・2・真実の王(2)
「それで?」
そう切り出したのは好立だった。
まるで逃げ出すように実母の部屋を後にした主人の背中に、誰もが瞬殺されそうなほど鋭い視線を送る。それを察したのか、主人が体を縮みこませて、こちらをうかがうように振り返った。そのしぐさは母親に叱られた子供そのもの。
こういう時、腹心ではなく幼なじみというスタンスをとるのが好立の巧いところでもある。もちろん、二人でいるときだけだ。また、それを主人も望んでいた。
「そ、そんな怖い顔で睨むなよ」
「誰かさんのせいで、こういう顔になったんです」
「それって、まさか俺のせいか?」
「話を反らさないでください。今度はいったいどこの女を拾ってきたんです? さあ正直言って貰いましょうか」
好立はキリキリと主人に詰め寄る。とたんに将門が視線を外した。
あやしい。あやしすぎる。
好立の天性の感が、それ以上聞くな、後悔するぞと言っている気がした。
もしこれが、どこかの村の娘なら、こんなに口ごもったりしないだろう。
寺の尼か? いや、それには、髪を剃髪していないからあり得ない。
ならば、神社から巫女をかっさらってきたか? そうだとして、自分に隠すほどの格式の高い神社が上総から下総の道中にあっただろうか。
(……まさか)
ふと、口にするのも恐ろしい考えが浮上する。
主人が自分に言えないような家の娘。一人いたはずだ。あの上総の国に!
(いやいやいやっ!! さすがにそこまで馬鹿ではないだろうよ)
好立は不吉な考えを吹き飛ばすように、頭を左右に振った。
そうだ。自国を脅かそうとしていると噂に聞いていた相手の国に単身乗り込むだけでも無謀だというのに。本拠地へ図々しくも顔を出し、娘を奪って逃走するなど、あるはずがない。
通い婚というスタイルが一般的であるこの時代では婿取りが普通。妻を『娶る』とは文字通り『女取る』と書く。
つまり、父親の了承も得ずに、娘を奪って自国へ連れてくるなど、父親の面子を泥で塗りつぶし、汚泥を頭から掛けたに等しい。喧嘩を売っているとしか思われないということだ。
自国の先の長が死んだこの混乱時に、よもや将門がそんな愚行に走ったとは考えたくもないし、あってはならない。ならないのだが……他に該当者が思い浮かばないのも事実。
好立は恐る恐る質問を繰り返した。
「それで?」
ふう、とため息を一つ将門は溢した。ため息をつきたいのはこっちだ。
「……尚子だ」
「…………」
「年は十五」
「────そんな情報いらんっ!!」
思わず主人の胸元をわしづかみにして目をひんむく。
「往生際が悪い。とっとと吐け」
「わ、わかった! わかりましたっ!」
両手を上げて降参する将門。しぶしぶ、好立は首もとを締め上げていた手を離してやる。
ぱたぱたと襟元を正しながら、将門は言った。
「尚子は言わば、上総の国の姫君だ」
将門は得意げに、口端を上げる。
「姫君……?」
好立は恐る恐る、確認する。もう該当者は一人しかいないのだが。それでも、最後の望みを託して将門の言葉を待った。
「決まってる。“あの”良兼伯父上の一人娘だ。すごい手土産だろう?」
そう言った将門の目は自信に満ちていた。きらきら輝いていて、眩しいほどだ。それが好立の怒りを増長させているとも知らず。
これは何の冗談だ?
しかも、なんだその言いぐさは?
何だってそんなに自慢気に言うのか。自分が何をしでかしたのか、わかっていないほど馬鹿ではあるまい。
ただ気に入った娘を連れ帰ってきたとはわけが違う。『取れるものならとってみろ』と飢えた獣の前に自分の首を晒しているようなもの。それなのに、まるで褒めてくれとねだる子供のような顔をしているのは、どういう了見だ。
(──すごい手土産、だと?)
好立の唇がわなわなと震えだす。
(言わば姫君だ、だとっ!?)
込み上げる怒りに、目の前が赤く染まって見えた。
何も考えてない。後で尻拭いに奔走させられる好立のことなんて。
好き勝手やって、あとはまかせたぞ、と言えば済むと思っている。そうに違いないのだ、この男はっ!
そんな好立の気持ちをこれっぽっちも将門は気づいていない。
「まあ、そういうことだから、丁重に扱えよー。じゃないと蹴られるぞ。わははははっ」
そう笑い声を立てながら、再び自室へと向かって歩き始めた。その将門の背中に『ぶち』という何が切れる音が聞こえたとか聞こえないとか。
そのすぐ後で、「今すぐ返してこいっっ!!!!」という怒声と、バキッという誰かが殴られたような音が続いたとか何とか。真実はすべて歴史という名の闇の中である。
将門は自室に戻ると、一人低く唸り声を上げた。手に握られた和紙には、先に帰郷させた好立の調査結果がびっちりと記されていた。
「なるほど。これは、さすがの母上もお手上げになるわけだ」
そうぼやくと、将門は和紙をぽいっと放り捨て、床の上に長い手足を放り出した。同席していた好立がその和紙を目で追う。その情報をどんだけ苦労して集めたと思っているんだ、というようなため息が聞こえてきたが将門は気にする様子も無い。まるで自分で最悪の現状を確認するように、天井を見上げたままため息まじりに言った。
「せっかくの実りの秋だというのになぁ。すでに田畑は、悪知恵の働く狸と、虎視眈々と俺の首を狙う狼に食い荒らされてるってわけか」
当然、狸とは常陸の源氏であり、狼とは上総の伯父だ。
両者は、父良将の死後、この秋に収穫のあった田畑を狙って、家臣を派遣したのだろう。その田畑を運営していた農民たちをうまく丸め込むために。
この下総の国は、圧倒的な力をもつ父の存在でもっていたに等しい。その父が死んだ今、近隣の豪族が攻め込んできて、あっという間に土地を奪っていくのは目に見えている。おまえたちも殺されるぞ。そうなる前に、自分たちに税(米)を納めれば命も土地も守ってやる。こんな滅びることが分かっている国の後継者なんぞ、当てにするな。
そんな甘い言葉をかけ、農民たちに土地を提供(寄進)させ、農民ごと手中におさめた。そんなところだろう。狸の考えそうなことだ。
「まいったな。食っていけるのか?」
「多少の蓄えはあるようですが、このままでは我々は飢え死にです」
「だよな」
確実に穀物の生産が見込まれている土地を狙って、というところが敵ながら憎い。残されているのは水害の多い低地ばかりだ。
「とりあえず、父上様と親交の厚かった方に、それとなく援助を求めるしかないかと思われます。その間に、生産量の確保ができねばこの国は誰かが攻めてこなくても滅びますよ。まあ、その間にどこかに攻め込まれたらひとたまりも有りませんが」
物資と共に流出した農民たちは、いざとなれば鍬を武器に持ちかえて、国を守るために戦う。立派な戦力だ。
つまり、農民を他国に取られたというのは戦力を削がれたのも等しい。今、この屋敷にいる衛兵たちだけでは、とても太刀打ちできないだろう。いくら、父に鍛えられた精鋭達であっても。
「そうなるな。いやぁ~、参った、参った……」
将門はごりごりと頭を掻きむしった。
予想はしていたがここまでとは。笑い事ではすまされないぞ、と小さく息を吐いた。
早急に人員と食料を確保せねばならない。だがどうやって。人がそう簡単に沸くわけもないし。
「とりあえず……親父と親交の厚い御仁に頭を下げるしかないな……俺の親交の厚い者っていうと京都だもんなぁ」
「ええ、しかも、女性ばかり。不倫相手の女性のご実家に頼めるわけもありませんし。あなた様に正室でも側室でも、一人でも妻が居ればよかったのですが……連れて帰ってきたと思えば“あれ”ですし」
「はっはっは」
さらりと好立の嫌味を交わしながら、体を起こし胡坐をかく。まっすぐに好立に向き直った将門の目は黒々と光っていた。
「頼れるとしたら、母上の実家か」
「そうですね。犬養春枝殿と、あとは平真樹殿でしょうか。すでに、殿の帰国を知らせる文を届けさせてあります。じきじきに挨拶周りをした際に、うまく頼み込んできたらいかがですか? 得意でしょう、そういうの」
「褒めてるのか?」
にやりと将門は笑った。
本当に好立は仕事が速い。主の手の届かないところでも、代りに手を差し出せる男だ。
(そういえば……)
将門の脳裏に、先日上総で出会った男の顔が浮かぶ。あの男も、補佐官としてこの好立にひけをとらぬ逸材であったように思う。短い間であったが、将門の直感があの男を欲しがっていた。それだけは確かであり、自国へ引き抜くための理由としては十分すぎた。
「惜しいことをした」
「は?」
思わず口にしてしまった将門は、好立の声で我に返る。
「いや、泥に埋もれた金塊を見つけたのだが、両手がいっぱいで持って帰れなかったという話だ」
男の顔を思い浮かべながら、ふっと小さく笑った。
上総の国で、尚子の供をしていた男、鷹雄だ。たしかに、あの男は逸材であったかもしれないが、仏頂面が過ぎる。贔屓目もあるかもしれないが、好立のほうが扱いやすいし、色々と誤魔化せるし、便利だ。だが、尚子の安全が最優先というあの男なら、安心して尚子を任せておける気がしたし、利害が一致している分、将門に逆らうことも無かっただろう。実に惜しいことをした。
「金塊ですか……張りぼてでなければいいですけど。持ち帰ってきた宝石と同じように」
「ほう、宝石と認めたか」
将門はにやりと笑う。宝石とは失言だったと、内心悔しいだろうと思ったのだ。だが、好立は眉一つ動かさずに言い返した。
「蓼食う虫も好き好きといいますし。私にはその辺の砂利とかわらぬ石でも、殿には宝石のように見えているのだろうと言ったまでです」
「ふん。言ってろ」
けらけらと声を立てて笑うと、将門は立ち上がった。それを視線で追いながら好立は問う。
「どこへいかれるのです? お休みになるのでは?」
もう夜もどっぷり更けている。まさか今から国内の田畑を見回るほど勤勉な殿様ではなかったように思うが。そんな好立の腑抜けた顔を、「決まっているだろう」と一蹴する。
「俺は愛妻家だ」
将門は心の中で、まだ妻にしてはいないが、という言葉を飲み込む。今までの武勇伝の全てを知っている好立は、まさか将門が尚子に手を出していないなど、思いもよらぬことに違いないからだ。
知られるわけにはいかない。将門の沽券にかかわる。
「…………愛妻家は、熱でうなされる妻を夜這いにはいかないと思いますが……」
「おまえ、俺が二度の飯より女好きだと思っているだろう」
「違うのですか?」
間髪いれずに返ってきた答えに、わざとらしく将門は首をすくめる。
「あのな~……俺にしてみれば、おまえのほうが異常だ。何だって女を作らない。ま、まさか不能か!? それとも俺を狙ってるのか!?」
「そうです」
「────なっ!!」
冗談で言ったつもりだった将門は、絶句した。
なんてことを、しれっとした顔で言うんだこの男は。
しかも、今の『そうです』はどっちに対する答えなのだろうか。不能なほうか。それとも……。
(き、聞けないっ!!)
完全に固まった主人の様子に満足したのか、好立はすくっと立ち上がった。
「明日は朝からやることが山済みなのです。夜更かしするのは勝手ですが、甘やかしませんのでそのつもりで。しっかり働いてもらいますよ。では失礼」
言い終わるが早いか、好立は将門の自室から姿を消した。
一人残された将門は、しばらくの間、もんもんと思い悩んでいたが、急に何かを吹っ切るように「よしっ!! 厄払いだ」と叫んだと思うと、勢い良く自室を後にし、最愛の人が眠る部屋へと駆け込んだ。
◆◇
規則正しい寝息が聞こえる。
尚子を下総に連れて来て、すでに三日目の夜が明けようとしていた。その間、将門は自分の寝室ではなく、尚子の寝ている部屋で、ほとんど眠ること無く朝を迎えていた。
今日も尚子の寝顔に見いっている間に、部屋の外が白ばんできてしまった。
だが、見ていて飽きないのだから仕方がない。
熱のためほんのりと上気した頬。甘い果実の香りがしそうな、小さくふっくらとした唇。絹糸のように艶やかな黒髪。
将門には、目の前に横たえる尚子が芸術品のように思えてしかたがない。透き通った彼女の白い肌は実は陶器で、少し触れただけで壊れてしまうのではないだろうか。思わず彼女の頬に伸ばした手を引き戻してしまう。
(……やっと手にいれた……)
将門は心の中でそう呟いた。
そう、自分はついに、手に入れたのだ。
与えられたのでも、もともと有ったものでもなく――自身で掴み取ったもの。
自身の心で欲しいと望み、その心に従い、命をかけ、手中に収めた――自身の力でだ。
(……まずは一歩だな。小さくとも一歩確実に前に進んだ)
それまでの将門はどこか他人事のように思うことがあった。この国も、民も、父と祖父の力で得たもの。
将門はこの世に生まれ落ちた時に、幸運にもそれを受け継ぐことが約束されていた。長男ではなく次男。将門の兄は、幼い頃に死んでいた。ただそれだけの理由で、この国は自分のものになり、国の長となり得た。
だが、自分はまだなにもしていない。民や家臣たちから“国の長”と敬われるようなことは何もしていないのだ。
全てはこれから。
この国をどこへ導くのか。決めねばなるまい。その目指す方向を、自分の民に指し示してやらねばなるまい。
もう後戻りはできない。するつもりもない。
微熱に脅かされ、未だ眠り続ける最愛の人を、将門は食い入るように見つめた。
(お前は、俺の国の指針だ。俺が間違った方へ進まぬように、ちゃんと見張っててくれよ)
くすりと将門は息をもらした。そして、そっと尚子の頬に口づける。
尚子の望む国を作ろう。尚子の笑顔が曇らぬ国に育てよう。
国の民、一人一人が、“自分らしく”生きていける、誇り高き国を。彼女がそう望む限り。
そのために自分は彼女をここへ連れてきたのだから――。
「寝てる暇はないぞ。早く元気になれ。そして俺の子をどんどん産め」
将門は、ごつごつとした豆だらけの手で尚子の額を撫でた。
尚子の前だけ自分の顔が豆腐のように緩いことを、最近、将門は自覚せざるを得ない。