七 接触 ③
この日はただの様子見のつもりだった。もし何ものかが取り憑いていれば、さほど時間をかけずに正体を現すだろうと考えていた。だが効果は予想よりはるかに早く表れた。言葉遣いこそ従前どおりではあるものの、声に妙な力が込められている。額に汗を浮かべては喉もとを手で掻きむしろうとする仕草もはじめた。
もっともラテン語の祈祷文を嫌がるという一点のみをもって、いわゆる悪魔憑きだとは判断できない。経緯が経緯だけに、単にキリスト教を嫌悪している可能性の方がはるかに高いからだ。平服のうえ神父と名乗らなくとも、雰囲気や首にかけたストラや祈祷書で朧気に推測したとも考えられる。メイヴが喋っているのもイタリア語だ。より明確な証拠を見せてもらわなければならない。リベラは懐から十字架を出し、ベッドの上で掲げた。
「それをしまって、早く、しまって。早くそれをしまえ」
すると途中から口調が荒々しくなり、声こそ少女のもののままでありながら言葉はフランス語に変わる。顔には嫌悪の相が表れていた。シモーネの報告は、聞きまちがいでも偶然でもない。直に耳にして確認できた。それでもリベラは敢えて訊きかえす。手の込んだ、たちの悪いいたずらの可能性も残っている。
「今なんと言った。ふだん使っていないせいか、フランス語はいまいち慣れなくてね」
ところが相手の反応は、そうした疑念を即座に打ち消すものだった。信じられないことに、ラテン語で答えを返してきたのである。
「だったら、貴様が分かりやすい言葉で話してやろう。手に持っているそれを早くしまえ、と言ったんだ」
その場にいたメイヴ以外の三人が、揃って息を呑む。シモーネとキアラは、聞き覚えのない言葉に驚いたに違いない。リベラはといえば、ひとり別の理由で戸惑っていた。たしかに施術の中で相手が習得した経験のない言語を操ったことは過去にあった。ただあたかもこちらの考えを読むように、さらに古代語を操ってみせるとは予想だにしていなかった。危うく動揺を表に出しかけたのをどうにか繕い、ベッドを見おろしてみせた。
「お前がそう言うのなら、しまってやろう」
「ありがたい。それにしても随分と早く気づいたな」
口にしたラテン語は文法や単語、格変化いずれもきわめて正確だ。とはいえ相手が示した異常はまだそれだけである。苦しみ方も大したものではない。リベラはメイヴの口から出る言葉ひとつひとつ、表情に注意を払いながら話を続けた。
「何に気づいたというんだ」
「この俺が潜んでいることにさ」
「お前のような奴がどこに潜んでいるか、私たちには分かっている」
「そうか。そこにいる医者だな。このあいだ娘の身体をじろじろ眺めていやがった」
「しかし私とこの言葉で会話ができるとはただ者ではないな。念のため訊いておこう。お前は何だ」
「教えてやるものか。名前を聞きだして俺を追いだそうって腹だな。その手には乗らんぞ。貴様が想像しているとおりの奴、とでも答えておくか」
小手先の鎌かけに相手はつゆも怒らず、不気味にも低い声であざ笑った。悪魔憑きの中でも本能的に名を明かすのを拒否するのではなく、これまで何度もエクソシストと対峙してきたかのように振るまう者がいる。メイヴに取り憑いているのは、その典型例だった。大抵は一筋縄ではいかない、相当に厄介な相手になる。この時点でリベラはメイヴが〝本物〟であると直感した。この日、儀式をはじめる前に提示した三つの条件のうち、一つはすでに要件を満たしている。残り二つも当てはまれば直感は揺るぎない事実の断定へと変わる。
「それは困るな。どうにか口を割ってもらわないと」
リベラはかねてから用意していた、ほとんど形状の等しい小さな瓶をふたつ鞄から取りだした。それぞれは蓋が円か四角かの違いしかなく、前者にはただの水道水が、後者には聖水が入っている。聖別されたものを嫌がる性質を利用し、中身を正確に当てられるかどうかを試そうとしていた。リベラは迷いなく、蓋の円い瓶を選んでベッドに近づける。
「何のつもりだ。俺を試しているつもりか。まだ疑っているのか」
だが、取り憑くものの様子は変わらない。聖水瓶を目にしたからには、中身も本物の聖水と思うはず。にも関わらず、ほとんど間を置かずに真贋を言いあてた。演技をしている通常の人間が二者択一のやまをかけて当たったようには見えない。リベラは背に汗が流れるのを感じつつ贋物を後ろにあるテーブルの上へ置き、今度は蓋が四角いもう一つ瓶を手に取ると、途端に相手は顔色を変えて再び苦しみだした。
「その汚い水を引っこめろ。貴様の持っている薄汚い水を」
中身はこちらの方が本物の聖水である。苦しみ方は十字架のときの比ではなく、枷と擦れて肌に痣ができるほど激しく両手足をばたつかせた。その力は、まさに少女の身体が出されるものとは思えないほど強かった。
「止めろ。苦しい、灼けるようだ」
しかも本当に灼けるように急にその周囲が熱くなり、皮膚には火傷のように火ぶくれが浮かびあがる。それを見てリベラは聖水瓶を足下に置いた。たちまち熱が引き、肌もはじめから何もなかったかのように元に戻る。手足の動きも止め、目に怒りを込めてリベラを睨みつけた。
「賢明な判断だ。下手をするとこの娘を傷つけちまうだろうからな」
「そうだな。お前に人質を取られている以上、無理は出来ない」
聖水を引っこめたのは、この日は本格的な治療は行わないと決めていたためだけではない。取り憑いたものが本当に被術者の身体を傷つける場合があるのだ。メイヴがキリスト教徒でないだけに、慎重を期す必要もあった。無理をせずとも、この時点で三つある条件のうち二つは該当している。試していないのは残りの一つ。その確認に相手が乗ってくれるか否か内心では思案し、密かに手をこまねいているうち、ありがたいことに向こうから話を振ってきてくれた。
「貴様はもう俺が何者か、分かっているんだろう。なぜこんな真似をする」
「まだ確信が持てないからさ。もしよければ証拠をみせてくれないか」
「何を知りたい。世界で十三番目に深い湖でも教えてやろうか」
「そんなことは人間でも辞典を引けば覚えられる。私が持ってきた鞄、この中に何が入っているか分かるか」
リベラは足元で鞄の口をしっかりと閉め、好機とばかりに持ちあげる。これこそ二者択一のやまは張れない。だが相手は、またも間を置かずに口を開いた。
「貴様がはじめに聖水と嘯いて俺に見せた瓶。中身はただの水だ」
「瓶はさっき見せたから、知っていて当たり前だ。お前の答えはそれだけか」
聖水瓶を二つ、とは言わなかった。身体を動かせないメイヴから死角になっているベッドの下で、リベラは偽物の方だけを鞄に入れていた。
「焦るんじゃない。あと坊主が持ってる聖書が一冊、メモ帳にペン」
「他にはないか」
「それと戸棚の鍵だな。トリノの教会にあるやつを持ってきたんだ。ああ、そうそう、最後に財布だ。ついでにその財布の中身も当ててやろうか。入ってるのは硬貨だけで、五〇〇リラが一枚、二〇〇リラと五〇リラが二枚ずつ、一〇〇リラが三枚か。最近の坊主にしては随分と貧乏だな」
リベラは何気なく顔を触るふりをして、額の冷や汗を拭った。鞄の中身をひとつ残らず言い当てている。メイヴの前でトリノから来た旨は告げなかったのに、どこにある何の鍵かまで合致していた。習得し得ない言語を操り、聖別されたものを近づけると苦しみ、知らないはずの事物を把握している。三つの条件すべてが見事に当てはまった。もう間違いない。音声も記録し、報告を上げるに十分な証拠は揃った。司教座にかけても確実に悪魔憑きと認められる。あとはキリスト教徒でなくとも治療の儀式を執りおこなうかの討議がなされるだろう。
「分かった。お前の正体を信じよう」
「信じるだけか。逆に貴様から俺に見せてくれるものはないのか」
「今日のところは、これが私からの褒美だ。また会うことにしよう」
リベラはそう言いざまベッドを離れ、カーテンをめくった。曇り空から差す薄い陽の光が、部屋をうっすらと照らす。すると相手は腕を宙に伸ばし、小さく呻いた。
「何を、眩しい。やめろ」
その直後に四肢をベッドに横たえ、静かに瞼を閉じる。身体から発せられていた異様な空気は消えうせ、代わりに間もなくして低い寝息を立てはじめた。リベラが後ろを振りかえると、キアラが恐怖に打ちふるえながらその場に立ちつくしている。何が起こったか詳しくは分からないまでも、異様な現象が発生したことは理解したようだ。それまである程度は抑えこんでいた、かなりの時間を看病に費やしていたせいで蓄積した心身の疲労が一度に噴きだし、急激に容姿の端々に表れだしたように見える。シモーネがテープレコーダーのスイッチを切り、メイヴの脈を取って身体の無事を確かめた。
「眠っているだけだ。そのうち起きる」
「ひとまず大丈夫だそうです。娘さんの傍にいてあげてください」
キアラはリベラの言葉を聞くなり、ベッドへよろよろと近づき床に跪いてはメイヴの手を取る。自身も正常な状態ではなかろうに、前以上の激しい変貌を遂げた娘をひたすら案じている。何が起きたかを知らせる義務はあるにしても、このときは母娘の心身を落ち着ける方が優先だった。男客ふたりは荷物を手に揃って部屋を出る。
「実際、どうだったんだ」
扉を閉めるなり、シモーネが小声で訊ねてきた。キアラと同様、儀式に立ちあったのは初めてだった。リベラはズボンのポケットから紙切れを取りだし、目の前に差ししめす。あらかじめ用意していた聖水の真贋の答えだった。
〈蓋の丸い方は偽物、四角の方が本物〉
シモーネの表情に余裕はまったくなかった。紙片に書かれた答えを、なお信じられないといった風にまじまじと見つめている。
「喋ってたのは、何語だ」
「ラテン語です。おそらく、文法の間違いはひとつもありません。もし疑問に思うのであれば、テープを大学教授に聞かせて、鑑定していただいても結構です」
「鞄の中身は」
リベラはリビングのテーブルへ向かい、鞄の中身をその上にあけた。全て儀式の最中に相手の言いあてた通りのものである。鞄を逆さにして他に何もないことを明らかにすると、シモーネは何やら先ほどのやりとりを反芻しながら一つひとつ指をさして確かめる。財布も渡して中身を検めさせた。相手の答えには寸分の誤りもない。五〇〇リラ硬貨が一枚、二〇〇リラと五〇リラがそれぞれ二枚、一〇〇リラが三枚だけがきっかり入っている。
「本当にこんなことが」
シモーネが驚くのは当然だった。経験豊富なエクソシストでさえ、ここまで顕著な例にそうそう出くわすものではない。仮に聖水の真偽はやまをかけ、鞄や財布の中身も万に一つ偶然に言い当てたとしよう。イタリア語とフランス語はそれなりに似通った言語であるから、親の目の届かないところで習得したとしよう。しかしラテン語を素人が会得し、自在に操るのは不可能である。たとえ目の前で口にしたところで、長期にわたって熱心に学習に励んでいなければ内容を理解するのはもちろん、答えを返すことなど出来るはずがない。メイヴは語学力に秀でているのでもなければ、高等教育を受けたわけでもない。教会には通ってすらいないのだ。リベラ自身驚きのあまり下半身の力が抜け、半ばへたり込むように椅子に腰かけた。
「このあと、日を変えて本格的にやるのか」
シモーネから訊かれても、すぐには答えは出ない。背もたれに身体を預け、額に手を当てる。
「まずは、コノリーさんが了承していただかなくては。仮に同意を得られたとしても、証拠の品をこのとおり出した後、そこから先は司教座がどのような判断を下すかにかかっています。私には通常の儀式を行う権限は与えられていますが、この件に限っては被術者がキリスト教徒ではありません。まずは大司教にお伺いを立てなければ。仮に許可が下りるとしても、いつになるのか分かりません。それまで、娘さんをお願いできませんか」
メイヴの状態を考えると、一刻も早い治療が必要だった。それでも被術者がキリスト教徒ではないという特殊な事情である以上、どうしても時間はかかる。だが同時にリベラは頭の片隅で、司教座なり教皇庁なりが否の決定を下してはくれまいかと期待していた。異教徒を対象とする施術を果たして悪魔祓いと呼べるのか、与えられた権能を逸脱していないか、神学上の難しい問題を孕んでいる。また科学的な視野に立てば、すなわち儀式を心理療法の一種と捉えれば、成功するかどうかはメイヴの信仰によって左右されることになる。治療による儀式の本質は聖書の冒頭、マルコ伝の第九章十四節に示されている。「汝なにか為し得ば、我らを憫みて助け給え」「為し得ばと言うか、信ずる者には凡ての事なし得らるるなり」「われ信ず、信仰なき我を助け給え」。神への信仰が前提条件となっている。結果は火を見るよりも明らかだ。ましてや迷いのあるリベラが施術を行うとなれば、効果はますます疑わしいものとなる。そうした心中を知らずしてか、シモーネは気を取りなおして得意げに肩を叩いてくる。
「大丈夫だ。俺も職務放棄はしないよ。体調の管理だってしなけりゃならん。うちの女房と一緒に診察を続けるさ」
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