・3・大きな国(1)
3 大きな国
将門は首をぐるりとひねり、四方八方を見渡すと、思わず目を細めた。
(みごとだ────)
目に映るもの全てがまぶしい。
砂金のように煌めく朝日を浴びて、いっぱいに背伸びする野草。一面の野原は、そよ風に大きくゆっくりと波打ち、まるで黄緑色の海の中にいるようだ。
そよ風はそよ風で、夢見心地へ誘うように歌う。
空は青い。
雲は高い。
ふわりと香る、懐かしい土の匂い。
まるで、この牧に立っているだけで、何か大きなものに包み込まれているような心地になる。
何かに似ている。何だっただろう。
その何かが気になって、将門は考えを巡らせた。
遠い昔に感じた、力強さと暖かさと厳しさを持つ、大きな男の腕の中で、同じような気持ちになったことがある気がする。
あの人はいつも鬼のように恐ろしい顔をしていた。周囲の人々からも、気難しい人だと言われていたし、自分もそうだと思っていた。
幼心に近寄りがたかったが、それは恐怖からではなく畏敬の念からくるものだったのではないだろうか。今になってそう思う。
会えなくなってから、もっと話せばよかったと思う。聞いておきたいことが山ほどあった。聞いて欲しいことが天ほどあった。
もう二度と、叶うことはあるまい。
もう一度だけ、と願うことは幾度となくあったとしても。
────父に会いたい、と。
「よう、小次郎! ずいぶんと早いじゃないか」
重低音と共に聞こえてきた懐かしい声が、将門を引き戻した。
振り返ると、裸馬にまたがる武者の姿が近づいて来るのが見えた。
日に焼けて浅黒くなった顔に、真っ白な歯がのぞき、ぎらぎらと目を輝かせるこの男は、好立と同年の三二歳。名を多治経明という。今が男の盛りというところか。父、良将にその才能を高く買われ、この朝廷所有の放牧場の管理を任されている男だ。
彼の鍛え抜かれた体は、服の上からでも分かる。見かけどおり腕の立つ男ではあるが、なかなかの策士でもあった。腕が立つ分、好立よりもタチが悪いという説もある。
かくして、小次郎少年は、“深謀遠慮の好立”、“悪知恵の経明”という、五つ年上の二人の軍師に恵まれ、数え切れないほどの危機的状況を切り抜け、たくましく成長してきたのである。もちろん、危機的状況とは、近所で評判の美人を夜這いし、うっかりその恋人と鉢合わせして切りつけられる、なんていう女性関係も含む。特に、女性を籠絡させることにおいては、将門の師匠はこの経明であったかもしれない。
とにもかくにも多方面において、将門の少年期を支えてきたのは、好立とこの経明であった。
「おまえこそ、こんな時間から働いているのか?」
素直に関心した将門は、そう聞いた。まだ、朝日も全部顔を見せていないほどの早朝に、この牧で誰かに遭遇するとは思わなかったのだ。
「まあな。亡き殿から任された大事な牧だからな」
経明は馬上から、遠くを見やる。将門も経明の視線を目で追った。
黄緑色の大地を踏みしめ、走りまわる若馬の数頭の群れ。その若馬よりも、体が一回り大きく、立派な筋肉を脈打たせるようにして追いかける成熟した馬群。ざっと数えただけで百頭はかるく越える。
終焉の見当たらないこの広大な土地が、父の管理していた牧であり、今は自分のものとなった牧である。この牧で多くの軍馬を育て、朝廷に納める。それが、将門親子が朝廷から与えられた仕事であった。
だが、将門にとってこの牧は朝廷から任されているという事以上の意味を持つ。
なぜなら────。
「残ったのはこの牧だけだからな」
将門はぽつりと言った。
父の遺産は、今となってはこの牧だけ。だから、経明は必死に守ったのだろう。父の愛した牧を将門の手に渡すために。
容易なことではなかっただろう。それが想像できるだけに、胸が熱くなる。じっと見つめる将門の視線に気づき、振り返った経明と視線が交わる。将門はそっと、心の中で感謝を伝えた。
だが将門は思うのだ。もしかしたら、父の遺産は牧などではないのかもしれない、と。
こんなひどい有様になった滅びかけの国で、文字通り体を張って、自分の帰りを待つ者たちがいた。だからこそ、自分はこうして生きていられる。帰る場所がある。
彼らこそが、父の遺産なのではないだろうか。
“国があるから民がいるのではない。民がいるから国があり、王があるのだ”
将門ははっとなって、あたりを見回した。牧の風に乗って、父の声が聞こえたきがしたのだ。
だが、望む人影がそこにあるわけも無く、小さく肩をすくめた。
(まさかな──……)
弱気になっているのだろうか。幻聴が聞こえるなど。
「小次郎、久しぶりにどうだ、競争しないか?」
見上げると、白い歯をのぞかせて経明が挑戦的な笑みを浮かべていた。
「いいだろう」
将門がうなずくのを見て、経明はぴゅーと指笛を吹いた。馬を呼ぶときの合図だ。
「負けたら何してくれるんだ?」
「ずいぶんと強気じゃないか。この俺様に勝つつもりか? あの陸奥鎮守府将軍良将の息子だぞ」
「言ってろ。ほら、どの馬でもいいぞ。とっとと選べ」
将門は、経明の指笛を聞きつけ集まってきた馬を見渡した。どの馬も若々しい。将門の視線はゆっくりと、何頭もの馬たちの前を通り過ぎる。
ふと、そのうちの一頭に、吸い込まれるようにして止まった。油も乗って、黒光りするほど美しい黒毛の、見事な牝馬だった。
将門がそっと近づき首を優しくなでてやると、牝馬はじっと将門を見つめ返してきた。
だからこの馬に決めた。
大丈夫。この様子なら背に乗せてもらえるだろう。
「おまえじゃない、殿と呼べ、殿と!」
「知らんな。俺が知っているのは、鼻垂れの小次郎だけさっ」
からからと笑う経明に、将門は舌打ちした。
「よおし、分かった。いいかっ! 俺様が勝ったら、今後一切、俺を“小次郎”と呼ぶんじゃねーぞっ!!」
言いながら、将門はひらりと牝馬にまたがった。
「勝ってから言うんだな」
「ったく、経明といい、好立といい。俺を何だと思ってやがる」
「男がぐだぐだ言ってるんじゃない。ほら、行くぞっ! 」
言い終わるが早いか、「はいやーーっ」と雄叫びを上げながら、経明は馬の腹を蹴った。
「あ、待てこらっ!!」
慌てて将門も馬を走らせる。
馬の息遣いと将門の呼吸が重なる。
土を踏みしめる蹄と将門の鼓動が一つの音楽のように音を奏でる。
牧の香が頬をなでていく。気持ちがいい。
風が歌う。土が踊る。
この牧は、自分の原点。
皆ここで学んだ。
自然との対話を。心のあり方を。
そうだ。自分はこうやって、大きな自然の一部になって生きていたのだ。
風の息吹を肌に刻み。
空の色に染まり。
川の流れに包まれ。
大地の暖かさに心を溶かす。
それなのに、ずっと忘れていた。陰鬱で閉鎖的な常闇の京都で暮らすうち、いつのまにか自分も完全に真っ黒に染まってしまっていたのだろう。
(尚子か……)
あの娘が自分の心のよどみに、清水を引き込んでくれた。まるで暗闇に、ひと筋の光りが差し込むように。
「だああーーっ!! 勝ったぞっ、こんちくしょうっ!!」
将門の操る馬が経明の馬を抜き去ったところで、軍配は将門に上がった。お互いに肩で息をしながら、二人は馬の背に倒れこんだ。
勝ちを譲られたのではない。お互いに手を抜くことはしない。真剣勝負だ。
経明の乗る馬はまだ新馬。まだまだ訓練の足りない、人間で言ったら十代の少年だ。乗り手の言うことを聞くときもあれば、そうでないときもある、やんちゃな時期だ。一方、将門の選んだ馬は、今が花盛りの二十代半ばの成人女性。
経明は将門に勝って見せろと言った。どんな状況がおこるかわからない新馬にまたがる経明に。初めて乗る馬で。しかも駿馬を見極めて。
どんな状況でも、自分の手で勝利を掴みとれねば、自分の主とは認めないとでもいうかのように。
しかし、将門は勝って見せた。
「…………負けちまったか」
経明は満足げにそうつぶやくと、体を起こし、ひょいと馬から飛び降りた。そして、静かにひざまづいた。
「何の真似だ」
将門も馬を下り、経明の前に立った。
「我が殿。この命、我が殿に捧げます」
経明が顔を伏せたまま言った。表情が読み取れない。
だが、冗談でないことはその声色から分かる。だから、将門も真顔になった。
「多治経明」
「はっ」
「俺にその命を差し出すと申すか」
「御意」
「ならば、死ぬな」
はぁ? とでも言いたげな顔で経明が将門を見上げる。将門は膝を折って経明の肩に手を置いた。
「俺が死ぬまで、仕えよ。俺より先に死ぬことは許さん」
将門の心からの願いを乗せた言葉は、澄んだ朝焼けの空に溶け込んでいった。
経明は将門の瞳の奥に強い意志を見たが、その主人の意には従えない。目を伏せ、首を横に振る。
「………それでは、役目を果たせたことにはなりません」
将門も、彼があっさり自分のこの命令を受け入れるとは思っていなかった。だから、今度は語調を強める。
「俺の許可なく勝手に死ぬような奴は必要ない。わかったな」
眉間にしわを寄せ、ついに経明は怒りをあらわにした。
「…………そんなわけいくか! 己の主を先に死なせて、のうのうと生きていられるかよ」
「石頭だなぁ。わかれよ、俺の命令だって言ってるだろう」
「そんな命令聞けるかっ! 主なら主らしいこと言えよっ!!」
と、その時だった。屋敷の方から、異変を告げる早馬が現れたのは。
「殿っ!! お方様が急変されました、急ぎお戻りくださいっ!!」
一瞬にして、将門の顔から血の気が引いた。
「────なんだと!?」
将門は次の瞬間、地面を全力で蹴り、跳ね起きた。そして、鬼の形相で、使者に詰め寄る。
「尚子は回復に向かっていると言ってたではないかっ!? 急変とはどういうことだ!!」
「ご、ご危篤との事です!」
急に将門の手から力が抜ける。
「──危篤……今、危篤と言ったか?」
尚子が危篤だと?
あの娘が死ぬのか?
呆然となった将門の瞳に、次の瞬間、黒々しい光が戻った。
「くっそう、誰が逝かすかっ!」
使者を牧の上に吹っ飛ばす。そして、使者が乗ってきた馬にまたがり、手綱を取り、「はっ!!」と短い掛け声と共に、馬を全速力で走らせ始めた。
あっという間に小さくなっていった将門の豹変ぶりに、残された経明と使者は、目を丸くしたものだった。