・4・昔のツケ
4・昔のツケ
「長い付き合いだ。今後も私にできることならば、いくらでも協力しよう。遠慮なく言うがいい」
壮年の男から、将門に向けられた言葉だった。将門は、その男の表情に心が洗われるような爽快感すら覚えた。
「有難い。このご恩は忘れませぬ」
将門は深く頭を下げる。本当に心から頭が下がる思いだった。
「……では御免」
顔を上げ、将門はもう一度だけ男の顔を見る。
平真樹。下野の豪族の一人で、源護と所領を隣にする彼は、ことあるごとに源護から嫌がらせを受けている。いつかは真樹の堪忍袋の緒も切れるだろう。そうなれば、圧倒的武力をもって真樹の首と領地を我が物にする。その時を虎視眈々と狙う狸の魂胆が透けて見える。と言うよりも、独創性に欠ける見え見えの手だ。昔から使い古されてきたのだから。そこがまた苛立ちを生む。こんな見え見えの策に引っかかるほど愚かな当主であると見くびられているということか。
将門は真樹がそんな小物でないことを知っているが、近隣の民はそうはいかない。この国の当主は愚鈍だ。そう噂が立てば、農民たちは真樹を見捨てるかもしれない。この時代、農民は立派な戦力。農民に見放されるということは、戦力も財力も低下し、国は滅びへの道を辿るのだ──今の下総のように。だからと言って、挑発にのって応戦すれば、今度は近隣の豪族たちが真樹を侮るだろう。あんな愚策に乗るとは、と。
つまり耐えるしかないのだ。
ただひたすらに、そんな源護の嫌がらせなど、完全無視をし続ける平真樹に、将門は好感を持たざるを得ない。大らかな人柄も、この男の魅力の一つだ。今も二つ返事で、将門の所領再興に尽力することを約束してくれた。ますます好感度は高まる。ついでに、妻と娘も美人で有名ときた。もはや言うことはない。
(そう言えば……)
ふと将門の海馬に刻まれた、幼い頃の記憶が呼び起こされる。
十数年前、将門の色恋方面の師匠である多冶経明と共に、この屋敷に忍び込んで、娘に何度か夜這いしたことがある。平真樹も将門を婿にと考えていたようだ。だが、それもすべて京都に立つ前のこと。もはや過去のことだ。
(あの姫はなんと言ったか……名前も思い出せんが、肌は御影石のように白く吸い付くように、こう……実にいい女だった)
将門は心の中で独りごちた。
「ところで」
立ち上がろうとした将門は真樹に呼び止められた。しかたなく座りなおす。
「三姫のことだが」
将門はやはりな、と思った。自分ですら、ふと姫のことを思い出したくらいだ。真樹も昔話の一つや二つはするだろうとは思っていた。
だが、将門の予想は少しずれていた。
「そなた、三姫の婿になるという盟約はどうした? まさか反故にするつもりではあるまいな」
その真樹の笑顔がなんとも怖い。
「……十年以上も前のことですぞ」
「あの日、姫の部屋に忍び込んだ将門殿を、見逃してやったのは、将門殿がいずれ婿にと申しておったからだ」
将門は舌打ちしたい気分だった。
見張りは経明に任せてあったから、きっと経明が真樹に何か吹き込んだのだろう。それを、真樹も三姫も真に受け、しかも、ずっと将門の帰郷を待っていたというのだろうか。
(嘘だろう……)
将門もなんとか笑顔を作った。どうしてもひきつってしまうのは不可抗力だ。
「三姫にも良き縁談はいくつもあったのだが。姫が嫌がってのう。昔から知っているだろう? 私は三姫には昔から弱い。幼くして出来た娘だからかのう。可愛くてしかたないのだ」
「……そうで有りましたね」
将門は真樹から見えないように舌を巻いた。
(思い出になってなかったか……ははは)
いよいよ風向きが悪くなってきた。こうなることなら好立を連れてくればよかった。
(いや、だめだ。あいつがこの話を聞いたら、ほれ婿に行け、やれ婿に行けと言うにちがいないっ!!)
今の将門たちには、本来なら同盟国と強力な後ろ盾は喉が出るほど欲しい、ご馳走のようなもの。だが、と将門は思う。
(尚子が……)
せめて尚子に一人でも子供が出来てから。そうでなくては、尚子の立つ瀬がない。
下総において、尚子の地位が磐石なものとなってから。それから側室を設けるというならば、尚子に対しても言い訳ができよう。尚子だって納得してくれるに違いない。
後ろ盾の全くない、しかも嫡子も産んでいない尚子。片や豪族、平真樹の娘。
どう考えても尚子に勝ち目はない。家臣たちは三姫たちに従い、正妻の座は事実上、三姫のものとなるだろう。それはさすがに不憫としか言いようがない。避けたいことだし、絶対に避けるべきことだ。
だが、きっと好立あたりは、これ幸いとこの縁談を、あの手この手で押し進めるに違いない。
(まいったなあ……もうちょっと待ってて欲しかったなあ……)
決して悪い話ではないのだ。時期が最悪なだけで。
せめて、尚子を正式に妻としててから、一報が好立の耳に入るようにする必要がある。だが、あの地獄耳だ。どこから情報を得てくるか知らないが、明日には好立に知れていると覚悟したほうがいいだろう。
(……帰ったら、夜を待たずに契るか。尚子に子が出来れば、なーんにも問題ないんだからな)
尚子の熱も下がったことだし、将門としても願ってもないこと。
(……散々じらした罪は重いぞ、尚子)
脳裏に尚子のあられもない姿が見え隠れする。妄想のなかでもつれない尚子に、将門は胸を弾ませた。勝手に口元が緩む。目じりまで下がり始めたその時。
「…………ずいぶんと嬉しそうだが……そうか! 姫の婿になることがそんなに嬉しいか! よかったよかった」
将門の血の気が、さあっと音を立てて引いていった。完全に忘れていた。
(しまった……)
目の前の問題が、何も解決していなかった。どうやってこの場を切り抜けようか。妙案がまったく思い浮かばない。
「はは……はははは……」
将門の空笑いが、静かに響いた。
◇◆
自分の屋敷に戻った将門を出迎えたのは、いつものように好立だった。今は一番会いたくない相手でもある。
それが顔にでてしまったのだろうか。将門のかすかな緊張をめざとく好立が指摘してくる。
「平真樹殿はなんと?」
将門は勝手に顔の筋肉がこわばるのを感じる。できるだけ平常心を装うが、普段どおりに、と思えば思うほどそれが難しい。
普段自分はどんな顔をして、好立の出迎えに応じていただろうか。思い出せない。
「快くお力添えくださるそうだ」
将門はやっとそれだけ言うと、好立の視線から逃げるように、彼の前を大股で通り過ぎた。
「そうでしたか。一先ずようございました……それで、条件は?」
将門が、ぎくりと体が反応しそうになるのを必死でこらえた。
「条件などない」
「そうですか。何も要求されず、でも、尽力くださると、お約束してくださったわけですね」
念を押すように、好立は言った。
「そうだ」
好立に背を向けたまま将門は言うと、歩き始めた。
「それは良うございました」
好立も将門の後を付いてくる。
「先日の犬飼殿に続き、朗報でございますな。これで、なんとかこの一年は越せましょう」
「うむ」
「後は、殿の後ろ盾となる方をお早く見つけてください」
将門の足がピタリととまる。
(……わざと言ってるのか?)
いや、まださすがに知らせは届いていないだろう。
供をした者にはしっかり口止めした。どこから情報漏えいしたというのか。
好立が、遠く離れた真樹の屋敷での密談が聞こえるほどの地獄耳だ、というのなら話は別だが。
(そこまで地獄耳だったらバケモノだぞ、好立……)
将門は何事もなかったかのように、再び歩き始めた。聞かなかったことにした。
好立はすべてお見通しだった。静かに聞き返す。
「聞こえないふりはお止めください」
「……」
何か隠しているのは分かっている。だが、何かは分からない。
平真樹が無理難題を持ち込んでくるとは思えない。いったいどんな条件を出されたのだろうか。
(まあいい……今は見逃してやろう)
好立はわざとらしくため息をついた。
「それはそれは。早く北の方を、そして世継ぎを、という皆の声がちゃんと聞こえているようで、幸いです」
すると、将門はくるりと体をひねり好立を振り返った。好立は驚いたが、眉一つ動かさずに足を止める。
「世継ぎと言ったか?」
「……何嬉しそうな顔してるんです?」
好立はぎろりと主人を睨んだ。
今度は何だ。何か企んでいるのは分かるが、何も考えていないような気もする。単純に娘と懇ろにしていたいだけではないのか。
そんなことを考えていると、将門が好立に向かって人差し指を突きつけてきた。
「だ、か、ら────今から子作りに励む。三日三晩、ひたすら励めば子供の一人や二人できるだろう」
名案だと胸をはる将門に、好立は閉口する。
やっぱり後者であったか。
まったく……いつまでもこの男は少年のように目を輝かせて、女性を語る。いつだったか、どこぞの美姫の夜這いがどうのこうのと経明と作戦会議をしていたときもそうであった。
「三日三晩……籠もる気ですか?」
「ああそうだ!! 何か文句あるか!? 三日夜餅でも用意して待ってろ」
この時代の貴族は、妻となる女性のところへ三晩連続で通う必要がある。一晩ではただの浮気とされ、夫婦とは認められない。そして、三日目の夜に二人で餅を食べる。この餅が三日夜餅である。今でいう結婚指輪のような存在であろうか。もっとも餅は食べてしまうのだが。
夫になる者はこの餅を一口で噛み切らずに飲み込まなくてはならない。(女性は食べ方自由)
ちなみに、餅のサイズは、三センチほどだと言われている。結構大きい。餅を喉に詰まらせて死んだ新郎もいたのではなかろうか。今も昔も男性は大変だ。
「三晩、部屋に通わないで籠もるくせに、餅は食べるのですね……」
「気分だ気分!」
高らかに笑いながら将門は再び娘の部屋に向かって歩き出した。その足取りはどこか弾むように見え、それが好立の顔をさらに引きつらせていた。
尚子の部屋の前につくと将門は好立を振り返った。念を押すように言う。
「いいか、入ってくるなよ!」
「はいはい」
「三日だぞ!」
「はいはい」
「何があってもだ、いいな」
語尾がずいぶん跳ね上がるように聞こえたのは好立の気のせいか。
「……分かりましたよ。ごゆるりと、どうぞ」
「ばかもの! ゆっくりしてどうする、励むのだ!」
「……はいはい」
好立の返事も、もはや投げやりだ。背中に羽でも生えているのかと思うほど軽やかな足取りで娘の部屋へ消えていく将門を見届けると、好立はぼそりと呟く。
「まったく、とんだ宝石だ」
好立が四、五歩、娘の部屋から遠ざかった時だった。
「好立ーーっ!!」
ばたんと激しい音が空気を揺らした。驚きもせずに平然と振り返ると、娘の部屋から飛び出してくる将門の姿があった。
「三日籠もるのではなかったのですか?」
「嫌味を言うなっ! 尚子をどこへやったっ!!」
「どこにも?」
「何っ!? ではなぜ、部屋に居ないっ!!」
「さあ?」
「さあっ!?」
「勝手に外に出て行かれました。引き止める理由もございませんので、姫様のお心のままに。てっきりもうお戻りかと……」
「何っ!?」
将門は好立に詰め寄った。
「どこへ行ったのだ!」
「存じません」
忌々しそうに将門が自分の唇を噛む。明らかに好立に向けて苛立ちを露にしている主人に、好立もつい、腹の奥底に閉じ込めていた想いが溢れ出していく。止められない。灰汁のような苦々しさが口の中を侵していくのを感じながら、その苦味はついに言葉として発せられた。
「……そんなにあの娘がいいのですか?」
「何だと?」
好立は冷ややかに将門を見つめた。将門の瞳にかすかな憤りの色が灯る。
「あの娘は百害あって一利なしです。正気とは思えません。なぜあの娘なのですか。他に年頃の娘ならどこにでも────」
「好立」
将門の地鳴りのような低い声が好立の言葉をさえぎった。ゆっくりと口を閉じ、主の目を見つめる。
────なぜ分からない。この俺の意思がなぜ分からない。
そんな強い炎を将門の瞳の中に見て、好立の心底がどくんと脈打つ。
自分はどんな危険なことでも、主のためならやる覚悟はある。主が我がままに生きることが好立の望みだ。だが、それは主のやりたい放題を許すことではない。この選択が主にとって良きことならばいくらでも尽力しよう。
しかし、好立にはこれが破滅への一本道であるようにしか思えないのである。しかもそれは逃げ道のない一本道。
「好立。俺に失望させるな」
「…………」
「尚子はどこだ」
好立は小さくため息をついた。
主はすべてわかっている。それでも、あの娘が欲しいというのだ。
ならばあの娘を手に入れて得られる利点を説明してほしい。納得できる理由を。この自分の命と、この国の民すべての命をかけられるほどの大義名分を。
もし娘にそれにみあう価値がない時は──。
(──排除する。どんな手をつかっても、我が主のために──この手で……)
「……姫様の居場所は経明が詳しいでしょう」