・3・ 初夜の襲来
3 初夜の襲来
尚子が目を覚ましてからの騒動は、すぐに屋敷の次席の耳にも入ることとなった。
「そうか」
執務室で業務を淡々とこなしていた文室好立は、それだけ呟くと作業を再開させる。
「安心されましたか?」
知らせにきた女官、あやめが顔色を変えずに告げた。
「そう見えるか?」
「分かりかねます」
「そうだな」
好立は口端を少しだけ上げ、書類から目を離し、あやめの方をちらりと見た。あやめは、さほど興味のなさそうな視線でこちらを見ていた。
「私にも分かりかねる」
好立は、それだけ言い、この話題には感心がないように振る舞うために、再び手元の書類に目を落とした。
(ほんとうに、どうなってほしかったらや。自分でもわからないな)
存在事態が、災厄の種でしかない姫だ。この国で、彼女が死んだとあらば、娘の死を口実に上総の平良兼が攻めて来るに違いない。
かといって、迷惑なほど元気いっぱい、好き勝手に、この国を引っ掻きまわされるのも、こちらの用が増えるだけ。
一番は、勝手に自国にお帰り頂くことなのだが――――なかなかどうして、手強い。これだけ、歓迎されていないことを全面に押し出しているというのに、弱音を吐かないで、足掻く根性は認めざるを得ない。
(まあ、いい。手はすでに打った。直に、功をなすだろう……)
「姫さまに圧力かけても、逆効果だと存じます」
まるで、心の中を読んだかのような、あやめの問いかけに、ほんの僅かな間だけ、好立の返事が遅れる。
「……そのようだな」
「気骨がおありです。窮地に立たされてもなお輝きを増す、そんな方とお見受けしました」
「………」
まったく感情を表に出さずに、姫を褒めたたえる女官の姿に、好立は心の中で舌を巻いた。
正直、好立はこの女性が苦手だ。
彼にとって思考が読めない、唯一の人物かもしれない。
知性はあるが、出しゃばらず、自分に近いものを感じる。けれど、確実に、自分とは別の角度から物事を見ている。
この女性が男性だったらと、たまに思う。
好敵手だったろうか?
それとも、無二の友となれただろうか?
「随分と、姫を買ってるな」
「過大評価とは思いませぬ」
「そなたが、そう言うのだからそうなのだろうな」
「そのお言葉こそが、過大評価ではありませんか?」
「私は、過大評価はしない」
思わず、くすりと好立は笑う。しかし、あやめの表情に変化はない。
お互いを探るような沈黙が訪れた。
「何か、手を考えておいでですね」
「何のことだ?」
「……いえ」
再び沈黙が訪れた。
不思議と、好立にはこの沈黙が不快には感じられなかった。相手がどう出るか、わくわくするような、緊迫した外交交渉に近い緊張感すら感じる。
「一つだけ、ご報告がございます」
あやめがぽつりと、呟くように口火を切る。そして、好立を見上げた彼女の瞳に、一瞬だけ強い光が灯ったような気がした。
「わたくしは、あの姫様が好きになりました」
好立は予想外の展開に、言葉を失った。
(なっ――)
一瞬、何を言われたのか分からず、彼には珍しく、最大級に驚いていた。我に返るまでの僅かな時間、完全に呆けた顔になっていたはずだ。とは言え、ほとんど表情には出ていないので、あやめには気づかれていないだろう、と言い張れるだけの理性はまだ残っていた。
(好き――?)
そんな、好き嫌いで議論する次元では、姫の事を考えたことがないので、目から鱗が落ちた気分だった。しかも、この、聡明な女性の口からそんな言葉が出てくるとは、夢にも思わなかった。
しかし、一度あることは二度ある。
「……今、驚かれましたか?」
「え?」
今度は完全に不意を突かれた。うっかり、好立の人生において前代未聞、史上最悪の間の抜けた声が出てしまった。
まさか、自分の表情を読み取れる人物が存在するなんて。
そんなまさか。
ありない。
「わたくしの、勝ちにございますね」
そう言ったあやめは、驚くほど柔らかに笑って見せた。
「――――……」
再び、好立は絶句する。完全に、あやめから目が離せなくなっていた。
「では、失礼いたします」
一礼し、流れるような動きであやめが部屋を後にしていったのにも気がつかずに、しばらく好立は呆然となっていた。