・3・ 初夜の襲来(2)
好立の執務室を後にしたあやめは、いつものように、美しすぎて誰も近付けない氷の彫刻のような表情に戻っていた。
が、しばらく歩いたところで、足を止め、思わず顔をほころばせることになる。自室の入り口で、内部をどうにか覗こうと、這ったり、飛んだりしたかと思えば、ぶつぶつ何かを言いながら考え込んだり、と不審な動きを見せる姫の後ろ姿を目撃したからだ。
「殿でしたら、いらっしゃいません」
背後から声をかけたら、まるで、物語の一節にありそうなほど、姫が驚いてくれた。
「べ、別に……」
「どうぞ、中にお入りください」
「…………」
真っ赤な顔で弁解しようとして、諦めたように閉口した姫の可愛さに、思わず目を細めてしまう。
あやめの促すままに、姫は部屋へと進むと、数歩したところで足を止めた。
「あの……」
振り返らずに、姫は困ったように次の言葉を探している。確認しなくてもわかる。おそらく、顔は紅葉よりも赤い。
「殿ならば、気にしておられませんよ」
「…………」
(むしろ、喜んでおられます、とは言わない方がよいのでしょうね)
あやめは、口端をほころばせて、姫の後ろ姿を見守った。
「そうか……ならいいのだが……」
殿を邪険に扱いすぎたかと、心配らしい。
すぐに、手に入れた女性に興味を無くす殿には珍しく、ずいぶん一人の女性に執心していると思っていたが、確かにこの姫はなかなか手ごわい。
姫は何も考えず、自然と行っているだけなのに、完全に殿を翻弄している。手に入りそうで、手に入らない。それが、殿の男心をくすぐるのだろう。
「姫さまは、殿の事が本当にお好きなのですね」
「えっ!?」
勢いよく振り返った姫の顔は、恋を知った普通の少女の顔そのものだった。とても、男顔負けの度胸と知能を持ち、馬に跨り、野山を駆け回り、挙句に敵国の長と駆け落ちするような、破天荒な娘には見えなかった。
「殿は、姫さまの心が自分の方に向いているのかどうか、不安なのです」
「不安?」
「ええ。姫さまは、いつも、殿以外の方に関心が深いようにお見受けします」
「……でも、それは」
「殿ばかり見てはいられない、そう、お考えなのですね。わたくし達の国や下々の者のことまで心を配ってくださる姫さまに、わたくしは深い感銘を受けました」
姫は、きょとんとしながらあやめを見つめていた。
「そういうことです」
「?」
「そうやって、姫は悩んでくださいます。この屋敷の者は、一人残らず、殿と答えましょう。悩むまでもございません」
「……」
「姫様には、大切な物がたくさんおありですね。それが、人には眩しく、時に、恨めしく見えるのです。それをお忘れになりませぬように」
「……恨めしく、か」
例えば、文室好立のように、本能的な嫌悪になる場合もあるのですよ、と教えてあげる気は無かった。あの者の心の有り様は複雑で、他者に教わっても理解できまいと思ったからだ。
「ですが、殿さまはそんな姫様だからお好きなのですよ。わたくしもです。そんな姫さまにお仕えできることを、心から感謝しております。ただ……」
「ただ?」
「殿は、わたくしとは、少々事情が違うようです」
「?」
首を傾げるだけの姫に、にこりと笑いかけ、あやめは続ける。
「殿は、姫さまに、何を置いても一番に選んで欲しいようですよ。姫様が選べないことを知っていながら、です。それでも、選んで欲しいのです」
「……なんだか、良く分からないが、それは我がままと言わないか?」
「ふふふ。そうです。殿方とは、いくつになっても我がままなものなのです」
「うーん……私はどうしたらいいのだろう……?」
「何も」
「何も?」
「姫様は、いつも通りにされていればいいのです。難しく考えることはありませんよ」
「そうなのか」
納得したような、してないような顔で、姫はしばらく首をひねりながら唸っていたが、ふいに顔を上げた。
「あやめは、なぜ、そんなに殿方について詳しいの?」
「見ていれば分かりますよ」
「そういうものなの?」
「そうです。少し、観察なさりませ。聡明な姫様なれば、殿の事など、すぐに手に取るように分かるようになりましょう」
「そうか……」
姫に笑顔が戻った。
この姫の笑顔をもっと見たいと思ってしまう。
この笑顔を守りたいと思ってしまう――守れなかった、あの笑顔の代わりに。
遠い昔に、失った笑顔。
いつも自分の後ろについて歩いていた幼い笑顔。
今も目をつぶれば、昨日の事のように思い出される、自分を呼ぶ幼声。
――かかさま……
顔かたちが似ているわけではない。
ただ、懐かしい、愛しいその影を、姫の笑顔に重ねてしまっている。
(だが――)
それでも、あやめは迷うことなく、この姫を切り捨てることができる。
殿の命と。
姫の命と。
天秤にかける余地もない。
(だからこそ――姫の笑顔を守りたいのかもしれない。自分にはできないから……)
殿も同じ気持ちなのだろうか。
この姫の笑顔は、自分がかつて持ってただろう、“人の心”――。
「そうだ。小次郎――じゃなかった、将門殿に話があるのだが」
姫の声に、あやめは、一瞬、はっとなって我に返ったが、表には出さずに応じた。
「かしこまりました。お伝えしましょう」
「急いではいないから。私も、今はできるかぎり、小春丸たちの様子を見に行きたいし」
「では、執務の後でよいのですね」
「ああ、こっちは遅くなっても構わない。国事を優先してくれ」
「……殿のだらしのない顔が目に浮かびますね。国事など手がつかなくなるやもしれませぬ」
「え?」
「いえ……お伝えします」