六 治癒 ②
その日の夜、キアラはシモーネの指示どおりに新薬のみを服用させた。夕食後に一錠を袋から出し、コップに水を汲んで手に取らせる。メイヴは取りたてて拒否もせず、母親を欺いてどこかに行こうという仕草もまったく見せない。素直に水を口に含んで錠剤を呑んだ。その後も勝手に吐きださないよう、喉の奥へしっかりと流しこんだのを確認してキアラは目を離す。時計は十時を指していた。
「よく呑んだわね。もういいわよ」
声をかけるとメイヴはものも言わず、席を立ち部屋へと歩いていく。食事を摂るには遅すぎると思われるも、一か月ほど前からずっと同じ調子なのだ。この日は夕方になってもリビングにすら現れず、九時すぎになって急にお腹が空いたと言いだしたのである。食事の時間帯はどれも一定せず、夕食も午後の四時に食べたがる日があれば、寝る直前になってパンを探しに戸棚を開ける日もあった。昼間はほとんどベッドかソファで寝ころんでいることからも分かるように、以前は規則ただしく保たれていた一日の周期が完全に壊れている。いくら身体を休めても神経が回復しない悪循環から抜けだせなくなっていた。食欲が戻ったところで、とても喜べる状態ではない。
しかしキアラが気になるのは、メイヴが訴える症状だった。一週間前は背中、二週間前は肩、その前は頭が痛むと口にしており、最近はそれに耳鳴りも加わった。自分でも医学書に目を通して精神や神経の病に身体の痛みや幻覚、幻聴を伴うものがあると学習はしたが、日によって症状が違うことなどあるものだろうかと疑問を抱いていた。身体面に強い影響を及ぼす重大な病気に罹患しているならまだしも、精神疾患でこうした症状の変化が起きるとは考えられないのだ。
キアラは重い腰を上げて台所で食器を洗う。上の空で手を動かす傍らで頭に浮かぶのは、昼間にシモーネから耳にした話だった。精神科医でも手の負えない患者は、教会に悪魔祓いを依頼する場合がある。あのときは感情の方が先走ってしまったが、思いかえしてみると精神的な癒しの効果が期待できるとの説明には一応の説得力があった。それだけに自分たち母娘がキリスト教徒ではないことに苛立ち、また筋違いではあると自覚しながらも彼らの信仰を憎んだ。もし魔女宗の信徒でなければ、このような事件に遭わなかった。少なくとも可能性は低かったはずだ。仮に遭ったとしても、立ち直る手段がキリスト教徒の方が一つだけとはいえ多く与えられている。このイタリアはカトリックの国であり、自分たちのような移民には生きにくい国であると改めて実感するのだ。
食器を洗い終えたキアラはそれから疲労のため眠気を覚え、就寝まえにメイヴの具合を見に行こうとする。薬を服用して三十分と経っていないものの、気分の違いで眠りについてくれはしないかと期待して部屋に向かったのだ。ところがその期待は外れる。何やら奥からがたがたと音が鳴り、内側から扉が開いたのである。
「分からない、分からないよ」
そう言いながらメイヴが姿を表すのを見、キアラは息を呑んだ。口元をだらしなく開き、犬のように涎を垂らし、両腕を力なく下方にぶらさげている。ただでさえ曇りがちだった瞳からは光が失われ、眼球はどんよりと黄色に濁っていた。
「どうしたの。どこか痛むの」
キアラが訊ねてみても、返事どころか反応らしきものがまったく認められない。事件に巻き込まれて以降、これまではぼんやりしているか、または返答が遅いことはあっても、問いかけに対し何らかの意思表示はあった。それがこのときは同じ言葉を繰りかえしながら、ひたすら前に進もうとするのみなのだ。
「どうして、どうして。分からないよ」
「不安なのね。分かったわ。でもまず横になりなさい」
キアラはメイヴをとにかく部屋に留めるため、両肩に手を置き前進を止めようとした。すると心身ともに弱りはてているとは思えないほど強い力で、大きく腕を振りはらいキアラを壁際に押しのける。細い身体のどこからこんな力が湧いてくるのか信じられなかった。
「どこへ行くの。今は夜よ。外は危ないわ」
メイヴはまるでその場に誰もいないかのように、廊下を鈍い動きで前に突きすすむ。聴覚が利いているかどうかは定かでないが、言葉の内容を理解しているようには感じられなかった。
「お願い。家の中にいて」
キアラが再び後ろから引きとめようとしても、やはり腕の力だけで振りきられてしまう。抱きつくように腕を回しても、身体ごと引きずられるだけで結果は同じだった。歩みを緩める気配すらない。そうこうするうちにメイヴは部屋の出入口にまで辿りつき、それだけは確かな手つきで扉の鍵を開け、外へと出ていく。
キアラは一人の力では適わないと悟り、恥や外聞を捨て二階の大家へ助けを求めることに決める。大家とは良好な関係を保っており、前々から男手の要るときは力を借りていた。
「大家さん、大家さん。娘が大変なんです」
駆け足で階段を昇りざま部屋の扉を叩と、すぐに物音がして中から大家が出てきた。歳は五十手前だが、背は高く胴は横幅も前後の厚みも大きい。はじめは何が起きたか分からない様子で、寝間着姿のまま眠そうに目をこすっている。
「どうしましたか。何事です」
「娘がおかしいんです。夢遊病のように、家から出て行こうとしているんです。止めても物凄い力で」
そこまで聞いた大家は、はっとして身を乗りだし軒下を覗く。幸いなことに足取りは鈍く、メイヴはまだ敷地の外には出ていない。大家はいちど自分の部屋に戻り、人目も憚らず大声で夫人を呼ぶ。ひと目で尋常ならざる事態を察知したらしい。
「おい、お前も来い。コノリーさんの娘さんが大変だ」
次いで夫人とともに着替えもせず部屋から飛びだし、急いで後を追いかける。キアラも加わり、三人がかりで取りおさえにかかった。体格のよい大家夫婦の力は強く、どうにか部屋の中には連れ戻せたものの抵抗は止まない。このままでは埒があかないと踏んだか、扉を閉めるや大家が馬乗りになってメイヴをベッドに抑えつけ、すかさず夫人に指図する。
「お前、たしか物置部屋にロープがあったな。取ってこい」
「あいよ。一番手前だったね」
夫人が阿吽の呼吸でまた部屋を出ていくのを見、大家はキアラに訊ねる。メイヴの力は相変わらず激しかった。手足をばたつかせる度に、大家の身体が大きく揺れる。
「私だけじゃ、どこまで抑えられるか分かりません。救急車はもちろんですが、他に誰か助けを呼べませんか」
「誰かと言われましても、この辺りでは大家さんぐらいしか」
キアラは言いかけて、昼間の診察を思い出した。異常が起きたら連絡するよう、勤務時間外でも電話できるよう名刺を渡されていたではないか。時計は零時を回っている。医者といえどもおそらく眠っているであろうが、他に選択肢はない。ほとんど反射的に引き出しに手をかけた。
「大家さん、お電話をお借りしてよろしいですか」
「ああ。当てがあるなら。誰です」
直後にメイヴが組みふせられながらも腰をのけぞらせ、ほんの少しだけ大家の身体を持ちあげて再びベッドに張りつく。時間的な猶予はなかった。
「お医者さまです。すぐ来てくださるかは分かりませんけれど」
「ではそうして下さい。少しでも早くお越しくださるように。電話は私の部屋に入って突き当たり右です」
キアラは名刺を手に、扉を破らんばかりの勢いで外へ飛びだした。異常が起きたことで今さらシモーネを責めるつもりはない。危険を承知で新薬の処方を希望したのである。とにかくこのときは娘の回復を、せめて症状が沈静化するのを願いつつ、一人でも多くの助けを求めるべく受話器を掴んだ。
シモーネが報せを受けてキアラの家についた頃には、時計は深夜の二時を回っていた。電話口で住所を訊くも深夜に自動車を運転したうえ、アスティの地理に不案内なせいで必要以上に時間がかかってしまったのである。到着したとき部屋は静まりかえっていたが、ところどころにものが散らかっている状況から相当の騒ぎがあったことが窺える。大家と救急隊員を帰したあとでキアラとともに寝室に足を踏みいれると、メイヴは両手足をベッドに縛りつけられながら寝息を立て眠りに入っていた。
「先生、申し訳ありません。わざわざお呼びたてしてしまって」
「お静かに。今は大丈夫なようですね。診せてください」
どうやらキアラは、電話で報告したときと状態が変わってしまったのを詫びているらしい。しかし布団をめくるだけで、両手足がロープで傷ついているのが見てとれた。それも皮膚の表面が多少擦れた程度のものではない。何度も強い力で引っ張ったせいで肉がロープに食いこみ、その際に流れた少なからぬ量の血がシーツに大きな染みをつくっている。異常を認めるに十分な痕跡だった。
「先生。失礼ですが、昨晩に飲ませた薬が原因ではありませんか」
キアラが原因に新薬を挙げたのは当然だった。何しろ服用させたその夜に異常が起こったのである。同じ状態に陥れば、誰でも同様の疑いをもつに違いなかった。だがシモーネが医学の知識と経験則に照らしあわせて考えるに、それでは因果関係が成りたたない。
「こうした副作用は過去に報告されておりません。電話でお聞きした限りでは、お嬢さんの行動は睡眠時遊行症、一般的に言うところの夢遊病のものに似ています。投薬によって発症する例はありますが、その多くは睡眠薬が原因なのです。だとすれば、睡眠薬を服用したときでなければおかしい」
「でも先生ご自身が、まだ報告されていない副作用があると」
「睡眠時遊行症は、興奮したまま眠っている状態で引きおこされます。処方した新薬は、神経を鎮静化させる作用をもっているのです。お母さまの仰るようなお話は、ほとんどないと言ってよろしいでしょう。それよりお嬢さんは、外へ出ていく以外に周りの方を傷つけるような行為はしませんでしたか」
「いいえ。ただ外に出ていこうとするだけでした」
「お母さまが止めても、道具を持ちだしたりはしませんでしたか。暴力を振るおうとしたりは」
「はい。道を塞いだり引きとめようとすると、信じられないくらい強い力で振りはらわれましたが、殴られたり蹴られたり、刃物で切られたりはしませんでした」
夢遊病を発症している間は極度に興奮しているため、遊行を制止しようとした人間を無意識のうちに殺傷することがある。しかしそれがないからといって、まったく別の病気であるとも言い切れない。どうしたものかとシモーネが考えを巡らせていると、静まりかえった部屋にふと少女の声がか細く響く。
「あなた、今さら何をしに来たっていうの」
シモーネは、ぎょっとしてメイヴを見た。薄ぼんやりと開いた瞼からは、虚ろな瞳が顔を覗かせている。キアラは言葉が聞きとれなかったのか、ベッドに近づいて訊きかえす。
「何を言ってるの。口が上手く回らないの」
シモーネは迷った。果たしてキアラをここに残すべきかどうか。耳にした限りでは、今まさに目の前で常軌を逸した現象が起きている。ほんの少しのあいだ考えたあと、すぐ一人で立ちあうことに決めた。
「すみませんが、少しお嬢さんとお話させていただいてもよろしいですか」
「でも娘はあんな状態ですし、夜中じゅう暴れていたのですよ」
「私なら大丈夫です。両手足はこのとおり、しっかりと縛られています。ご心配なら、扉の外で聞き耳を立てていてください。断じてお嬢さんにも無理はさせません。何か異常があれば、私の方からお呼びします」
急な申し出にキアラは戸惑ったが、半ば無理矢理に部屋の外へ押しやるとついには諦めて扉を閉める。シモーネはメイヴと二人きりになったのを確かめてから、ベッドに歩みより恐るおそるフランス語で話しかけてみた。
「いま何と言いましたか」
メイヴはぎょろりと大きく見開いた目をシモーネに向け、同じく実に流暢なフランス語を口にする。単語にも文法にも、ひとつも誤りがなかった。
「今さら何をしに来たの、と言ったのよ。聞こえなかったの。役立たず」
「落ち着いてください。あなたのお母さんに呼ばれて来たのです」
「随分とのろまね。来るのが遅いのよ。それにちっともよくならない。薬なんかぜんぜん効かないわ。あなた、本当にお医者さん」
「医者ですよ。ここには持ってきてませんが、後で医師免許をお見せします」
切り返しも早く、とても覚えたてのフランス語を喋っているとは思えない。以前に診療したときのような朦朧とした様子、気弱そうな態度は消え、苛立ちと怒りの感情を鋭くぶつけてきている。もし両手足が自由であれば掴みかかんばかりの激しさで、話をするうちシモーネよりも饒舌になっていく。
「見ても仕方ないわ。医者なんて、男なんてろくなもんじゃない。どうせお母さんを部屋から出したのも、私を犯すつもりでしょう」
「そんなつもりはありませんよ」
「じゃあ私を縛りつけたまま、お母さんの弱味につけ込もうって魂胆ね。あんたの干からびた唇でどこを舐めまわすの。小汚い指でどこを弄くろうっての」
「そんな考えもありません。でしたらお母さんをここにお呼びしますか」
「余計なことをしないで。消え失せろ。お前と話すことはない。もう寝るぞ」
言葉に詰まったところで相手があざ笑い、再び瞼を伏せて眠りについた。
シモーネは寝息を立てはじめたのを確かめたあとで、全身の緊張を緩める。向こうが引きさがってくれたからいいようなものの、あのまま話を続けていたらこちらの方がおかしくなってしまいそうだった。だが安心などできない。いま目にした、耳にした出来事が幻でなければ、この患者はとても精神科医の手に負えるものではない。何度か後ろを振りかえりながら部屋を出ると、外で待ちかねていたキアラが足早に歩みよってくる。
「先生、どういうことを話していたのですか。あの子が何か喋っていたようですけれど」
いつの間にか、シモーネは額に玉の汗を浮かべていた。何と言えばよいか、言ったとして信じてもらえるか答えは出てこない。事実を伝えるにしても、ひと言やふた言ではとうてい納得してもらえないだろう。
「それについては、少しリビングをお借りしてよろしいですか」
「ええ」
キアラの了解を得てリビングに移動したシモーネは、ソファに腰を下ろす間もひたすら頭の中で話の手順を整理していた。何から話をすべきかなかなか決まらない。
「今しがた診たところでは、おそらくお母様のお考えとは別の意味で、お嬢さんは正常な状態ではありません」
「娘の精神状態が普通でないのは分かっています。先生は何をおっしゃりたいのですか」
キアラは釈然としないようだ。いつもと違って物言いが曖昧になっている自覚はシモーネにもある。それでいて動揺を隠せない。隠す暇もない。額から汗が流れおちた。
「これまでの問診と重複して申し訳ありませんが、お嬢さんは小さい頃にこちらへ来られた。間違いありませんね」
「それが娘の症状と何か繋がりがあるのですか」
「お嬢さんの状態を知るために、必要なのです」
キアラにしてみれば、今さら娘の経歴を訊かれても当惑するだけだろう。だがどんなに怪訝そうな顔をされても、推測が正しいか否かを確認するためには、まずメイヴの境遇から再び順を追って問いたださなければならない。
「ええ。小学校ははじめからこちらに入りました」
「すると、使えるのは英語とイタリア語ですか」
「ええ。アイルランド英語とイタリア語です」
「こちらの学校で習ったのはイタリア語だけで間違いありませんね。学校での国語の成績はどうだったでしょうか」
「よくありませんでした。娘が学校でいじめられていたのは、それも原因だったんです」
「ということは、お友達も少なかった」
「ええ。ほとんどいませんでした」
「当然、そのお友達の中にも外国語が堪能な方はいらっしゃらなかった」
「私や、集会に来られる方はアイルランド語も話せます。こちらで育ったメイヴとそれで会話することはありませんが。しかし先生は、何を仰りたいのですか」
途中まで質問に応じていたキアラは、そこで訝しげに眉を顰める。シモーネは観念し、自らに言いきかせるように部屋で起きた事実をゆっくりとした口調で打ちあけた。
「お嬢さんは、フランス語で私に話しかけてきました。あなたが部屋を出る前に、お嬢さんが口走ったのはフランス語ですよ。そのため色々と訊かせていただいたわけです」
キアラは多分に驚きのあまり、表情のみならず身体の動きをも止めていた。問診で聞きとった家庭状況から鑑みるに、娘の生育環境を最も正確に把握しているのは母親で間違いない。その母親が、メイヴに別の言語を習得する機会はなかったと断言したのである。突然フランス語を喋ったなどと言われたところで、すぐに信じられるはずがなかった。
「それは本当ですか。なぜ娘がフランス語を喋ったと分かるのですか」
「あなたもご存じでしょうが、ここピエモンテはイタリア国内でも、フランス語を使う方が他の地域よりは多い。私の生まれ故郷のジェノバも、やはり地理的な関係からイタリア語とフランス語の両方を使う人がいます。私もそうです。今でも使います」
「聞きまちがいではありませんか」
「はじめ私もそう思いました。ですからお母さまが部屋から出られたあと、試しにフランス語で話しかけてみたんです。するとお嬢さんからは、やはり流暢な答えが返ってきました。聞きちがいでも、知っている単語を片言だけ口にしたのでもありません」
「信じられません。いま申しあげたように、学校でも語学は得意ではなかったんです。むしろ苦手で、周りにそういった友達も」
キアラは顔に明らかな狼狽の色を浮かべ、しばし唇を開けたまま宙に目を泳がせていた。たったいま扉の向こうで起きた事実をどう受けとめてよいか測りかね、シモーネの質問に嘘偽りなく答えておきながら、説明のつく事実をどうにか見つけようとする。
「ああ、でも、もしかすると私の知らないところで勉強していたのかも。学校を卒業してから、ずっと私の手伝いをさせていましたから、その合間に」
「しかし、語学が得意ではなかった訳でしょう。仕事の傍ら、一年程度の独学であそこまで喋れるとは思えません。自然にCasse-toi, pauvre con、消え失せろという意味の慣用句まで口にしていましたからね。普段から使っていなければ、すぐには出てこないでしょう。教科書には載っていない、汚い慣用句ですよ」
「メイヴに近づいた、あの男が使っていたとしたら」
「二か月かそこらで、どうやって教えこむんです。よからぬ目的で娘さんに接近した男が、熱心に外国語の講義でもしていたと言うんですか」
「では娘を、どうすればよいのでしょう」
訊かれたシモーネの顔に、再び脂汗が滲んだ。メイヴがフランス語を習得していないのは確認できた。ならば答えは一つしかない。だが論理的に事実と思考を積みかさねたうえで、ここまで積極的にそれを提案するのは初めてだった。
「カトリック教会のご助力を仰ぎ──」
「精神科医の先生は、やはり医学とまじないの区別もつかないのですか」
キアラから怒りに燃えた目で睨みつけられ、シモーネはいちど言葉を切る。昨日に同様の話を出したときも激しく拒否していることから、この反応は予想できた。医学的見地から悪魔祓いを利用しているシモーネとしても、メイヴへの効果は相当に疑っている。順当に考えれば効果はない。それでも話を続けざるを得なかった。
「区別をしているからこそ、私の範疇ではないと申しあげているのです。鬱状態、不眠症、睡眠時遊行症、こういった類のものは医学による治療が可能です。必要であれば入院もさせましょう。しかし習得していない、接触する機会すらきわめて限定される言語を操るというのは、およそ医学、いえ科学で説明のつく現象ではありません。逆にお母さまは説明できますでしょうか」
「でも先生」
「私も自分で何を言っているのか、信じられない気持ちでいます。しかしこれが私なりに真剣に考え、たどり着いた答えです。医師として十人並みに患者を診てきた私も、このような現象を目にしたのは初めてなのです」
シモーネは自身の発言が、キアラが指摘する職務放棄にほぼ等しいことを理解していた。だがリベラから何度も「悪魔憑き」の典型的な兆候がどのようなものかを耳にしている。科学の常識と照らしあわせて考えてもあり得ない。メイヴの置かれている状況には、少なくとも医学では解決できない部分がある。信じられない気持ちでいる、というのはまったく偽らざる心中だった。さらに言えば、精神科医の自信や存在意義まで揺らぐほどの衝撃も受けている。顔にはおのずと影が差し、視線は足下に落ちた。
するとキアラもさすがに表情を取りなおし、声色を和らげる。落ちこむシモーネをこれ以上は責める気はなく、感情をひとしきり吐きだしたためだろう。ただし疑いを全て解いたわけではないようだ。
「たいへん失礼をいたしました。夜中にお電話をおかけしてお越しいだいたのに。しかし正直に申しあげれば、すぐには先生のお話を信じられないんです」
「では、どうされますか」
キアラは唇を固く結び、じっとテーブルを眺めた。対応を決めかねていると見え、しばらく何も言わない。シモーネも敢えて回答は急かさずにいる。カーテンの隙間から覗く夜空には、ただただ一面の黒が広がっているだけだった。
お読みいただきまして,感想と評価をいただければ幸いです。よろしくお願いします。




