あの日あの時の”わたし”
「──売られるまでの記憶、飛んでるだろ」
ゼフィルに言われて。
時が止まった。
走り抜ける冷たい感覚。
先ほどの空気が一転して冷え込む。
モナの、涙とときめきの葛藤は、背筋の冷感に流され落ちて行った。
目の前がぐらりと揺れるような感覚の中。
ゼフィルの顔だけがクリアに入ってくる。
背景も棚も白い靄がかかったみたいに遠ざかる中、彼だけが話し始める。
ゆっくりと両肘をついて、確かめるような緑の瞳でこちらを見ると、
「〈自分がどうやって捕まったのか〉・〈どんな経路であそこにいたのか〉、覚えてない……だろ?」
言われてはっとした。
────確かに、〈覚えていない〉。
何度か思い出そうとしたこともあったが、日本にいたこと・鉄筋とコンクリートの街・PC画面やスマホの待ち受けは思い出せても、〈いつ・どこで・どうしてこうなったのか〉、いくら思い出そうとしても出てこなかった。
それはまるで記憶に蓋をしたようで。
ファンタジーの世界を前に、考えることも避けていたように思う。
まるで眠っていたように綺麗に思い出せない状態に気持ち悪さも感じていた。
しかしモナには知識があった。
巷にあふれる異世界転生ものの知識である。
モナは無意識にそれに紐づけた。
『自分はきっと転生したのだ。理屈じゃないんだ、ファンタジーだ』と納得させ、目の前の生活を送ってきていた。
それをモナは誰にも話したことがなかった。
もちろん、ゼフィルにも、だ。
──当然、乾いた声が出る。
モナの心臓が、どきんどきんと嫌な音で騒ぎだす。
「え。なんで、え……」
「モナちゃん、〈あの場で一番大人しい奴隷〉だったんだよ」
動揺に返ってきたのは、落ち着いた〈報告〉。
固く拳を握るモナに、彼は続ける。
「他の人間が泣いたり怒鳴ったり睨んだりする中、モナちゃんだけ〈ここに心あらず〉って感じでぼーっとしてて。オレ、あの子大丈夫かなあって見てたんだよね」
「────っ……」
記憶はない。
思い出せない。
しかしゼフィルの言い方は確かで、その様子が目に見えるようだった。
「まるで傀儡の術でもかけられてるみたいに、焦点も合わなくて、ふらふらしててさ。──なのに、いきなり酒でも入ったようにはしゃぎだして。傍から見てると、そう──あれは」
────ごくん。
「──入った、ように見えたんだよね。〈定着した〉・あるいは〈結びついた〉。……そう。そう見えたんだ、オレには」
告げる、彼は、いつもと違って。
まるで、記憶の糸を手繰るように間を取りながら、真剣に、真剣に、言葉を紡ぐ。
「……古い魔術に、そういう──禁呪みたいなのがあってさ。オレ、ちょっとその辺齧ってるから、〈いや、でもまさかな〉と思いつつ、迷ってたところに、モナちゃんの不思議発言だろ? で、モナちゃんに決めた」
「…………」
「ふざけやがって、とも思ったけど、確証ないし。モナちゃんは悪くねえし。どうしてもほっとけなかったんだよね」
「────…………え……、まって……」
「──あ。ごめん。不安になったよな?」
「ちが……あの、情報量が多くて……」
「ごめ、今の、忘れて? まじで。推測っつーか憶測で、言わなくてもいいことまで言ったわ、オレ」
「………………ァ、…………」
「あ、いやマジで。オレの勘違いだと思うし。モナちゃん、変な術とかかけられてたわけじゃないと思うよ。うん」
「………………」
「ごめんな? 余分なこと言って、怖がらせるつもり、なくて、あ~……」
響くゼフィルの参った声。
……視界の隅で、ゼフィルが頭を掻いているのを認識はしながら、モナは、まっしろのなかを回っていく。
──なに、なに、なに?
いま、なんて?
確かにわたし、あの前、覚えてない。
でもそれを外から聞くことなかったし、そもそも禁呪? 定着? なにそれ、何の話? わたしの身体って、これ、ねえ、一体……
────「モナちゃーん!? モナちゃん!」
これ本当にわたしの身体?
誰かの身体をのっとった?
そしたらわたし、どんな顔して生きて行けばいい?
──「モナちゃん! モナチャン!」
わかんないでも、じゃあ、でも、わたし、
「──────モナちゃん!」
「…………はいっ」
顔は上がった。
目も見えている。
ゼフィルの焦った顔が見える。
──だけど。
「ごめん、マジでダイジョウブ!? ってか大丈夫じゃない! マジごめん!」
「────ィヤ、てか……、はい。すいません……」
頭うごいてない。
真っ白で回ってる。
困らせてる。
何か返さなきゃ。
「あ~~……、ごめん、マジで。不安にさせた。聞いたモナちゃんの気持ち考えてなかったわ。まじごめん」
あ、えと。
「あのさ! オレ魔道のこと全然しらねーから! ド素人のソレだからっ!」
だいじょうぶ。
さいきどう。
再起動。息、いき、息を吸え。
「いやガチほんとに! オレ信じて!? ってか無理か! あ──ッ……!」
あ。困ってる。
だいじょうぶ。信じる。
違うちがうちがう、不安になるな。
言葉、答え、取り戻せ、平常心。
ゼフィルさん困ってる、大丈夫、生きてるし、ファンタジーだし、この顔も体も、神様が、たぶんキャラクリしてくれたんだし、手とか見慣れたわたしの手だし、大丈夫、大丈夫、ダイジョウブ──
「モナちゃあああん!! そだ! 抱いていい!?」
「はい。────────はっ?」
混乱の渦から、一転。
間の抜けまくった声が出た。
焦点の合わなかった目をあげれば、飛び込んできたのはゼフィルの真面目で、余裕の無さそうな顔。
その頬はやや赤らんでいるし、眼差しは真剣。
────────え?
抱く?
いまから?
イマから?
え────────と……
ムダ毛処理したっけ? 下着なに履いてたっけ? っていうか今から、ゼフィルさんとわたし。
────ぶあっ。
────────瞬間。
想像した。
モナは全部を想像した。
熱い。待って!?
「い、イマから!?」
素っ頓狂すぎる声が出た。
しかしゼフィルはど真剣だ。
のけぞるモナにぐっと近づき、
「そう今から! 抱っこして連れてって良い?」
「えっ? だっこ!? ここから!?」
お姫様抱っこでベッドに? からだあらう、まってぜふぃる流石に早いよちょっとま──ッ!
──と。
慌てふためくモナに、ゼフィルは窓の外をビシッ! と指さして、
「星、見に行こ! ちょっと飛んだらすげえ運河見えるんだよ!」
──────ほ?
「気分転換になっから! 今そんな寒くねーし、行こッ!」
・・・・・。
「────~~~~~~ッ……!」
ぷるぷるぷるぷるへにゃあああああッ……!
言 わ れ た こ と を
理 解 し て。
モナは液状化したようにテーブルに突っ伏し、腕の防波堤に顔をうずめた。
……こいつ。
こいつ、こいつ……ッ。
善意100%で爆弾落としやがったぁぁっぁぁ……!
ぷるぷる震える体の中、モナの中、爆速展開するのはSNS構文ツッコミである。
ぽろっと言ってしまった→わかる。
やべえと思った→わかる。
空飛べないし、よし抱っこだ!→やさしい気づかい(?)
「抱いていい!?」→わからない。
「…………圧縮しすぎだからッ!! かっこの中飛ばしすぎだからッ!」
理解のキャパを超えて叫んだ。
伏せた頭の上でゼフィルが「え? えっ?」と慌てふためいた声をあげているし、現代語が混じりまくっているが、もーそんなもん配慮していられない。
……こ、こいつ……!
ちょっとコンビニ行こぐらいのノリでお空に誘うな。っていうか移動が飛行なのデフォだと思うな。こっちは慣れてない。抱っこで飛ぶのが普通だと思うな。
……こんっっ……のおおおおおおおおっ……!
恥ずかしさとガッカリ感と、さっきまでのごちゃごちゃも処理できぬまま。モナは頬と背中の熱をそのまま、すううううううっと思いっきり息を吸い込むと、
「ゼフィル──ッ!! おまえ──っ! そういうとこだぞおおおおっ!」
「どゆとこ!?」
「ネリーちゃあああん、わあああん! こんなの無理──っ! やだあああああもおおおおおっ!」
困惑のゼフィルをほったらかしに。
天を仰いで顔を覆い、なぜかネリーに助けを呼ぶモナ。
無理だ。
この男、普段から褒めまくって自己肯定感上げてくる。焦って言葉間違えてドキっとさせてきた後、天然爆弾みたいなこともかましてくる。その上魔法のことを話してる時は息を呑むぐらいの迫力と真面目さを出す。こんな……こんな……こんなぁ……ッ!
──と。
モナが必死に内部葛藤を処理する後ろで、ゼフィルと言えばガリガリと後ろ頭を掻くのだ。
空いた方の手を腰に、眉を寄せ〈わからん〉と言わんばかりに首を傾げると、
「なんでネリー??
え、ちょ、えええ?
…………女の子ってわかんねぇ~……」
「わけわかんなくしてるのゼフィーだからッ!」
「オレぇ!?」
赤面・涙目・絶叫の三点セットのモナ。
心の底から驚くゼフィル。
異世界生活・一か月と半ば。
恋沼に落ちた元社畜と、天然爆撃湘南男との奇妙な同居生活は、不穏な会話を運河のかなたに、ゆっくりと紡いでいくのであった……




