・3・ 初夜の襲来(3)
◆◇
夜も更け、昼間の喧騒が嘘のように、尚子の部屋の周囲から人の足音が消えた。
耳を澄ませば、星たちの瞬きに合わせるように、虫たちの協奏曲が庭から聞こえてくる。時折、風たちが歌うように、草木を揺らした。
尚子はこうして、夜にしか聞こえない、大地の音に心を委ねるのが好きだった。じっと耳を傾け、目を閉じていると、月明かりの下の大草原に自分が寝転んでいるような錯覚にとらわれる。
――まるで、自分がいつも、そうやって大地に抱かれて寝ていたように。
尚子は、不意に目を開けた。庭からの風が運ぶ、草の匂いに混じっていた人工的な香りに、意識を引き戻されたのだ。
不快な香りではない。人工的ではあるが、ほのかに甘い、落ち着く香りだ。
尚子がぐっすりと眠れるようにと、毎夜、尚子付きの女官、あやめが用意してくれていたものだった。
だが、今は、いつもの香りに違う甘い香りが混じっている気がしたのだ。
――かたん。
木戸が鳴いた。
犯人は風ではない。
衣擦れと共に、長身の人影が薄暗い尚子の部屋の中に、先ほどの別の香りを連れて来た。
(――!)
尚子の胸がどきんと反応した。この香りを、尚子は知っている。
「待たせたな」
ぞくぞくと、鳥肌が立つほど良い声で、その男は囁いた。
「待ってなどいない。というより、こんな時間になるなら明日にすればよいのに」
また一歩、また一歩、男が忍び寄ってくる。
「つれないことを言うな。そなたに会う時間を作るために、こんな夜更けまで執務をこなしていたというに」
「そうなのか? 昼間は暇そうだったじゃないか」
ついに、御簾を押し上げ、尚子の直ぐ側まで男がたどり着いた。暗闇に目が慣れていたとしても、表情まではよくわからない。それほどに、室内は暗い。
「ちょっとまって、灯りを点けよう。暗くては話もできない」
そう言って女官を呼ぼうとした尚子を、小次郎が優しく制する。
「もう、皆、寝ている。起すな」
そう言われればそうか、と尚子は素直に納得した。
が、薄明かりの中、小次郎と二人っきりというのは、何か落ち着かない。
「ならば、その……」
「そうだな。今宵は、月が綺麗だから、月でも愛でようか」
そう言うと、小次郎が手を差し伸べた。尚子が立ち上がるのを手助けしてくれるようだ。
「……え、……はい」
恥ずかしいやら、どうしていいやら、明らかな戸惑いの中、尚子は小次郎の手を取った。
優しく引っ張り上げられながら、じっと小次郎を観察する。
何か様子がおかしい。尚子はそう思った。
どこか、格好つけているというか、今まで見たことがないほど優しい口調と柔らかな物腰で、調子が狂う。
尚子は落ち着かない気持ちを必死に隠しながら、部屋の南側へと歩み寄り、格子窓の側へと誘導された。
小次郎が、がたがたと音をさせ、格子窓を開け放った。
秋風と一緒に、月明かりが二人を包みこむ。
照らし出された小次郎の横顔を眺め、なんとなく、ほっとした。いつもの、小次郎の優しい瞳が見えたからかもしれない。
「ほら見ろ、まだ細いが、月が綺麗だ」
そのまま床に腰を下ろした小次郎が、格子窓の隙間からのぞく月を指さした。言われるままに顔を傾け、空を見上げたが、尚子の場所からはちょうど見えない位置に月があるらしい。
「見えないか? こっちへ来い」
「わっ」
ぐいっと腕を引っ張られ、小次郎の腕の中にふわりと舞い落ちた。胡坐をかいた小次郎の膝の間に着地したのだが、自然な動きで誘導されるまま小次郎の片膝の上に座らされた。
「見えるか?」
背後から抱きすくめられる形で、月を見上げた。
薄雲を上部にひっかけるようにして棚引かせ、輝く細い月。
小次郎の着物から香る甘い香り。
そよ風が運ぶ、草木の囁き。
なんだか、頭がふわふわする。
「綺麗だ……」
小次郎がしみじみと、呟いた。
直ぐ耳元で聞こえた、その声に胸が震えた。
小次郎がどんな顔をしているのか見たくて、そっと振り返ってみる。
「!」
予想外に目が合った。
ので、慌てて顔を元に戻す。心臓が飛でるのではないかというほど、驚いた。小次郎が見ていたのは、月ではなかったのか!?
(な、な、な、なんで!? なんなの!?)
急に体中に力が入ってしまう。
背後から小次郎に優しく包み込まれているこの状況。
どうしていいかわからない。
勝手に動悸は激しくなるし。
顔は熱くなってくるし。
酸欠になりそうで、目まで回って来た。
「尚子」
「は、はい」
「何か、話があったのではなかったのか?」
「そ、そうだけど」
「どうした? 申してみよ」
「…………」
(こんな状況で、何を言えばいいの~!?)
「言わないなら、このまま押し倒すぞ」
「えっ!?」
反射的に、振り返って小次郎の体を突き飛ばした。
「おわっ!」
どてんと、小次郎が床に仰向けに倒れてしまう。後頭部を打ったらしく、痛そうな音がした。
「いってー……」
「ご、ごめんなさい……」
こんなつもりではなかったのに。尚子が、おろおろとしながら小次郎の顔を見下ろしていたら、急に小次郎が吹き出した。
「ぷはははは」
「な、なに?」
「いやー、やっぱり尚子相手では調子が狂う」
「え? 何が?」
「いや、いいんだ。こんな手で落ちるような女じゃ、つまらん」
「小次郎?」
小次郎は、それだけ言うと、不思議そうな顔で覗きこんでいる尚子の黒髪を一房、指に絡めた。そして、そのまま髪に口づける。
「それでこそ、俺さまの女だな」
二人の視線が、絡まった。
尚子は、小次郎から目が離せなかった。
ごくりと、喉がなる。
なんだか、胸の奥が熱くて。
変な気持ちだった。
ただ見つめ合う二人の周りだけ時間が、止まってしまったようだった。
ふいに、小次郎がふっと笑った。それを合図に、時間がまた動き出す。
「よいしょっと」
体を起こし、尚子に向き直った小次郎。
「それで、話とはなんだ?」
「あ、うん。頼みがあって」
「頼み?」
「あの娘のことなんだけど」
「お前を助けたという娘か?」
「うん。あの娘を、私の女官に付けてほしい」
それは、尚子が一緒に連れて帰って来た時から、考えていたことだった。
怪我が治ったとしても、あの娘に帰る村はない。ならば……。
「もちろん、あの娘が望めば、なんだけど。どうかな?」
小次郎は意外にも即答だった。