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災厄の姫君  作者: 日向あおい
第一話 まどろみの姫君
9/40

・5・牧を統べる者(1)

 

5 牧を統べる者




(何もない……)


 尚子は心の中でつぶやいた。また一つ深いため息がこぼれる。

 自分にと用意されたこの部屋は完璧であった。家具も、小道具も、着物も何もかもがそろえられ、尚子が不自由なく日々を送れるようにという配慮がそこかしこから感じられる。日当たりもよい。上総の実家ほどではないにしろ、立派な庭が一望できた。

 小次郎が尚子の世話にと付けてくれた女官も、それは才のある人物なのだろう、実に気が利く。今も、付かず離れずとでも言おうか、尚子の視界に入らないように部屋の外に控えていてくれる。慣れない尚子が自分に気を使うことで、気疲れするのを懸念してのことだろう。それでも、尚子が何か物を探すそぶりでもすれば、すぐさま必要なものを差し出してくれる。

 たしか、名はあやめ、といったか。年は二十代後半に見える。普段は切れ長の目元が涼しい印象を与えるが、柔らかい物言いをするのでさほど気にならない。むしろ、知的な線の細い美人と、称した方が近いな、と尚子は思っている。

 そう。この部屋は、何一つ不満のなく、完璧だった。

 でも、尚子はそれが納得いかない。

(ここでゆっくりくつろいでいる場合ではないんだ)

 一人ぬるま湯に浸かり、贅沢な思いをするために、自分はこの国にきたわけではない。

 自分ひとりが、迫り来る苦難から逃れるために、自国の民を犠牲にしたわけではない。 それなのに。

 この、ゆるゆると流れる時間が、つい七日前の赤い月夜の出来事を霞ませる。自分の記憶を白で塗りつぶし、都合のいいように書き換えていく。この緩やかな時が現実で、あの切迫した一日こそが夢だった、と。

(このまま、この部屋でじっとしていてはダメだ)

 尚子は心の中で強くそう思った。

 だけど、どうすればいい。今の自分に何ができるというのだろう。

 自分には何の力もない。権力も、財力も、武力も。

 小次郎は自分にしかできないことがあると言っていたが、それが何なのかまるで見当がつかない。こんな、役立たずに何をさせようというのだろう。

(第一……よくよく考えたら、小次郎はなぜ私を下総へ連れてきたのだろう。何もない私を……何もできない私を)

 考えれば考えるほど、自分がちっぽけな存在に思えてくる。

 なんて無力なのだろう。

 尚子は、そっと自分の手のひらに視線を落とした。

(この手で、多くの者の命を救える気でいた。そう驕っていた。私にも何かできるのではないかと。だから、上総では村々を見回って、田畑を耕して……でもその時に救った命よりも多くの命を私は奪ってこの国へ来たのではないだろうか。父上の権力を笠に、えらそうに民に指示をし、英雄気取りで土をいじって遊んでいただけだったのかもしれない)

 それが証拠に、今の自分の手には何一つ残っていないではないか。

 権威は父のもの。

 田畑を耕したのは民たち。

 民を救ったのは……父の武力。

(何もない……私には……何もない)


 ──ゴト……。


 尚子の手から離れた扇が、重力に従い床に着地した。が、それに気がつく様子も無く、尚子は床の一転を見つめている。

 ほどなく、かすかに尚子の耳に絹擦れの音が届いたような気がした。 

「…………良い天気でございますね」

 いつのまにか、目の前に女官が姿を現し、尚子の扇を拾ってくれていた。

「空……?」

 扇を受け取りながら、尚子は促されるまま部屋の外に目をやった。高い高い青空の上に、真っ白な綿雲が浮かんでいる。

 あの空を、飛べたなら。

 あの風を感じて、雲を切って────。 


『俺の隣で自由に生きろ。おまえらしく、自分の心を偽ることなく』


 不意に、尚子はあの赤い月夜のことを思い出した。あの日、小次郎は自分にそう言ったのだ。

 もう二度と、自分の心に嘘をつくな。自分の大切にしたいものを偽るな。そうすれば、自ずと、今、自分がとるべく行動が見えてくるはずだ、と。

(私のしたいこと……しなくてはならないこと……)

 尚子はぐっと唇をかみ締めた。

 自分のとるべき行動。今、したいこと。それは、この部屋で何不自由なく暮らすことではない。

(平良兼の一人娘であるこの私も、焼きが回った。何を迷うことがあるというのだろう)

 自分の心は、とうに大きな声で叫んでいるというのに。


 あの(ひと)の力になりたい。

 そして、残してきたみんなの力になりたい。


 こんな“完璧”なところで小次郎に守られていても、見えてくるはずがない。自分のすべきことも、居場所も。

「すまぬが、一つ頼まれてほしい」

 尚子は空を見上げながら言った。あやめは、返事をするかわりに、尚子に頭を下げる。

「着替えの用意を。馬に乗りたい」

 尚子はあやめをまっすぐに見た。あやめも、尚子の真意を伺うように静かに見つめ返す。

「かしこまりました」

 あやめは、顔色を変えずに承諾した。内心、姫と呼ばれる身分の者が馬に乗るとはどういうことだろうと、自分の耳を疑ったかもしれない。それでも一切顔にださないところが、やはりこの女官の才だろう。そればかりか、あやめはこう付け足した。

「馬のことならば、多冶殿にお伺いするのが宜しいかと思われます」

「多冶殿?」

「すぐに牧にご案内するよう、手配しましょう」

 あやめは、細い目をさらに細くして笑った。この人は、こんなに柔らかに微笑む人だったのか、と尚子は思った。 




◇◆



 女官のあやめの手配で、すぐに牧へと到着することができた。

 尚子は、その広大な土地に目を見張る。想像をはるかに超えていた。見渡す限りの牧草地に、数え切れないほどの馬たちが暮らしている。

(すごい……)

 雄大、という言葉がこれほどしっくりくる光景を見たのも初めてならば、これほど大規模な牧を見たのも初めてだ。牧だと言われねば、馬たちは野生馬ではないかと思ってしまう。坂東にはこれほどの規模の牧は他にないだろう。もちろん、都にだって無いはずだ。

 その牧で飼育されている馬たちの走る姿も、馬小屋で飼われている馬が、たまの野駆けで水を得た魚になるのとは比べ物にならない。伸びやかに自然体で生きていているように見え、その堂々とした姿がまぶしく感じた。 

「この牧は、周囲が沼地でね。その沼地が天然の柵になっているから、馬は逃げることはない」

 背後からの声に、尚子は勢いよく振り向いた。筋肉質の若い男が尚子にすぐ側に歩み寄ってくるのが見えた。

 人の気配に気がつかないほど、自分が馬たちに見惚れていたのだと気づかされる。

「いい牧だろう?」

 男は実に誇らしげに言った。

「あなたが……多冶経明殿?」

 返事のかわりに、経明はにかっと白い歯を見せた。

「女官から話は聞いている。姫さんは馬に乗れるそうだな。勇ましいことで結構、結構。そういう女は嫌いじゃないぞ」

 他の者が同じ事を言えば、女のくせに馬などに乗るとは、なんとはしたない、というような嫌味に聞こえそうだが、この男の爽やかさがそれを許さない。むしろ尚子には好感の持てる気安さに感じられた。

「馬を借りたいのだが」

「ああ、どれでも選んでくれ。この牧の馬は、どれでも都の帝に献上できる上等な馬ばかりだぞ」

「ならば……乗りやすい馬を選んでください」

「残念ながら姫さん、それは無理だ。選ぶのは俺じゃない」

 経明はそれだけ言うと、ぴゅーと指笛を吹いた。

 どういう意味だろうと思う間もなく、馬たちが一斉にこちらを振り返る。経明の姿を確認したのだろう、そのうちの十頭ほどがこちらに走りよってきた。

「このあたりでは、馬具をなるべく付けない。子供のころから俺たちは裸馬を操る練習をするんだ。そのためには、人と馬がより深く信頼しあわなきゃならん」

 一頭の馬が、経明に甘えるように頭をこすり付けてくる。その馬に低い声でどうどうと声をかけてやる、彼の目は本当に愛しい我が子を見るような暖かさを含んでいた。

「人が馬を選ぶんじゃない。互いに選び、選ばれる。認め、認められる。そういう関係でなければこいつらには乗れないってわけさ」

「選び、選ばれ、認め、認め合う……」

「そう。人と同じさ」

「同じ……」

「俺は主として小次郎を選び、あいつの全てを認める。小次郎は俺を側近として選び、俺にこの牧の全てを任せた」

 すっと経明の顔から笑顔が消えた。

「俺はあいつにしか仕えない。俺の主君は後にも先にも小次郎だけだ。だから俺は姫さんを認める」

 尚子の周囲から、音が引いていくような気がした。あっという間に、自分たちを囲うように集まっている馬たちの、息遣いだけが大きく響いてくる。

「…………認めるが、従うことはない」

 尚子は静かにそう言った。

 小次郎の命令と尚子の命令とが対立した時は、迷わず小次郎を選ぶ。そういう意味でしょう、今のは?

 尚子は問いかけるかわりに、じっと経明を見つめた。

 はるか遠くの方で馬が嘶いた。

 だいぶ冷たくなってきた秋風が、尚子の長い黒髪を揺らし、尚子のまとう香を周囲に舞わせる。

 次の瞬間。

「はっはっはっはっはっは!!」

 経明が噴出した。尚子は仰天する。腹を抱えて笑い転げるほど面白い話をした覚えはない。それに失礼ではないか。人の顔をじっと見ていたくせに、大笑いするなんて。

「な……」

 悔しいやら、恥ずかしいやらで、尚子は一人絶句していると、涙目になった経明が、すまんすまん、と顔を上げた。

「いや、なるほど。小次郎が選んだだけある」

「どういう意味だ」 

「そのままだ。聡いということは大事だ。この世の中では、愚かさは平気で死を呼び込む」

「……それはわかる」

「ならばいい。俺は小次郎がつれてきた女が、ただの政略のための女であっても、小次郎を満足させるための女であっても、どっちでもかまわん。だが、愚かな女はこの国までもを死に追いやる。それだけは阻止するつもりでいた」

 経明は尚子の全てを見透かすような視線を向ける。

「だから、姫さんを追い出すようなことはしない」

「……今は、ということ?」

 尚子が聞き返すと、経明は再び嬉しそうに笑った。

「姫さんには、世辞も建前も必要ないようだな。俺も好かないから助かるが。……分かった、はっきり言おう。姫さん、もう少し様子を見させてもらう」

「この国に害をなすだけの存在か、それとも何か利を生み出す存在であるか。それを見極めるというのでしょう?」

「有益までいかなくても、無害であれば追い出したりまではしない────俺は、な」

 経明の他にも、尚子を品定めしている者がいる。この男は、あんにそれを自分に伝えようとしてくれているのだろうか。

 それとも、それは尚子の願望に偏った憶測だろうか。少なくともこの男だけは自分に敵意を持ってはいないのではないか、と。

「まあいい、それより……姫さん、何か特別な香でもつけているのかい?」

 思いもよらぬことを問われ、尚子は呆けた顔になってしまった。

「周りを見てみろ」

「え?」

 言われるままに、尚子は首をひねりぐるりとあたりを見回した。


 そして──。


「えっ!?」

 尚子は目を見開いたまま、息を呑んだ。

(ち、ちかい……)

 振り返った尚子の鼻とくっつきそうなほどの距離に、五頭もの馬面が並んで見えた。

 尚子は思わず一歩足を後退させるが、すぐに馬たちが間合いをつめてしまう。

 馬たちは皆、大きな鼻をヒクヒクさせて、まるで尚子がまとう香を嗅ぐようなしぐさに見えた。敵意を持って尚子に近づいたというわけではなさそうだ。

(な、何……私、もしかして臭いのか!? いや、昨日はちゃんと湯浴(ゆあ)みして汗は流したが……)

「姫さんからよほど気になる匂いがするみたいだなぁ。こんな馬たちの姿は初めてみる」

 経明は腕を組んでしたり顔を決め込み、尚子に助け船を出す気はさらさらない様子。

(何、どうしろというの!)

 さらに、じりじりと間合いをつめてくる馬たちに、尚子は思わず声を高めた。

「ちょ、ちょっと待っ……下がれ!」

 尚子の澄んだ声が秋の高い空に抜けた。

 と、どうだろう。五頭の馬たちは、驚いたことに、前進をやめ、いっせいに後退し、尚子から人ひとり分離れた形になった。

(ど……ういう……こと?)

わけがわからず呆然と立ち尽くす尚子。

「な……なんだ……何がおきた?」

 始終を尚子の横で目撃していた経明も、目を何度もしばたたかせている。それもそのばす。

(……馬が私の命令を……聞いた……?)

 そんなことはあり得ない。あり得ないのに、今この状況を説明できる言葉が他に思い浮かばない。そればかりか、尚子には目の前の馬たちが、次の命令を今か今かと待ちわびているようにすら、見えてくる。

 なぜ?

 どういうこと?

 返事の期待できない問いだけが、尚子の脳内を高速回転していて、目が回りそうになってきた。

「尚子!」

 尚子は、はっと我に返る。

「こ、小次郎……」

 屋敷から馬でかけてきたのだろうか、息をきらした小次郎が姿をあらわした。

「どうした二人とも。顔が真っ青だぞ?」

 尚子は経明と顔を見合わせる。

 経明は無言のまま尚子を見つめ返した。その表情は、先ほどの出来事が見間違いや勘違いなどではないことを物語っているように尚子には思えた。

「まさか、怪我でもしたのかっ?」

 沈黙したままの上に表情の堅い二人に、将門が事故でもあったのかと、想像を巡らせたようだ。慌て尚子は首を横にふる。

「私が馬に驚いて悲鳴をあげたら多治殿が駆けつけてくれたんだ……」

 尚子はさらりとそう言うと、経明の表情を盗み見る。経明は静かに、尚子から目を反らした。経明もさっきのことを小次郎に話すつもりはないようだ。

(説明できるわけがない……)

 尚子は小次郎に促されるまま、小次郎の乗ってきた馬にまたがる。

 小次郎が馬の腹をけった。馬が嘶き、走り出す。

 尚子はちらりと背後を振り返った。

 先ほどの馬たちは何事もなかったように解散していて、もうそこには尚子をじっと見つめる経明の姿しかなかった。


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  また『活動報告』に作品裏話&次回予告があります。 
 
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