族連れ、みんな笑顔でこの場を楽しんでいる。
それを眺めていると、十年前のことを思い出す。
ずっと楽しみにしていたのに、結局、挨拶もせずに引越してしまった。
あの日の冬吾は、ずっとあの約束の場所で待っていたのかと思うと、胸がチクリと痛み、ただ後悔だけが残っていた。
「……あ」
ふと顔を上げると、視線の先に大きな川とそこで準備をしている花火師さんたちの姿が小さく見えた。
その姿に、冬吾の姿を重ねてしまう。
(……今頃、何してるんやろ……)
この先、僕がそれを知ることはないのだと思うと、また少しだけ、胸がチクリと痛んだ。
「夏くん! もうすぐ始まるで!」
「あ、うん」
桜花ちゃんの声にハッと我に返る。とっぷりと日が暮れ、周りの席にいる人たちも、今か今かと空を見上げていた。
そして、一瞬の静寂の後、夜空に一筋の光が上っていく。
それは数秒の後に、ドーンと音を上げながら夜空に光り輝く大きな花を描いた。
「きれい……」
次から次に上がる光の大輪。眩い花が咲き、きらきらと光の粒が空から降ってくる。
あまりにも幻想的な光景に、周囲からは感嘆の声が上がっていた。
(……冬吾も夢、叶えてるんかなぁ……)
花火、一緒に見たかったな。
七月の終わり。
夜空に咲く色鮮やかな花々は、僕にそんな束の間の夢を見せてくれた。
「亘さん、今日はほんまにありがとうございました!」
無事に家に到着し、義兄である亘さんに送迎の礼を伝えると、「気にしなくていいのに」と、目尻を下げて笑った。車いすで玄関まで行くと、あることに気付く。
「あれ……? うそ……! 無い……?」
鞄から鍵を取り出そうとすると、どこにも鍵が見当たらない。
慌てて鞄をひっくり返すが、あるのは財布と携帯電話。それと、ハンカチにポケットティッシュ。服のポケットにも何も入っていない。
「夏希くん、どうした?」
「何? なんかあったん?」
玄関まで一緒に来てくれた亘さんと、車のシートを直していた桜花ちゃんが、心配そうに尋ねてくる。
「どうしよう……。家の鍵、落としてもうたかも……」
「鍵って、あの猫のキーホルダーの?」
「うん……」
二人はライトを照らしながら車内や車体の下を探してくれるが、見つからない。
「……やっぱり、花火見た場所ちゃうかなぁ……?」
「今は帰る人でいっぱいだと思うし、もうしばらく待ってから探しに行こうか」
「……うん、ごめんなさい……」
こんな遅い時間に、二人に迷惑を掛けてしまった。
申し訳なくて下を向くと、桜花ちゃんは僕の背中を優しく擦ってくれる。
「何言うてんの! 大丈夫やって! 絶対見つかるよ!」
「そうそう。明日は二人とも休みだし、気にしなくていいよ。人がいなくなってから撤去作業もしてると思うから、落とし物がないか係の人に訊いてみよう」
そう言いながら、亘さんはもう一度僕の車いすを車まで押してくれた。
しばらく様子を見て、人の波が落ち着いたところでもう一度花火大会の会場へと移動する。
遅い時間だが、まだ屋台の撤去作業をする人や、周囲のゴミをまとめている人がたくさんいた。
「猫のキーホルダーが付いた、鍵、ですか……」
「はい。届いてませんか?」
僕たちが座っていた観覧スペースのテーブルやイスを片付けているスタッフの人に尋ねてみると、もう少し先に花火大会本部の運営スペースがあり、そこに集められていると教えてくれた。
それを聞き、桜花ちゃんが先に訊きに行ってくれる。亘さんは僕の車いすを押しながら、その後をゆっくりと付いて行く。
「夏希くん。心配しなくても、ちゃんと見つかるって」
「……うん」
口数の少ない僕を心配したのか、亘さんは明るい声で励ましてくれた。
そして、一際大きなテントが張られた本部のスペースに着くと、ちょうど同じタイミングで桜花ちゃんが顔を出した。
「夏くーん! あった! 鍵あったよー!」
「えっ!? ……ほんまに!?」
満面の笑みで手を振る桜花ちゃんのところへ行こうとすると、その後ろから背の高い男性が顔を覗かせる。
その姿に、一瞬だけ時が止まったような気がした。
「……夏希? ……夏希やん!」
桜花ちゃんよりも先に僕の傍へ駆けてくる人物を見て、僕の胸がバクバクと音を立てるのがわかった。
周囲を照らす照明が、近付いてくるその顔をハッキリと照らし出す。
「……冬吾?」
「うわ……、ほんまに……? めっちゃ久し振りやん……」
地元から遠く離れたこの場所で、まさか再会するとは思わなかった。
驚きのあまり、二人でしばらく無言のまま見つめ合う。
「……夏くん、知り合いなん?」
僕と冬吾の顔を交互に見ながら、桜花ちゃんと亘さんはおずおずと口を開いた。
「……あ、うん。……高校の、同級生……」
「えっ!? ほんまに……!? 偶然会えるなんて、すごいやん!」
「すごいね。そんなことあるんだ……」
桜花ちゃんと亘さんは驚いた様子で冬吾に挨拶し、少しの間だけ、僕と冬吾を二人きりにしてくれた。
「ビックリした……。夏希と会えるとは、思ってなかったから……」
そう言って笑う冬吾は、高校の時よりもがっしりとして、何だか知らない人みたいに見えた。
「……夏希が迷惑やなかったら、今度、メシでも行かん?」
「……あ、うん。……僕も、話したい……」
「よかった……」
二人で話していると、遠くから「河原さーん」と呼ぶ声が聞こえ、冬吾は慌てた様子で胸ポケットから出した名刺に、さらさらと何かを書いて僕に手渡した。
「これ、俺の番号。いつでもえぇから電話して」
そう言って、冬吾は呼ばれた方に駆けて行く。
その姿がふっと暗闇に消え、僕はそこでようやく肩の力を抜いた。
(……冬吾。……冬吾に会えた……)
何だかまだ現実味がなく、僕は貰った名刺をただひたすらに眺めていた。
『え? 冬吾と会うたん?』
「……うん」
花火大会での出来事を辰巳くんにメールで送ると、なぜか電話が掛かってきた。
時刻は深夜一時。執筆の合間にメールでちょっとした雑談のやり取りはするが、わざわざ電話を掛けてくるのは珍しい。
『……それで? 電話はもうしたん?』
「……いや、まだしてない……」
『……てかさぁ、それ、一週間前の話なんやろ?』
「……うん」
そう。花火大会は、一週間前の出来事。
名刺を眺めてばかりで電話をする勇気がなく、今日までズルズルときてしまった。
『夏希もさぁ、気まずいとか緊張すんのはわかるけど、相手から連絡来んかったら不安になるやろ? ちゃんと掛けちゃってよ』
「……うん」
『じゃあ、今から掛けてみ』
「えっ!? 今から!?」
あまりに突然の提案に、僕は思わず大きな声を出してしまう。慌てて口を押さえるが、僕は一人暮らし。ここが一軒家でよかった。
「でも、夜遅いし……。こんな時間に、迷惑やん……」
『そんなん言うてたら、夏希、一生掛けへんやろ』
「う~……」
僕の性格をよく知っている辰巳くんは、『履歴だけでも残ってたら安心やろ』と言って、早々に僕との通話を終了した。明日どうなったか報告をするのを忘れずにと、僕に念を押して。
(……そんなん言われても……)
名刺に書かれた、少し右上がりの字を眺めながら、僕は少しだけ昔のことを思い出していた。
また、あの頃みたいに話せる? でも、そんな自信ないし……。
「……三回鳴って繋がらんかったら、切ればえぇし……」
そう誰に向けたものでもない独り言を呟き、そっと携帯電話の番号を押していく。
プルルル……、プルルル……、と鳴り、あともう一回、と息を吐いた瞬間、ピッと着信音が途切れた。
『……もしもし?』
受話器越しに聞こえた少し低い声が、僕の耳を震わせる。
『……もしかして、夏希?』
僕の名前を呼ぶその声に、なぜだか急に胸が締め付けられるように苦しくなって、自然と涙が溢れた。
小さく深呼吸し、その声に応える。
「……もしもし? ……冬吾?」
『……うん。……何? 泣いてんの?』
「……ううん。泣いてないよ」
それからほんの短い時間、冬吾と会話を交わす。
何度も僕を優しく呼ぶその声に、少しの間だけ、昔に戻れた気がした。
『じゃあ、冬吾とメシ行くん?』
「うん」
電話を掛けたあの日から、僕たちはどちらともなくお互いに連絡を取り合うようになった。
そしてトントン拍子に話が決まり、後日、冬吾と二人で会う約束をしてしまった。
『……そのわりには、あんま嬉しそうちゃうな?』
「……だって、十年振りなんやで? それに僕、車いすやし……」
再会したあの日。冬吾が僕の足を見て、一瞬だけ悲しそうな表情を浮かべた。
それに、僕が一緒だと出掛ける先も限られるし、移動は難しい。
『……冬吾は、そんなん別に気にせんと思うけど……』
「……でも、僕が気を遣われるの嫌なんよ。だから、僕の家で食べよって……」
『へぇ~……、って!? えぇ!? 家!? 夏希の家に呼んだん……?』
「え? うん……。おかしい?」
『……いや、えぇと思う……』
辰巳くんのあまりの狼狽え振りに、僕が何か変なことをしたのかと驚いてしまった。
まぁ、お店で食べたほうが美味しいやろうけどね。僕も一応、料理は出来るんやで。
そう言うと、受話器越しに『そういうことちゃうねん……』と、溜息交じりの呆れた声が聞こえてきた。
「いらっしゃい」
「……おじゃまします」
そして約束の日。冬吾はお酒と、なぜか高そうなケーキを手土産として持ってきてくれた。
そんなん気にせんでもえぇのにとも思ったが、ケーキは好きだから、素直に嬉しい。
ダイニングに案内すると、四人掛けのテーブルの上には朝から準備していた料理が並ぶ。
「……あ、玉子焼き」
「うん。冬吾、僕ん家の玉子焼き好きやったなと思って、お母さんに教えてもらった」
ケーキを冷蔵庫に入れ、緊張しながらもテーブルへ向かうと、冬吾はなぜか唇を噛み締めながら玉子焼きを凝視していた。
「好きちゃうかった?」
「……いや、めっちゃ好き」
「それやったら、作ってよかったわ」
この会話がきっかけで、僕たちの間にあった少しぎくしゃくした空気が、和らいだ気がした。
「夏希はこっちに来てから、何してたん?」
冬吾が持ってきてくれたお酒を呑みながら、僕たちはお互いの空白を埋めるように会話を続ける。
電話で話した時に、なぜか「夏希、酒飲めるん?」と驚かれたけど、冬吾より誕生日も早いのに、今さら何を言っているのか。
「こっちでリハビリしながら通信制の高校入って、……電話でも言うたけど、声掛けてもらって小説書いてる」
応募した作品で入賞し、運良く担当編集者が付いてくれた。
それから毎月、雑誌で短編の小説を載せてもらっている。感想の手紙を送ってくれる読者の方も何人かいて、有り難くも短編集を出せるようにもなった。
「それな。ほんまに夢叶えたんやなと思って、びっくりしたわ」
「うん。自分でもたまに、これって現実なんかな、夢とちゃうかなって思うことあるもん」
あの日初めて言った、将来の夢。
まさか本当に叶うなんて思っていなかったけど、車いすの生活になって、家族や先生たちに助けてもらっているのに、自分がこの世界で一人ぼっちになった気がして苦しかった。
そんな時、現実逃避するように、今まで以上に小説に夢中になった。
頭の中が空っぽになるまで書いてみようと、毎日、毎日、朝から晩までそれに没頭した。
その中の一つを、意を決して応募してみると、まさかの入賞で今の仕事に繋がっている。
「冬吾も夢、叶えたもんな」
「……まぁな。しんどかったけど、やっぱ毎日おもろいわ」
花火師になりたいと言っていた冬吾も、高校卒業後に煙火会社に就職していた。
冬吾が想像していたよりも年中忙しいそうで、遠方に花火を上げに行く事もあるらしい。
「この前見た花火の中に、冬吾が作った花火もあったんやな」
「今度はちゃんと、目に焼き付けといて」
「うん! わかった!」
それを聞いて、冬吾は目を優しく細めて笑った。
その後も、冬吾の会社の尊敬している先輩たちのことや、自分に懐いているけど騒がしい後輩くんの話。僕の家族のことや、喫茶店のマスターたちのことをたくさん話した。
お互いにお酒も入っていたせいか饒舌になり、また昔に戻ったようで、僕はそれが嬉しかった。
この日をきっかけに、冬吾も僕も、都合が合えば僕の家で一緒に食事をするようになっていた。
「なぁ、夏希。これ見て」
夕食後、冬吾がテーブルの上に雑誌を広げる。
「わぁ! めっちゃきれい……」
その雑誌には紅葉狩り特集として全国の絶景スポットが掲載されていた。
「……ここな。車で行けるし、車いすでも通れるらしいんやけど……」
冬吾の長い指が、ある場所を指し示す。ここからは車で一時間ほどの距離。車いすで利用できるカフェや宿の情報も載っている。
「……一緒に行かん?」
その顔と仕草が、一瞬だけ、あの日の冬吾と重なった。
「……うん。行こう、かな」
「……ほんまに? じゃあ、予約とかしても、……大丈夫?」
「うん。僕、紅葉狩りとか行ったことないから、楽しみ!」
その言葉を聞いて、冬吾の表情が安堵に変わる。それから冬吾の休みの日に合わせてカフェの予約をし、遅れてはいけないと僕も原稿を早急に仕上げて提出し、あれよあれよという間に紅葉狩り当日になってしまった。
少し早めに冬吾の車で出発し、一時間ほどのんびりとドライブを堪能する。
助手席の窓から見える景色も、もうすでに真っ赤に色付いていて、ずっと眺めていたくなる。
「夏希、疲れてへん?」
「え? 全然やで! めっちゃきれいで、びっくりしたわ……!」
車から降り、冬吾に車いすを押してもらいながら目的のカフェへと向かう。
頭上を見上げると、雲一つない青空に、紅葉のトンネルが出迎えてくれた。
「晴れてよかったな」
「うん!」
予約したカフェで軽食を頂いた後、目的地である紅葉スポットへと向かう。
もうすでに観光客がたくさんいて、みんな感嘆の声を上げながら写真を撮っていた。
それに、赤と黄色に色付いた紅葉の絨毯。目に映るものすべてが、特別なものに見えた。
眺めていると、ひらひらと、僕の膝に紅葉が一つ落ちてくる。
それをそっと手に取り、今日の記念にと手帳に挟んだ。
「持って帰んの?」
「うん」
後ろを振り返ると、冬吾が優しく笑っている。
何だか目に映るもの一つ一つが嬉しくて、愛しくて、今日のこの日を忘れないようにと、僕はその目に焼き付けた。
「そういえばさぁ。花火大会の日、よく僕やって気付いたね?」
僕が乗る車いすを横に付け、冬吾はベンチに座り、途中で買った焼き立てのお団子を二人で頬張りながら小休憩。あったかいペットボトルのお茶が、少し冷えた体を和らげてくれる。
「暗かったし、僕らが元々住んでたとこと、かなり離れてたやん?」
「……昼間にな、遠目で見かけたんよ。俺も、まさかなとは思ってたんやけど。夏希の姉ちゃんが来る前に、たまたまあの猫のキーホルダー届いて……。ここに日付書いてあるの見て、確信した」
そう言いながら、冬吾は僕の胸ポケットに入れた黒猫の赤いリボンを指差した。
少し困ったように笑うその顔に、胸の奥がぎゅっと苦しくなる。
「俺な、ずっと後悔してた」
その言葉に、僕は何も言えず冬吾の顔を見つめる。
「……あの時、夏希が約束すっぽかしたと一瞬でも思った自分が許せんくて。……けど、学校行ったら知らん間に夏希が入院してて、そのままずっと、来うへんようになって……。俺が夏祭りに誘わへんかったらって。……俺が迎えに行っとけば、夏希が怪我する事もなかったし、足も動いてたんちゃうかって、ずっと……」
「それは違う! それは違うで、冬吾……!」
思わず冬吾を引き寄せ、力いっぱい抱きしめた。
「僕な、足がおかしいなっていうのも、気付いてた。病院でも何も見つからんかったし、疲れのせいやろって思ってたから、あんまり真剣に病院にも行かんかったんよ。倒れたのも、全部自分の不注意のせいや」
胸の中で声を殺して泣く冬吾を見て、胸がズキズキと痛みだす。
僕はずっと、自分のことばかり考えて生きてきた。だからこうやって、冬吾がずっとあの夏のことを後悔しているのも知らないまま、長い時間が過ぎてしまった。
こうやって知らない土地で再会できたのも、何かの巡り合わせだったのかもしれない。
「冬吾が泣くん、初めて見た」
「……俺もこんなに泣くん、初めてやわ」
笑みを浮かべた拍子に、冬吾の目から涙が一筋、その頬を伝っていく。
それが何だか無性に愛しくて、指でそっと拭いとる。
「また会えて、ほんまに嬉しい」
そう言いながら、冬吾は僕をぎゅっと抱きしめた。
それに応えるように、僕も抱きしめ返す。
再会してから三カ月。涼しくなった風が、僕の頬の熱を冷ますように優しく撫でていった。
「どうしたらいいと思いますか……?」
手元にあるカップを意味もなくなぞり、先日の出来事を辰巳くんに相談した。
『……いや、なんで敬語……?』
「なんとなく……」
あの紅葉狩りの帰り、冬吾に十一月にある花火大会に来てほしいと言われた。
真剣な表情で手を握られ、ろくに返事も出来なかった。
でもまた桜花ちゃんと亘さんに送ってもらうのは気が引けるし、車いすだし……。
『……ごめんやけど、親友のオレに相談するってことは、背中を押してほしいってことやと思うねんな』
辰巳くんは『まぁ、親友やから頼りたくなるのもわかるけど』と、おどけて言う。
『単刀直入に訊くけど、夏希は冬吾とどうしたいん?』
「……僕、は……。それに、車いすやし……」
『……冬吾はそんなん気にするような性格ちゃうやろ。……あんな。言い淀むってことは、もう自分のなかで答えは出てるんとちゃうかなぁ? あとは、一歩踏み出す勇気がないから、誰かに背中を押してもらえばえぇだけなんやと思うけど』
自分のなかで、答えは出ている。
それを聞いて、心のなかにあったモヤモヤがすっと晴れたような気がした。
『まぁ、いつでもこの頼れる親友が聞いてあげるから、頑張ってきたら?』
「……うん。ありがとう」
小さな声で「辰巳くんが親友でよかった」と呟くと、「そういうことはもっと大きい声で言ってくれる?」と笑われた。
十一月。今日は季節外れの花火大会が開かれる日。
駐車場はすでに埋まっていて、桜花ちゃんと亘さんは車いす専用の観覧席に僕を連れて行ってくれる。
「桜花ちゃん、亘さん。ほんまに、ありがとう……」
「気にしやんでえぇよ」
「そうそう。僕も久し振りに桜花ちゃんとデートしてくるから」
そう言った亘さんは照れた桜花ちゃんに軽く叩かれていたけど、二人は笑顔で出店の方へと歩いて行く。仲睦まじい姿を見送り、僕はブランケットに包まりながら花火が上がるのを待っていた。
そして、十九時半。一筋の光が夜空へ上がり、一輪の花火がその空を光で彩る。
それを合図に、次々に上がっていく色鮮やかな大小さまざまな光の花。
周囲から歓声が上がり、大きな花火が上がるたびに拍手が起きる。
見上げた夜空から、まるで星が降ってくるように花火が線を描いて辺りを照らす。
そして僕は、ちらりと腕に嵌めた時計を確認する。
『二十時十五分。その時間に、世界で一番大きい花火に挑戦するんよ。絶対に成功させるから、見に来てほしい』
あの日、冬吾が真剣な表情で僕に伝えてくれた言葉。そして……。
『高校の時からずっと、夏希のこと忘れられやんかった。俺と、付き合ってほしい』
返事はその時に聞かせてほしいと、僕の目を見て言ってくれた。
カチリと、時計の針が十五分を指す。
その時、一際大きな光が、龍のように空高く舞い上がっていく。
一瞬の静寂の後、大きな音と共に冬の夜空に咲いた、一際大きな白菊の花。
それはきらきらと光を帯びて、一つ、二つと、色鮮やかな小さな花が、夜空一面に咲き乱れる。
(……すごい。ほんまに、すごいとしか、よう言わん……)
それをきっかけに、次々と大きな花火が咲いては散り、咲いては散り。
まるで春の嵐のように、目にする者を虜にしていく。
そして二十時三十分。最後の花火が、この冬の空を惜しむように、大輪の花を飾った。
観客の大歓声と拍手を聞いて、僕はなぜか無性に冬吾に会いたくなった。
「夏希……!」
「冬吾!」
約束通りに車いすのスペースで待っていると、息を切らせた冬吾が駆け寄ってくる。
もう肌寒いのに、その顔からは汗が流れていた。
「花火、見てくれた?」
「……うん。めっちゃキレイやった……!」
冗談でもなく、それは僕が見た中で一番きれいで、息を呑むほどの美しさだった。
「十年前の約束、ちゃんと守れたわ」
それは、十年前に約束した、僕らの夢。
『僕も冬吾が作った花火、見てみたい』
あの頃からずっと、僕を想っていてくれていたなんて……。
「……冬吾、僕な。……僕もな、高校の時からずっと、冬吾のこと好きやったんやで」
僕の言葉を聞いて、冬吾は目を見開いた。
「たぶん、僕のほうが先に好きやったと思う……」
そう付け加えると、その目に少しずつ涙が溢れるのがわかった。
「……知ってる? 俺ってけっこう、一途でえぇ男やと思うんやけど……」
「うん。……それも、十年前から、知ってた」
街灯が、薄っすらと涙の膜を張るその瞳を、きらきらと反射させる。
その瞳がビー玉みたいにきれいで、一瞬で僕の心を、あの初夏の日に引き戻してくれた。
2025年11月23日の文学フリマ東京41
小説合同誌サークル「コトノハギルド」
『一生に一度、運命の恋/十年越しの約束』がテーマの合同誌に寄稿した短編小説です。
初めて合同誌というものにお誘い頂きまして、必死に書き上げた思い出……。
また余裕が出来たら自分でも挑戦してみたいなと、秘かに思っていたりします。




