逃げんの? 5-2
「──にげんの?」
唐突な声に体が震えた。
後ろから聞こえた声はゼフィルのもの。
腕を掴む手も彼のもの。
一瞬で焦りが駆け巡り、鼓動は動揺の脈を打つ。
逃げるつもりなどなかったが、その声色があまりにも低く真剣で──、モナは、間髪入れずに振り返り、慌てて細かく首を振る!
「いえっ、すみません! 逃げるつもりはなくて、ただちょっと気になって……!」
「……駄目だから。逃げるのだけはやめて。マジで」
そう言う彼の、真剣と焦りの混じった色に、モナは気圧され息を呑んだ。
本気で怒られるかと思ったのに。
ゼフィルの瞳に揺らぐのは、どこをどう見ても、心配と焦りだ。
そんな彼に、……ごくん、と小さくもう一度。
固唾を飲むモナに、ゼフィルは神妙に首を振ると、
「……言ったよな。乱暴はしない、でも脱走だけはやめてくれって。……オレ、本気で焦ったから」
「すみません、あの、えっと、……だ、”大丈夫”、ですから」
……まるで、はぐれた恋人を見つけた彼氏みたいな言い方をする彼。
いつもの軽さは消えて、本当に焦った色。
大事なものを無くしかけたような空気。
そんな彼に、モナの心が動揺に揺れた。
なにかあったのかな。
それともやっぱり、この首輪に仕掛けが──
渦巻く仮説を喉の浅瀬に、モナは彼を見上げると、「……ゼフィルさん」。一歩、前へ出た。
彼のことはまだよくわからないけど、これだけ焦った顔をされたら呑気でなんていられない。
彼が、焦る、理由を知りたい。
「この首輪、やっぱり……逃げたら、何か起こるもの、なんですか?」
今までのデータを繋ぎ合わせて。
なるべくお伺いを立てるように聞くモナに、返ってきたのはゼフィルの数秒の沈黙と、諦めたような同意だった。
……ふ……
小さく息を吐き、一拍。
「ああ、うん。持ち主から離れると制裁があんの。持ち主って、今はオレのこと。だけど、魔法かけたのは奴隷商だと思う」
彼は言う。
そのオリーブグリーンの瞳を、申し訳なさで染めて。
「ひでーことするよな。無理やり連れて来たくせにさ。ごめんな、オレも外せないんだ」
「…………、そんな、ゼフィルさんが謝らなくても」
「────いや。ごめん」
「…………」
「〈離れる〉っつっても、あー、街ん中うろつくぐらいなら反応しねーから。お散歩とかは、しても大丈夫。だけど逃げんのだけは……ごめん」
「…………」
懸命にフォローしてくれる彼に、モナは目を落とした。
だって、ゼフィルは悪くないのに。
奴隷を買うとか倫理観がおかしいとは思ったけど、悪いのは売るほうだ。買い手がつかない奴隷は処分されるのなら、あそこは、命の選別の最終ライン。
──どちらにしろ、モナに選択権など無かったわけで……逆に、ゼフィルの謝罪は胸が痛むのである。
──どうしよう?
ここで何を言えばゼフィルさんの気持ちが軽くなるだろう?
シゴトであれほど接客オペレーション叩き込まれてたのに、こういう時に言葉が出ない。
わたし、今、何を言えば──
「……なあ。モナちゃん」
「!」
迷いゆく思考を引き止めるようにかかった神妙な音に、モナは弾かれたように顔を上げた。
飛び込んできたのは、ゼフィルの、寂し気で緊張した面持ちだ。
「……モナちゃん、逃げる気、あった?」
「…………、なんで、ですか?」
「あまりにも大人しいからさ。なんか、事情でもあんのかなって」
言い方が、軽い。
「聞きたくない」って感じがする。
聞いておいて、その先の答えを拒否しているような、そんな感じ……
「……」
それらを瞳に、言葉に迷うモナの前。
彼は途端、弱弱しく笑うのである。
真面目や真剣をごまかす様に。
「──はは、悪ぃ。言えるわけねーか」
「──”逃げる気”……なかったです」
驚くほど素直に出た。
口に出した途端、モナの中で徐々に輪郭を宿していく。
それを証明するように、理由はどんどん滑り出していくのだ。
「と言いますのもわたし、このあたりの土地勘ないですし……、逃げたところでどうしようもないと言いますか」
述べる視線はオルマナの景色。
見つめる先にはガラスのような花。
「──帰り方も、わからないので」
言って、くすりと笑う。
どうか気にしないでください、を笑みに込めて。
──自分でもおかしいとは思うのだが、どう考えても『逃げてどこかへ行く』選択肢が出てこない。『逃げない理由』ならいくらでも出せるが、逃げる理由があげられなかった。
──そんな笑いを、そのまま瞳に込めて。
モナはゼフィルに向き合うと、深々と頭を下げた。
「先ほどは、驚かせてしまい申し訳ありませんでした。逃げようなんて思っていないので、ご安心くださいね、ゼフィルさん」
「……3か月待って」
「3か月?」
なんの期限だろう?
目を向けた先、ゼフィルは、真剣をやや濃くして口を開くと、
「3か月経てば、その首輪の魔力も切れる。モナちゃんは自由にどこにでも行ける。家にも帰れる」
──とても、真摯に言う。
まるで自分が罪でも犯しているような申し訳なさを滲ませて。
「だから、ごめんな? 3か月我慢してくれる?」
「──我慢だなんて、そんな……」
言われて首を振っていた。
それは、彼の誠実さと滲む罪悪感に押されてしまったのか、はたまた何かしらの同情かどうか、まだわからない。
けれど、モナは伝えたかった。
自分の気持ちも、この世界に触れた〈今の感想も〉。
それらを伝えるべく、モナは、すうっと一呼吸。
彼の視線を集めて──広がるオルマナの夕焼けを目に、言う。




