・3・大きな国(2)
◆◇
尚子はまどろみの中にいた。
まだ重たい瞼を、かすかに開けると、暖かな日差しが飛び込んできて、まぶしさに思わず小さな呻き声を上げてしまう。
真新しい藺草のいい匂いがした。茣蓙の上に寝具が敷かれているらしい。
そこで尚子は、はたと思う。
(寝具? 茣蓙?)
やっと焦点のあった視界にうつし出されたのは、見慣れない室内。
(…………ここは?)
首をゆっくりとひねり、部屋を見渡す。朱色に施された几帳(※布製のついたて)が並べられ、寝ていた夜具のすぐ横で香が焚かれている。落ち着く香りだ。
自分の部屋ではないのは、すぐに分かった。尚子が十五年間暮らしてきた部屋より、置かれた家具のそれぞれに年期が入っている。だが、行き届いた心遣いを感じる。
「目を覚まされましたか?」
初めて聞く女性の声が尚子の耳に届いた。尚子よりも少し年上だろうか。澄んだ、美しい声だった。声の主は、几帳のさらに向こうにある御簾(※レースのカーテンのようなもの)の外にずっと控えていたらしい。
「……よろしゅうございますか?」
なかなか返事をしない尚子を、不審に思ったのか、女性が御簾を押し上げ、部屋の中に入ってくる気配がする。衣擦れの音が、すっ、すっとしたかと思うと、几帳の間から若い女性が姿を見せた。
黒々とした髪は、一本一本が透き通るように輝き綺麗にまとまっている。肌も白く真珠のようで、うっすらついた口元の紅がよく栄えた。大きな二重の瞳に見つめられれば、女の尚子ですら、どきりとなって、生唾を飲み込んでしまう。
(…………美人……)
優雅としか表現できないような、気品に満ちた動きで女性は尚子のそばに座った。
尚子はその動きに目を奪われていた。
そんな尚子に気がついた女性は、尚子と視線が合うと、花のようにふわりと笑った。そして、背後に控える他の女官に声をかけた。
「近江、将門殿をお呼びして」
とたんに、尚子は“将門”の二文字に反応する。
(そうだ、小次郎!)
とたん、あの赤い満月の夜の記憶が、いっきに尚子の脳裏を駆け巡った。
あの夜、自分は平小次郎将門と共に、尚子の実家である上総国(現在の千葉県北部)から、この下総国(現在の茨城県)に来たのだ。来たと一言で言えば、旅行のようだが、そんなものではない。
命からがら、多くの村人を犠牲にし、今までの生活も、父も、兄弟も、全てを捨てて、夜通し馬を走らせてきたのだ。
小次郎と二人で、新たな人生を歩むために。
新しい国を作るために。
「こじ……将門殿はどこに!? 無事なのですか!?」
尚子は女性に詰め寄る。
女性は、静かに微笑んだ。
「すぐにいらっしゃいますよ。ええ、たぶん、駆け込んできますわ。ちょっといたずらをしておいたから」
「はぁ……」
わけが分からず、情けない声が出た。
「あの……ここは?」
「下総ですよ。平将門の営所(屋敷)です。私はここよりちょっと離れたところにいたのですが、今さっき来たのよ。どうしてもあなたに一目お会いしたくて。そうしたら運良くあなたが目を覚まして……よかったわ、もう大丈夫そうね」
そう言いながら女性は、尚子を再び寝具に横たえるように促した。
(よかった、下総なんだ……)
再び体を横にしながら、尚子はこっそり胸をなでおろした。
とりあえず、上総から無事に下総にたどり着いたことだけは確かなようだ。
この女性も自分に危害を加えようとしているようではなさそうだし、今自分の置かれている状況を見るからに、小次郎と引き離されてどこかの屋敷に幽閉されている、というわけではなさそうだ。きっとここも、小次郎の所領の館の一つなのだろう。
というより、この人は誰なのだろう。首をかしげていると、女性と目が合った。女性は柔らかく微笑みかけてくる。
「でも、驚いたわ。こんなに可愛らしい姫を選ぶなんて。もっと、こう、色っぽい、気の強そうな、女狐のような女だったらどうしようかと思っていたのよ」
「……め、女狐?」
「そうよっ! 女狐だったら追い出してやろうかと思っていたの」
女性は、ぷうっと頬を膨らませ、木の実のように赤い唇を突き出した。どうやら、怒りを表現しているらしいが、可愛らしいので思わず微笑んでしまいそうになる。
「ところで、お名前をお聞きしても良いかしら?」
尚子は慌てて起き上がり、姿勢と肌蹴た夜着を正した。
「申し送れました。上総の介、平良兼が一姫、尚子と申します」
三つ指を立て、深々と頭を下げる尚子。数秒の後、顔を上げる。まん丸に見開いた大きな大きな黒曜石の瞳とぶつかった。
尚子が、何も言わない女性を不思議に思った時だった。
「まあ~~~~!」
素っ頓狂な声が部屋を駆け抜ける。
尚子はぎょっとした。予想外の反応に、次の行動に移れない。何かまずいことを言ってしまったのだろうか。
内心慌てふためいたが、この場合尚子の落ち度はどこにもない。
「まあまあまあまあっ!! あの上総の!」
「は、はい……」
「まあ、あのお小さかった姫が! こんなにお美しくなられてっ!!」
「え?」
それは、どういう意味だろう? と眉を詰めたその時だった。
どすどすどすどすっと、廊下を踏み鳴らす足音が近づいてくる。
「あら、もう帰って来たわ」
ぽかんとなる尚子を見て、女性はくすくすと笑い声を上げた。
まったく展開についていけてない尚子に、女性はさらに続ける。
「大目にみてやってくださいな。姫は四日も、高熱でうなされながら眠り続けていらしたのですから」
「え? え?」
──バンっ!
部屋の木戸(妻戸)が、乱暴に開かれる。
「尚子ーー!」
「お、お待ちください!! 殿っ……あっ!!」
「うるさい、離せ、尚子っ!! 逝くな尚子っ!! それだけは許さんっ!!」
女官が止めるのも聞く耳持たず。無造作に御簾が持ち上げられ、浅黒い顔の男が几帳の上にがばりと顔をだした。
「……小次郎?」
ぽかんとなって小次郎を見つめる尚子。そんな尚子の無事な姿にほっとしたのか、それともまだ夢でもみているかのようで信じられないのか、その両方か、小次郎はその場に呆然と立ち尽くし動かなくなった。
不思議に思った尚子は、もう一度声をかける。
「小次郎?」
それが合図となったのか、小次郎は尚子に駆け寄り強く尚子を自分の腕の中に押し込めた。
「わっ、ちょ、小次郎っ!?」
わけがわからず、真っ赤になって小次郎の胸の中から抜け出そうとするが、びくともしない。それどころか、まるで自分の胸の中に尚子を閉じ込めようとでもするかのような将門の腕の力はすさまじく、息がまともにできない。
「ちょ……くるしいっ!!」
力任せに突き飛ばそうとした時、尚子の耳に切なそうな小次郎の声が飛び込んできた。
「……尚子……」
(えっ!?)
まさか、泣いてるの? と尚子は仰天する。そう言えば、小次郎の体が小刻みに震えているような気がする。いよいよ、何が起こっているのかわからない。
普段、気取ったそぶりで女性に甘い言葉を垂れ流すこの男が明らかに動揺し、感情を隠そうとしないので、尚子もどうしていいかわからなくなってきた。
どうして泣いているの?
何があったの?
そう聞きたいのに、小次郎の腕の力が強すぎて声がでない。
これが小次郎なのか。本当は、こんなに感情の豊かな、激しい男性なのか。尚子は、新たな彼の子供のような一面に、胸がほんのり暖かくなっていくのが分かった。
また一つ、彼を思う気持ちが沸いて来る。一緒にいる時間が増えれば増えるほど、泉のように沸いて来るこの気持ちを抑えることはできない。
小次郎が離してくれるまで待つしかないのか、と諦めた尚子を見計らったように、その場に居たもう一人の女性が口を開いた。
「なんです、将門殿。姫は夜着のままだというのに、無礼ですよ」
完全に彼女の存在を忘れていた尚子はぎょっとなって固まる。同時に小次郎も、がばりと尚子から体を離した。
女性は、さも面白いものを見たと言わんばかりに、くすくすと笑う。その女性の存在に、今気がついたのだろう、小次郎の顔があっという間にばつの悪いものになっていく。
「…………なんで、こんなところにあなたがいるんですか」
その瞬間、尚子には、自分より十歳も年上の将門が、まるでいたずらの見つかった子供のように見えた。それで、尚子はピンとくる。
(……まさか……この人!)
尚子はじっと女性を見つめた。
「母が、息子の妻の心配をしたらいけないの?」
将門にそう言ったかと思うと、女性はすっと体をずらし、今度は尚子の方を向いた。
「申し遅れました。あなたの叔父にあたる平良将が妻にございます」
平良将の正妻にして、将門の母、亜子はこれでも御歳四十をかるく越える。どう見ても二十代というような風貌からは、二七歳にもなる将門を含む六人の子供を生んだ女性とは、とても思えない。
「将門殿がちっとも紹介して下さらないから、待ちきれなくて押し掛けてしまいましたのよ。うふふふふ」
「……母上……」
尚子は目をぱちくりさせた。
女好きのこの男にも、どうにも御し得ない女性がいたのか、と。
「菜月の方様。そろそろ……」
御簾の向こうから女官が亜子に声をかけた。
「そうね。そろそろ失礼しなくては」
立ち上がった亜子に小次郎は声をかけた。
「どちらへ行かれるのですか?」
「今日は相馬へ参ります。有り米を全部よこしてくださいと、父上の所へ泣き落としに参るのです。さ、行くわよ、近江」
亜子は自分に気合いをいれるように、ふんと鼻息を荒くし、御簾の向こうの女官と共に部屋を出て行こうとした。
「な、泣き落とし!? それは以外と使えるかもしれない……あ、待ってください母上、私も参ります!!」
呆気に取られていたが、将門が慌てて亜子の後を追う。
これがこの国の影の実力者、葉月の方、亜子姫との初めての出会いであった。